福岡県・直方基地(直方牧場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月 訪問
撮影年月日1947/04/26(昭22)(USA M279 59)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福岡県直方(のおがた)市。
ここに海軍の「直方基地(直方牧場)」がありました。
末期の時期、特攻用に急造された秘匿飛行場の1つです。
「直方飛行場」なるものがあることは以前から分かっていたのですが、
情報が錯綜しており、位置の絞り込みがなかなかできませんでした。
以下、関連資料をずらずらと。
■「航空特攻戦備」第2期
出典:「航空特攻戦備第2期」(防衛省) http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer?id=1000559686&bid=0050050941 (22コマ)を加工して作成
見づらいので書き起こすとこんな感じ。
方面 佐世保
牧場 直方
滑走路 五〇×六〇〇NNW
縣郡村 福岡、遠賀 頓野村
記事 応急滑走路 七-一二既成
この資料から 北北西方向 600mx50mの滑走路であることが分かりますね。
■『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)
関係する部分を引用させて頂きます。
「六月に入り、佐鎮から、遠賀川附近に緊急発進用の滑送路を一ヶ月で設営せよと命令が出た。一ヶ月で作れと云う滑走路は長さ七〇〇米で、幅二〇米位だったと思う。これと共に一〇〇kg爆弾(引用者註-正しくは250kg爆弾。防研史料より)の格納用隧道と、飛行機を格納する場所と、その誘導路である。
富士の裾野で、実地演習はしていたが、現実となったのである。隊長は自動車を駆って遠賀川方面に乗り込んだ。先ず図上で、遠賀川の日ノ出橋上流の河川敷を選んだ、色々と調査したが、増水時には、水没の恐れがあり附属施設の設営にも具合が悪るい、特攻機が飛び立てなかったら軍法会議ものでる。
止むを得ぬ、田圃を潰ぶそうと云う事になり、遠賀群小屋瀬地区で、初夏のうららかな田圃に目星をつけた、最後的兵器である特攻基地の建設が初められたのである。毎日、数千人を動員し、隊員も主力を投入して、一ヶ月余りして、どうにか飛び上れる滑送路は出来上った。滑送路の上に田圃の形のように草を植えた箱庭を並べて、滑送路の形を蔽していたのであるが、戦後、米軍の日本軍基地の図集に乗っていたと云う話に、自笑せざるを得なかった。毎日頭上を航空写真を撮る米軍機が、ゆうゆうと飛行機雲をなびかせて、飛んで居たのであるから止むを得ない結果だったと思う。終戦になり、これらの作業地に対する補償を査定して、約二〇万円の支払金を、直方市長に渡した相山中尉(引用者註-この体験記の筆者)は、翌る年その地を尋ねて見たら、元の田圃になっており、戦争の爪跡は殆んど残っていなかった。」
これは当飛行場を実際に造った方の手記です。
関係する部分だけ要約すると、
「6月、遠賀群小屋瀬地区の田園を潰して指示通り1ヶ月余りで完成。戦後すぐ元の田園に戻った。」
■佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
直方基地
概位:直方市北方
工事概要:在来田畑ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設
ここでも「田畑ヲ整地」とあり、付属施設の計画もあったようです。
■米軍史料
飛行場名:NAOKATA(米軍史料によくある地名の読み間違いだと思われる)
位置:直方の北1マイル、植木の南東1マイル
座標:N33-45、E130-44
滑走路の長さ:2700フィート X 150フィート 北北西から南南東向き
格納庫等:なし
航空機用掩体等:滑走路の西側に沿って存在する
航空機:確認できず
写真撮影日:1945年8月7日(第3写真偵察戦隊1945年任務番号385)
(2700フィート X 150フィート≒823mx46m)なので、滑走路の長さと向きは海軍資料とほぼ一致しています。
上記4点はPUTIN様から情報頂きましたm(_ _)m
■あさんからの情報
直方秘匿飛行場
33.767565,130.727814周辺。空中写真と地図見ただけなのですが…
