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倉敷(水島)航空基地跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月訪問 2021/7更新  


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撮影年月日1948/03/31(昭23)(USA M874 167) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岡山県‎倉敷市の埋め立て工業地帯。

ここに倉敷(水島)航空基地がありました。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

滑走路の南側部分の色が異なっています。

後述しますが、飛行場建設時、海軍からの強硬な命令による突貫工事で、

なんとか発進用の800m滑走路をなんとか完成させ、1,200m滑走路が完成したのは、

それから数か月後のことでした。

上の作図でも、滑走路の長さは南側の色が異なっている部分まで含めて、全体でピッタリ1,200mとなっており、

南側の色が異なる部分と、ターニングパッドを除いた長さは800mでした。

恐らく色の異なる部分とターニングパッドが後から完成させた部分なのではないかと。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:倉敷 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:2000x100コンクリート 工事中 格納庫:滑空機用5131㎡
 主要機隊数:生産機 整備實習 主任務:発進 教育 隧道竝ニ地下施設:海軍基地トシテノ工事1944-6打切 居住(2.500平米) 倉庫、工業場 掩体:場内分散 其ノ他記事:基地ハ生産社管理一部整備教育施設

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「倉敷空開隊(S19.11.1)(昭19建)」とありました。 

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には、

「航空基地としての工事は1944年に打ち切り。」とありました。

■「岡山県史近代三」478~484pに当飛行場建設のいきさつが出ていましたので、要約して引用させて頂きます。

工場誘致

 1939年4月岡山県経済部長に着任した武政は、「工場誘致しないと、岡山は都会にならぬ。財政もゆかたにならぬ」という持論を県幹部との昼食会のたびごとに力説した。

 武政経済部長は着任三か月後に「工場誘致委員会」を設置、同委員会は県内関係者を常任委員としたが、また東京・大阪方面の岡山県出身の有力者、大企業家を特別委員に委託し、東京・大阪で懇談会を度々開くことにより、県下への大工場の誘致を積極的に推し進めた。

 1940年2月末着任した知事の横溝も、工場誘致による開発効果を重視する思想の持主であったため、「農工両全」を説きつつも、東京・大阪の財界・有力者としばしば懇談会を開いて、工場誘致につとめた。

 その結果、1939年から1940年にかけて次の企業の工場が岡山県下に誘致された。

 帝国人造肥料会社岡山工場、汽車製造会社岡山工場、帝国鉱業開発会社津山工場、昭和カーボン会社牛窓工場、日鉄鉱業会社阿哲工場

だが、やはりこの時期の最大の誘致工場は三菱重工業水島航空機製作所であった。

水島航空機製作所の立地

 1941年商工省から岡山県経済部長に着任した三木の談によれば、当時の花形産業は造船と航空機であり、三菱に主力をおいて働きかけたということであった。

 当時の横溝知事は、三菱総本社取締役(岡山県出身)と昵懇の間柄であったという。

 三菱に的を絞ったのはこのような点が考慮されたからであろう。

 一方、三菱重工業名古屋航空機製作所も海軍からの増産要求に応じるために、新たに広大な敷地を必要とし、空襲の被害を考慮して、名古屋市以外に新工場用地を求めようとしていた。

 1940年7月、同社から秘密裏に岡山県工場誘致委員会に対し230~330万平方メートルの工場用地が欲しい旨打診があった。

 岡山県は第一候補地として岡山市福浜地先の、藤田組の児島湾干拓地を推薦した。

 藤田組も買収に応じるとの意向を示したが、名古屋航空機からは翌1941年2月に拒否回答が示されたので、岡山県は直ちに第二候補として高梁川廃川地河口を提示、同社の実地調査を経て、4月末第二候補地に決定した。

