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洲崎飛行場(7号・辰巳)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2022/1更新  

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測量年 1937(昭12)旧1万地形図  リスト番号:o188/o177 図名:新橋/洲﨑  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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(昭和13年11月撮影)高度約1,000米 方位N 距離約1,300米
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1938年(昭和13年)11月調査資料添付地図 Translation No. 21, 23 December 1944, airways data; Kanto Chiho. Report No. 3-d(20), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)


前記事の続きです。

という訳で、洲崎飛行場は 「1号埋立地」→「5号埋立地」→「7号埋立地」と移転しました。

当記事は三代目、「7号・辰巳」についての記事です。

この飛行場は1937年12月、深川5号埋立地から移設してきました。

上に貼りましたが、

■水路部資料「航空路資料 第3 其ノ3 昭14-10 關東地方飛行場及不時著陸場」の中で、

当「深川7號埋立地」について扱っており、アジ歴でその資料の英語訳版が閲覧できます。

各ハンガー位置まで書き込みがありますね。

で、防衛研究所にてこの資料の原本を見てきました。

其の他の部分を以下引用させて頂きます。

深川7号埋立地(昭和13年12月調)
東京市深川区枝川町地先7号埋立地(8壕埋立地南側)

着陸場の状況
高さ 平均水面上約3.3米。
広さ及形状 本飛行場は総面積約86.9萬平方米にして現在使用可能地域
は26.4萬平方米なり・着陸区域は図示の如く格納庫寄りの南北約450米、北
西/南東約550米、北東/南西約600米を有する不規則なる多角形状の地域な
り(付図参照)。
地表の土質 砂地にして泥土を混ず。
地面の状況 本場は海岸を埋立て整地の上飛行場とせしものにして地表概
ね平坦なるも硬度十分ならざる箇所あり・着陸区域一帯は芝、雑草密生し其の
外周一帯は芝地にして処々に草発生し高さ約1.2米に達するものあり但し着陸
区域付近は常に此等の発生物の刈取及雑草に努めつつあり・埋立拡張区域の東
側護岸は完成せるも埋立後日尚浅きを以て地盤稍軟弱なる箇所あり・着陸区域
は周囲に比し概して低く且つ傾斜を有せざる為排水良好ならざるも砂地なるを
以て離着陸には差支なし・夏季炎天続きの場合は却って地面に好結果を興う・
降雨の際は雨水滞留し冬季霜解の際は東側部分泥濘甚だし。
場内の障碍物 着陸区域にはなし。
適当なる離着陸方向 風向に因り南北、南東/北西、北東/南西の3方向あ
るも概ね冬季は北風、夏季は南風なり、南北方向を採る時は格納庫の前面に於
て風向と平行するを可とす。
離着陸上注意すべき点 場の東方処々に降雨の際水溜を生じ地表稍軟弱と
為るを以て飛行機の着陸の際注意を要す。
施設 格納庫3(北より順に亜細亜滑空学校高さ約7米、間口約36米、
奥行約22米、田中飛行研究所高さ約7米、間口約18米、奥行約18米、亜細
亜航空学校高さ約7米、間口約61米、奥行約18米)宿舎、応接室、事務所、
食堂等あり・亜細亜滑空学校及同飛行学校格納庫屋根上に「亜細亜」と自書し
あり・亜細亜航空学校の北東隅に高さ約13米の吹流柱あり。
其の他
本飛行場は昭和12年12月深川5号埋立地より移転し港湾河川工事と共に埋立
られたる箇所なり飛行場としては諸施設未だ完備するに至らざるも目下場内の
整地護岸の改修、道路橋梁及上下水道工事等諸施設工事中なり・東京飛行場は
目下拡張中に付都下中等学校のグライダー練習地に充当す・本場は洲崎飛行場
と別称し目下飛行機12機を有し毎日練習を実施す・5号及6号埋立地は将来
工場倉庫或は新興の商店街、住宅地建設用地として発展の途上に在り・又現下
急速なる航空事業の発達の趨勢に鑑み都市計画事業として昭和13年度以降3
箇年継続総工費1,200萬円を以て本場に隣接する海面約49.6萬坪を埋立て水
陸両用の公共用飛行場建設の計画あり。
 