戦前の地図には特に区割りはなさそうですが、USA-R211-43などの戦後の航空写真から矩形の田畑が出現してます。
区画整理(圃場整備)かもしれませんが一応。
実はこの考察が凄かったのです(後述)。
■防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線直方駅 市の北方
建設の年 1945-7
主要機隊数 小型機
主任務 発進
隧道並に地下施設 工事中
掩体 分散
掩体等、付属施設も計画されていたのですね。
以下、直方市立図書館様から頂いた情報
■雑誌「西日本文化 2011年8月号」17p
「墜落B29と捕虜搭乗員 直方での目撃証言による再現」(牛島英俊/著)に「旧長島
橋の上流側には海軍特攻隊の滑走路が急造されたほど開けた土地である」
前記事とも関連しますが、当基地は「旧長島橋の上流側」とあります。
■B29の植木墜落を伝える会 2013 B29 墜落炎上セリ 昭和20年3月 B29植木墜落の記録
13コマ~
「B29墜落事件を思う -感田から見た墜落の一部始終-」と題して橘邦巳氏の手記が掲載されており、
その一部に当飛行場が触れられていました。
戦争末期の出来事に、も一つ忘れてはならない事がある。それは撃墜事件の前だったか後だつたか、はつきり記憶していないが、我が村落の田圃の中に、海軍航空隊の飛行場が出来た事だ。
飛行場と云っても滑走路が一本出来ただけだが、場所は遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物だつたが、今の様に機械化されていない時代だ。モッコ等を担いでの作業は大変だったそうだ。勿論村人達も使役に駆り出されての話だ。
実家の下の田圃にも、高さ五、六メートルくらいの蒲鉾型をした格納庫が出来た。然し、いずれも、滑走路から発着する飛行機を見た事もないし、又、格納庫に出入りする飛行機も見ないまま終戦になつた。
B29の墜落は3月末でした。
当基地の建設は同年6月と思われますので、撃墜事件の数か月後ということに。
この手記は57年も後に記されましたので、この程度曖昧になるのは当然ですよね。
要約すると、
「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物」
位置特定につながる非常に具体的な情報ですね。
方面 佐世保
牧場 直方
滑走路 五〇×六〇〇NNW
縣郡村 福岡、遠賀 頓野村
記事 応急滑走路 七-一二既成
この資料から 北北西方向 600mx50mの滑走路であることが分かりますね。
■『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)
関係する部分を引用させて頂きます。
「六月に入り、佐鎮から、遠賀川附近に緊急発進用の滑送路を一ヶ月で設営せよと命令が出た。一ヶ月で作れと云う滑走路は長さ七〇〇米で、幅二〇米位だったと思う。これと共に一〇〇kg爆弾(引用者註-正しくは250kg爆弾。防研史料より)の格納用隧道と、飛行機を格納する場所と、その誘導路である。
富士の裾野で、実地演習はしていたが、現実となったのである。隊長は自動車を駆って遠賀川方面に乗り込んだ。先ず図上で、遠賀川の日ノ出橋上流の河川敷を選んだ、色々と調査したが、増水時には、水没の恐れがあり附属施設の設営にも具合が悪るい、特攻機が飛び立てなかったら軍法会議ものでる。
止むを得ぬ、田圃を潰ぶそうと云う事になり、遠賀群小屋瀬地区で、初夏のうららかな田圃に目星をつけた、最後的兵器である特攻基地の建設が初められたのである。毎日、数千人を動員し、隊員も主力を投入して、一ヶ月余りして、どうにか飛び上れる滑送路は出来上った。滑送路の上に田圃の形のように草を植えた箱庭を並べて、滑送路の形を蔽していたのであるが、戦後、米軍の日本軍基地の図集に乗っていたと云う話に、自笑せざるを得なかった。毎日頭上を航空写真を撮る米軍機が、ゆうゆうと飛行機雲をなびかせて、飛んで居たのであるから止むを得ない結果だったと思う。終戦になり、これらの作業地に対する補償を査定して、約二〇万円の支払金を、直方市長に渡した相山中尉(引用者註-この体験記の筆者)は、翌る年その地を尋ねて見たら、元の田圃になっており、戦争の爪跡は殆んど残っていなかった。」
これは当飛行場を実際に造った方の手記です。
関係する部分だけ要約すると、
