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岩国飛行場(岩国錦帯橋空港) [├国内の空港、飛行場]

                            2012年11月訪問 2021/8更新  


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撮影年月日1947/03/13(USA M121 95) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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SkyVector.com

山口県‎岩国市の「岩国飛行場(岩国錦帯橋空港)」。

広島ヘリポート(旧広島西飛行場)の南西約30kmにあります。

大戦中は中国地方最大の日本海軍「岩国航空基地」で、水陸両用基地でした。

当時の滑走路はほぼ東西、現在はほぼ南北の滑走路なので、向きがまるで違っていたのですね。

末期にはここに進出した飛神隊のために2つの秘匿基地(可部、藤河)が作られました。

■防衛研究所収蔵資料 5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」

の中で当基地の図があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

大判の青図には、右上に大きく「名称 岩国海軍航空隊 位置図」とあり、

左下には、

設備要目一覧表
番号 名称 記事
1.飛行場 約1.030.000㎡
2.滑走路 幅.60M 長1.250M コンクリート舗装
3.飛行機格納庫 2棟 約7.700㎡
4.機体整備場 1棟
5.庁舎兵舎外 36棟 12.900㎡ 兵学校岩国分校共
6.誘導路 延長 約5.550M
7.掩体 有蓋5 無蓋42
8.突堤 延長1.761M 石造
9.滑走台 巾40M 長120M コンクリート舗装
10.起重機 20屯 1基

とあります。

先頭のグーグルマップと、上に貼った航空写真の滑走路を比較していただきますと、

滑走路の西端の位置が異なっています。

前述の「位置図」にはこんな感じで、西端が短く描かれています。

1946年のより詳細な航空写真でこの部分をよーく見てみると、誘導路をぶった切るような形で、

表面の質感が明らかに異なる滑走路が延長しています。

更に翌1947年のこの部分の拡大写真では、日本の建設した誘導路から滑走路に進入できないように見えます。

沿革にまとめましたが、当基地は早くも終戦翌月には米海兵隊が進駐し、

翌年の2月には、イギリス連邦占領軍の空軍基地となっています。

ということで、これはオイラの推測なんですが、終戦後に滑走路の西端部分が延長されたのではないかと。

終戦時の航空写真があれば、日本と占領軍のどちらが延長したかハッキリするんですけどね~。

上の資料にはこの滑走路の長さについて、1,250mx60mとあり、作図して測ったら確かにその数字で合ってました。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:岩国(水上陸上両基地) 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1030000㎡内1250x60コンクリート 台120x40コンクリート 主要機隊数:小型機一部兵学校 主任務:作戦教育 隧道竝ニ地下施設:各種用1.700平米 誘導路5.550㎡ 掩体:小型有蓋197 其ノ他記事:構内-500x50ヲ設ケソノ北端ヲ飛行場ニ接續ス

また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「岩国空開隊(S14.12.1)(昭15建)」とありました。 

戦後、占領軍の基地となった訳ですが、1960年代まで民間空港として使用していた時期がありました。

2012年、約半世紀ぶりに民間空港としての運用が再開したのでした。

以下、空港再開後にお邪魔した際の様子をズラズラと。

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米海兵隊岩国基地正門。

空港の入り口は別にあるのですが、空港開港初日、数名の利用者が間違えて基地正面から入ろうとしたのだそうです。

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旧日本海軍当時は、この先に滑走路が伸びていました(赤マーカー)。

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      山口県・岩国飛行場(岩国錦帯橋空港)     
朝鮮戦争の際ここから毎日出撃があり、部隊指揮所もここにあったため、「朝鮮への玄関口」と呼ばれたのだそうです

岩国飛行場(岩国錦帯橋空港) データ
設置管理者:海軍→米軍
3レター:IWK
4レター:RJOI
空港種別:共用空港
運用時間:15時間
利用時間:7:00~22:00
所在地:山口県‎岩国市‎三角町‎
座 標:N34°8′42″E132°14′49″
標 高:3m
面 積:789ha(旧日本海軍当時:561ha)
滑走路:
・海軍当時
陸上滑走路:1,250mx60m(11/29) コンクリート舗装
滑走台:120mx40m コンクリート舗装
・現在
2,440m×60m(02/20)

