千島・柏原飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2022/1更新(未訪問)
(←「北千島飛行場」という名称もありました)
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載)
幌延島柏原北の台にあった日本陸軍の「柏原飛行場」。
島の北端に近く、幌延海峡に近い位置にありました。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-16飛行場記録(千島の部)第1復員局」の中に、
「柏原飛行場図」があり、上のグーグルマップはこの図から作図しました。
この図がないと(オイラには)全く見分けがつかないんですが、図とグーグルマップを比較しながらだと、
ビックリする程当時の飛行場の滑走路、誘導路の地割が浮かび上がりました。
地割が良好に残っていることと共に、有蓋掩体壕が多数現存しているのも、当飛行場の大きな特徴です。
また、掩体壕に連絡する誘導路跡の多くが、周辺よりも濃い植生と化していて、
なんだか不思議な感じです。
同図に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置
幌延島柏原北の台
気候
十一月より翌年四月の間に於ては吹雪多く風速
大にして飛行不適の日多し 八、九月には晴天多
く飛行に適す 積雪は十月より翌年六月迄あり、積雪
量は平均一.〇五米程度なり、冬季は吹雪を見る
風は一般に大ならされとも冬季の風速は強大にして突風
秒速五〇米に及ぶことあり
海流の影響を受け天候の変化繁く夏季霧多し
掩体
軽爆四機分の掩体完成しあり
其の他
飛行場西方台上に爆撃場あり
飛行場に至る道路は彎曲及急坂路多く自動
貨車は一瓩以上積載不能なり
付近に北千島陸軍病院あり
また、飛行場の図には、滑走路の長さについて、1,200m 50mと書き込みがありました。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも同じ要図と、ほぼ同じ情報がありました。
■サイト:平和祈念展示資料館に「北限の幌筵島守備」という手記がありました(下記リンク参照)。
以下一部引用させて頂きました。
五ヵ月の初年兵教育終了後、北
海道千歳の第五飛行大隊にしばらく勤務した後、北千
島幌筵北野台陸軍飛行第四戦隊(隼戦闘機十七機)
に勤務することになり征途に就いたわけです。
幌筵北の台飛行場の飛行第四戦隊は将校、下士官二
十名くらいと将校当番兵など若干の兵が勤務していま
した。飛行場第五十五整備大隊は大隊長大尉を長とし
て八十名で、この北辺の飛行場の守備に当っていた。
アッツ島の悲しい玉砕、キスカ島の幸運な無血撤退
後、この島々を占領した米軍は、ここに基地を設定し
たのである。
幌筵島はカムチャッカから、次は占守島、次が幌
筵島であり、占守島は小さく飛行場も守備兵もなく、
幌筵島北の台飛行場が日本軍の最北端の守備航空基地
であった。
こうした関係位置にあった飛行場を敵が見逃すわけ
がない。アッツ、キスカ両島基地から飛翔する敵コン
ソリテーデット機(ママ)十機の編隊爆撃機は毎日その姿
を幌筵島上空に現し、我が軍の高射砲の射程距離を遥
かな上空より地域を制圧する絨毯爆撃を主として日課
のように反復する日々が続く。
これに対し、我々大隊は、大切な飛行機は分散配置
と、徹底した偽装遮蔽を行い、最後まで飛行機の損耗
を受けることなく守り通したのであった。
隊員はこの毎日の空襲に対しては、堅固な防空壕に
たよることなく、個々の蛸壺壕に手軽に飛び込んで、
爆撃の損害を受けることなく引き上げ時まで耐え抜い
た。
後期に至って敵の上陸、艦砲射撃に対する考慮から
山麓の中腹に横穴坑道壕の掘鑿が始まった。土質が堅
い岩盤であったので、長い一メートルもあるタガネを
使い、打ち込んで穿ち、これにダイナマイトを押し込
んで爆破し、破砕した岩石はトロッコで坑外に搬出す
る方法で、耐え忍ぶ作業が続いた。坑道の深さ十メー
トルに達した時点で本土決戦に備え島から撤退が行わ
れたのである。
幸いに敵の上陸がなかったので、玉砕から免れたが、
この最北端の小島で、兵力も火力もわずかな捨て石的
存在のこの守備隊のことを思い出すと、今でもゾーッ