「6月、遠賀群小屋瀬地区の田園を潰して指示通り1ヶ月余りで完成。戦後すぐ元の田園に戻った。」
■佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告
直方基地
概位:直方市北方
工事概要:在来田畑ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設
ここでも「田畑ヲ整地」とあり、付属施設の計画もあったようです。
■米軍史料
飛行場名:NAOKATA(米軍史料によくある地名の読み間違いだと思われる)
位置:直方の北1マイル、植木の南東1マイル
座標:N33-45、E130-44
滑走路の長さ:2700フィート X 150フィート 北北西から南南東向き
格納庫等:なし
航空機用掩体等:滑走路の西側に沿って存在する
航空機:確認できず
写真撮影日:1945年8月7日(第3写真偵察戦隊1945年任務番号385)
(2700フィート X 150フィート≒823mx46m)なので、滑走路の長さと向きは海軍資料とほぼ一致しています。
上記4点はPUTIN様から情報頂きましたm(_ _)m
■あさんからの情報
直方秘匿飛行場
33.767565,130.727814周辺。空中写真と地図見ただけなのですが…
戦前の地図には特に区割りはなさそうですが、USA-R211-43などの戦後の航空写真から矩形の田畑が出現してます。
区画整理(圃場整備)かもしれませんが一応。
実はこの考察が凄かったのです(後述)。
■防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
最寄駅よりの方位 距離 筑豊本線直方駅 市の北方
建設の年 1945-7
主要機隊数 小型機
主任務 発進
隧道並に地下施設 工事中
掩体 分散
掩体等、付属施設も計画されていたのですね。
以下、直方市立図書館様から頂いた情報
■雑誌「西日本文化 2011年8月号」17p
「墜落B29と捕虜搭乗員 直方での目撃証言による再現」(牛島英俊/著)に「旧長島
橋の上流側には海軍特攻隊の滑走路が急造されたほど開けた土地である」
前記事とも関連しますが、当基地は「旧長島橋の上流側」とあります。
■B29の植木墜落を伝える会 2013 B29 墜落炎上セリ 昭和20年3月 B29植木墜落の記録
13コマ~
「B29墜落事件を思う -感田から見た墜落の一部始終-」と題して橘邦巳氏の手記が掲載されており、
その一部に当飛行場が触れられていました。
戦争末期の出来事に、も一つ忘れてはならない事がある。それは撃墜事件の前だったか後だつたか、はつきり記憶していないが、我が村落の田圃の中に、海軍航空隊の飛行場が出来た事だ。
飛行場と云っても滑走路が一本出来ただけだが、場所は遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物だつたが、今の様に機械化されていない時代だ。モッコ等を担いでの作業は大変だったそうだ。勿論村人達も使役に駆り出されての話だ。
実家の下の田圃にも、高さ五、六メートルくらいの蒲鉾型をした格納庫が出来た。然し、いずれも、滑走路から発着する飛行機を見た事もないし、又、格納庫に出入りする飛行機も見ないまま終戦になつた。
B29の墜落は3月末でした。
当基地の建設は同年6月と思われますので、撃墜事件の数か月後ということに。
この手記は57年も後に記されましたので、この程度曖昧になるのは当然ですよね。
要約すると、
「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて、堤防に沿う様に、凡そ千メートルかそこらの短い物」
位置特定につながる非常に具体的な情報ですね。
1/25000「木屋瀬」昭和13年測図「今昔マップ on the web」から作成
1/25000「木屋瀬」昭和25年三修「今昔マップ on the web」から作成
ということで、頂いた様々な情報から、おおよその絞り込みができました。
情報を頂いた皆様、本当にありがとうございましたm(_ _)m
上の2枚は、「おおよそこの辺り」と思われる同じ場所の地図なんですが、時代が違います。
それぞれ昭和13年、昭和25年の地図なので、
「滑走路建設前」「建設後(戦後畑に戻した後)」ということになります。
ここは資料に出てくる「木屋瀬地区」で、「遠賀川」が流れています。
