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城崎水上飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月訪問 2022/6更新  


4.png
測量年1932(昭7)(50000 103-3-12 城崎) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

兵庫県‎豊岡市‎から日本海に注ぐ円山川。その河口付近にかつて「城崎水上飛行場」がありました。

1931年7月営業開始なので、上に貼った地図は営業中のものです。

水上機が実際にどこを離着水のエリアにしていたのかは不明なのですが、

資料には滑走区域として「圓山川水面」とあります(後述)。

城崎温泉駅(黒マーカー)前の川堤に格納庫があったのだそうで、

ここから河口(北)に向かっていくと、郵便局とキャンプ場のところで大きく屈曲していますが、

ここまで約3kmの直線で、幅は300m~350mありますから、広さとしては十分ではないかと思います。

 

但馬情報特急(下記リンク参照)に当飛行場についての説明がありました。

以下補足も入れつつですが、こんな感じでした。

城崎は古くからある超有名な温泉街ですが、大正時代の北但馬地震で町は全焼してしまいます。

城崎町の町長はこの震災から復興する為の浴客誘致の一つとして、

昭和6年政府から許可を受け「日本海航空株式会社」を発足しました。

使用飛行機は三菱式MC一型改良の水上飛行機(乗員2名、乗客5名、速力時速170キロ)で、

昭和6年7月27日より遊覧飛行が開始されました。

昭和7年からは定期航空の営業もなされ、7年に城崎-鳥取、城崎-天橋立、8年に城崎-松江、

松江-隠岐、11年に大阪ー城崎などの定期飛行が始まりました。

その後飛行機5機を持つまでになったのですが、国策統制が強くなった昭和11年以降はかなり落ち込んで、

昭和14年末に一切の現品を大日本航空輸送株式会社に引渡し、翌年会社を解散したのでした。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ) 

経営者 日本海航空株式会社
会社創立 昭和六年七月
資本金 一〇〇,〇〇〇円
常務取締役 西村佐兵衛
航空線路 大阪-城崎
区間 大阪-城崎間 夏季 毎週ニ往復
線路開設年月 昭和十年七月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  城崎飛行場
経営者  日本海航空株式会社
所在地  兵庫縣城崎町
水陸の別 水
滑走区域 圓山川水面
備 考  (記載無し)

昭和6年という非常に早い時期に、「水上機で町興しをしよう!」と考えるとは、

ものすごいアイディアマンの町長さんだったのですね。

5機もの機材を擁して運航するなど営業は順調だったようですが、戦争の色濃くなる時代の到来がなんとも惜しまれます。

山陰の民間航空会社はこうして10年でその生涯を閉じたのでした。

D20_0056.jpg

赤マーカー地点。

ここをかつて水上機が行き来していたのですね~。


      兵庫県・城崎水上飛行場跡地     
第二次世界大戦中、城崎温泉街は軍人病院になっていたのだそうです

城崎水上飛行場 データ
経営者:日本海航空株式会社
種 別:水上飛行場
所在地:兵庫縣城崎町(現・豊岡市‎小島‎)
座 標:N35°37′48″E134°49′16″
滑走区域:圓山川水面
着陸帯:3,000m×350m?
方 位:03/21?
(座標、着陸帯長、方位はグーグルアースから)

沿革
1925年05月 23日、北但馬地震発生
1931年03月 28日 逓信省航空局に会社設立の認可申請
     07月 1日 渋谷米太郎(三菱航空機常務)が「日本海航空会社」と命名
       22日 三菱MC1型旅客機 J-BAKG 乗員2、乗客5 が到着。「城崎第一号」と命名し、開場式
       27日営業開始
       28日 城崎上空で遊覧飛行開始(約10分の遊覧飛行、料金5円)
       天橋立への遊覧飛行も実施(片道約30km、約30分、料金10円)
     09月 7日 湖山池への遊覧飛行(3日間)
     10月 10日 城崎~松江の航空路開設
     11月 2日 宍道湖で遊覧飛行
1933年06月 29日 城崎~松江間を定期便化(週1便、料金片道15円)
     07月 12日 松江水上飛行場オープン
       この頃海軍一三式水上飛行機(城崎第二号)導入
     12月 26日 西村屋旅館で株式会社創立総会が開かれる
1934年01月 1日 社名を「日本海航空株式会社」に変更(資本金10万円、株主149名)
       この頃海軍一四式水上偵察機を改造した「松江号(J-BEHH)導入
1935年03月 20日 松江~大阪間の飛行許可が下りる
       23日 松江~城崎~大阪の運航
     05月 30日 6,7,8月の定期航空許可が下りる(週1便)
     06月 6日 定期便の第一便が城崎から飛び立つ(乗客4名、郵便260通)
       この頃松江~隠岐の定期航空を実施
1936年    逓信省より「松江~大阪定期航空路放棄」要請
1936年    国策統制が強くなり、この年から業績が落ち込む
1939年    この年の末、一切の現品を大日本航空輸送に引き渡し
1940年01月 23日 臨時株主総会により解散が決議される
     12月 20日 「日本海航空株式会社」解散

関連サイト:
但馬情報特急
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コメント 3

tooshiba

先の大戦は多くの犠牲や悲劇を生みました。
戦後の混乱と復興の後で再び地元の夢と希望を載せた翼が復活しなかったのは惜しまれますが、戦後しばらくは飛行機どころではなかったと予想されます。
また、大手(特に半官半民のアレ)ががっちり利権を握ってしまっていて、ローカル資本が食い込む余地はなかったのかも、とも思います。
by tooshiba (2012-12-12 15:45) 

miffy

日本海側は水上飛行場の跡が多いですね。
大陸に近いからなのかしら・・・
by miffy (2012-12-12 23:01) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tooshibaさん
そうですね~。
戦後復興に翼よ再びの声はきっと挙がったのでしょうが、
仰るようなことではないかと思います。

■miffyさん
言われてみればそうかもしれないですね。
大陸が近いから。なのでしょうか?
by とり (2012-12-13 05:22) 

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