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高崎飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

    2015年5月訪問 2021/12更新  


0.png
撮影年月日1947/10/30(昭22)(USA R256-No1 29)■ 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県高崎市。烏川右岸にあった「高崎飛行場」。

以前記事にした高崎ヘリポート のすぐ南側ですね。

先頭のグーグルマップは、「昭和6年(1931年)高崎市全図」から作図しました。

後述しますが、黄色で囲った部分が「乗附練兵場」で、この一部を借り受けて飛行場としました。

当飛行場は、烏川を渡って東側わずか1.5km先に高崎駅があるという非常に便利な立地で、

現在河川敷の外側はぎっしりと住宅地が広がっています。

ところがここが飛行場になった当時、練兵場敷地東側には烏川が迫っていて、

それ以外の三方は広く田、草地に囲まれるという、今では考えられないほど長閑な場所でした。

「新編高崎市史 資料編10」の添付資料?の1,2pに「飛行場のあるまち高崎」という記事がありましたので、

以下抜粋して引用させて頂きます。

 

1932年、高崎商工会議所議員総会にて、「高崎に飛行場を設置し、定期航空路も開設したい」という要望が可決されました。

日本海と太平洋の中間に位置する高崎は、人・物・情報・文化の結節点にあり、その役割は大きい。

旅客郵便貨物の輸送に飛行機が利用され、まさに航空時代となる時勢を予測し、

交通の要衝にある高崎がさらに時代に飛躍するために、との想いからの要望でした。

要望可決を受け、直ちに調査研究が始められたのでした。

軍部に対しては飛行機の払い下げ交渉が重ねられると共に、

国防並びに産業上の見地から、飛行場の設置、パイロットの養成などを図るために「航空普及会」を組織し、

広く市民有志に賛同と協力を求めていくことになりました。

 

翌1933年4月、飛行場設置調査委員会が組織されました。

商工会議所の議員山田徳蔵氏が委員長に選ばれ、具体的な調査研究が進められました。

他方、航空思想の啓蒙活動を推進するため、高崎航空普及会の設置が具体化され、

発会式は高崎商工会議所で行われ、会長に土谷全次高崎市長が選出されました。

乗附町にあった練兵場の一部を飛行場として借り受けることができ、造成を行い、格納庫も建設されました。

その年の11月14日、高崎航空普及会専属の上田善吉飛行士の操縦するヒコーキは、

山田副会長同乗で、立川飛行場を午前7時45分に離陸。

同8時30分、高崎飛行場上空に飛来し、高崎市内上空を数回旋回し、空中から5万枚のビラを撒きました。

新編高崎市史 資料編10 337pには、高崎号初飛行の際の挨拶の記録があるのですが、

その中に非常に気になる一文があります。

「今後本会として其目標たる飛行場設置、飛行士養成に向かって関係者一同粉骨努力する覚悟であります」

飛行士の養成は分かるのですが、飛行場の設置という目標に向けて頑張る。と述べています。

ここにちゃんと飛行場あるじゃん。と思ったのですが、高崎飛行場は飽くまで軍用地の一部借り受け。間借り状態です。

日本海と太平洋の中間に位置するここ高崎を、人、物、あらゆる流れの要衝とすべく、定期航空路開設が目標ですから、

ちゃんとした自前の立派な飛行場を別に造るつもりだったのかもしれません。

現状を見れば結果は明らかなのですが、初飛行の際ぶち上げたこの壮大なプランはその後どんな曲折を辿ったのでしょうか。

「高崎空港」なんてあったら、どうなってたんでしょう。

 