 但し、以上の交渉は軍事機密事項に該当するとして、三菱と県当局との間で極秘のうちに進められた。

 藤田組の児島干拓地が選定されず、高梁川廃川地河口が選ばれた理由は、前者の地盤が軟弱なのに対して、後者は地表付近が砂質であるのに加えて、比較的浅い所に砂礫層があり、地盤がしっかりしていたからだとされる。

 それ以外に、工場に並設するテスト飛行用の飛行場を建設するのに児島湾の場合は児島半島の山地が離陸に障害となるという理由もあげられたというが、戦後とはいえ最近までYS11がここで離着陸していたのだから、納得しにくい理由づけである。

 以上の交渉を経て、1941年5月29日、寝耳に水の通知で驚きあきれている地元住民に対して、土地買収に対する白紙委任状への捺印が特別高等警察立会いの下で要請(実際は強要)され、お国のためという大義名分の下、全員同意せざるをえなかった。

 こうして工場建設が開始された。

 『岡山県政史』には、「同工場の建設については海軍航空本部の生産命令により、工場敷地・飛行場は海軍において、厚生地帯(社宅地・公園等)の造成、道路の整備は県が受持」ったとされている。

 しかし、『水島工業地帯の生成と発展』によると、「工場及付属飛行場の敷地造成は、海軍の予算によって、岡山県が委託を受けて埋め立て」たとしている。

 海軍航空本部長から水島航空機製作所建設について県知事に宛てた次の文書からそれは明らかである。

 海軍航空本兵器製造施設岡山工場ノ用地ニ充ツベキ高梁川川尻ノ埋立工事ハ左記要領ニ依リ実施致度ニ付可然取計相成度
追テ正式ノ手続ハ別ニ可取運候


一、左記ニヨリ岡山県ガ海軍ニ代リ工事ヲ実施スルコト
1、本埋立工事ハ設計ノ審査以外工事ノ施工監督等一切ヲ県ニ委託ス
2、海軍省ヨリ所要経費ノ一切ヲ直接県経済ニ交付ス〔後略〕


 工場敷地および付属飛行場用地は以上の経緯で明白なように、海軍の費用で、岡山県の手で旧東高梁川廃川地河口の海面を埋め立てて造成された。

 また厚生施設は旧高梁川の河川敷を中心に亀島山、王島山の一部を含め合計約132万平方メートルを用地とし、土地の買収、敷地工事は一切岡山県が実施した。

 但し、工場建物、厚生施設の家屋は、かなりの部分を海軍の軍事予算に依存しつつ、三菱重工業が実施した。

 当初の計画では土地の総面積は約452万平方メートル、うち工場用地約112万平方メートル、飛行場用地211万平方メートル、厚生施設用地129万平方メートルで、工場用地と飛行場用地を合わせた323万平方メートルのうち305万平方メートルが海面埋立により造成され、残り18万平方メートルが民有地を買収したものであった。

 また建物としては生産工場(鉄骨)14棟を主体とし、付帯工場(鉄骨鉄筋コンクリート)9棟、その他の木造建物62棟、厚生設備1465棟を建設し、機械は工作機械1491台、板金機械496台を据え付けることになっていた。

 厚生施設のほとんどは社宅で、県の樹立した都市計画に基づいて、整然と高梁川廃川敷上に配置された。

 今日の水島市街地の発足である。

 この建設計画は戦局の苛烈化に伴って航空機生産が急がれたため、敷地造成が完成するのを待たないで、工場を建設するという慌ただしさであった。

敗戦当時一応完成していた用地は、次のとおりであった。

工場用地112万平方メートル(当初計画の100%強)
飛行場77万平方メートル(当初計画の36%)
厚生施設用地215万平方メートル(当初計画の167%)
計 404万平方メートル(当初計画の89%)

 

