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鹿児島県・徳之島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1965/10/20(昭40)(MKU653X C27 5) 運航開始から3年半。私設飛行場当時
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撮影年月日1978/07/24(昭53)(CKU777 C11 8) 北側の新滑走路供用開始まであと3ヵ月余り
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撮影年月日1990/10/28(平2)(KU905X C21 5) 滑走路南端部分拡大。ランウェイナンバーが残ってる
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撮影年月日2003/01/22(平15)(CKU20023X C6 5) Xがペイントされた
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上4枚とも)
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『運輸公報』(628),運輸省大臣官房,1961-10-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645632 (参照 2024-04-22) 
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『運輸公報』(648),運輸省大臣官房,1962-03-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645648 (参照 2024-04-22)

鹿児島県徳之島にあった徳之島飛行場。

先頭のグーグルマップをご覧の通りで、現在の徳之島空港の滑走路と南側で交差してますね。

東亜航空が1960年に場外飛行場として建設し、後に県に移管、拡張して運用が続けられました。

「一民間航空会社が飛行場を建設、運用する」という、現代の感覚ではちょっと考えられない生い立ちですね。

上に2枚、縦長の『運輸公報』貼ってますが、なんでわざわざこんなものを貼ったかと言いますと、

県公式サイト、町誌等見ても、「東亜航空の場外飛行場」的な表現になっていて、正式名称が不明でした。

いろいろ検索して、運輸省に対し正式に「徳島飛行場」として申請、許可を得ていたのが分かったのでした。

話を戻しますと、その後の需要増に対応するため、新規でジェット化対応の2,000m滑走路建設が計画されます。

現在の滑走路がまずは1,200mで供用開始する1978年までは、この滑走路が徳之島の空の玄関でした。


■「徳之島空港 新滑走路完成とジェット機乗入れ」と題するサイト様 (東亜国内航空航空部作成)

の中で、飛行場を建設した当事者である東亜航空(当時)が記事を載せています。

これによれば、

「昭和34年12月東亜航空が滑走路長300mx20mを有する場外施設飛行場を建設し、セスナ機による遊覧飛行を開始した」

ことが、徳之島空港の始まりであると記しています。

後述しますが、徳之島町誌、天城町誌、県の空港サイト等では、

翌昭和35年以降の1,000m超の滑走路建設から沿革が始まっているのですが、

それ以前にもっと小さな滑走路があったのですね。

上に貼った1965年(昭和40年)撮影の滑走路、よく見ると滑走路と着陸帯の北半分が、

やけにモザイク模様になっているのが気になるのですが、

もしかしたら既存の300m滑走路を活かして延長したからなのかもしれません。


■徳之島町誌(1970年) 406p-
空路の開設
 徳之島の空路の開設は、東亜航空が独立でもって空港建設からはじめたのである。東亜航空は徳之島の将来性
に眼をつけて、たまたま同系列資本の奄美パイン株式会社が、すでに、徳之島に進出していたこともあって、空
路開設に踏み切ったのである。島内には、いくつかの候補地があったが、結局、天城町浅間のいまのところに決
定したのである。それ以前、徳之島には、昭和十九年から陸軍が、いまの空港のすぐ上の平地に二〇〇〇メート
ルの滑走路を持つ飛行場を建設したが、これは、戦後政府から県をとおして、すでにこのときにはもとの地主に
払い下げられていたので、これをふたたび空港にすることはムリであった。そのため、その近くの塩田のあとを
整理して、いまの空港を建設したのである。これは、鹿児島県にはただひとつの民間空港であって、昭和三七年
二月七日から使用された。滑走路は一二〇〇メートルの第三種空港の規模である。
 奄美空港は、昭和三十九年までないので、このころは、鹿児島から奄美までの空路は、喜界島まで一六人乗りの
デハビランド・ヘロン一一四型が飛んできていた。徳之島空港の開場とともに、このヘロンが、鹿児島から喜界
島を経由してやってきはじめたのである。このヘロンは、その後、東亜航空で改造されてタウロンとよばれるよ
うになったが、これが、一日一便やってきたのである。このころは、島の人たちは飛行機を利用することなどは
とてもできる相談ではないと思っていた。ところが、就航後まもなく亀津の人の横浜にいる兄弟が危篤になっ
た。これまで、島外にいる人が危篤になれば、もう生きて会えることはまったくないのも同じであったのであ
る。ところが、このとき、空路を利用して、その日のうちに横浜について、生きて会えたというので、あらため
て空路の便利さが強調されるようになったのである。
 その後、奄美空港開設とともに、四〇人乗りのコンベア二四〇型がやってくるようになった。そして、昭和四
〇年から日本航空機製造の六〇人乗りYS一一型が、一日二回「おおらで奄美」とやってきているのである。こ
の空路の開設は、はじめ東亜航空では相当の負担であったが、その後の観光ブームともあいまって、いまでは、
よい営業成績をあげている。空路はいまでは、島の人たちの下駄がわりになってしまって、よく利用されている
し、それにもっともよいことは、本土との時間距離が短縮されて、島の開発に大きなよい影響をあたえているこ
とである。この空港は昭和四四年には、鹿児島県に買収されて、第三種空港となった。