18日には、浜松飛行場からもう1機が飛来。

19、20日は高崎名物の恵比寿講市で賑わい、終日祝賀宣伝飛行が行われました。

第一高崎号(サルムソン式二A型)、第二高崎号(三菱式二二型)の命名式は数千人の観衆で賑わいました。

高崎商工会議所会頭は、祝辞の中で、

「地方市街地にして飛行場を有し、飛行機を所有し、以て航空会に貢献せるもの全国にその類を聞かず…

将来本市が航空都市として産業交通上、将来国防上枢要なる地位を占める」と挨拶しました。

また「高崎商工会議所月報」の年頭の辞で「明日の交通機関の主力たるべき航空事業の芽生え等、

新時代産業の寵児とも案じせらるる事業がいずれも本市において起業計画せられたことは真に欣快に堪えない」

と、飛行場設置の意義を述べています。

1935年、群馬県下は大水害により甚大な被害を被ったのですが、この大水害に際して、高崎航空普及会は、

いち早く高崎号を出動させ、利根川、烏川、碓氷川、吾妻川流域の被害状況を調査すると共に救援活動に当たらせました。

また、商都高崎らしく航空思想の普及を掲げながら、観光遊覧飛行も計画し、

市民を誘って楽しんでもらうという強かさも持っていました。

 

これはアギラさん情報ですが、1940年時点で、「群馬縣立高崎中學校」が当飛行場を滑空場として使用していた。

という記録があります。

当時の中学の滑空機訓練は、「戦時下における航空要員大量養成」という時局に適った運用ですから、

終戦近くまで飛行場/滑空場として使用していたのではないかと思うのですが、

当飛行場がどの程度、そしていつ頃まで使用されていたのか等、これ以上の詳しいことは不明です。

 

また、こうした一連の商工会議所の飛行場化計画よりずっと前のことですが、

大正3年(1914年)3月3日付の上毛新聞には、「乗附練兵場に初めて所沢飛行隊の2機が来高」という記事が載っていたことが、

新編高崎市史の年表に出てきます(実際に飛来したのは記事になる前日の3月2日)。

代々木練兵場での国内初飛行が1910年、国内初の所沢飛行場開設が1911年。

当練兵場は随分古くからヒコーキとの係わりがあったのですね。

 

こうして、民間主体であるにもかかわらず驚くほどの早さで開設され、ヒコーキも入手して運用された「高崎飛行場」。

いくつかのサイトでは、これを「群馬県人気質」と結びつけて考察していました。

群馬県民の気質。オイラは知らなかったので調べてみたところ、

「熱しやすく冷めやすい、義理人情に富む。気性が荒い。陽気で裏表がない」

など挙げられていました。

無から飛行場を作り、ヒコーキを入手し、運営する。

場面場面でどの気質も必要になりそうです。

D20_0005.jpg

赤マーカー地点。

ここにずっと草地が広がっていて(今もあまり変わらないけど)、ヒコーキが飛んでいた時代があったのですね。

 

余談ですが、上の地図で烏川のすぐ東側にお堀で囲った地割があります。

ここには元々高崎城(1597年築城、1871年廃城)があり、その後、歩兵第十五連隊兵営として使用(1884~1945年)され、

現在は図書館等公共施設が並んでいます。

「新編高崎市史 通史編4」120pには、 第十五連隊と乗附練兵場について記されていました。

一五連隊は片岡村乗附に射爆場を持っていたのですが、1908年(明治41年)、公園に接する作業地と交換に市から

乗附に練兵場用地を取得、射爆場と一体化しました。

さらに1910年、片岡村農民から練兵場用地約12haを買収し、広闊な乗附練兵場を完成させました。

しかし、乗附射爆場は付近農家に危険が及ぶ恐れがあり、1916年、同村城山付近に約9haの土地を得て、城山射爆場としました。

更に1910年、箕輪村が地主より買収した土地を寄付する形で、20haの一五連隊分営地となり、

後に皇室御料地を合わせて1,320haの相馬ヶ原演習地となり、

一五連隊以下十四師団や近衛師団等の砲兵実弾射撃の大演習場となりました。

 

とあります。

乗附練兵場に絞って見ると、元々乗附には十五連隊の射爆場があり、

そこに市の土地、農民の土地を次々取得して大きな練兵場、射爆場としたのですが、

周辺農民への危険を理由に、他所を使うようになっていった。ということのようですね。

烏川を挟んで本拠地の目の前ですからロケーションとしては申し分なかったのでしょうが…

そんな訳で、広大な土地は確保したけれど、(射爆場としては)危なくて使えない。ということで、飛行場用地として貸し出した。

ということなのだと思います。

 