沿革
1938年04月 宅地約13,200㎡、耕地約1217,700㎡を買収。旧海軍飛行場建設開始
1939年12月 1日、呉鎮守府所属練習隊配置(岩国空開隊)
1940年07月 8日 岩国航空基地運用開始。海軍航空隊開設
1941年02月 偵察練習生教育隊配置
1943年11月 海軍兵学校岩国分校開校等により基地は次第に拡張され終戦の頃は4514,400㎡に至る
1945年05月 B-29、岩国基地と岩国市を爆撃。爆撃は終戦前日まで続く
    09月 米海兵隊進駐
1946年02月 イギリス連邦占領軍の空軍基地となり、イギリス空軍の他、オーストラリア空軍、ニュージーランド空軍、
       インド空軍などのイギリス連邦占領軍 (BCOF)、アメリカ空軍が駐留
1948年    オーストラリア空軍に移管
    03月 19日 英国海外航空 (BOAC)が定期乗り入れ開始
1950年06月 25日 朝鮮戦争勃発。アメリカ軍とイギリス軍により使用される
1951年    国際飛行場に指定される(岩国飛行場と呼称)
1952年04月 1日 日本の占領解除と同時にアメリカ空軍へ移管。日本航空が岩国空港就航式
1954年01月 アメリカ海軍第6艦隊航空団(FLEET AIR WING 6)が移駐を開始
    03月 極東航空、大阪~岩国定期便就航
    10月 1日 アメリカ海軍へ移管
    11月 日本航空岩国便休止
1956年07月 第一海兵航空団の司令部が朝鮮から岩国基地へ移駐
       約2,500名の海兵隊員を受け入れるため基地北側を大幅拡充
1957年03月 岩国教育航空隊派遣隊新編。日米共同使用開始
1958年07月 20日 アメリカ海兵隊に移管
1961年05月 東亜国内航空、岩国飛行場一時使用
    09月 広島空港(現広島ヘリポート)供用開始
1964年12月 民間航空路線の変更。以後定期便の就航はなく岩国空港閉鎖
1967年12月 1日 航空自衛隊から海上自衛隊に移管
1970年12月 極東放送(FEN-TV)設立
1971年   飛行場が市街地に隣接していることから岩国市は滑走路の沖合移設・埋立を要求するようになる
1973年01月 31日 防衛庁、岩国基地のP-3B対潜哨戒機の三沢移駐を三沢市に要請。市長は反対を表明
     12月 19日 三沢市、岩国基地の米海軍P-3C 9機の三沢移駐を了承
       防衛施設庁、沖合移設・埋立について予備調査開始
1976年   第1海兵航空団司令部、沖縄に移設
1982年07月 防衛施設中央審議会、「岩国飛行場周辺における安全を確保し騒音の軽減を図るためには、
       飛行場の東側の海面を埋立て、滑走路を約一千メートル移設する方法が適当である」と答申
1983年    海兵第1航空師団兵器部隊、グアム海軍航空基地へ移設
1983年    1985年度にかけて沖合移転に伴う環境影響評価に係る基礎調査実施
1986年度   1988年度にかけて移設のための工法試験(試験埋立)を実施。沈下状況を10年以上に渡って観測
1989年    沖合移設に関する基本設計
   06月 10日 日本初となるAV-8Bハリアー派遣
1991年   1995年にかけて環境影響評価を実施
1992年08月 沖合移設正式決定
1993年    ボーリングを実施
    10月 新広島空港供用開始。岩国は100km圏内に空港を有しない「空の空白地帯」となったため、
       岩国飛行場の民間利用を望む声が高まる
1994年03月 山口県、国の空港問題の専門家などで構成する「山口県東部空港問題専門委員会」設置
1996年07月 岩国市、空港再開7万人の署名を県知事に提出
1997年06月 1日 沖合移転工事起工式
2000年05月 岩国基地民間空港早期再開期成同盟会設立
2002年    在日米軍の再編計画について日米間で正式検討
2003年02月 日米合同委員会、岩国基地の軍民共用化について具体的な協議・検討を決定
2004年05月 岩国基地民間空港再開事業推進協議会設立(県・市)
2005年10月 日米合同委員会、民間航空機1日4往復運航について合意
       29日 在日米軍再編計画の中間報告で厚木基地の空母艦載機57機等を岩国基地に移駐させる計画公表
           岩国市長は反対を表明。
2006年03月 12日 艦載機移転問題で岩国市住民投票実施(投票率58.68%、反対87.42%、賛成10.81%)。
    05月 再編実施に関する日米ロードマップで「将来の民間航空施設の一部が岩国飛行場に設けられる」と明記
2007年05月 防衛施設庁から空母艦載機の岩国飛行場への移転等に伴い必要となる施設整備について、
       米側で作成された包括的な施設整備のマスタープランが提示され、
       この中で現滑走路の北端先地域の基地内及び隣接の国有地が、民航ターミナル地域として示される
2008年02月 岩国市長選挙。新市長は「騒音問題等が担保されれば、岩国基地への空母艦載機受け入れには
       現実的対応をする」と表明。国土交通大臣、防衛大臣が民間空港再開に前向きな姿勢示す
    10月 岩国基地民間空港再開事業推進協議会(県・市)が空港整備基本計画を策定
2009年02月 16日 民航施設の整備は国土交通省、米側との調整は防衛省が主体となって実施することになる
2010年02月 17日 ANA、岩国~羽田4往復就航を正式表明
    05月 岩国基地新滑走路運用開始
    12月 「岩国錦帯橋空港」公募により愛称決定
2012年06月 8日 国交相、「2012年12月13日を開港目標」と表明
    12月 13日 民間機による定期便48年ぶりに再開
2018年02月 「岩国空港ビル」、ターミナル南側に飲食施設や会議室など備えた別棟計画発表。来年4月運用開始

