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三保根岸飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2015年7月訪問 2020/10更新  


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昭和9年8月撮影 高度1,000米 方位SW 距離2,000米
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1934年(昭和9年)7月調査資料添付地図
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
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撮影年月日1946/10/27(USA M300-A-3ロ 2) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

日本新三景の1つ、静岡県静岡市「三保の松原」。

現在ここに「三保飛行場」があるのですが、

三保飛行場の滑走路の半分位の位置から大きく南側に向かって、

かつて「三保根岸飛行場」がありました。

■国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正15年」に、

「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」のページがあります(下記リンク参照)。

ここに当飛行場についての情報がありました。

管理人 根岸綿蔵
種類 陸上
位置 静岡県安保郡三保村真崎
面積 530,000坪 

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

海岸線が飛び出たり引っ込んだり、随分変化しています。

また同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第3 三保根岸飛行場(昭和17年10月調)

管理者 三保根岸飛行場長根岸綿蔵。
位置 静岡県清水市大字三保
   (吹合岬付近海岸、35°0′5N、138°32′0E)。
種別 地方公認陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約2.5米。
広さ及形状
 飛行場として使用を許可せられある地域は海岸に沿う長さ1,000米、
 幅120-200米の湾曲せる砂浜なり・着陸地域は概ね図示の清水燈台(航
海用)を中心とし、長さ北西-南東400米及北東-南西420米、幅各約
100米の楕円形地区を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 細砂。
地面の状況
 着陸地域及付近一帯の海岸は概ね平坦なるも波打際付近は5/100の傾斜を成
 す・地表は細粒の砂浜にして西側寄りに雑草等疎生す・地表面は柔軟なる
 も5,6寸以下は極めて堅硬なり・排水良好なり、降雨後は細砂引締り硬度
 を増し好結果なりと言う。
場内の障碍物
 格納庫の北東方海岸に地方人の漁船を引揚ぐることあるも発見次第他に移
さしむ。
適当なる離着陸方向
 恒風の関係上午前は南西、午後は北西を可とす。
離着陸上注意すべき点
 付近一帯は名勝地なるを以て四季遊覧者絶えず従って着陸の際は充分なる
 地上偵察の要あり・地表柔軟なれば着陸は特に速度を減じ巧妙に定着する
 の要あり。
施設
 格納庫(間口14.5米、奥行14.5米、高さ6.5米)1棟あり中型機3機収
 容し得・気象観測所・飛行場事務所・格納庫前より「コンクリート」舗装
 の誘導滑走路1條あり。
 昼間標識 吹流(格納庫の前方約50米)。
 夜間標識 格納庫の南方300米に清水燈台(航海用、高さ18米)あり、
      白塗八角形「コンクリート」造・明弧152°-17°
      真崎付近に三保航空燈台(高さ15米)あり白塗櫓形鉄造・
      明弧323°-303°(三保航海用燈台に併設)目下消燈中。

周囲の状況
樹林
 本場は三保半島の北東突角に在り、北、東及南方は直に駿河湾に臨み、西
 方は半島を隔てて清水港に対し地勢極めて平坦なり・四周5粁以内に障碍
 と為る山岳、丘陵等なきも場の西側に沿う土提(高さ約2米)上に高さ13
 米内外の松並木あり。
建築物
 着陸地域の西側中央の砂丘上に高さ18米の清水燈台あり遠望極めて顕著
なり、之より北方の松並木内に格納庫、飛行場事務所及民家等散在するも
 何れも松並木より低し。
着目標
 清水港、真崎、清水燈台(場の西端)。

地方の状況
市街
 本場の西方約9粁に清水市街あり、本市は人口6萬余の都市にして物資の
 集散盛なり、市内に清水市役所、警察署、税関支所、港務所、郵便局及清
 水高等商船学校等の諸官衙及学校あり・市街の前面に清水港あり内外諸港
 と連絡する開港場なり・港首折戸湾内に2萬噸級2隻、8千噸級1隻を繫
 留し得る埠頭を有す。
医療
 清水市内に清水病院及清水診療所等あり、又清水市字本村(西方約1粁)
 に医院1あり。
宿泊
 清水市字本村(西方約1粁)に旅館5(収容員数計50)あり。
清水
 本場格納庫付近に水質良好なる井戸1あり。
応急修理
 格納庫内に小修理程度の設備を有す。
航空需品
 本場に少量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す・多量需要の際は北側に隣接す
 る立川陸軍航空廠三保出張所より需むるを可とす。