その後終戦を迎え、乗附練兵場も軍施設として接収を受けますが、後に返還され、農耕地として利用することになります。

ここで問題が生じました。

上述の通り、乗附練兵場敷地のうち、12haは片岡村農民から買収したものです。

しかもこの買収は、強制買上でした。

土地の開墾、耕作権を巡り、復員軍人側と、 無理やり土地を奪われた旧地主との間で紛争が起こりました。

結局これは裁判沙汰にまでなってしまい、1947年11月12日、県係官立会いの下、県の提示した案を了解し決着を見る事になります。

こうして乗附練兵場に誕生した高崎飛行場は、接収後農地となり幕を閉じたのでした。

 

上毛新聞2015年9月10日付「三山春秋」に当飛行場のことが載りました(旅する野良猫さんに教えてもらった)。

以下、既出と重ならない部分を抜粋させて頂きました。

▼今夏、居住地の高崎市から渋川市の実家に帰省し、同飛行場をめぐって85歳の父と初めて話した。父は44年8月に旧群馬郡内で選抜された13、14歳の子どもたち約40人と同飛行場でグライダー訓練に参加させられていた。白郷井村(現渋川市子持地区)の親元を離れ、飛行場に比較的近い小学校に寝泊まりしながら1カ月にわたって訓練を重ねたという▼戦時下のパイロット養成教育の一環だったのだろうが、厳しい教官と粗末な食事にげっそり痩せたといい「あんな経験はもうしたくないし、若い世代にも絶対させたくない」と唇をかみしめた▼戦時中のことをこれまであまり語ってこなかった父。戦後70年の節目の年に不戦の誓いを新たにする一日となった。 


      群馬県・高崎飛行場跡地     

高崎飛行場 データ
設置管理者:高崎航空普及会?
種 別:陸上飛行場
所在地:群馬県高崎市片岡町
座 標:N36°19′14″E138°59′47″
標 高:87m
着陸帯:730m×270m(最大)
(座標、方位、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1914年03月 3日 乗附練兵場に所沢より初飛来機
1932年    高崎商工会議所、「飛行場設置、定期航空路開設」の要望可決
1933年04月 「飛行場設置調査委員会」発会。軍に飛行機払下げ交渉、乗附練兵場を飛行場として借り受け
     11月 14日 立川飛行場から複葉機飛来。市上空に5万枚のビラを撒き、高崎飛行場に着陸
         18日 浜松飛行場からも1機飛来。
         27日 「第一高崎号」、「第二高崎号」命名式
1935年   大水害時、調査救難実施
1940年   「群馬縣立高崎中學校」が当飛行場を滑空場として使用していた
1945年   終戦。接収後農地に

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
上毛新聞2015年9月10日付「三山春秋」
新編高崎市史 通史編4 336p,年表
新編高崎市史 資料編10 337,338p 添付資料?1,2p
新編高崎市史 通史編4 120p


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コメント 28

鹿児島のこういち

恐るべし「群馬県人気質」!新しいものにすぐとりかかる、自分で創る。ある意味日本人に欠けてる部分だと自分は思うのですが。日本人は人が創ったものを更により良いものにするのは得意ですよね。
鹿児島県民の場合はどうだろ?何か大変なことが起こると県民一致団結して動くところでしょうか。少し傍観してるところがあると思いませんか?(´・ω・`)
by 鹿児島のこういち (2015-08-24 10:06) 

