台湾・淡水飛行場(水上機)跡地 [├国内の空港、飛行場]
(未訪問)
台湾新北市淡水(たんすい)区にあった「淡水飛行場(水上機)」。
史跡に指定されており、スリップが現存する他、当時の地割がかなり残っています。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
当飛行場は連合軍によりSS(Seaplane Station:水上機基地)に分類されていました。
■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
の中に1/20,000の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
要図には、恒風:北西 と書かれていました。
同資料内の情報を以下引用させて頂きます
台湾・淡水飛行場(水上機)
位置
台北州淡水郡淡水街竿蓁林字庄子内
滑走地域
滑走区域は関渡合流點より下流の淡水
河水面及淡水灯台を中心とし、半径五千メー
トル以内の海面一帯とす
照明設備
信号柱 繋留浮標
■中国語版Wiki/淡水水上機場(下記リンク参照)によりますと、
1941年に台湾唯一の民間水上機基地として完成し、
主に横浜~バンコク間の給油、積み替えの経由地として使用されました。
離着水の際、巡視船が周辺の船舶にスピーカーを使って安全を確保したのだそうです。
しかし、同年12月の太平洋戦争突入と共に定期航路は廃止となりました。
その後淡水飛行場は日本海軍が駐屯しました。
■アジア経済ニュース2016/05/02(月)テイクオフ:「淡水発着の国際航空便…(下記リンク参照)
によりますと、飛行場跡は現在海軍と中央気象局の管轄で非公開となっており、
戦前ここに国際便が飛来していたことを知る人は少ないのだそうです。
機材は日本海軍の九七式飛行艇(乗客20人)で、横浜~バンコク間10時間。
神戸~基隆の船便が所要3日だった当時、横浜~淡水を5時間弱で結びました。
「片道運賃は大卒初任給の5倍だが、開設当初から満席続きだった」のだそうです。
更に終戦直後の昭和20年9月、敗戦で混乱に陥った台湾を救うため、
現ナマを満載した飛行艇がGHQの許可を受け、
緑十字機(終戦処理専用機)として横浜~淡水間を往復するという一幕もあったそうです。
台湾・淡水飛行場(水上機)跡地
淡水飛行場(水上機) データ
設置管理者:台湾総督府(後に日本海軍?)
種 別:水上機基地
所在地:台湾台北州淡水郡淡水街竿蓁林字庄子内(現:新北市淡水区)
座 標:25°09'52.1"N 121°26'47.2"E
スリップ:65mx40m?
(座標、スリップ長さはグーグルアースから、他は防衛研究所資料から)
沿革
1930年 イタリア人パイロットが水上機で淡水に着水
1937年 飛行場建設計画
1941年 完成。横浜~バンコク便(月2回)の経由地となる
12月 12日 バンコク便運航停止。その後海軍が駐屯
1944年10月 12日 米軍による爆撃
1945年08月 終戦
09月 緑十字機飛来
2000年 台北県政府により郡史跡に指定
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
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