関連サイト:
岩国錦帯橋空港    
国土交通省大阪航空局/岩国飛行場   
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
岩国市史
「ミサワ航空史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」


コメント(14)  トラックバック(0) 
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コメント 14

tooshiba

軍民共用となると、民間に便宜を図りつつも「米軍の定着を受け入れろ」という国(日本政府)からのメッセージとも解釈できましょうから、地元が賛否で真っ二つ(という報道が開港直前になされたと記憶があります)になるのも、頷けます。

前都知事が口約束で達成できそうな気配すらない「横田空港の軍民共用化」も。
いざ実現するとなっても、今度は基地そのものあるいは軍民共用化に反対派の攻勢が起きたでしょうから、実現自体が無理だったんでしょうね。(無理だと分かっていて“釣る餌”にした?)
首都圏の空域の問題もあるでしょうが(なんだか携帯電話の「電波が足りない!」ってのと似ている気がします。)、そこは管制の人たちに頑張ってもらうことにして・・・。(^_^;
by tooshiba (2013-05-06 14:24) 

me-co

(;_□_)空港と飛行場の違い・・・
今更ながら気が付きました(遅)
それにしても、ここはいろいろ紆余曲折、変遷があったのですねぇ。
by me-co (2013-05-06 16:08) 

an-kazu

US-1が(US-2も)\(^_^)/
by an-kazu (2013-05-06 18:08) 

マリオ・デ・ニ−ロ

先日利用しました。
新しい空港は綺麗で気持ちが良いですね。
三沢空港と同じようにエプロンの入口には大きなゲ-トが設けてあり飛行機の出入り以外は完全に軍民分離されていました。
タ-ミナルから滑走路まではかなりの距離があるので離着陸機の撮影には500mm以上が必要です。しかし、展望デッキはそれなりの広さがありワイヤ-式のフェンスで視界も良好でした。
次回、西の方へ行ったなら詳しいとりさんレポ-トをお願いいたします。
by マリオ・デ・ニ−ロ (2013-05-06 21:57) 

Takashi

沿革を読んでいると、艦載機の受け入れが民間空港再開の条件になってしまっているようですね。
あの爆音が一日中鳴り響くのかと思うと、艦載機の受け入れを反対したくなる気持ちもわかります。
by Takashi (2013-05-06 22:38) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tooshibaさん
>地元が賛否で真っ二つ
オイラもそういう捉え方だったのですが、先日また岩国空港にお邪魔してきまして、
たまたま空港関係の方とお話する機会に恵まれてそのへんのところをお聞きしてみましら、
意外な答えが返ってきました。そのことも含めて9月頃アップ予定しております。

>横田
石原前知事オイラは本気だったと思います。
米国で外交、防衛の要人と接触し、一時は米側と供用についての検討会議を8回開催し、
「これは本当に共用化しそう」というところまで行きました。
ところがその後、米軍再編の中で横田を岩国と共に重要拠点化すると方針が一転。
現在のこう着状態に至っています。
小泉・ブッシュ体制がなくなったこと、共用化を足掛かりに基地返還を要求してくるのではいか
という米側の警戒があったとも言われています。