交通、運輸及通信
鐡道
 清水駅(東海道本線)北西方約9粁。
乗合自動車
 清水市内より本場付近迄乗合自動車の便あり、最寄り停留所は御穂神社前停
 留所(南西方約1.7粁)なり。
道路
 本場より本村を経て清水市内中央に通ずる幅員6米の舗装道路あり。
渡船
 本場の西方約1粁の本村地先より対岸清水駅前海岸間に民営の定期渡船運
 絡あり。
運送店
 清水市字本村に運送店1、貨物自動車4あり。
電信及電話
 三保郵便局(電信及電話取扱)南西方約1粁・場内気象観測所に電話あり。

気象
測候所
 場内に中央気象台航空気象観測所あり、現在は観測員の配員なく飛行場長
 自ら飛行機に搭乗し毎日航空気象(高度4,000米)を観測す。
地方風
 全年を通じ午前は南風にして午後は北風に変ず・風向は四季略一定し春、
 秋及冬季は東北東風にして夏季は南西風なり、其の最大平均風速は12米/秒
 にして南西及南南西風に最も多し。
天候
 気象状況は太平洋沿岸の様式にして全年を通じ冬季は雨量少く降雨は夏季
 に多し、1箇年の平均降水日数は150日なり。

其の他
本場は一等飛行士根岸綿蔵の経営に係り現在飛行機2機を有し専ら中央気象台
航空気象観測所業務を委託せられ飛行機に依る航空気象観測に従事中なり。

 

根岸錦蔵氏

ここに飛行場を作った根岸錦蔵氏(1902-1983)についてご紹介します。

「日本民間航空史話」(1966年発行)の中に、根岸氏ご本人が生い立ちからの手記を載せておられましたので、

以下その中から抜粋させて頂きました。

根岸氏は小学生の頃から1人で列車に乗り、所沢の飛行場でヒコーキを眺め、

徳川大尉、長沢中尉から「小僧また来ているな」と顔を覚えられる程のヒコーキ大好き少年でした。

余談ですが、この時期所沢飛行場にいた「徳川大尉」といえば、恐らく代々木練兵場で国内公式初飛行を記録し、

翌年には所沢で国内公式飛行場における初飛行を記録した人物ではないかと思われます。

(所沢飛行場は1911年開設で、この年だと根岸少年は8才なので時期は合ってる)

 

1917年(大正6年)、赤羽飛行機製作所の助手を経て、福長飛行機研究所に練習生として入所。

その後、三保の地に飛行場を建設し、魚群探査を行おうとしました。

ところが、「天下の名勝地だから」と、県は頑として飛行場開設を許可しません。

それでも粘り強い交渉の結果、個人使用、毎年更新が必要な臨時飛行機離着陸場としてようやく許可を得ることが出来ました。

「あんな砂地に降りられるはずがない」と言われ、

「それならば」と警察に許可も取らず強引にヒコーキを着陸させたりもしたのだそうです。

これを根岸氏は手記の中で、「三保の松原に天女に次いで二番目に舞い降り」た。と自ら表現しておられます(o ̄∇ ̄o)

 

飛行場開設、魚群探査開始

三保(根岸)飛行場の開設は1923年(大正12年)。

弱冠21歳の若者が県と交渉を繰り返し、飛行場を造ってしまうのだから凄いです(@Д@)

三保の地に飛行場開設の念願叶い、早速魚群探査を開始したのかというと、残念ながら事はそう上手く運びませんでした。

あらゆる機会に県の有力者、漁業関係者に働きかけたのですが、ノレンに腕押し状態で、

後援者からの援助でやっと話を取り付け、航空局から年額4千円、農林省から2千円、県費2,260円を受け、

正式に県の仕事として魚群探査を開始することができたのは、1927年(昭和2年)。

飛行場開設から、なんと5年後のことでした。

早速1927年~1929年(昭和2年~4年)にかけて、払下げの十年式陸上機で、駿河湾はもちろん、

八丈島を基地として伊豆七島の漁場でカツオ、マグロを発見したのでした。

 