なんで一民間航空会社が飛行場の建設に手を出すのか?

という非常に気になる点について、ここで記されています。

徳之島の将来性、同系列資本の会社が既に進出していたから。ということだったんですね。


■天城町誌(昭和53年発行)112p-

徳島空港
 徳之島空港は、天城町浅間の元陸軍飛行場の下海岸、サンゴ礁の堡礁の上につくられている。昭和三十五年、東京の不二サッシ系の東亜航空株式会社が大島で初めて民間飛行場をつくった。
 滑走路は、浅間の湾屋川下流のサンゴ礁の裾礁から北西へ伸びる堡礁の上に、フロント幅員八〇m、滑走路一二〇〇mを舗装して、塩浜海岸にターミナルをつくって昭和三六年一二月八日、運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査を受けて、手直しもなく完成した。
 同年十二月十六日から試験飛行を行ない、翌三十七年三月より旅客機が飛び始めたが、初めの間はヘロン機で十五人乗りであったが、四十三年よりYS11型六五人乗りが一日二往復している。
 昭和四十八年鹿児島県が買い上げて、滑走路やターミナルを拡大整備、第三種空港に格上げして、滑走路を六〇〇m延長して一八〇〇mに、また滑走路のフロントを九〇mに拡大し、五七年度を目標にジェット機の売込テストなどが行われている。
 徳之島空港の利用者は年々ふえて、四九年度は十一万八七八八人の利用者があった。

幅員について、県サイトと東亜国内航空航空部作成サイトでは30mとあるのに対し、

町誌では80mとあります。

先頭のグーグルマップは、上に貼った1965年の航空写真から作成したんですが、

滑走路幅:36m、着陸帯幅:73mでした(作図に誤差出てるつぽい)。

町誌をよく見ると、長さについては「滑走路一二〇〇m」と記しているのに対し、

幅員については「フロント幅員八〇m」と記し、「フロント」がついています。

こうしたことから、町誌の80mというのは、着陸帯を指しているのだと思います。


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南日本新聞社 編『鹿児島年鑑』昭和36年版,南日本新聞社年鑑編集部,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9769564 (参照 2024-04-21) 


東亜航空が1,200m滑走路の建設許可を貰った年の年鑑です。

「浅間飛行場」とありますね。

【浅間飛行場】でググると、陸軍の浅間飛行場ばかりがズラリとヒットするのですが、

戦後間もない頃の書籍では、東亜航空が建設した飛行場を指して、

「浅間飛行場」、「徳之島浅間飛行場」という表記が見られました。

また、民間航空会社が建設を進める飛行場ではあるのですが、

島内他の町とも一致協力して国と県に援助を要請という雰囲気だったんですね。
 

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『十年の歩み』,南西糖業,1976.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11955206 (参照 2024-04-17) 

「徳之島空港」とキャプションついてます。

現行滑走路の供用開始が1978年、この書籍は1976年発行なので、旧滑走路を使用した最終版の風景。

ワイエスにTDAのロゴマーク!!