■me-coさん
オイラも岩国の経緯はまったく知らなかったんですよ。
今回お邪魔して勉強になりました。

■an-kazuさん
US-1がタッチアンドゴーを繰り返してました^^
チラっと見えるUS-2も見逃しませんね(o ̄∇ ̄o)

■マリオ・デ・ニーロさん
実はオイラも先月またお邪魔してきたのですが、やっぱりオイラとは視点が違いますね。
流石です師匠。
9月頃岩国空港の記事をアップ予定なのですが、コメント含めさせていただきますm(_ _)m

■Takashiさん
基地祭で聞くのと、否応なく年中聞かされるのとでは全然違うのでしょうね。
沖合移転したわけですが、市街地の騒音状況はどうなのでしょうか。
by とり (2013-05-07 05:47) 

旧広島(吉島)飛行場近くに幼少時住んでいた県内戻りの男

こんばんわ、岩国飛行場(岩国錦帯橋空港)ブログも通り掛って拝見しました。離着陸は周防大島方向(柳井側 滑走路南側)からが多用されています。民航機も沖合いをover passして南下し、大島手前で北向きに旋回して着陸コースに乗り着陸、出発便は其の逆誘導路から滑走路北端に入り離陸です。

撮影スポットは両側川岸河口部がロケーションとして多いようで、地元の人や釣り人も多い場所です。この他南側、門前川河口側滑走路端には港湾岸壁も整備され海自基地のUS-1・US-2救難飛行艇用スベリも在ります。水陸両用機ですが、滑走路からではなく基地沖合い滑走水路から離水・着水する事も有るようです。牽引車で引くのか、自走式(では無かったような…)かでスベリを上がって来る姿も見かける事が有るかも…。

ブログで旧軍時代海軍建設時の滑走路に関しては、件の戦後「日本航空協会」発行の「航空年鑑」に「種別B 1645m×45m コンクリート舗装」と在ります。「とりさん」のブログコメントで正しいと言う事です。お知らせ迄。

沖合展開事業直前迄の旧滑走路は戦後、駐留時期の米軍が昭和24年(1949)頃大拡張工事を行い出来上がったものです。錦帯橋の近くで大規模に河砂を採取した為流れが変化し翌年の大水流時期に橋脚が崩壊し、錦帯橋流失の原因となった等の見方が有るようです。
by 旧広島(吉島)飛行場近くに幼少時住んでいた県内戻りの男 (2013-12-19 00:54) 

とり

■旧広島(吉島)飛行場近くに幼少時住んでいた県内戻りの男さん
情報ありがとうございました。
by とり (2013-12-24 05:22) 

地元の者

旧滑走路2600m×45mの資料表記は平成22年(2010)5月28日迄使用
されていた旧滑走路だと思います。

by 地元の者 (2014-01-05 21:03) 

通り掛かり読者

この記事のアドレス表示がiwakunu-airportとなっています。iがuに置き換わっています。御報せ迄。
by 通り掛かり読者 (2014-04-05 05:08) 

閲覧拝読の者です

関連記事で民空再開港後にもいらした様ですので、御存知かも知れませんが下記トピックスを1つお伝えします。

USMC_AS岩国基地は航空隊が一定周期で巡回配備の中で、沖縄からの移駐と、厚木からの空母航空群、所謂艦載機の移駐が目玉となっている事は御存知と思います。NLP(FCLP)の訓練場所選定が日米両国政府の焦眉の課題となりつつ経過しています。鹿児島県のレジャーランド企業、馬毛島開発(立石勲社長)所有の無人島、馬毛島が、名乗りを上げたりしていますが、アメリカ軍側が岩国基地から180km以内の訓練基地を希望して難色を示している処です。

此処に至る迄に、広島湾内の島嶼部、佐伯郡沖美町が地域振興と環境保全を両立させる条件で、プランを示して積極的に名乗りを上げた場所が近くに在ります。岩国基地の沖合い13km真正面に浮かぶ瀬戸内海最大の無人島「大黒神島」の岩国対面側(島の西側半分を海自の航空基地として滑走路・付帯施設を整備しNLPに供すると云うプランでした。

