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倉吉(高城)秘匿飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月訪問 2021/7更新 ー

無題v.png
撮影年月日1948/04/12(昭23)(USA M909 57) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

鳥取県‎倉吉市を走る県道34号線。

下福田~横田にかけて約1,800mの直線なのですが、

戦時中ここが「倉吉(高城)秘匿飛行場跡地」として使用されていました。

当飛行場はネット上に、当時を良く知る地元の方々の手記、聞き取り資料が非常に充実しています(下記リンク参照)。

上に貼った1948年の航空写真で見ると、滑走路だった部分は既に細い道路にしか見えません。

実は昭和21年2月22日付の日本海新聞には、

「このほど連合軍の接収も終ったので再び地許民の手に譲渡されることになり食糧増産に再起することになり」

とあります。

終戦から半年で、飛行場跡地が食糧増産に用いられるという方向性が示されたのですね。

更に昭和22年9月5日には、「標記飛行場は本月五日付を以て鳥取軍政隊長から正式返還せられたから御通知する」

という記録もあります。

ということで、滑走路は多大の苦労の末と想像されますが、畑に戻され、直線道路が名残となったのでした。

滑走路の長さについては、地元で製作された資料から、「1,800m」、「1,000数百m」という話があり、

面積については、 「田地二十町歩の整地」、「飛行場用地凡そ二〇ヘクタール」とありました。

後述しますが、米軍が作成した資料では、滑走路の長さについて、「4,500x400ft(1,371x121.9m)」とあります。

リンク先の1945年8月7日米軍撮影の航空写真を見ると、

滑走路の幅はかなりのものに見え、長さは1,300m級というより、1,800mあるように見えます(個人の感想です)。

当飛行場は、滑走路だけでなく、誘導路、駐機場等の付帯施設も建設されており、

地元資料に出てくる 「田地二十町歩の整地」、「飛行場用地凡そ二〇ヘクタール」というのが、

滑走路のみの面積なのか、付帯施設部分も込みなのか不明です。

先頭のグーグルマップの滑走路は、1,880mx105mなんですが、これでピッタリ二十町歩です。

仮に付帯施設も全て含めて二十町歩だとしたら、実際の滑走路はもっと短かったり狭かったりするのだと思います。

そんな訳で、先頭のグーグルマップに引いてある滑走路はおおよそのものですので、ご了承くださいませ。

それからグーグルマップ青マーカー位置の久米中、当時はこの辺りが駐機場だったのだそうです。

2014/3/8追記:毎日新聞2013年08月07日地方版にて当飛行場の記事が載りました。

当時をよく知る地元の方のインタビューを交えて伝えています。以下記事から要約。

 役場に数人の軍人が訪れ飛行場建設について一方的に通告。約15軒あった予定地の住民には退去命令が出され、僅か3日後には引っ越しが始まった。高射砲の薬きょう作りに従事していて、久しぶりに下宿先から帰ると家が無くなっていて驚いたという方も。
 建設場所は▽長い直線道路がある▽近くに民家が少ない▽周りが山に囲まれている−などの理由で決まった。地元住民はもちろん、西は米子市淀江町、東は鳥取市気高町浜村などからも作業員が汽車に乗って通ったという。約500人が雨の日も休まず、軍の監視下で毎日、突貫工事に従事した。作業は全て人力。近くの河原から掘り出した石や、丘を削った土をリヤカーなどで運んだ。8月10日、延べ約12万人を動員し飛行場は完成。コンクリートは使われず、土を盛っただけの簡素な飛行場だった。
 飛来第一陣は九州の飛行場から、米子市の飛行場などを経由して降りた中間練習機、通称「赤とんぼ」。18〜19歳の少年が操縦し、四国沖に襲来が予想される敵艦隊に特攻攻撃を仕掛ける想定だった。「(練習機の)赤とんぼで戦闘するなんて、おしまいだ。最後のあがきだと思った。」
 終戦後、飛行場の土地は元の住民に返されが、戦後の混乱で飛行場のまま返され、住民は自力で元の状態に戻したという。滑走路の盛り土を中央部分に集めたため、現在の県道は周辺より盛り上がっている。

 

朝日新聞デジタル版2019年8月15日付(下記リンク参照)に、米軍撮影の当飛行場の航空写真と、

調査報告資料がありました。

KURAYOSHI AIRFIELD
4,500x400 WNW/ESE
all weather surface
Facilities on N side
90.26-2631
SURVEY NO.248
C.I.U-20 AIR FORCE

D20_0119.jpg

赤マーカー地点。

真っ直ぐです。

建設は本格化した段階で「ち号演習」から「り号演習」に切り替えられ、

1日500人、延べ12万人を動員して行われました。

内容は、国府河原の石を掘り出し、モッコで運び、地面を固める。久米が原台地の赤土の運搬。というものでした。

 


      鳥取県・倉吉(高城)秘匿飛行場跡地     
終戦間近の完成だったためか、赤トンボが10機着陸したのみだったのだそうです。

倉吉(高城)秘匿飛行場 データ
種 別:秘匿飛行場
所在地:鳥取県‎倉吉市‎下米積‎
座 標:N35°25′23″E133°45′55″
標 高: 40m
滑走路:1,800m?
方 位:11/29
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年05月 6日 高城村役場に数人の軍人が訪れ「横田から下福田を滑走路とする飛行場を作る」と通告
       09日 飛行場予定地住民の引っ越しが始まる。高城小学校生徒を動員した麦刈りの開始
    06月 11日 着工
    08月 10日  ほぼ完成。空542部隊中等練習機到着
           15日  終戦。飛行場のまま住民に返還される 

関連サイト:
資料チ号演習と高城飛行場 
米軍に丸見えだった「秘匿飛行場」 
昭和20年の総動員ち号演習と高城飛行場 
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