SSブログ

朝鮮・連浦飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)  





北朝鮮咸鏡南道咸興市にあるヨンポ飛行場。

ここはかつて日本陸軍の「連浦飛行場」でした。

防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に1/20,000の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

恒風:北西(滑走路方向)と記入されていました。

要図がかなり大まかなもので、飛行場敷地、誘導路、格納庫等かなりおおざっぱに作図しています。

当時の滑走路は1,000mだったのですが、その滑走路の両端を延長する形で現在も運用しているようです。

同資料に当飛行場の情報がありました。

以下引用させていただきます。

位置 朝鮮咸鏡南道咸州
積量 一四四〇,〇〇〇平米
地表の状況 在来砂地盤上に畑土表土を敷均し転圧十二糎
      に仕上げ芝生を植付けたるものなるも烈風に際し
      漸次飛散しあり
周囲の状況 周囲は水田にして使用上支障なし
天候気象の交感 砂質地盤を粘土質土壌にて被いあるため大雨後
        表土流失し易く冬季支障なし
格納施設 格納庫四〇×三〇 四  四〇×四〇 三
居住施設 兵員収容力約六〇〇名
営外者住宅 東北方約二十二粁咸興府内に陸軍官舎完備
関係    しあり
交通連絡 記載無し
其の他 記載無し




     朝鮮・連浦飛行場跡地         
連浦飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮咸鏡南道咸州(現・北朝鮮咸鏡南道咸興市)
座 標:N39°47′30″E127°32′10″
標 高:3m
滑走路:1,000mx100m
方 位:13/31
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(5) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 5

朝鮮第100部隊

私の叔父は連浦飛行場にあった朝鮮第100部隊の副官でした。
早稲田大学卒で甲種幹部候補生で暗号専門の陸軍中尉でした。
部隊は練成飛行隊で九七式戦闘機で飛行訓練をしており、叔父
は特攻隊の編成にも関わっていました。
終戦後はソ連軍が進駐してきて部隊はソビエト抑留となりました。
当時の朝鮮軍司令官 板垣征四郎 閣下の御子息の航空士官学校58期
板垣正 見習士官も 連浦におられシベリア抑留となっております。
板垣正さんはシベリアから帰国し共産党に入党されるも脱党し、日
本遺族会を長く勤められました。 
板垣 見習士官は酒に酔い上半身裸で営門を通ろうとして、問題となり
叔父が機転を利かせて父親である当時の朝鮮軍司令官 板垣征四郎 陸軍大将と非公式で面会し「宜しく頼む。」と言われ不問としたそうです。
特攻隊に選ばれた者は大抵自暴自棄となり酒におぼれ、芸者に機密の
出撃日を喋ってしまうため出撃日に芸者が飛行場に見送りに来たりで
軍紀は乱れていたそうです。
叔父は部隊長が日本に飛行機で先に帰ろうとして墜落事故で殉職されたため職業軍人では無い副官の叔父が自動的にナンバー1となりソ連軍に
指名手配され、現地除隊し民間人の中に逃げ込み相当苦労して日本に
帰って来ました。朝鮮の漁船を雇い民間人を大勢乗せてなんとか日本
に戻ってくることが出来ました。シベリア抑留にならず、部隊で一番
先に日本に帰って来たため部隊史を書かされました。
私の祖父は満州第2645部隊 野戦貨物廠に配属されており黒河で終戦
で弟が北朝鮮の陸軍飛行場の副官をしているので飛行機に乗せて貰い
日本に早く帰れるかもと期待し現地除隊しましたが銃撃され鴨緑江が
越えられず仕方なく部隊に戻りシベリア抑留となりました。
兄弟で満州、朝鮮で終戦となりそれぞれソ連軍にい降伏しましたが兄はシベリア抑留、弟は軍服を脱ぎ民間人に紛れて何度も同じ日本人に密告されソ連軍や保安隊に捕まりそうになりなんとか日本に帰ってきました。38度線を越えると米軍に漁船を接収されることを恐れた朝鮮人の船長、船員が契約を反故にして日本に向かうことを拒否したため、元軍人の叔父達が船員を縛り上げ、避難民に漁師もいたため漁船を分捕り叔父が指揮を執り無事日本に帰ってくることが出来ました。
ソ連軍への密告を恐れ元陸軍中尉であることを同じ日本人にも隠しての逃避行でした。
連浦は何もない殺風景な街で兵隊達の慰安のため江南までトラック輸送の便宜を図ったそうです。
毎年正月前には内地は食糧不足のため岐阜の陸軍航空隊の高官たちが私用で軍用機を使い連浦に来て、物資を満載して日本に運んでいたそうです。


by 朝鮮第100部隊 (2022-07-29 00:40) 

朝鮮第100部隊

江南は誤りです。正しくは朝鮮窒素肥料 興南工場があり日本人が大勢住んでいた興南の町です。
by 朝鮮第100部隊 (2022-07-29 01:07) 

とり

■朝鮮第100部隊さん
貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2022-07-29 02:47) 

梅田昌吾

私の父は梅田(旧姓壷井)軍児と申します。2006年に亡くなりました。少年飛行兵15期。父から確か連浦飛行場で終戦を迎えたと聞いたと思います。父はその時17歳6ヶ月。恐らく1944年の秋に知覧飛行場から移動したと。1945年8月15日、教官と訓練後飛行場に戻ったら滑走路の誘導灯がついてなくて真っ暗。高久進教官は飛行場の上を2,3周して真っ暗な中着陸していった。父は10周程旋回していたら誰かがジープのヘッドライトで滑走路を照らしてくれた。それでやっと着陸できた。照らして呉れたのは郷里を同じくする友達だった。その人は戦闘機隼に乗っていたらしい。なぜ滑走路に照明をつけていなかったか。皆敗戦の持って行きどころのない気持ちを酒ではらしていたそうです。父が操縦していた飛行機は呑龍という重爆撃機。海面上3mから5mを飛ぶ訓練をしていたそうです。その後、シベリアで2年近く抑留生活。最初の半年は山林の木材伐採。その後は平地で野菜栽培していたそうです。ずっと木材伐採をやらされたいたら死んでいただろうと。引き揚げ船はナホトカから鳥取の方に着いたそうです。そこでミカンを一個ずつ頂いた。こんなうまいもん他にないなと。ミカンの皮まで食べたそう。
 連浦飛行場のそばに川があります。シジミが一杯とれたと言ってました。
by 梅田昌吾 (2023-01-09 23:59) 

とり

■梅田昌吾さん
貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2023-01-10 05:38) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

メッセージを送る