札幌興農園(興農園耕地)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2013年6月、2023年6月訪問 2023/7更新
1/25000「茨戸」大正5年測図「今昔マップ on the web」より作成
札幌市東区にあった「札幌興農園(興農園耕地)飛行場」。
「札幌興農園」社有の牧草地を飛行場として利用したもので、
前記事の「京都合資会社」の北東約500mの所にありました。
「札幌興農園」は、1893年創業の種苗・大型農機具、洋品雑貨を扱う商店で、広大な農地も有していました。
新千歳市史通史編上巻729pに当地における飛行について記されていました。
「北海道における初飛行は、大正二(一九一三)年九月七日のことである。
場所は札幌郡札幌村興農園耕地(現・東区北十一条東一丁目付近)で機体は鳥飼式隼号だった。
結果は失速墜落であったが、北海道の空に飛行機が舞い上がった。
飛行は興行で入場料は大人三〇銭であったという 」
北海道のヒコーキの歴史はここから始まったんですね。
しかも興農園での飛行はこの時限りのものではありませんでした。
続く730pにはこうありました。
北海道の新聞社機
大正期、北海道では北海タイムスと小樽新聞が販売部数を競っていた。両者は定期航空路開設をもくろみ、また販売競争上から大正十五年にそれぞれ二機の社機を保有するに至った。北海タイムス社機は「北斗」、小樽新聞社機は「北海」と命名された。両社とも興農園耕地を飛行基地とした。小樽新聞社は大正十五年六月六日付の紙上で「北海道定期航空協会設立計画」を発表したが、七月十日には逓信省が北海タイムスに札幌-旭川間週二回の定期航空路開設を認可した。これにより八月二十三日、道内初の定期航空が永田重治操縦士により実施された。北海タイムスは、八月二十六日の紙面で「近く北海道飛行協会設立」を発表した。旭川の着陸場は陸軍第七師団の近文練兵場であったが、三回の飛行で定期航空は中止になってしまった。小樽新聞の札幌-旭川線・自主運行定期航空の三日前、北海第一号が千葉・津田沼の伊藤音次郎経営・伊藤飛行機研究所で改修後、大蔵清三の操縦により東京・立川飛行場から盛岡経由で札幌へ飛来した。北海第一号は、八月二日午前八時に立川を離陸、小名浜、仙台上空四八〇㌔を飛行し盛岡・陸軍観武ヶ原演習場に到着した。三日午前六時五分、盛岡を離陸、八戸、苫小牧上空を飛行し興農園耕地に午前九時十五分に着陸した。盛岡-札幌間は四〇〇㌔だった。これまで飛行機は分解され、鉄道貨車に積載されて北海道に来るのが常だったが、北海第一号は飛行で来道した初の機体だった。
北海第一号が到着した二日後の五日、朝日新聞社機東風(中島ブレゲー19A2改)が河内一彦操縦士、片桐庄平機関士によって立川から札幌まで無着陸で飛来した。飛行時間は約六時間だった。機材、搭乗員ともに前年に欧州訪問飛行を成し遂げたものだった。北海第二号は伊藤飛行機研究所で分解され、十四日に貨車で千葉を出発し札幌に向かった。小樽新聞の記事は北海機を二機ともに十"三"式艦上偵察機イスパノ三四〇馬力と称している
北海タイムス、小樽新聞社は天幕格納庫を整備したのだそうです。
(それぞれサルムソン、三菱R12型機を駐機させていたとする情報あり)
新千歳市史通史編上巻736pは、
大正15年(1926年)10月に小樽新聞社機が当飛行場から飛び立った様子を次のように伝えています。
北海第一号が千歳に着陸する三日前、酒井は千歳の空にあった。
十九日午前四時から午後一時十五分までの間に樽前山は八回の噴火を記録した。
酒井操縦の北海第一号は午後一時二十七分興農園耕地を離陸、高度二八〇〇㍍で空中取材を敢行した。
外気温はマイナス八°Cだった。
見出しは「爆発の樽前山本社北海号機飛ぶ小雨交じりの密雲を衝いて雄飛午後二時六分札幌へ」と勇壮なものだった。
北海タイムスは当飛行場を拠点に札幌・旭川間の第一回定期郵便飛行を行うなどしていたのですが、
同じ大正15年(1926年)には「旧札幌飛行場」を使用するようになります。
これ以降、興農園耕地を飛行場を使用してという事例は資料から確認することができておりません。
■飛行場の位置について
ここまでが興農園耕地が飛行場として使用されたあらましなんですが、
ここからは、この飛行場がドコにあったのかについての個人的な考察です。
前出の「新千歳市史通史編上巻」729pには興農園の飛行場について、
「北海道における初飛行は、大正二(一九一三)年九月七日のことである。
場所は札幌郡札幌村興農園耕地(現・東区北十一条東一丁目付近)」
とありました。
また、サイト:空の開拓者 〜札幌飛行場正門跡〜 では、同じく大正2年の隼号による飛行大会について、
「その場所は、北10条東1丁目の五番舘札幌興農園の牧草地でした。」
