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鹿児島県・喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問 2024/8更新  



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撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 139) 終戦翌年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県喜界島(きかいじま)の西側、北岸にあった海軍の「喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)」。

本土と沖縄の途上にある海軍航空基地であったため、末期には特攻機の中継地となりました。

この島の名称は古来様々あり、そのためか海軍作成の資料でもこの島の航空基地を指して、

確認できるだけでも「喜界航空基地」、「喜界島航空基地」と表記が分かれています。


■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地
整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として
整備が進められた。

施設名 喜界島
工事要領等 小型機0.五隊使用可能の如く、滑走路長さ最小限一,〇〇〇mに拡張す
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行

防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

位置 鹿児島県大島郡
基地名 喜界ヶ島
建設ノ年 1944
飛行場 1,200x300 800x270 芝張
格納庫 〇(施設あるも数量不明)
収容施設 200名
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
掩体 小型18


■喜界町誌485p-
六 太平洋戦争(途中から)
沖縄戦が開始されると奄美大島は日本本土防衛の最前地点となり、海軍飛行場のある喜界島は特攻機の中継基地となった。

1 海軍喜界島飛行場
 中里海岸を整備して東西に長い海軍不時着飛行場が完成したのは一九三一(昭和六)年で、時々海軍機が飛来するようになり、石垣積みの露天格納庫を設け、一九四三(昭和十八)年頃までは不時着飛行場として利用されていた。南方の戦局が悪化し、敵の進行速度が速くなると、一九四四(昭和十九)年五月、海軍佐世保鎮守府司令部は設営隊(宮本部隊)を編成して喜界島へ派遣し、飛行場拡張工事を命じた(その頃、請負会社星野組も来島し工事した)。
 両町村の動員係は集落毎に人夫を割当て、国民学校、青年学校生徒も勤労奉仕作業に参加し、拡張工事は急速に進められた。完成した飛行場は幅二〇㍍、長さ一〇〇〇㍍東西南北二つの滑走路があり、どの方向からも離着陸できるようになった。
 飛行場周辺には戦闘指揮所(鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所)や掩体壕、弾薬庫、燃料庫などが宮本部隊の手によって造られ、一九四四(昭和十九)年九月には、飛行場を守る戦闘部隊である巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊が駐屯するようになった。
 当時、巖舞台に所属していた整備兵宮原清三氏(島中出身)によると、昭和二十年三月末から敵機の来襲が頻繁になり、特攻機が出撃できない時もあった。その時は飛行場の反対側に位置する志戸桶集落南部海岸の草原に設営された模擬飛行場に、竹と藁で編んだ模擬飛行機を並べ、吹き流しを立て、恰も本物の飛行場であるかのように装い、敵機が此処を攻撃している間に特攻機を出撃させたことも度々あり、約百機の特攻機をこの飛行場から見送った。その約九割は帰ってこなかったという。

2 軍作業の動員
(1)飛行場の整備、掩体壕、誘導路作業
 飛行機を格納する掩体壕は飛行場から一~二㌖離れた水天宮山の麓や、赤連・池治集落の丘の麓にも造られ、誘導路で結ばれていた。(赤連の掩体壕二か所には終戦まで飛行機が格納されていた)

693p-
3 航空
(1)旧海軍喜界島飛行場
 現在の喜界空港はかつての旧海軍飛行場の跡地に再興された空港である。同飛行場は終戦時には二本の滑走路を持つ奄美諸島では最大級の海軍飛行場で、県本土から沖縄に出撃する特攻機の重要な中継基地であった。
 同飛行場は昭和六年、旧海軍の仮設飛行場として建設され、場内には石垣で囲った露点格納庫を備えて居た。戦争の気配が濃くなった昭和十二年から十三年にかけて拡張整備され、昭和十九年には更に拡充された。そして特攻機の中継基地として利用されたため、米軍の爆撃、機銃掃射も熾烈を極め、多大な被害を島にもたらして戦争は終わった。その後、飛行場は米軍の爆撃の跡を残したまま、民間空港として再出発するまでの十数年間放置されていた。
跡地に建設された喜界空港には昔を思い出させるものは残っていないが、中里集落の一角に残っている「戦闘指揮所」の跡と、スギラビーチの東端の道沿いに平成八年、戦中喜界島海軍基地に駐屯していた従軍有志によって建立された「海軍航空基地戦没者慰霊之碑」は、激しかった日本海軍と米軍の攻防の歴史を物語るかのようである。

 
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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22)


