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玉井飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年1月訪問 2021/12更新  

無題3.png
旧1万地形図 リスト番号o453 図名 生麥 測量年 1922(大11)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事:「神奈川県・三本葭飛行場」では、兄の遺志を継いで羽田に飛行学校を設立した玉井氏が、

後に神奈川県生麦に飛行場を移転したと書きました。

玉井氏が生麦の地に開設したのが「玉井飛行場」で、現在のキリンビール横浜工場のところにありました。

玉井飛行場があったのは1921年12月~1923年9月までで、

先頭の地図は1922年測量のものなので、実際に飛行場が運用されていた当時のものです。

当飛行場の位置については、「現在のキリンビール横浜工場のところ」という説明以外見当たらないのですが、

赤の矢印の辺りが非常に怪しい地割になっています。

それで恐らくこれが飛行場だったのではないかと。

ピッタリビール工場敷地だし。

後述しますが、資料によれば玉井飛行場の面積は32,000坪(≒11.0ha)とあり、

地図の通りにグーグルマップで作図したところ、面積はピッタリ11.0haでした(ちょっと微調整したけど)。

「飛行場」の表記がないのは、もしかしたら最初から「埋立から地盤が締まる3年間限定で飛行場とする」

という条件付きの仮飛行場だったからかもしれません。

鶴見区の埋立地には当飛行場に続き、更にあと2つの飛行場が建設されるのですが、

いずれも資料に乏しくて困り果てていたところ、鶴見区役所鶴見区地域振興課様から「鶴見歴史の会」様をご紹介頂き、

「鶴見歴史の会」の機関誌「郷土つるみ」第58号の該当部分をご提供頂きました。

「郷土つるみ」第58号(2003年10月15日)の中に、「鶴見の民間飛行場」という記事があり、

鶴見の三飛行場について特に詳しく取り上げられていました。

玉井飛行場についてはネットで得られる情報が非常に限られているため、頂いた資料は大変貴重なものです。

この記事では玉井飛行場関連の部分を引用させて頂きました(「鶴見歴史の会」様よりブログ掲載の許可を頂いております)。

鶴見区役所鶴見区地域振興課様、「鶴見歴史の会」様、どうもありがとうございましたm(_ _)m 

 

①玉井飛行場(玉井照高)

 横浜市鶴見区内で、大正末に民間飛行場が三カ所建設された。その最初が、生麦事件で有名になった生麦の玉井飛行場である。これはその後に出来た潮田の飛行場にくらべ、経営者が地味すぎる性格だったことも、なんとなく無視された一因といえるだろう。玉井藤一郎の手書きの履歴書がある。生前の藤一郎から直接寄贈されたものである。

大正九年十二月五日 玉井式二四型ローン一二〇馬力飛行機完成ス。当時制作延引ノ為、競技参加間ニ合ズ、以来練習ス。
大正十年 六月二日 帝国飛行協会ノ第二回懸賞飛行大会二参加、速度飛行第四等賞ヲ受ク。
大正十年 八月四日 三等飛行機操縦士ノ免許ヲ受ク。以来、操縦士養成二従事。
大正十年十二月 飛行場ガ毎年ノ暴風ニテ破壊サルル為、神奈川県鶴見町生麦ノ三万二千坪ノ埋立地ニ移転。以来飛行士養成及宣伝飛行ヲス。

(中略)操縦は好きだが、それよりも制作のほうがもっと好きで、操縦士免許は自分で必要なだけもっていればよかったんです。と生前の藤一郎は私にいったことがある。

玉井藤一郎が、大正十年五月二十五日に神奈川県知事から埋立許可を得た生麦浦に、紹介する人があって羽田から移動し、玉井飛行場とし格納庫を建てたのは、その年の十二月であった。無償で借りられるというのは、収入の少ない飛行家にとってはありがたいことであった。ただし三年間だけという条件である。