とあります(下記リンク参照)。
時期は大正2年。
場所については、
新千歳市史通史編上巻→「北11条東1丁目付近」
空の開拓者〜札幌飛行場正門跡〜→「北10条東1丁目」
とあり、11と10でちょっと異なるんですが、大正5年の地図だとこんな感じ。
【地図A】1/25000「札幌」大正5年測図「今昔マップ on the web」より作成
これは大正5年の地図です。
飛行大会があったのが大正2年ですから、それから3年後の地図なんですが、
北11条にしろ北10条にしろ斜線が大きな部分を占めており、この斜線は「建物密集地」を示しています。
北10条の方はほとんど建物密集地だったんですね。
飛行大会が実施された時点では耕地だった場所が、僅か3年後にはすっかり建物密集地になった。
という可能性もあるんですが、ご紹介しました通り、大正15年にこの場所は、新聞2社の飛行基地となりました。
「新千歳市史通史編上巻」では、新聞社が使用した場所のことを、「興農園耕地」と表現しています。
一連の記述に矛盾がないとしたら、大正2年には耕地で飛行大会に使用された場所が、
3年後の大正5年には建物密集地になり、更にそれから10年後の大正15年には、
密集した建物は取り壊され、再び耕地に戻っていた。
ということになります。
北11条、北10条はそれぞれ、一辺120mの区画です。
北10条の場合、120mx120mのほぼ全域にわたって建物が密集する場所だった訳ですが、
その場所をわざわざ耕地に戻すようなマネをするかというと、ちょっと現実的とは思えません。
【地図B】1/25000「茨戸」大正5年測図「今昔マップ on the web」より作成
この地図Bは先頭に貼ったものの使い回しなんですが、「札幌興農園」と記された周辺は、
いかにも飛行場によさげな広々とした場所ですね。
この場所は、地図Aの北11条、北10条から通りに沿って1.3km程北上した場所です。
実はサイト:空の開拓者 〜札幌飛行場正門跡〜 には、『札幌市街図』(1935)とする地図が載っていて、
ここにも「興農園」と記された区画があります。
この区画の位置は、地図Bの「札幌興農園」の「園」の下の辺りと同じです(グーグルマップ赤のポリゴン)。
繰り返しになりますが、 新千歳市史通史編上巻と空の開拓者〜札幌飛行場正門跡〜が、
「ここが飛行場になった」として示していた住所は、地図Aの
「北11条東1丁目付近」
「北10条東1丁目」
でした。
一方、地図Bで示した場所は現在の「北20条東1丁目」に相当します。
両者を比較すると、「東1丁目」は共通してるんですよね。
違いは前半部分の「北●●条」なんですが、もしかして、10と20をドコかで取り違え、
その情報が孫引きされてしまった。ということはないでしょうか?
2つの資料が示す地図Aの場所は、オイラにはどうしても飛行場適地には見えません。
そのため、こんな"取り違え説"を妄想してしまうのですが。。。
オイラが「…アレ?」と疑問に感じる点があと2つあります。
1つ目は、前出の「新千歳市史通史編上巻」729pに出てくる住所に関する記述です。
「北海道における初飛行は、大正二(一九一三)年九月七日のことである。
場所は札幌郡札幌村興農園耕地(現・東区北十一条東一丁目付近)」
とあり、興農園の耕地の住所について、
大正2年→「札幌郡札幌村」
現在→「東区北十一条東一丁目付近」
としています。
地図Aを見て頂きますと、北11条の北側に境界線が引かれており、全体図で見れば明らかなのですが、
大正5年測図のこの地図では、この境界線の北側が「札幌村」、南側が「札幌区」と表示されており、
行政が異なります。
Wikiによりますと、
1879年(明治12年)の郡区町村編制法施行により、札幌市街地が札幌区となり、札幌郡から離脱しています。
「札幌郡札幌村」と「東区北十一条東一丁目付近」 は相容れないと思います。
地図Bに「札幌興農園」と記されている、いかにも飛行場としての使用に適していそうな場所は、
当時の住所では「札幌郡札幌村」でした。
「札幌郡札幌村 現・北20条東1丁目」が、ドコかで
「札幌郡札幌村 現・北10条東1丁目」になってしまったのではないか。なんて思うのですが。。。
オイラが「…アレ?」と感じる2つ目は、面積です。
地図Aの北10条、北11条の一区画は、1.46haです。
一方、新千歳市史通史編上巻には、千歳着陸場に関してこんな一節があります。
『千歳飛行場沿革』には着陸場の面積のみが「三万坪」と記載されている。一七四間(三一七㍍)四方に相当し興農園耕地と同規格である。
興農園耕地が「三万坪」と読み取れます。
三万坪≒9.92ha なので、これは7区画弱に相当します。
既に開発の進んだ札幌駅で、こんな広大な耕地ってアリでしょうか?