軍需工場の生産

 ここに掲げた当初計画は、1942年の三菱重工の工場建設計画概要によったものである。

 工場建設計画概要によると、従事者数も職員(二直作業時)1100人(技術員300人、事務員400人、雑務職員400人)、工員(二直作業時)2万人(生産作業14200人、付帯作業5800人)、計21100人ということになっているが、三菱地所株式会社の作成した「三菱重工業水島工場の建設記録」によると、最終目標は工員7万人であったとし、『岡山県政史』は水島工業都市の完成時の人口は10万人と見込まれていたと記している。

 かなり記述にバラつきがあるが、今日では正確な実情を把握できる資料は残っていない。

 ともかく、1941年5月以降あわただしく用地造成にとりかかり、同年11月22日に工場の起工式が行われ、1943年9月1日三菱重工業(株)水島航空機製作所が設立され、生産に着手、翌1944年2月11日水島で生産された一式陸攻が離陸した。

 これは海軍の強硬な命令でこの日に間に合わせたのだが、当時まだ飛行場が完成していなかったので、発進用に800mの滑走路一本を突貫工事で埋め立てただけで、やっと一号機を離陸させたものの、このテスト飛行の着陸は三重県鈴鹿の海軍飛行場で行わざるをえなかった。

 水島での着陸テストが可能になったのは滑走路が1200mに延長された数か月後のことであったという。

 ともかく、これ以後1945年6月22日のアメリカ空軍の大爆撃により廃墟となるまでに、一式陸攻504機、夜間戦闘機紫電改7機(実際に飛んだのは3機)を完成していたという。

 紫電改はほかに胴体だけできていたのが13機あったとのことである。

 三菱重工水島航空機製作所の誘致は、戦時下の工場誘致としては最大のものであり、戦後にもたらした影響はさらに深刻なものがあったというべきであろう。

 ところで、三菱が立地を断った藤田組の干拓地には、すでに汽車製造会社の立地を見ていたが、さらに立川飛行機と三井造船が分割買収した。

 時に1942年10月7日のことであった。

 立川飛行機は134万坪の用地を購入、埋め立てに着手したが、地盤が極めて軟弱なため用地選定を誤ったことを後悔していた。

 本工場は組立工場であって組立用部品は全て岡山市と県南部を主とする地域(一部は県北で、広島市内と香川県下にも各1工場)に分布する33の協力工場によって提供され、1944年より木製戦闘機「キ-五四型」の集成部品の生産が行われていたが、敗戦までに28機が一応完成した。

 なお、6月以後「キ-五四」を改造した特攻機の生産を命じられたが、こちらは敗戦までに1機も完成しなかった。

 立川飛行機も1945年立川の本社工場を岡山に疎開すべく移転中であったが、そのほかにも中小企業による工場疎開という形の工場移転もあった。

 現在わかっているのは井原市の片山工業、笠岡市の安田工業である。

 ともに大阪からの疎開工場だが、戦後も岡山県下で操業を続け、県下の機械工業の発展に貢献している。

 

ということで、この飛行場は、岡山県の工場誘致の結果、三菱が航空機生産工場を建設することに決まり、

その工場のテスト用飛行場ということですね。

D20_0126.jpg

赤マーカー地点。

東西、南北のみの道路で構成される広大な工場地帯にあって、

ここだけが唯一斜めの道路が伸び、滑走路の名残をかろうじて留めています。


      岡山県・倉敷(水島)航空基地跡地      

倉敷(水島)航空基地 データ

設置管理者:旧海軍・三菱
種 別:陸上飛行場
所在地:岡山県‎倉敷市‎水島中通‎4丁目‎
座 標:N34°30′42″E133°43′48″
標 高:4m
滑走路:1,200mx85m
方 位:04/22
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

沿革
1939年04月 岡山県経済部長に着任した武政氏、工場誘致を推し進める
1940年02月 知事に着任した横溝氏も、工場誘致推進
    07月 三菱、海軍機増産のため岡山県に工場用地を打診し、県は児島湾干拓地を推薦
1941年02月 名古屋航空機、拒否回答
    04月 岡山県、高梁川廃川地河口を第二候補地に決定。正式決定
    05月 29日、土地買収。その後用地造成
    11月 22日、工場起工式
1943年09月 1日、三菱重工業(株)水島航空機製作所設立
1944年02月 11日、当工場にて生産された一式陸攻が離陸。滑走路800m。数か月後に1,200mに延長
    11月 1日、倉敷空開隊
1945年06月 22日、米軍の大爆撃により廃墟