暗転

この航空機による魚群探査事業は、県の水産試験場、水産課が危険を理由に取り上げなかったものを、

根岸氏が強引に実施したという経緯があったため、陰から妨害を受ける事も少なからずあったのだそうです。

例えば、魚群探査のための県費2,260円が突如切られたことを県会の前日に知り、夜中官舎に行って知事と話をつけ、

予算書に赤付箋を付けてもらい、辛くも継続になるという出来事があったのだとか。

 

その後伊豆諸島のカツオが南方に移って少なくなったため、

サイパンを根拠として大型飛行艇による魚群探査を行おうと考え、

ドルニエ・ワール機を海防議会から静岡県に寄付してもらうこととし、海防議会の伊藤中将と川崎飛行機に行くため

(川崎はドルニエ・ワール機を所有しており、また改修依頼を受ける事があった)、航空局技術課長を呼びに行ったところ、

航空局の斡旋を経ずに直接海防議会に交渉し、それに成功したことが航空局の忌憚に触れたらしく、

驚くべき決定が下りました。

航空局から突き付けられた沙汰は以下の通りでした。

・静岡県の魚群探査に根岸を使うならば補助金は打ち切り
・今後魚群探査事業は東京航空輸送会社に任せる
・ドルニエ・ワールは中止し、中島十五式水上偵察機二機とする
・サイパン飛行は中止して伊豆諸島、駿河湾のみとし、一機は東京航空輸送が清水~東京間の定期航空に使用する

航空局からの補助金が打ち切られると、補助金全体のほぼ半分を失うことになります。

県も試験場も、なんとか根岸氏を辞めさせたいと思っていましたから、根岸氏としてはこれを呑まざるを得ません。

ということで、なんと根岸氏はクビになってしまいました。

こうして根岸氏が始めた魚群探査事業は、東京航空に移ることになります。

 

ネット上では根岸氏が魚群探査から手を引いた件について、様々に表現されているのですが、

このことについて当のご本人は手記の中でこう記しています。

「当時の航空会では、東京航空の相羽氏が根岸から(魚群探査事業を)横取りしたとうわさされたが、そうではない。航空局が取り上げて東京航空にやらせたのだ。」

尤も、水産試験場だって直接引導を渡すことはありませんでしたが、県費カットまでしようとしました。

次の記事でも書きますが、根岸氏の後援者には地元の錚々たる顔ぶれが名を連ねており、こうした後援者の手前もあって、

県や試験場の妨害は間接的な「影から」のものに留まっていたのかもしれません。

 

一方、魚群探査事業そのものは、漁獲が飛躍的に向上し、大きな成果を挙げていました。

県、水産試験場にしてみれば、航空局のこの「根岸氏切り捨て」という決定は、

自ら手を下すこともなく根岸氏を事業から追放し、事業そのものは継続となった訳で、まさに渡りに船だったはず。

事業が東京航空に移り、クビになってしまった根岸氏は、その後東京航空の実施する魚群探査飛行に、

"魚見役"として同乗していたのですが、これも県から禁じられてしまい、

本人曰く「生涯の仕事としてとりかかった」魚群探査と完全に縁を切らざるを得なくなり、

その後は、高層気象観測飛行、旧女満別空港を建設させての流氷観測飛行等に従事したのでした。

特に流氷観測飛行では、氏の特出した能力がいかんなく発揮され、

流氷観測のみならず貴重なデータを後世に残すことになります。

上述の水路部の資料は昭和17年10月調のものですが、其の他の項目では、

「(根岸氏が)専ら中央気象台航空気象観測所業務を委託せられ飛行機に依る航空気象観測に従事中なり。」

とあります。

水路部資料は、根岸氏がちょうどこの高層気象観測飛行を実施していた頃のものなんですね。

管理者 三保根岸飛行場長根岸綿蔵。

という一文に救われる思いです。

 