「三年間だけでも助かるよ。それにしても、なぜ三年間なんだろうね」とたずねると、

「埋め立てて最低三年間は放置しないと、役にたたないそうですよ」

「すると、こどもの運動場みたいに、踏み荒らしたほうがいいというわけだね」

「そうだ。踏みしめる役をしてもらうということだ」

「それなら、あまり恩にきなくてもいいわけだね」

 格納庫には、羽田飛行機研究所長の一年前に完成した玉井式二四型複葉機を格納し、飛行士養成と宣伝飛行を開始した。同機は、全幅九.五〇メートル、全長七.五二メートル、上下翼が0.六メートル食い違い翼になっており、全備重量八五〇キロで、ル・ローン一二〇馬力発動機を搭載した軽快な複葉機であった。二十六歳の藤一郎が独力で設計製作した飛行機であった。

 前後するけれど、藤一郎が生麦に現れたときは、玉井照高と改名していた。理由が面白い。かれが大正七年(一九一八)二月一日、アメリカ帰りの飛行家・野島銀蔵から、飛行家として認定されたのを機に、改名したのは、「藤」だと上から垂れ下がっているのに、照高だと高空から下界を照らす、という野島の友人の姓名判断を、自分でもたしかに飛行家にふさわしいと思ったので、改名に踏み切ったと私に語った。

 生麦に移転する三か月前の九月十二日(一九二一)、妻ツネとの間に長男・照広が生まれた。素直な少年に成長した。坊やは大きくなったら何になりたい、と訊ねると、「ヒコーカ」ときっぱりと応えるのが常であった。母ツネは、義兄清太郎が羽田で墜落惨死しただけに、二の舞を演じさせたくなかったのと、飛行家の妻という不安な立場から、しきりに志をひるがえさせようとした。すると照広は、ふっと物悲しい目つきをした。しかし反抗的態度を示す事など一度もなく、母の心を受け入れて飛行家への道を避けて通った。

 しかし日中戦争が大東亜戦争(太平洋戦争)へと発展し、照広は陸軍歩兵としてインパール参戦に従軍し、戦死した。それくらいなら、照広のひそかな望み通り飛行家にしてやればよかった、と悔やんだ。

 ともあれ照高は玉井式二四型複葉機で鶴見上空を飛び回るだけでなく、快速艇を制作して海上を走り回り、漁業者の手助けをした。

 大正十二年九月一日の関東大震災後、約束より一年早いけれど立ち退きを迫られたのを機に、航空会から引退した。跡地には、キリンビール生麦工場が建設された。

 玉井藤一郎改め照高は、昭和五十三年(一九七八)二月十一日、東京国際空港にほど近い簡素なアパートで八十三年の生涯を閉じた。ちなみに照高こと藤一郎は、明治二十七年(一八九四)九月六日、三重県四日市市で誕生した。


国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正14年」に、

「民間飛行機操縦術練習所」のページがあります(下記リンク参照)。

名称 玉井飛行場
所在地 神奈川縣生麦
代表者 玉井藤一郎


とありました。

DSC_0009.jpg

現在はキリンビール横浜工場になった玉井飛行場跡地。

「日本民間航空史話」の中に、玉井氏ご本人による4Pに亘る回想録があり、その最後に少しだけ当飛行場について触れています。

「昭和十一年三月、横浜市鶴見区生麦町に一万二千坪の埋立地を借り受け、玉井飛行場を設立して飛行士の養成ならびに宣伝ビラまき飛行をしていた。その使用飛行機は陸軍から払い下げのニューポール甲式二型二人乗り練習機であった。おもしろい話しだが、今まで乗った飛行機は、ほとんど自製の飛行機ばかりであったのに、初めて正規の飛行機、つまり本当の飛行機に乗ったら、ほとんど手ばなしでも飛行ができて、飛行機操縦もこんなに楽なものかと思った。これから考えると、それまではまるで荒馬に乗っていたようなものであった。毎日飛行を続けたが、大正十二年の大震災で飛行場も亀裂が出来たたため、使用できなくなり、残念ながら操縦桿持つ手を離したしだいである。」