島自体が無人島である上に町有地で在る事等から、敷地を貸与出来、建設が容易である事等に加えて、町民居住地は山の反対側で、岩国からは正面海上13km離隔が在り、騒音等の遮蔽効果も十分な立地案でした。当該自治体沖美町も平成の大合併政策で揺れており、財政基盤の小さい町村は合併を余儀なくされる政策が進行し、独自行政権消滅のタイムリミットが近づいていた時期と云う事情が有りました。

諸般の周辺状況の中、当時の「谷本英一沖美町長」は上記立地の長所を最大限に活用して対応できないかと考えを巡らせた様です。現在の岩国基地滑走路と沖合い13kmで並行する、同規模のNLP訓練滑走路と飛行場施設建設と、通常時は之を海自航空基地として使用、維持保全にあたる等ダブルでプロデユースし、町内の雇用を増やして行く事で、人口増や産業誘致にも繋げる地域振興の一環と位置付けていました。此の壮大なプランを当時の防衛施設庁に持ち込み、双方の構想を統合し具体的な形に纏めて行った立地でした。

プロジェクトの内容はアメリカ軍の運用要求を最高度に充足し、居住環境保全の面からも最良の立地と成る場所でした。岩国基地のRaderApproachControlの覆域内ですし、視界のクリア-な日は岩国の管制塔からも見える場所での訓練施設となります。この申し出をアメリカ軍側は非常に歓迎していたそうです。

ところが、準備万端整う前に、一部のマスコミが騒ぎ出し、この計画案の存在を批判的に書きたてて仕舞いました。平成15年(2003)01月30日町長は、その時点でも構想を否定はせず、居住環境保全と国家の要請である、最良の訓練施設立地で在る事を、逃げ隠れせずに堂々と主張し、行政自治体の長として将来世代に向けての継続的発展を見据えた選択であると決意表明していました。

ただ、報道内容の反響は其のこころざしに対して非常に冷淡でネガテイブなものでした。全国的な批判の他に、広島県内行政長官の「藤田雄山県知事(当時)」が、「原爆被災場所広島旧市内に程近い場所でのNLP誘致等以ての外である」と談話を出し、怒られたのを皮切りに、県内各市区町村行政長・議会から袋叩きに遭っています。足元の町議会からも、反対決議を突き付けられた町長は、構想発表後から7日後に町長を辞職し落胆して舞台から去って行きました。

同町は独自行政の施策を打ち出せず時間切れで平成16年(2004)11月01日に周辺4町合併で江田島市の一部となりました。アメリカ政府側の意中の立地であり、防衛施設局の第一順位の立地である事は今も同様と思います。私自身客観的に見れば、特定の政治思想やイデオロギ-を除いて考えれば、住民・自治体・政府(国)・軍(JSDF・USArmedForces)4者の立場主張を最大限に充足させるバランスの採れたプランだったのではないか?と思います。

自家用車でお出掛けなら、呉を経由して音戸大橋と早瀬大橋を渡り陸続きで沖美町に至ります。大黒神島へは鹿川港から船便でしょうが、無人島の為釣人用渡船運行です。ロケーションハンテイングだけで出掛ける意味は無いかも知れませんが。関連する場所です。

【参考】
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/12th/03-162.html
by 閲覧拝読の者です (2014-04-05 08:07) 

とり

■地元の者さん
返事が遅れてしまい、申し訳ありません。
コメントありがとうございました。

■通り掛かり読者さん
本当だ!
教えて頂き感謝です。

■閲覧拝読の者ですさん
貴重な情報感謝致します。
ありがとうございました。
by とり (2014-04-05 18:27) 

通り掛かり読者 再投

「藤田県知事」談話も、もう少し言い方があるだろうにと当時自宅でTVニュースを見ていて感じました。政治家の「見栄」も在ったかもしれませんが、合併協議の駆け引きの末合併しても寂れていく地域問題の根本的な解決にはならないことを町長さんは判っていたので「起死回生」の策としてプランを示したのでしょう。負の側面を旨く抑え込むプランを完成させていれば同町にとって、土壇場での「逆転満塁さよならホームラン」だったかも知れません。知事さんの一言で敢え無く努力も水泡に帰した感じです。
by 通り掛かり読者 再投 (2014-05-13 21:24) 

とり

■通り掛かり読者さん
貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2014-05-14 06:26) 

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