「三保(根岸)飛行場」の位置

ということで、2019年12月になって防衛研究所にて当飛行場の付図を見つけ、

無事作図もすることができたのですが、それまでは三保の一体ドコに根岸氏の飛行場があったのか、

ネット上でも場所についての情報が極端に少なくて、なかなか絞り込むことができず、

拙ブログではこれまでずっと、「多分この辺」という位置にマーカーを刺すに留まっていたのでした。

それでも、2つ先にアップする「清水海軍航空隊跡地」作成に大いに役立った書籍の中に、

まったく思いがけず「三保(根岸)飛行場」を匂わせる記述があったのでした。

中村英雄著「清水三保青春の雄叫び:清水海軍航空隊史」という本の4pに、たった一文なのですが、

「清水三保海軍航空隊」の滑空機による練習風景について触れた記述に続き、こんな一文があります。



「根岸飛行場格納庫には、魚探機1機と滑空機が2機格納されていた」



この一文の後は、すぐに別の話に移ってしまいます。

飛行場名には大抵、地名か、設立者(企業)名が付される訳ですが、検索しても、三保に根岸という地名は出てきません。

それで、この「根岸飛行場」の「根岸」とは、設立者の「根岸氏」のことと思われます。

この書籍:「清水三保青春の雄叫び:清水海軍航空隊史」は、その題名の通り、

三保の地に開隊した清水海軍航空隊について扱ったもので、この航空隊では滑空機の訓練を行っていました。

この本の57pにある略図には、現在の「三保飛行場」の辺りに滑空場があったことが示されており、

「清水海軍航空隊(予科練)について」という、もう一冊別の本にも基地の略図が載せられているのですが、

どちらも滑空場のすぐ前に「滑空機格納庫」が一棟あったことが明示されています。

双方の略図の中で、「陸上機の格納庫」の記載はこの一棟が全てであり、他に陸上機用格納庫は記されていません。

つまり、書籍に出てくる「根岸飛行場格納庫」とは、この略図に示されている「滑空機格納庫」のことで、

清水海軍航空隊が「根岸飛行場格納庫」を借用していたという可能性が高いと思います。

通常、滑走路のすぐ前に格納庫を設置するのが常だったことも相まって、

 清水海軍航空隊の「滑空機格納庫」=「根岸飛行場格納庫」
∴清水海軍航空隊の「滑空場」=「根岸飛行場」 

という連立方程式が成り立つ可能性が高いのではないか。というのがオイラの考えです。

「根岸飛行場格納庫」には、魚探機と滑空機が仲よく同居していたという記述もありますし。

 

根岸氏が魚群探査飛行のために「根岸飛行場」を使用していたのは、昭和4年まで。

また、根岸氏の跡を継ぐ形で、水上機による魚群探査は昭和18年頃までは続けられたと考えられています。


清水海軍航空隊がここに開隊したのは、昭和19年ですから、

格納庫には、根岸氏が使用していた陸上機か、後を継いだ水上機の魚群探査機が眠っていても、

おかしくないことになります。

上述の水路部資料は昭和17年時点のものですから、

この時点では飛行場は根岸氏のもので、清水海軍のことは全く出てこないのも当然です。

根岸氏の後を継いだ水上機による魚群探査事業は、三保の真崎(三保半島の突端)に基地が新たに設けられ、

ここに水上機用の離着水エリアが設定され、格納庫も設けられたことがアジ歴の地図で確認できます。

そのため、「根岸飛行場格納庫」に滑空機と仲よく翼を並べていたのは、根岸氏の陸上機であったかもしれません。

(検索すると、「三保(根岸)飛行場」=「清水海軍航空隊滑空場」=「三保飛行場」と記しているサイト様が1つだけ見つかります)

 

ということで、日本新三景「三保の松原」に1923年(大正12年)に造られた飛行場は、

1927年~1929年:「三保根岸飛行場」→魚群探査のための飛行場として使用

1944年~1945年:「清水海軍航空隊 滑空場」→三保空の練習用滑空場として使用

1968年~現在:「三保飛行場」→赤十字飛行隊の飛行場として使用

こんな感じなのではないかと。

清水海軍航空隊についての書籍の中で、「根岸飛行場格納庫」という言葉が出てくる訳ですが、

仮に当時の航空隊隊員の間で日常的にこの言葉が使われていたのだとしたら、

隊員たちにも当飛行場開設のいきさつは伝わっていて、

当時から、「ここは元々根岸氏の飛行場と格納庫」という認識があったのかもしれません。

(海軍の)水路部が当飛行場について記述した資料は昭和17年10月現在なんですが、

この資料がまとめられ、刊行されたのは、清水空が開隊した昭和19年6月ですしね。

 