時代ですね~。


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『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)




当時の滑走路の南端部分が一部残っています。

跡地を見てきました。


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黄色マーカー地点(以下3枚とも)。

滑走路南端から滑走路方向。

奥にフェンスが見えますが、あのフェンスから先は現空港敷地内として区切られてます。

ここで180°回頭すると、


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こんな感じ。

舗装面が崩れてますね。

そのおかげで「サンゴ礁の上に建設された」というのがよく分かります。


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ペイントが一部残ってました。

上に貼った1978年の航空写真には、

新滑走路への移行まであと3ヵ月に迫った旧滑走路がカラーで写っているのですが、

ペイントは全て白色です。

一方、2003年の航空写真では、Xマークのオレンジで目立っています。

ということで、このいい感じにかすれて残っているオレンジ色のペイントは、使用不可を示すXと思います。


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赤マーカー地点。

フェンスの向こうに旧滑走路が伸びてます。

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青マーカー地点。

当時のターニングパッド東隣りに現在はVOR/DMEが設置されていて、旧滑走路をちょっと見下ろすことができます。




     鹿児島県・徳之島飛行場跡地         
・徳之島飛行場(1962年供用開始当時) データ
設置管理者:東亜航空
種 別:場外飛行場
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
着陸帯:1,200mx80m
滑走路:1,080mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。着陸帯、滑走路長さは町誌から)

・徳之島空港(1973年県移管当時) データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:
4レター:
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
滑走路:1,200mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは県サイトから)

沿革
1959年12月 東亜航空、300mx20mの私設場外飛行場建設。セスナによる遊覧飛行開始
1960年11月 15日 飛行場設置許可。1,200mx80m(→町誌)
1961年05月 東亜航空、建設着手
     12月 8日 運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査。16日から試験飛行
1962年   NDB設置
     02月 23日 供用開始(R/W 1,080m×30m)(→県サイト)
     03月 運航開始。東亜航空DH.114ヘロン就航(15人乗り)
1964年07月 3日 奄美大島線開設。CV-240型機
1968年    使用機材YS-11型機に変更(65人乗り)。1日2往復
1969年   鹿児島県、飛行場の買い上げを決定
1970年10月 24日 設置者の地位継承許可 東亜航空(株)→鹿児島県
1971年12月 28日 県、運輸大臣に1200m延長設置許可申請(YS-11対策)
1972年01月 27日 空港設置許可
1973年02月 27日 第3種F級空港政令指定。県に移管。滑走路1,800mx90mに拡張(→町誌)
     06月 1日 供用開始(R/W1,200m×30m)(→県サイト)
1975年02月 14日 航空灯火設置許可(昼間照明)
     08月 8日 県、運輸省に設置変更許可申請(2,000m滑走路建設)。28日、公聴会
     10月 18日 空港施設変更許可(R/W2,000m×45m)
1976年07月 東亜航空、鹿児島線開設(YS-11型機)
     08月 10日 航空灯火供用開始(昼間照明)
1978年07月 24日 航空灯火変更許可(LLZ対応)
     11月 3日 空港施設変更供用開始(1期R/W1,200m×45m)

関連サイト:
鹿児島県/徳之島空港 
ブログ内関連記事■  

この記事の資料:
徳之島町誌(1970年)
天城町誌(昭和53年発行)


コメント(2) 
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コメント 2

guchi

東亜航空は飛行場まで創った会社だったんですね
私にはTAW時代もTDA時代も搭乗叶わなかった
エアーラインですが、JAS時代に1往復だけ乗り
即♡大ファンに・・1番好きなエアーラインでした
by guchi (2024-05-04 08:19) 

とり

■guchiさん
オイラはとにかく搭乗の機会が乏しくて、
JASのどこがそんなに気に入ったのか、
良ければこっそり教えてください。
by とり (2024-05-05 12:01) 

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