実は前述の「郷土つるみ」第58号とこの「日本民間航空史話」の回想録とでは、食い違っている部分があります。

「郷土つるみ」第58号→飛行場の開設日:大正十年十二月  飛行場の面積:三万二千坪
「日本民間航空史話」→飛行場の開設日:昭和十一年三月  飛行場の面積:一万二千坪

「郷土つるみ」第58号の該当部分の筆者は平木國夫氏なのですが、

「玉井藤一郎の手書きの履歴書がある。生前の藤一郎から直接寄贈されたものである。」

とあり、その箇所に開設日と面積が出てきます。

つまり、一方は平木氏を介しているものの、「郷土つるみ」第58号と「日本民間航空史話」、

そのどちらも玉井氏ご本人の記したものということになります。ややこしいですけど。

飛行場の開設時期と面積があまりにも異なっているため、

大正時代に一旦閉鎖したものが、昭和に入り再び復活したのだろうか。

なんてことも思ったのですが、飛行場閉鎖から3年後には生麦工場が操業していますし、

開設期を昭和としている「日本民間航空史話」の同じ記事の中で、

「大正十二年の大震災で飛行場も亀裂が~」とも記してあります。

これでは辻褄が合いません。

当飛行場は、羽田から引っ越した玉井氏がほんの2年弱開設したものであり、

「郷土つるみ」第58号にある通り、「飛行場の開設日:大正十年十二月」だと流れが自然になります。

また前述の点ですが面積についても、「郷土つるみ」第58号にある通り、三万二千坪だとピッタリの地割になるのですが、

「日本民間航空史話」にある通り一万二千坪だとすると、ほとんど1/3ということになり、

かなり狭くなるのと、当時の地図でビール工場内にそういう地割が見当たらないことから、

これも「郷土つるみ」第58号にある三万二千坪が正しいのではないかと思います。

「日本民間航空史話」は昭和41年発行ですから、40年以上前の出来事を記している訳で、

ご自分の事とはいえ、記憶に頼るとどうしてもこうなっちゃうのではないかと。

「日本民間航空史話」は、明治の頃より活躍された日本航空会のパイオニア総出演で、

多くの場合ご本人自ら回想文を記しているため、日本の航空黎明期の様子を知る上で大変貴重な第一級資料なのですが、

この一件から、例えご本人の記述により編纂された書籍とはいえ、決して盲信はできないのだと思わされたのでした。

 

ところで話は羽田の飛行場当時に戻りますが、前記事の通り玉井氏は羽田に居た時、相羽氏と手を切って、

片岡氏らと共に新たな飛行学校を立ち上げた訳ですが、

羽田は毎年毎年飛行場が破壊されるため、土地が無償提供される生麦に移転したのでした。

回想録にある通り、玉井氏は当飛行場閉鎖と共に飛行家を止めてしまうのですが、

玉井飛行場に続けて鶴見にはあと二つの飛行場が開設しており、

その一つが片岡氏の「片岡飛行場」です。

続く三つの記事では、この二つの飛行場について(長々と)取り上げます。


      神奈川県・玉井飛行場跡地     

玉井飛行場 データ

設置管理者:玉井照高
種 別:陸上飛行場
所在地:神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目
座 標:N35°29′27″E139°40′03″
標 高:7m
面 積:11.0ha
着陸帯:580m×145m
方 位:06/24
(座標、標高、面積、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1921年12月 羽田より移転。格納庫設置。玉井飛行場とする
1923年04月 潮田町誕生に際し、「祝町制施行」のビラをまく
     09月 1日、 関東大震災発生。その後立ち退きを迫られたため飛行場閉鎖
1926年    生麦工場操業(アギラさんより)

関連サイト:
横浜市鶴見区/鶴見にあった飛行場    
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「鶴見歴史の会・郷土つるみ」第58号
「日本民間航空史話」


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