関連サイト:

ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「岡山県史近代三」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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コメント 11

おろ・おろし

新年最初に、地元ネタをありがとうございます。

水島工業地帯も、昨年は海底トンネル事故があったり
稼働状況も、最近は少し元気がありませんが、
とりさんの記事をきっかけに?
新たに飛び立つようになればね
と思います。

ところで、
笠岡の農業空港は、その後どうなったのか、地元でもニュースにならない、、、。
by おろ・おろし (2013-01-01 07:57) 

tochi

本年も宜しくお願い致します
by tochi (2013-01-01 09:07) 

雅

明けましておめでとうございます
あまり訪問もしていない怠け者ですが、今年もよろしくお願いします
by (2013-01-01 11:10) 

me-co

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
しかし、この斜めの境界というのは、双方の工場にとってデメリットです。設備機械の配置が難しいと思いますから。
by me-co (2013-01-01 12:59) 

tooshiba

あけましておめでとうございます。
とり兄さんのご健康とご多幸をお祈りいたします。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
by tooshiba (2013-01-01 14:46) 

miffy

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
by miffy (2013-01-01 21:49) 

seiren

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
また色々な空港・空港後の情報のレポート楽しみに読ませていただきます^^
by seiren (2013-01-01 23:50) 

NO NAME

 三菱航空機水島航空機製作所、1式陸攻513機、紫電改9機生産。

滑走路の北に大工場がありました。
 
 多分滑走路は1200mだと思います、陸攻の着陸距離の2倍?で1200mだと思い

ます、戦闘機なら着陸速度は100kmを超えるぐらいの速度なので1000m

以下でもよいと思います。
 
 戦後のローカル空港が1200mでした、そこにDC3、CV240、フレンドシッ

プが着陸していました、おそらくローカル空港として残されたのは1200mの

滑走路が取れるところが、残されたと思います。

 ここまで考えて、記録を見ると倉敷は2000×100になっていま

た。

 S19.8.6  海軍兵学校校長、井上成美が海軍次官になり岩国分校で

退任のあいさつその後、岩国をダグラス輸送機、多分零式輸送機だと思う。

霞ヶ浦飛行場に飛んだが水島飛行場に不時着。

by NO NAME (2013-10-14 13:09) 

とり

■NO NAMEさん
貴重な情報ありがとうございます。
滑走路長の件ですが、これは文末の国土地理院 1947年10月当時の写真から出した数字です。
リンク先をご覧いただきますと明らかですが比較的滑走路跡がハッキリ残っており、
ここから作図して計測したところ、丁度1,100mでした。
by とり (2013-10-15 05:40) 

ひびき

三菱重工業(株)名古屋航空機から三菱重工業(株)水島航空機の製造部門トップの工長として正田仙蔵(プロ野球楽天ゴールデンイーグルス星野仙一副会長)の父親が故郷である岡山県に転勤


星野仙一の両親である正田仙蔵と星野敏子は、どちらも生家の跡継ぎの為、入籍しておらず「最後に生まれた子供が、(母方の)星野の姓を継ぐ」という条件で結婚を認められたため、末っ子の仙一が星野姓を名乗ることになった。

星野仙一の姉2人は実の姉弟でありながら姓が違い、結婚まで父方の「正田」の姓を名乗っていた。

但し父である正田仙蔵は仙一が産まれる3ヶ月前に他界している。
by ひびき (2017-02-04 15:41) 

とり

■ひびきさん
コメントありがとうございました。
by とり (2017-02-05 13:34) 

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