よそ者のオイラの勘違いかしらん。
で、話はヒコーキから完全に離れてしまうのですが。
当飛行場は、種苗・農機具の販売業を営んでいた「札幌興農園」の牧草地であるというのは前述の通りなのですが、
この興農園が1899年に上図B地点に横浜の外国人居留地の洋館を模した赤れんが造り、2階建ての店舗を開設。
1906年には「五番館」として道内初の百貨店となりました。
その後競合店との熾烈な競争を繰り広げ、西武百貨店との業務提携を経て、1997年に西武百貨店本体に吸収合併され、
「札幌西武」となるのですが、2009年に札幌西武も閉店してしまったのでした。
紫マーカー地点。
現在はご覧の通り。
2011年に解体したのだそうです。
2021年も依然として更地のままなのですが、
2030年までに地上40階、地下6階の高層ビル建設計画があるのだそうです(@Д@)
このタイルは「五番館」時代の名残りなのでしょうか??
そして、「札幌エスタ」(青マーカー地点)の2Fに「札幌興農園」が園芸店として残っている。というネット情報があり、
2日後の夜お邪魔してみたのですが、既に2009年に閉店となり、江別に事務所があるとのことでした。
かつては道内初の飛行場、そしてこれまた道内初の百貨店を札幌駅前に作った会社なのですが、
札幌からは撤退してしまったのですね。
栄枯盛衰を見るようで寂しい気がしたのですが、
興農園の公式サイトを拝見すると、現在は「農家のパートナー」という本来の事業に精力を注いでおられるようです。
(以下2023年6月撮影)
赤マーカー地点。
ここが飛行場として使用された場所だと思うのですが…。
札幌興農園(興農園耕地)飛行場跡地
札幌興農園(興農園耕地)飛行場 データ設置管理者:興農園
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌郡札幌村(現・札幌市東区北20条東1丁目)
座 標:43°05'10.8"N 141°21'06.3"E
標 高:13m
面 積:0.9ha
着陸帯:120m×75m
(座標、標高、面積、着陸帯長さはグーグルアースから)
沿革
1913年09月 7日 飛行大会実施
1926年06月 6日 小樽新聞社、紙上で「北海道定期航空協会設立計画」発表
07月 10日 逓信省、北海タイムスに札幌-旭川間週二回の定期航空路開設を認可
08月 2日 小樽新聞の札幌-旭川線運航機材(北海第一号)、立川飛行場を離陸。経由地の観武ヶ原練兵場着
3日 小樽新聞社北海第一号機、観武ヶ原から興農園に到着。
5日 朝日新聞社機東風が立川から札幌まで無着陸で飛来
14日 北海第二号、貨車で千葉を出発
23日 北海タイムスによる道内初の定期航空、永田重治操縦士により実施(3回で中止)
26日 北海タイムス、紙面で「近く北海道飛行協会設立」発表
10月 19日 樽前山噴火取材
関連サイト:
空の開拓者 〜札幌飛行場正門跡〜■
株式会社興農園公式サイト■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
ごばんかん札幌にサホロから寄ったとき、時計台が工事中で見られませんでした。五番館は、中には入りませんでしたが、前を通って眺めてましたね(^^)なくなっちゃったのですね、入っとけばよかったな。
by 鹿児島のこういち (2013-08-02 15:46)
イベントの調査で調べ物をしていた際、こちらにたどり着きました。
現在イベントの下準備で新潟県の航空史を調査しておりますが、新潟県の飛行場について2点ほど情報提供を。(メアドが判りませんでしたのでこちらで失礼いたします)
「空港探索2」で掲載されておりました小粟田飛行場(中越飛行場)ですが、終戦後運輸省が民間空港としての育成を検討しましたがあえなく(?)挫折。その後放牧地とすることを地元が決めております。結局探索されたとおり現在では美田が広がっております。
もうひとつ、戦時中の新潟飛行場に駐留していた通称「米澤隊」が異動した秘匿飛行場が合子ケ作(現在の新潟市西区山田付近)にありました。終戦間際近隣の小学生まで動員し造成されましたが結局飛行機が数回飛んだだけで本格的に稼働はしなかったようです。
比較的判りやすい所ですので、いつか新潟においでの際は探索されてください。(上記2点の資料を所持しております。もしでしたらご提供いたします。)
by KIJ-AP-BLDG (2013-08-02 23:09)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■鹿児島のこういちさん
>時計台
一度だけみたことあります。
地元の方には大変申し訳ないのですが、「日本三大ナントカ」と言われるのが納得の景観でした^^;
歴史や建築上の価値を解する方には違って見えるのでしょうけど。。。
五番館ご覧になってましたか。
無くなってしまってから「行っとけば」と後悔するのは、あるあるですよね。
ところでご相談したいことがあります。
お手数で申し訳ありませんが、空メールを送って頂けないでしょうか。
(リカバリ作業でバックアップを取ったつもりがメールデータが一部消失してしまいました)
■KIJ-AP-BLDGさん いらっしゃいませ
貴重な情報提供感謝致しますm(_ _)m
「米澤隊」の秘匿飛行場については存在すら存じませんでした。
是非二つとも資料を頂けないでしょうか?