Takashi

草の生えていないサッカーコートが、滑走路跡に見えてきました。
(ちょっと疲れているのかも。。。)
by Takashi (2015-08-24 22:25) 

an-kazu

気質まで記事に盛り込むなんて・・・
運転スタイルにも反映されるようですね!
by an-kazu (2015-08-25 06:05) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
>新しいものにすぐとりかかる、自分で創る。
そうですね~。それはあると思います。オイラを筆頭に^^;
鹿児島県民気質、オイラは普段鹿児島の方と直に接する機会がないのですが、
やっぱり西郷どんのイメージが強いですね。
豪胆、情に厚い、曲がったことが大嫌い。こんなイメージです。
このところ騒がしいニュースの多い鹿児島ですが、
種子島から打ち上げられたこうのとりは無事成功して良かったですね^^

■Takashiさん
ホントだ!(@Д@)
夏の疲れですね。栄養剤出しときます~(o ̄∇ ̄o)
言われてみれば確かに滑走路に見えますね。
Takashiさんの787じゃないけど、もっと右に寄って撮ればヨカッタ
by とり (2015-08-25 06:08) 

とり

■an-kazuさん
確かに他県の気質みるのに一番手っ取り早いかもしれないですね>運転
藤岡、高崎はよく走るんですが、気性の荒い車は今のところ見たことないです^^
by とり (2015-08-25 07:25) 

me-co

え~気性の荒い両県に挟まれているせいか?
「明確な特徴がなく、性格がはっきりしない」
と捉えられております。否定はしません(--;)
それにしても、堤外地の広い河川敷ですねぇ・・・たまに来るゾ暴れるくんの証拠です。
コレだけ広いと、滑空場であれば倍は取れそうです。
by me-co (2015-08-25 18:41) 

とり

■me-coさん
>「明確な特徴がなく」
そうなんですか?
埼玉と似てますね!
堤外地が広いのは暴れるくんの証拠と…φ(..)メモメモ
確かに広々ですね。
平行滑走路が作れそうです^^
by とり (2015-08-26 05:54) 

U3

 こつこつと良くお調べになられましたね。
by U3 (2015-08-26 20:07) 

とり

■U3さん
モノズキなんですよ^^;
by とり (2015-08-26 20:21) 

旅する野良猫

2015.9.10(木)
上毛新聞 「三山春秋」
↑天声人語みたいなの

烏川を挟んで高崎市役所や国立病院高崎総合医療センターの対岸(同市片岡地区)にかつて飛行場があった▼「新編高崎市史」によると、飛行場の設置は1932年に高崎商工会議所関係者らが強く望んだことがきっかけ。航空時代到来をいち早く察知し、交通の要衝にある高崎を経済的にさらに発展させようとうう狙いがあったとみられる。▼33年には、高崎市長を代表とする高崎航空普及会が発足。軍から練兵場の一部を借り受けて飛行場を造成し、同年11月には専属パイロットらが操縦する飛行機2機が高崎上空を飛んでいる(以下略)

→終戦間際にグライダー訓練に参加させられた話と不戦の誓いについての話でまとめられています。


上毛新聞に「高崎飛行場」の記述があってびっくり!

by 旅する野良猫 (2015-09-10 21:47) 

とり

■旅する野良猫さん
思わぬところから情報が出てくるものですね~。
実は明日熊谷の県立図書館に調べものに行く予定だったのですが、
「新編高崎市史」も蔵書あるみたいなのでタイミング良かったです。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-09-11 19:03) 

旅する野良猫

「高崎航空普及会」でGoogle検索するといくつかヒットしますが、私が興味をもったのは「高崎航空普及会と書かれた格納庫と飛行機の写真」です。
尾島飛行場跡の格納庫の土台が現存しているので、高崎飛行場跡の格納庫の痕跡も現存するはず?
立地的に河原に滑走路(高崎ヘリポート辺りから南に)って感じなので、格納庫跡は東側の現在の住宅地辺りですかね。

by 旅する野良猫 (2015-09-12 11:11) 

旅する野良猫

高崎航空普及会の格納庫の写真をよく見たら、格納庫があるのは思いっきり河原ですね。

現在は和田橋が架かっていますが、この橋が開通したのは昭和41年(1966)。

高崎航空普及会は現在の八千代町にあったとの記述もあるので、高崎ヘリポートよりの河原に飛行場と格納庫があったのかな?