「洲崎飛行場は転々と場所を変えた」と前記事でも書きましたが、

この情報はオイラが調べた範囲ではアジ歴の資料以外には見当たりません。

洲崎飛行場が遅くとも1920年には運用されていたことは様々な資料から明らかなのですが、

1925年の地図では5号埋立地はまだ海面であり、

アジ歴で「洲崎飛行場」として詳細な地図付きで扱われている当7号埋立地は1930年の地図でまだ海面で、

1932年の地図で初めて登場しています。

こうした点は、「洲崎飛行場は転々と場所を変えた」ということを裏付けていると思います。

 

また、飛行場の名称なのですが、当飛行場は水路部資料の中で、「本場は洲崎飛行場と別称し」とある他、

「深川(浦)飛行場」とも呼ばれていました。

1,5,7の各埋立地はそれぞれ広義の「深川地域」に当たるので、

いずれも「深川(浦)飛行場」で何の問題もないのですが、

「洲崎」という地名は遊郭の一大拠点となった埋立地(現在の江東区東陽一丁目)のことで、

こちらはオイラの知る限り「洲崎地域」的な広義の意味は存在しません。

位置としては1号埋立地のすぐ北側に当たり、場所として限定されています。

「洲崎」からは離れた場所にある7号埋立地の事も、アジ歴では「洲崎飛行場」とされていますが、

これは厳密に地名だけで考えると少々不自然です。

これは、「洲崎の飛行場」が移転してきたことの名残なのかもしれません。

DSC_0005.jpg

赤マーカー地点。

道路の右側にハンガーが並んでいたはずです。

現在は都営辰巳一丁目アパートが並んでいます。

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青マーカー地点。

飛行場が広がっていた辺り。

現在一部は辰巳の森海浜公園になっています。


      東京都・洲崎飛行場(7号・辰巳)跡地     

洲崎飛行場(7号・辰巳) データ
種 別:陸上飛行場
所在地:東京市深川区枝川町地先7号埋立地(現・江東区辰巳1,2丁目)
座 標:N35°38′55″E139°48′41″
標 高:3.3m
面 積:24.3ha
着陸帯:500m×520m
(座標、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1937年12月 深川5号埋立地から移設
1938年   女流飛行家田中阜子飛行士、埼玉県川越市に当飛行場から郷土訪問飛行
1940年05月 6日、亜細亜航空学校閉鎖

関連サイト:

ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第3 其ノ3 昭14-10 關東地方飛行場及不時著陸場」


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コメント 4

an-kazu

廃線以外にもイロイロある街なんですねφ(..)メモメモ


by an-kazu (2016-08-25 09:21) 

とり

■an-kazuさん
廃線があるのですか
へえ~
by とり (2016-08-26 05:58) 

再生おじさん

郷土史による関連情報は既出?

江東の昭和史(江東区、平成3年3月発行)

①P33~34
(昭和)「一三年の四月と七月の二回にわたって暴風雨と高潮により・・・
・・・・・この結果ますます外郭堤防と新しい放水用路の建設が叫ばれていった。なお、この年には、南砂町沖に飛行場を建設(今の夢の島、途中で工事は中止となる)、教育施設の面でも・・・・・・・」

②P34に、昭和10年の洲崎飛行場での偵察機贈呈式 毎日新聞社の写真有り
by 再生おじさん (2016-08-26 23:32) 

とり

■再生おじさん
郷土史はチェックしておりませんでした。
昭和10年贈呈式ということは、初代か二代目の飛行場時代の話ですね。
情報ありがとうございました。
夢の島の件は東雲飛行場の記事におまけみたいな感じで含めております。
by とり (2016-08-27 16:02) 

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