北が河口方向であり、資料に出てくる「中島橋の上流」とは、中島橋の南側一帯ということに。
中島橋の上流に沿って、資料にある通り、「広々とした田圃」が広がっています。
田圃が飛行場に変えられ、戦後すぐに田圃に戻されたとする史実とも合ってますね。
この周辺のどこかに飛行場が造られたはずなのですが、
オイラが特に注目したのは昭和25年の地図の赤矢印部分でした。
情報を頂いた皆様、本当にありがとうございましたm(_ _)m
上の2枚は、「おおよそこの辺り」と思われる同じ場所の地図なんですが、時代が違います。
それぞれ昭和13年、昭和25年の地図なので、
「滑走路建設前」「建設後(戦後畑に戻した後)」ということになります。
ここは資料に出てくる「木屋瀬地区」で、「遠賀川」が流れています。
北が河口方向であり、資料に出てくる「中島橋の上流」とは、中島橋の南側一帯ということに。
中島橋の上流に沿って、資料にある通り、「広々とした田圃」が広がっています。
田圃が飛行場に変えられ、戦後すぐに田圃に戻されたとする史実とも合ってますね。
この周辺のどこかに飛行場が造られたはずなのですが、
オイラが特に注目したのは昭和25年の地図の赤矢印部分でした。
1/25000「木屋瀬」昭和25年三修「今昔マップ on the web」から作成
赤矢印部分拡大。
道路と堤防で細長い地割になってますが、長辺は600mであり、
この長さは防衛省資料にある滑走路長さとピッタリ同じです。
短辺は、堤防から破線が120mあります。
地元目撃者の方の手記にある通り、「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて」いて、
防衛省資料にある通り、滑走路長さが600mx50m、方位NNWとすると、
ココの地割に長さも向きもピッタリ収まります。
ということで、種々の条件に当てはまることから、恐らくココだったのではないかと。
そしてこの場所は、あさんが特定した場所なのでした。
あさんは以前にも、「何もなかった場所に、飛行場建設後、(滑走路らしき)何かが出現している」
という今回同様の手法で軽井沢飛行場の位置を特定されたのでした。
道路と堤防で細長い地割になってますが、長辺は600mであり、
この長さは防衛省資料にある滑走路長さとピッタリ同じです。
短辺は、堤防から破線が120mあります。
地元目撃者の方の手記にある通り、「遠賀川の堤防から東へ四、五十メートルぐらい離れて」いて、
防衛省資料にある通り、滑走路長さが600mx50m、方位NNWとすると、
ココの地割に長さも向きもピッタリ収まります。
ということで、種々の条件に当てはまることから、恐らくココだったのではないかと。
そしてこの場所は、あさんが特定した場所なのでした。
あさんは以前にも、「何もなかった場所に、飛行場建設後、(滑走路らしき)何かが出現している」
という今回同様の手法で軽井沢飛行場の位置を特定されたのでした。
赤マーカー地点。
ここから奥に向って滑走路だったはず。
黄マーカー地点
滑走路中心線から滑走路方向
福岡県・直方基地(直方牧場)跡地
直方基地(直方牧場) データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:福岡県直方市感田
座 標:33°46'01.6"N 130°43'35.0"E
標 高:7m
滑走路:600mx50m
方 位:15/33
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは資料から)
沿革
1945年06月 着工
07月 完成
08月 終戦。畑地に戻る
関連サイト:
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この記事の資料:
『海軍施設系技術官の記録』刊行委員会編『海軍施設系技術官の記録』(私家版、1972年)
佐世保施設部担当の各飛行場について
米軍史料
防衛研究所収蔵資料:航空基地 4 「海軍航空基地現状表(内地の部)」
雑誌「西日本文化 2011年8月号」
この記事がなかったら、
ワタシは知る由もなかったですね〜_φ(・_・
by an-kazu (2024-06-18 10:12)
■an-kazuさん
情報寄せて下さった皆さんに感謝ですねm(_ _)m
by とり (2024-06-19 06:56)