by 旅する野良猫 (2015-09-12 11:49) 

とり

■旅する野良猫さん
図書館行って参りました。
高崎市史に鳥瞰図がありました。
西が上になっている地図で、
高崎中心部が手前にあり、奥の方に烏川が流れ、
更にその奥にグリーンで横長に描かれた「練兵場」があり、
練兵場の敷地左側端に「飛行機格納庫」の絵と文字がありました。
「練兵場の一部を借り受けて飛行場にした」とのことですし、
位置情報が鳥瞰図ですので、
格納庫の位置について正確な事は不明ですが、
上の図でいけば、松岡病院の側にあったのではないかと思います。
いろいろ資料をコピーしてきましたので、当記事に追記させて頂きます。
情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-09-12 18:51) 

旅する野良猫

格納庫はそっちですか!
「八千代町」とか「高崎ヘリポート近く」とかの情報があったので、てっきり現在の和田橋の北側部分かと思ってました。
すぐ近くに県立高崎高校があるので、そっち関係の資料からさらに探れるかもしれませんね。

※上毛新聞のあのコラムを書いた人はとりさんのこのブログを見て書いたのかと思いましたが偶然の一致ですかね?
上毛新聞の方にも話をしてみるとさらに探れるかも
→新聞記者は基本的に歴史探究が好き
by 旅する野良猫 (2015-09-12 22:06) 

とり

■旅する野良猫さん
以前某所で学芸員さんに「鳥瞰図はあまりアテにしない方が」と言われたことがありますので、
そんな話もあるのか。程度に受け止めておいた方が良いのではないかと思いますが、
当記事にリンクを貼ってある国土地理院 1947年10月当時の写真(USA R256-No1 29)
で見ると、練兵場だったあたりの土地が周辺とは色が変わっていて、
丁度鳥瞰図で「格納庫」の描かれていた場所に、ポツンと大きな四角い建造物が見えます。
もしかして、これが格納庫かもしれません。
これが格納庫とすると、現在は丁度土手の辺りで、住宅地か、サッカー場?ではないかと思います。
サッカー場、土手に変わっていたら絶望的ですが、
もしも住宅地内に、当時の格納庫の土台が残っていたりしたら凄いことですね!
>県立高崎高校
ちょっとメールしてみます。
コラムの件は、なにぶん弱小ブログですから無いと思いますが、
丁度県立図書館に行くタイミングでこの情報頂いたのは本当に有り難かったですm(_ _)m
by とり (2015-09-13 07:37) 

旅する野良猫

サッカー場の隣に関東自動車学校という教習所のコースが昨年までありました。
高崎航空普及会の格納庫の写真をよく見ると、河原の奥に土手と階段が見えます。
この土手が現在のものと同一かは不明ですが、現在と同様に土手の西側に樹木が連なっているので同一かもしれません。
→ここら辺は河川国道事務所とかの管轄
個人的にはあの土手は現在の土手と一緒だと思うので、格納庫は住宅地や土手ではなく現在のサッカー場と教習所跡(→芝生化が進行中)の境界辺りではと睨んでいます。

>県立高崎高校の百年史とかにグライダーの記述がありそうですが、上毛新聞のあのコラムに登場した方に聞けば一発で分かりますね。
→「上毛新聞の記事を見て感動しました!偶然私も調べているんです。ぜひ、あの方に会いたいです(上毛新聞さん、良かったら県内の飛行場跡の資料の提供をしますよ~)」みたいな感じで
by 旅する野良猫 (2015-09-13 08:25) 

とり

■旅する野良猫さん
まず初めにお詫びなのですが。
「リンク先の航空写真に格納庫らしきものが!」
と書きましたが、これは全くの見当違い、誤りでした。
画面上で見比べただけで、おおよその見当をつけて書いてしまいました。
申し訳ありませんm(_ _)m

