館林飛行場と大西飛行場の更にその後 [├国内の空港、飛行場]
2016年4月、2022年5月訪問 2022/5更新
撮影年月日 1947/11/03(昭22)(USA R465-No1 178)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1/50000「深谷」昭和52年修正「今昔マップ on the web」より作成
(大西飛行場運用時の記事はコチラ■)
群馬県館林市と邑楽町にまたがる「陸軍館林飛行場」跡地。
戦後進駐があり、館林飛行場は短い期間ではありますが「小蓋基地」になります。
1946年9月にはその基地も閉鎖され、引揚者の入植地として開放されました。
上の写真は1947年のもので、いかにも陸軍らしい方形の飛行場敷地内で既に入植が進んでいる様子が見てとれます。
■「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 」の中に詳しい地図があり、
先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。
実は飛行場の敷地境界線が現在もハッキリと残っており、
資料や航空写真なんか見なくても、(多分こんなだろう)という感じでササッと線が引けてしまい、
作図としては超簡単な部類に入るのですが、
資料、写真と比較しつつ実際に地図上に線を引いていくと、なんだか辻褄が合いません。
確認してみると、水路部の地図と航空写真とでは、線路に対する敷地の角度が時計回りに7.4°もズレています。
水路部は旧日本海軍内部で図誌を扱っていた部署なので、オイラにとっては、「海軍版・国土地理院」のようなもの。
"海軍版"て、字面だとなんだかとっても胡散臭くて信用ならない感じに見えてしまいますが、
とにかくそれまでのオイラにとって水路部の地図とは、信用度MAXの絶対的なものだったのでした。
ですからこの時も、水路部様発行の御地図は絶対的に正しいのだと信じて疑いませんでした。
(おかしいのはむしろ線路の方! 現在の地割の方!)
そう考えました。
軍用飛行場建設のために線路を移設した例としては、埼玉県の松山飛行場があり、
群馬県内でも、こちらの例は工場ですが、館林飛行場のすぐ近くに中島飛行機の工場建設のため、
完成からまだ1年しか経っていない線路を移設させたという例があります。
…って、コレ、館林飛行場の線路も含めてすべて東武鉄道絡みなんですよ。(東武…^^;)
しかし、じっくり時間をかけて戦中~戦後の航空写真を何枚見比べても、
水路部の地図がおかしいか、もしくは線路を移設したり、飛行場境界線の道路を全体的に動かしたか、
そのどちらかでなければどうしても説明がつきません。
わざわざ線路を移設させた先の二例は、線路の一部が飛行場/工場にかかってしまうため、
その部分を移設して飛行場/工場を建設しました。
ところがここ館林に関しては、線路と飛行場敷地はまったくかかっておらず、
航空写真を何枚見ても線路を移設した形跡はなく、そうする必然性があったとも思えません。
更に、実際の地割がおかしいとするなら、先ず1,400mx1,400mの飛行場の地割を消し、
次いで微妙に角度を変えた1,400mx1,400m地割を新たに付け直さねばなりません。
あまりに非効率で、戦後にわざわざそんなことをする意味が分かりません。
そしてこの資料に描かれている基地をバイパスするために付けられたと見られる敷地北側の主要道の形が、
航空写真と比較してあからさまにヘンであることに気が付くに至り、
ようやく(水路部の地図がおかしい)と思い至ったのでした。
どうしてこんなことするのかしらん。
戦時改描?? 海軍が陸軍の基地を作図したから??