根岸氏、そして清水海軍航空隊が使用していた飛行場と、現在の三保飛行場は、

ピッタリ重なっているわけではありません。

それでも、使用者を変え、運用機を変え、数度の空白期を経て、今日まで飛行場として存続していることになります。

今から百年近く前に1人の若者による壮絶な苦心がなければ、

この場所には今までも、これから先も、飛行場が存在することはなかったかもしれません。

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気象観測所、格納庫、吹流等諸施設があった辺り(青マーカー)

 

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着陸地域方向(赤マーカー)


      静岡県・三保根岸飛行場跡地     
国交省の清水港のサイト・清水港のあゆみの中で、「昭和4年(1929年)水産試験場で開発されたマグロ油漬け缶詰の輸出が始まる。アメリカで大人気」とあるのですが(下記リンク参照)、これは根岸氏の魚探事業で漁獲高が飛躍的に伸びたためとされています

三保根岸飛行場 データ(主に水路部資料昭和17年10月調から)
管理者:三保根岸飛行場長根岸綿蔵。
種 別:地方公認陸上飛行場
所在地:静岡県清水市大字三保 吹合岬付近海岸(現・静岡市清水区三保)
標 点:35°0′5N、138°32′0E
標 高:2.5m
面 積:175ha
飛行場:1,000mx120~200m
着陸地域:400mx100m,420mx100mの楕円形 

沿革
1923年 三保飛行場開設
1927年 三保飛行場にて魚群探査飛行開始
1930年  魚群探査に三保真崎の水上飛行場が使用されるようになる

関連サイト:
国交省/清水港のあゆみ 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
中村英雄著「清水三保青春の雄叫び:清水海軍航空隊史」
「清水海軍航空隊(予科練)について」
日本民間航空史話
防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」


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コメント 6

guchi

「 三保の松原に天女に次いで二番目に舞い降りた 」
・・・この根岸さん手記のお言葉、なかなかお洒落ですね。
書籍やサイトを、たくさん研究した成果、ありがとうございました。
今度三保に行くときは、今までと違う気持ちで景色を眺められそうです。
by guchi (2015-11-20 07:54) 

U3

いつの世でも新しいことをやろうとすると必ず妨害をするものが現れるのですね。
悲しいことです。
しかし根岸氏はそれにくじけない人物であったようですね。
by U3 (2015-11-20 08:20) 

鹿児島のこういち

1948年の写真を見ると、B地点のそばの防風林が邪魔なようにも思えますが(^O^)どちらかというと、北側の防風林と防風林に挟まれている場所が素人目にはよかろそうに思えます(^O^)なんか良い目印が残っていればいいんですけどね~(*゚▽゚*)
by 鹿児島のこういち (2015-11-20 14:17) 

an-kazu

"国岡鐵造"のような人物は、アチコチにいたのですね〜


by an-kazu (2015-11-20 20:19) 

me-co

三保を美保と間違えました(--;)
ちなみに、この辺りも行った事があります。「なーんか、だだっぴろいところがあるもんだなぁ。」と思ったのを思い出しました(汗)
by me-co (2015-11-20 21:44) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■guchiさん
この度は貴重な情報を本当にありがとうございましたm(_ _)m
guchiさんから頂いた情報は予定通り11/27の記事に使わせて頂きます。
>天女に次いで
洒落てますよね^^
この位の豪胆さがないとこんなことはとても成し遂げられないのでしょうね~。
その場所のいわれが知れると、心証が変わりますよね。

■U3さん
仰る通りですね~。
ヒコーキに限っても、計画を潰された幻の飛行場が全国には沢山あるのかもしれません。

■鹿児島のこういちさん
確かに防風林が気になりますね。
一応B地点が「清水海軍航空隊略図」で「滑空場」と記されていた部分です。

■an-kazuさん
ググってみました。
偉人をたくさんご存じですね~(@Д@)

■me-coさん
ここも行かれましたか!
>三保を美保
鳥取の美保飛行場のことを「三保飛行場」と記事に書いて、
元自衛官の方からご指摘頂いたことがあります(o ̄∇ ̄o)フフ
me-coさんのコメント拝見してこの記事をチェックしてみたら、
一か所だけ「美保」と間違えておりましたので、しれっと修正致しました^^;
by とり (2015-11-21 08:28) 

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