と恐怖を覚えるのである。敵機は高空爆撃だけでなく、
時には日本軍の電波探知機の空隙を衝いて、超低空爆
撃に緊急出撃した我が隼戦闘機が体当たりで、敵コン
ソリーテーデット(ママ)爆撃機を撃墜する偉功を成し遂げた
将校もあった。
島の守備隊の食糧は、敵潜水艦から島の四周を遠巻
きに包囲監視を続けるため、島への海上輸送は全く遮
断され、我々の主食は飯は飯盒の中蓋に三分の一ほど
に減量されたが、海からは漁師から借りた漁網を使用
し、付近は北海道からわざわざこの海峡に出漁するほ
どの恵まれた漁場で、鮭がふんだんに捕れた。また昆
布も沢山取れる海の幸に恵まれた。また陸地でもこん
な極地でも夏期は雑草が生い茂り、この雑草が土壌に
混じて豊かな肥沃な土地となる好循環で雑草が生い茂
り、ひめ菜、あざみなどが採集できて主食の不足を補
って我々の体力維持に役立った。
この島に鼠が非常に沢山生息し、体も大型で夜間
我々の兵舎の中に出没し、我々の就寝中の毛布の上を
駆け回った。目を覚ましたとき、毛布を跳ね上げ鼠を
捕る。皮を剥いでストーブで丸焼きにして塩をふりか
けて食べる。小鳥の丸焼きを思い出し美味しくいただ
いた。海岸で塩炊きも我々の仕事であった。
北千島の気候は人の住める気候ではなかった。じめ
じめした空気でガスや霧があたり一面を埋め包む。日
本内地の高山の頂上近くの気象状態に似ている。九月
中旬には雪が降って冬に入る。風は強く毎日風速十メ
ートルの強風に曝され通しだ。気温は零下三〇度に降
下し、大小便共にカチカチに凍る。滑走路の除雪作業
で円匙を握っても指先が凍って指に力を入れることが
できず円匙がクルクル回る。
九月初めに島を襲った台風は、風速六〇メートルを
超える大暴風雨だった。我々は這って風の中、杭を打
ち込んで、ロープで飛行機を杭に結束して飛行機の飛
散をくい止めた。這って這って這い回った一日だった。
兵舎はこうした悪条件の気象に応じて、深い穴の中
に築かれていた。兵舎の棟が地表面すれすれの高さで、
建物全体が穴の中にすっぽり埋もれて作られ、屋根に
明かり窓が数ヵ所作られ採光の役をしている。兵舎の
中央が通路、両側が板張り、アンペラ敷きの起居寝床
である。対敵、対暴風に備えた兵舎の構造である。
昭和二十年六月ころ、島は敵の艦砲の集中砲撃を受
けた。スワ、敵の上陸、と島は極度の緊張に包まれた
が、敵艦船の姿は一向に視界に映ってこない、ただ目
も鼻も開けていられないほどの集中射撃の着弾の爆音
に包まれる。敵艦は背後の山越えの射撃か、視界外の
遠距離艦砲射撃だったのか不明のままだった。
昭和二十年六月、我々北辺の北千島幌筵島を死守、
玉砕を覚悟していた隊員に、本土防衛の新任務のため
北海道に引き上げ命令が通達された。隊員が心血を注ぎ、
衆知を集めて、生き続けることにより大切な飛行機を
守り通したのであった。滑走路は連日の空襲により使
用不能の状態にあったが、隊員の力を合わせた復旧と
板を並べ敷いて、最小限飛行可能の状態に補修し引揚
げを完了し、帯広第四飛行団司令部第三十八戦隊とし
て勤務することになった。
北海道に引揚げた後二ヵ月、八月十五日、終戦を
迎えた。八月二十八日、隊を解散し、懐かしい故郷天
童に帰った。出征時の一死報國の決意、生還の希望を
絶たれた北辺の孤島で瞼に描いた故郷天童、全く夢見
るような生還であった。
千島・柏原飛行場跡地
柏原飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:幌延島柏原北の台(現・サハリン州 セヴェロ=クリリスキー・ライオン)
座 標:50°42'16.1"N 156°07'35.1"E
標 高:164m
滑走路:1,200mx50m
方 位:17/35
(座標、方位は地理院から。標高はグーグルアースから)
関連サイト:
平和祈念展示資料館/北限の幌筵島守備■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-16飛行場記録(千島の部)第1復員局」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
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