水路部作成の地図は身内のための資料となるはずで、どうしてこんなことをするのか。。。
理由は不明ですがこの時が、水路部の地図は決して完全無欠などではなく、
「実はちょいちょい実際と違うことがある」と気付いた瞬間だったのでした。
長々となってしまいましたが、同資料の情報を以下引用させて頂きます。
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「館林陸軍飛行場 群馬県邑楽郡多々良村 36°14′0N 139°30′0E」 として、以下全く同じ記載がありました。
面積 東西1,300米 南北1,300米
張芝地区ハ東西950米 南北800米
地面ノ状況
硬度ハ普通ナルモ降雨後ノ排水不良ニシテ特ニ南西隅ノ一部ハ地盤軟弱ト爲ル
格納設備
格納庫 鐵造(80x50米)1棟、(40x50米)1棟
木造(40x30米)3棟
通信設備
館林郵便局(電信及電話取扱)東方約3粁
観測設備 陸軍象観測所(原文ママ)アリ、航空気象ヲ観測ス
給油設備 アリ
修理設備 アリ
宿泊設備 兵舎アリ、館林町ニ旅館アリ
地方風 全年ヲ通ジテハ北北西風多シ
地方特殊ノ気象 夏季雷雨多シ
交通関係 館林駅(東武鉄道)東方約3粁
(昭和18年4月調)
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 館林
位 置 群馬県邑楽郡多々良村
規 模 要図(東西1400 南北1400)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 八五〇名分
格納施設 掩体 三ヶ所
摘 要 施設軍有
撮影年月日1964/05/08(昭39)(MKT649X C2 12)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
終戦から17年後の1962年、館林飛行場跡地の一部を大西氏が買い取り、「大西飛行場」を建設します。
上の写真は「大西飛行場」建設から2年後の写真。
大西飛行場の滑走路は館林飛行場敷地に沿うように、跡地の内にあります(赤矢印部分)。
撮影年月日1973/05/12(昭48)(MKT731X C11 15)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1969年の写真まで滑走路はずっと1本なのですが、次に閲覧可能な1973年の写真では、
滑走路すぐ北側に新たな平行滑走路ができています(赤矢印部分)。
大西飛行場名物のあの「滑走路を横断する道路」も斜めに白く写ってますね。
撮影年月日1975/01/29(昭50)(CKT7418 C62 18)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
在りし日の大西飛行場 R/W26エンド拡大。
旧滑走路にXのペイントが。
その後大西飛行場は、2003年12月に閉鎖してしまうのですが、滑走路は閉鎖後もしばらく残ります。
撮影年月日2009/04/27(平21)(CKT20091 C2 33)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
これが2016年現在閲覧可能な最新の写真です。
滑走路西側部分は巨大な倉庫が建設されましたが、滑走路東側がまだ残ってますね(赤矢印)。
旧滑走路もかろうじて残っているような。。。
で、ここまでの流れを踏まえた上で、2016年現地にお邪魔してきました。
(陸軍時代の敷地を意識して写真撮ってないから撮っとこう。それから大西飛行場時代の滑走路を今のうちに撮っておこう。)
そう思っていました。
以下実際にお邪魔した際の写真を並べてみます。
紫マーカー地点。
飛行場北東の角部分。館林飛行場があった当時はここが飛び出した形になっており、格納庫等施設がかたまっていました。
現在この周辺は、関東短期大学、関東学園大学付属高等学校になっています。
赤マーカー地点。
飛行場北西の角部分。
現在でもしっかりと地割が残っています。
陸軍の境界杭が残ってないかしらん。とウロウロしたのですが、犬に吠えられるのみで何も見つけられませんでした。
撮影年月日1980/10/02(昭55)(CKT802 C12 10)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
大西飛行場当時名物だった、「滑走路を横断する踏切」。
ここに行ってみることに。
A地点(黒マーカー)。
ここは滑走路南側で、この道を真っ直ぐ前に進むと、その先に滑走路を横断する踏切があったはずなのですが、
なんと飛行場敷地に沿って運送会社のフェンスが張られ、滑走路上には既に倉庫が建設されていました。
滑走路を横断どころか、その道が完全に倉庫で分断されてしまいました。
こちら側に旧滑走路、そしてその奥に新滑走路があったはずなのですが、もう跡形もありません。