土手のことなのですが、昭和6年の地図(飛行場開設2年前)では、
現在の場所に土手を示す表示はなく、広大な草地の表示になっております。
仮に土手の位置が当時からまったく変わっていないとすると、
細長い練兵場敷地が更に細長く分断されることになります。
練兵場としてはアリなのかもしれませんが、飛行場としては使い勝手が悪いかと。
定規と電卓で注意深く計算してみたのですが、
練兵場敷地の南端の境界線の真ん中の位置(鳥瞰図で格納庫のあった場所)は、
松岡病院と村田小児科の間の道を土手に向かい、土手にぶつかったら、
右折して土手道を少し歩いた辺りになります(丁度目の前に野球場が見える辺り)。
by とり (2015-09-13 10:24) 

旅する野良猫

高崎河川国道事務所でGoogle検索したら

あらまし
高崎河川国道事務所の前身は昭和8年に群馬県多野郡新町に設置された、烏川・神流川改修事務所が最初であり、この年に烏川・神流川の改修工事に着手しました。その後、名称を変えながら昭和23年に、建設省関東地方建設局高崎工事事務所となりました。

↑昭和8年から烏川・神流川の改修工事に着手ってありました。
高崎航空普及会の格納庫の写真の「土手と樹木」は現在の土手と樹木と感じが酷似してます(→階段ってのは見間違い)。

練兵場ってのがどのようなもので、どう運用されていたのかも調べる必要がありますね。
→練兵場内に堤防を建設し、練兵場用地の一部を借り上げたというのなら、すでに「練兵場用地」的な土地だった可能性も出てきますが。

何となく、練兵場予定地的な感じで、堤防の整備や飛行場の設置など、本来の練兵場の役目は果たしていないような気もします。
→別の場所に移転整備された話と関連して

by 旅する野良猫 (2015-09-13 11:02) 

旅する野良猫

昭和10年の大洪水で高崎市は甚大な被害を受けましたが、そのときは乗附練兵場の北側の堤防が決壊したみたいですね。

明治時代には練兵場内で競馬が開催され、昭和8年には高崎飛行場が開場、昭和9年の陸軍大演習では天皇が行幸し、昭和10年には大洪水と乗附練兵場ってすごい歴史が詰め込まれていてびっくり!
→しかも、まだまともに研究されていない

※Googleで「乗附練兵場」を検索したら「駅から遠足 観音山(10):隠居の思ひつ記」ってサイトに興味深い史料がありました。
陸軍大演習のラストは高崎市の山名ってのは知ってましたが、最後の観兵式が乗附練兵場だったとは。
by 旅する野良猫 (2015-09-13 11:33) 

とり

■旅する野良猫さん
ん~。
いろいろ出てきますね~。
非常に興味深いお話をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-09-13 11:50) 

旅する野良猫

そういえば日本で最初に飛行機が飛んだのは「代々木練兵場」。
だだっ広くて平らな原っぱと言えば、当時は河原か練兵場かだったのかもしれませんね。
→飛行場というより、飛行機が離着陸できる平らなところ

by 旅する野良猫 (2015-09-13 12:04) 

とり

■旅する野良猫さん
日本の航空黎明期、全国で飛行場が整備される前の頃は、
アート・スミス等外国から曲芸飛行で日本全国を回った時の記録、
最初期の飛行家達による郷土訪問飛行の際の手記等見ると、
練兵場、河原の他、海岸、畑等、様々な場所が臨時飛行場として使用された
記録が残ってます。

代々木練兵場での初飛行は、単なるフライトというだけでなく、
陸海軍の将校、理学博士を集めた内閣直属の「臨時軍用気球研究会」
により実施された、最新兵器の実験という性格のものでした。
臨時軍用気球研究会の会議は東京の陸軍省会議室で頻繁に行われ、
製図、工作は中野で。と、研究会の活動拠点は東京にありました。
国内初飛行が東京の陸軍施設内で実施されたのは必然といえるかもしれません。
by とり (2015-09-13 20:33) 

