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川棚飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年11月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/11/02(昭22)(USA R159 35) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

長崎県‎東彼杵郡‎川棚町川棚駅南側に広がる工業地帯。

この一帯はかつて「日本一の水雷工場」と称された川棚海軍工廠であり、

この工廠内に「川棚飛行場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:川棚 建設ノ年:1945-7 飛行場 長x幅 米:600x30方向E-S 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:工事中 其ノ他記事:川棚工場敷地内離着一方向

■PUTIN様より当基地について情報頂きましたm(_ _)m
佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
川棚基地
概位:旧川棚工廠疎開跡
工事概要:電線移設、既設隧道ノ飛行機格納場トシテノ整備及疎開跡建物利用ノ組立整備場新設

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  佐世保
牧場  川棚
滑走路 五〇×六〇〇EW
縣郡村 長崎、東彼杵 川棚町
記事  既成(工場内敷地)

「工廠内に飛行場があった」ということはネットに出てきますし、

「川棚飛行場」もわりとヒットするのですが、具体的な位置を示すものはなく、不明です。

上に貼った航空写真では、敷地中央を南北に伸びる太い道(A)が非常に目立っており、

2012年現地にお邪魔した際、これが滑走路跡なのだろうと考えていました。

その後2016年に収集した上述の防衛研究所資料には、滑走路の長さが600mとありました。

ここは戦後になって海側に向って埋立をしており、オイラはキチンと確認することなく、

「戦時中の海岸線は見た感じ、ココだろう」と考えました(グーグルマップ水色線)。

そして、この水色の部分までが海岸線だとすると、南北の道路の長さは最大560mしかとれません。

資料に出てくる600mにはどうしても40m足りないため、滑走路はここではなく別のどこかということになります。

そしてオイラが次に目を付けたのは、工廠内の東西の道路でした(B,C)。

BCどちらも600m以上の長さがあり、申し分ありません。

防衛研究所資料には滑走路の方向として、E-S と記載されています。

これは普通に考えれば、「滑走路方向は東南」ということだと思うのですが、

これでは東西方向とは大きく異なっており、この点が引っかかっていました。

また東西方向の場合、東側には大村線の線路があり、

西側は滑走路延長線上すぐ標高が高くなります。

また滑走路端の道路形状がゴチゃッとしており、どうも滑走路っぽくないです。

でもまあ、南北方向はナシなんだし、これしかなかろう。と思いました。

「離着一方向」とあるのも、こうした難があるからでしょうし。

 

ということでしばらくの間、拙記事内では「滑走路は東西方向だったに違いない」としていました。

そして2021年になって初めて、上に貼った1947年の航空写真でキチンと海岸線の作図をしたのでした。

すると、オイラが当初(見た目だけで)考えていた海岸線と実際が大きく異なっていることに気が付きました。

当時の工廠敷地の南北方向の長さは、オイラが考えていたより、約80m長かったのです。

そのため、Aの南北方向の道路でも、600mの長さが余裕で確保できることが分かりました。

ここまで滑走路の方向を「南北」と書いてきましたが、マップをご覧の通りで、実際には「南南東」です。

これは防衛研究所資料に出てくる滑走路方向である「南東」にかなり近く、東西方向よりは大分マシです。


ということで、変遷を重ねて現在は再び南北方向説となりました。

この滑走路位置は飽くまでオイラの推量ですのでご了承くださいませ。

正確な滑走路位置等ご存じの方の情報をお待ちしております。m(_ _)m

 

滑走路が建設された時期についてですが、

1925年生まれで医大進学後、川棚飛行場建設工事に動員された方の記録が残っています。

これからすると飛行場が建設されたのは、1943~4年頃ではないかと考えます。

(上述の防衛研究所資料には、1945年7月とあります)

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青マーカー地点。

川棚駅の北側にかつての工廠跡を見下ろす城山公園があり、モニュメントが設置されています。

銘板がありました。

川棚海軍工廠施設の設立(全文) 川棚海軍工廠は、太平洋戦争開戦翌年の昭和十七年一〇月一五日佐世保海軍工廠川棚分工場として開廠され翌年五月一日独立して川棚海軍工廠となり、水雷工場としては日本一といわれた。工廠施設はこの地から眼下に見える百津塩浜(現、百津工場地帯)を中心に建てられ、その鋸(のこぎり)屋根は高い煙突と共に工廠のシンボルとなった。また鉄道をへだてて上百津の城ノ平には海軍々人の上級官舎と会議所、それに部員宿舎が建てられ、岩崎の田んぼにも(現、城山東)軍人軍属の官舎が建てられた。一般工員の住宅は百津のしめの木から百津の奥地にかけ次々に建てられ(現、新百津・若草・旭ヶ丘・山手)また白石の国道上手にも工員住宅(現、琴美ヶ丘)が建てられたが、これらの土地はそれまで大方が田や畑であった。前田の田んぼもこの時埋立てられた。(現、川高運動場)その上手(かみて)の尾山平(現、川高校舎の敷地)や、白石の馬場には、徴用工員の宿舎が建てられた。上組の川良には、ここも田んぼを埋めて女子挺身隊員と動員学徒の宿舎が建てられた。更にまた、工廠の工員養成所が開(ひらき・現、新町の地域)の田んぼに建てられ、三越の片島も、海を埋めてこれを陸続きとし、それまであった魚雷発射試験場の施設が拡張された。また昭和十九年七月、これら工廠関係者のための海軍共済病院(現、国立療養所川棚病院)が下組の田んぼを埋めて建てられた。そして敵機の空襲が激化するころには、この工廠の主要部は石木以北の山間地へ疎開し、咥えて川棚の西部(新谷・惣津・小串)には特攻艇の訓練基地が設けられるなど軍用地は一層拡大し、その総面積は終戦時には川棚町の三分の一にもあたる(約四〇〇㌶)広さとなっていた。この川棚海軍工廠も昭和二〇年(一九四五年)八月十五日終戦により閉廠となったが、今も鋸屋根と煙突の一部が残っており当時を偲ばせる。

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赤マーカー地点。

城山公園から見た川棚工廠跡。

変遷しましたが、中央の道路が当時の滑走路だと思うのですが。。。

余談ですが、黄色マーカーの所に川棚防空監視哨がありました(下記リンク参照)。


      長崎県・川棚飛行場跡地     
「飛行場には木製の実物大飛行機が並べられていた」という記録が残っています

川棚飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長崎県‎東彼杵郡‎川棚町‎百津郷‎
座 標:33°03'56.1"N 129°52'01.9"E
標 高:4m
滑走路:600m×30m
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年10月 佐世保海軍工廠川棚分工場開廠
1945年08月 終戦により閉廠

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
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コメント 2

鹿児島のこういち

滑走路の事を知ってる方がいらっしゃればいいですね。昭和18~19年に建設されたのなら、当時16歳としても、今では86歳くらいですからねぇ~。
by 鹿児島のこういち (2013-04-07 23:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
今お聞きしておかないといけないんですけどね。
by とり (2013-04-08 05:57) 

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