フェンスにぶつかったところで(本当はぶつかってないけど)右折し、格納庫があった場所に向かいました。
撮影年月日1980/10/02(昭55)(CKT802 C12 10)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
オイラが向かったのは☆の場所。
飛行場運用当時は整備格納庫がありました。
実際に向かってみると-
☆(青マーカー)地点。
このフェンスの先には、ババーンと格納庫があったのですが…。
もうすっかり運送会社ですね。
次に、先程の踏切渡った向こう側に回り込んでみました。
B地点(黄色マーカー)。
このガードレールの先に滑走路を横断する踏切があったはずなのですが。。。
……来るのが遅かった。遅すぎたんや。つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
滑走路が残っていた東側部分にも倉庫が建ち、完全に会社敷地内となり、フェンスで取り囲まれ、
もはや滑走路があった場所に近付くことさえできなくなってしまいました。
1980年撮影
一方こちらは管制塔のある事務所付近のアップです(先頭のグーグルマップ水色のシェイプ)。
2006年1月撮影。
管制塔のある事務所が残っていました。
2006年11月撮影①
事務所前に碑が建立していますね。
2006年11月撮影②
で、この事務所も後に無くなってしまいました。
その後どうなったかというと-
すっかり運送会社の敷地になっています。
ストリートビュー中央に黒い物体が見えますね。
これはもしや碑なんじゃないだろうか。
そう考えて、2022年5月にまたお邪魔したのでした。
2022年5月撮影①
側面下部の文字は、 「館林市 平成一?」まで見えてました。
2022年5月撮影②
正面の文字が確認出来ないのですが、上部が斜めにカットされている形、色や大きさから、碑で間違いないと思います。
当時の航空写真、ストリートビューで比較したところ、事務所前に建立されていた当時とは若干位置が変わっています。
(先頭のグーグルマップのグレーマーカー)
また、当時碑の正面は東を向いていましたが、現在はフェンスにもたれるようにして南を向いています。
捨てられなかっただけマシなのかもしれませんが、将来碑がきちんと建立し直されることを切に望みます。
群馬県・館林(大西)飛行場
・陸軍館林飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:群馬県邑楽郡多々良村
標 点:36°14′0N 139°30′0E
飛行地区:東西1,400mx南北1,400m(芝張地区は950m×800mと記載あり)
面 積:20.8ha
(面積はグーグルマップから。他は水路部資料から)
設置管理者:大西氏→㈱大洋航空
空港種別:非公共用飛行場
所在地:群馬県館林市近藤町760
標 点:36°14′0N 139°30′0E
標 高:65m
旧滑走路:600mx10m?
新滑走路:600m×25m
着陸帯:720mx60m
磁方位:08/26
運用時間:9:00~17:00(または日没まで)
航空管制周波数 129.9
沿革
1936年 群馬県館林市と邑楽町にまたがる農地を陸軍の飛行場として用地買収
1937年 陸軍館林飛行場完成。熊谷陸軍飛行学校館林分教場開設
1944年 陸軍航空士官学校 館林分教場として使用開始
1945年 2、3月 頻繁に爆撃を受け、士官学校本隊は満州へ移転。戦争末期に本土決戦用の特攻隊訓練基地となる
終戦と共に12人が進駐。小蓋(こぶた)基地となる
1946年 9月 基地閉鎖。その後引揚者の入植地として開放される
1962年 跡地の一部を大西氏が買い取り飛行場を建設
1963年 館林航空KKの飛行場として発足
1964年 タテバヤシエアロと改称
1972年 借金が膨らみ、土地、経営権の一切を売却。「大西飛行場」の名前はそのまま残され、運用が続けられる
2003年 12月供用停止
この記事の資料:
群馬の戦争遺跡
21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
ほかのサイトを見ているとき、たまたま思い出してここを閲覧しました。館林飛行場は大西さんが苦労されて管理されていたこともあり、できたら残してもらいたいと強く思っていたので、まだ一部が残っていると知って驚きました。今後まったくなくなってしまうのが惜しい。軍事目的が主であったとはいえ、群馬県の東毛地域に一大航空機産業があったという歴史的遺産の一部と考えれば、ぜひ飛行場を復活していただき、かつて生産していたゼロ戦、隼、疾風などのリストア機体の展示と飛行のための場として建設していただけないものか願うものです。
by 佐藤喜和 (2017-11-09 23:27)
■佐藤喜和さん
そうなったらいですね~。
by とり (2017-11-10 07:13)