旅する野良猫

とりさんの乗附練兵場の地図ですが、実際はもう少しエリアが広いようです。
・高崎市立片岡中学校は練兵場跡地に開校

迷道院高崎さんの「隠居の思ひつき」というブログに「観音道路」という道や前述の乗附練兵場での陸軍大演習の特集があり、そこらへんからも乗附練兵場の位置が正確に特定できそうです。

ちなみに、迷道院高崎さんにメールで高崎航空普及会の格納庫の写真に写り込んでいる土手についてお伺いしたところ、「乗附の田んぼを守る土手では」とのことでした。
高崎の大水害は乗附練兵場の北側の土手が決壊したという記述と烏川・神流川の当時の河川整備の進捗状況から迫れるかもしれません。
by 旅する野良猫 (2015-09-19 19:31) 

とり

■旅する野良猫さん
>・高崎市立片岡中学校は練兵場跡地に開校
片岡中学校のサイトでも、元「陸軍省所轄地」(石原町174番地の1)に新築移転
と記されているのを確認致しました。  
ただ、昭和6年作成の地図では、片岡中学校のある場所は田んぼの記号になっています。
そして「練兵場」の文字は川に沿うように(片岡中学校の東側に)に記されています。
これをどう解釈したらよいのか悩みます。

乗附練兵場の拡張の様子を時系列で並べると、こうなります。
1908年 市からの土地が新たに加わる
1910年 農民から買収した12haが更に加わる
1916年 危ないので城山付近に射爆場建設
1931年 地図作成
1933年 飛行場開設

一つ考えられる可能性として、射爆場、練兵場等の用地として、
他のもっと適切な場所の確保も同時進行で進んでおり、
農地を練兵場用地に取得したものの、造成は進まなかったのかもしれません。
(1910年には矢原に20haの練兵場が建設され、15連隊の分営地になっている)
by とり (2015-09-19 21:34) 

旅する野良猫

昭和9年(1934)
→陸軍大演習

昭和10年(1935)9月24日
・25日夜、君ケ代橋近くの烏川左岸の堤防が決壊し始める。
・濁流が歌川町から赤坂町、常盤町へと流れ、十五連隊を囲んでいた土塁にまで達した。
・消防組の半鐘が乱打され、地域住民は豪雨の中を避難、十五連隊では営門を開いて避難してくる人々を収容した。
・26日、碓氷川が乗附練兵場北側の堤防を破り、練兵場から雁行川の合流点に至るまでの広範囲にわたって、家屋・田畑・道路に浸水した。

↑この水害の被害状況を調べると昭和10年時点の乗附練兵場の範囲がわかりますね。
田んぼは水害による濁流と土砂流入で壊滅してしまったと思うので、練兵場の敷地として買い上げて拡張されたのかもしれません(→片岡中学校は戦後に開校されたので、水害の後に練兵場の敷地になった?)

陸軍大演習や水害、清水寺への観音道路の建設、烏川・神流川河川整備などの歴史と高崎飛行場の歴史のそれぞれがばらばらになっているのでまとめてみると歴史が見えてくるかもしれませんね。

by 旅する野良猫 (2015-09-20 06:19) 

旅する野良猫

1933年(昭和8年)
→高崎飛行場開場

1934年(昭和9年)
→陸軍大演習

1935年(昭和10年)
→高崎水害
農地買い上げ(練兵場拡張)


陸軍大演習時点での乗附練兵場の敷地内に高崎飛行場はあったので、とりさん作成の地図(昭和6年の地図ベース)で飛行場開設時の地図としては間違いないと思います。
→その後の拡張部分を斜線かなんかで表記すれば完璧
by 旅する野良猫 (2015-09-20 06:31) 

とり

■旅する野良猫さん
どうもありがとうございます。
実は現在、未だまとめていない資料が溜まりまくっているのと、
出発前の下調べが控えていて超忙しいです^^;
高崎飛行場については、時間ができたら改めてじっくり調べてみようと思います。
by とり (2015-09-20 07:17) 

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