どうぞ宜しくお願い致します。
by とり (2013-08-03 20:25)
メールは携帯から8月2日15:53に送信してるのですが届いてなかったでしょうか?再送してみますね(^^)
by 鹿児島のこういち (2013-08-04 06:37)
昨日まで札幌に行ってました。B地点も通りましたよ。
元は札幌西武だったんですね。
前の記事でエスタの2階に用があると書いてあったので、ビックカメラで何かを買うのかと思っていましたが、園芸店でしたか。
by Takashi (2013-08-04 09:17)
インターロッキングブロック
の隙間に生えたど根性ぺんぺん草が、この100年以上の栄枯盛衰を冷静に物語っているようで印象的です。
それにしても、この無機質な空き地、どうせオフィスビルになるんでしょうねぇ。
この地に何があったのか?の歴史や飛行機とは関係の無い夢の無い・・・・
by me-co (2013-08-04 12:50)
■鹿児島のこういちさん
再送ありがとうございます。
お手数お掛け致しましたm(_ _)m
■Takashiさん
無事のご帰還ですね。お疲れ様でした^^
B地点、そこだけ更地で異様な感じしませんでしたか?
>ビックカメラ
そんな小ネタまで覚えて頂いてありがとうございます。
■me-coさん
>夢の無い
一旦ヨドバシカメラが入ることになったのに、揉めたとかなんとか。。。
この地は古くからの札幌市民にとっては思い入れのある場所なんでしょうね~。
by とり (2013-08-05 05:38)
了解です。
資料は昭和30年代の新聞記事と飛行場の推定位置図、いずれもPDFです。
送付方法をご指定ください。
いきなりこんな申し出で申し訳ありません。
お手数ですがよろしくお願いいたします。
by とり様 (2013-08-06 19:03)
す、すみません。上の投稿は私の投稿です。
誤爆済みませんでした。
by KIJ-AP-BLDG (2013-08-06 19:05)
■KIJ-AP-BLDGさん
そんな本格的な資料とは思いませんでした。
てっきりコメント欄で済むようなものだとばかり。。。
本当にありがとうございますm(_ _)m
オイラのメルアドをコメント欄に晒しますので、確実にご確認可能な日時を指定して頂けますでしょうか?
ただし申し訳ありませんが、8~11日まで出かけますので、それ以外の日でお願い致します。
どうぞ宜しくお願い致します。
by とり (2013-08-07 05:47)
>とり様
返事が大変遅くなり、申し訳ありません。仕事が多忙でこちらを訪れる暇も無く…。
もしよろしければ、9月15日ないし21日の22時にお願いできますでしょうか?
わがまま言うようですみませんがよろしくお願いいたします。
by KIJ-AP-BLDG (2013-09-12 22:52)
■KIJ-AP-BLDG様
お返事ありがとうございますm(_ _)m
「イベント関係」と仰っていたので、きっと猛烈にお忙しい時期なのだろうと思っておりました。
またご連絡下さり本当にありがとうございます。
メルアドの件ですが、9月15日の22時に当記事コメント欄にてご確認頂くということで
お願いできますでしょうか?
(21日の22時はうまくいかなかった場合の予備日とさせて頂きます)
お手数で申し訳ありませんが、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
by とり (2013-09-13 05:47)
>とり様
了解です。詳細は明日確認させていただいた後、お話いたします。
明日22時によろしくお願いいたします。
by KIJ-AP-BLDG (2013-09-14 22:23)
■KIJ-AP-BLDG様
メルアド消去させて頂きました。
by とり (2013-09-15 22:26)