戦後の喜界航空基地跡は、米国民政府の管理となり、農耕地となったのでした。


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黒マーカー地点。

中里戦闘指揮所跡。

町誌には「鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所」とありましたが、

外観は非常に不思議な形をしており、素人のオイラにはどこが見張所なのかさえ分かりません。

その特徴的な外観を以下ずらずらと。


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赤マーカー地点。

海軍型掩体壕がキレイに残っていました。

南国の強烈な紫外線と潮風に曝されながら、よくこんなに良好な状態が保てるものだと不思議な程でした。

以下ずらずらと。


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紫マーカー地点。

海軍航空基地 戦没者慰霊之碑


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碑文(全文)
 喜界島海軍基地は、昭和十九年、国土防衛の最前線基地として拡張整備され、七月
海軍 巌部隊が常駐することになった。
 翌二十年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受けながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、この間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遥か征って帰らざる壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巌部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦死された人達も多かった。ここに基地開設五十周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念して慰霊碑を建立するものである。
平成六年 月 旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会 会長 海軍主計大尉 関根廣文 外会員一同
碑建立発起人代表 宮原清三 協賛会会長、喜界町長 野村良二 喜界町町民一同

碑文周辺に置いてあるのは、航空基地当時の舗装面だったりするのでしょうか。



■K氏の長い長い一日

寺嶋さんから情報頂きました。

昭和20年5月27日、万世飛行場から特攻出撃したK氏の手記を寺嶋さんが書き起こしたものです。

五月二十七日
 午前三時半に起こされ出発準備、眠いのを堪え乍ら朝食に差し出された握り飯を各々手に、宿舎の人に別れを告げ、バス(軍用)で飛行場に向かう。未だ月明かりもなく暗い。
 司令官の前に集合、全員攻撃成功を祈念して乾杯。そうして司令官の一人一人に対する握手と短い別れの言葉を受け(その頃には全機発動機運転中のため、何時でも出発可能である)S隊長より最後の別れで敬礼。いざ行かん、暗い中で日の丸鉢巻きが特に白く目立つ。
 各自愛機を求めて四散。やがて出発線から爆音も高らかに、翼下には二百五十キロの黒い爆弾を吊り下げて単機で離陸。空中集合に依る編隊を場周で組む予定。
 如何にせん、我が愛機のみ試運転でレバー全開した処、ボスとエンジンが息をつくではないか。上空を見上げると、既に第二小隊まで離陸が終わり、A機が出発せんとしている急ぎ基地の参謀の取り計らいで、飛行場南端松林の中に置いてある予備機を貰い、追いつくべく試運転もそこそこに、出発点にて上空を見れば、空中集合の編隊も終わり、高度千米で枕崎の上空を基点に南進を開始せんとする。

 暗闇の海岸線の松林の土手を目標にして、一気にエンジン全開、なかなか浮力がつかず(爆弾が重いので)かろうじて車輪が浮いたので、高度を取ったが、土手に車輪が引っかかりそうで気が気でない。しかし無事離陸できたが本隊は整然と編隊を組み南進中である。
 同機種、同速故、何れ本隊が少し減速すれば追いつくものと、懸命に全速で追ったが、なかなか距離が縮まらぬ。気がせくがいかんともならず、その中上空は夜が明けたため、大分明るくなったのでよく見ると、もう南西諸島の奄美大島の北端の上空だが、友軍機は二千米位先をスズメの大きさ位で相変わらず見事な編隊で南進中を望見できるようになったが、高度を取れば速度が下がり、本隊とますます離れるので、困った。
 この広い空で本隊を見失ったら、最早最後で二度と会うのは困難だ。仕方なく、高度維持は諦め、距離を縮めるべく努力したが、悲しいかな同機種の悲しさ、本隊の方が減速して呉れない以上追いつき様がない。無情にも知ってか知らずか、減速して待ってくれない。

 やがて奄美大島中間を通過後、行く手に雲が出始めた。愈々雲の中に入れば万事休すだ。本隊と合流は諦めなければならぬ。そこで考えた。目的地に到着するためには、雲の上を飛ぶべきか、否下を飛ぶべきや。咄嗟に小生は下を選んだ。理由は敵の電波探知機を避けるため、天蓋を空けたまま。索敵飛行中の機上は、誰も、一人もいない。自分一人の孤独感で一杯になる。何故か編隊を離れて単独飛行は淋しい。でも、これも運命なら仕方がない。単機で、単機攻撃あるのみ。覚悟は既にできているので、自分でも不思議なくらい落ち着いている。

 思えば昨夜の作戦命令に依れば、第一第二飛行小隊合計六機は、沖縄本島北西部の海上に浮かぶケラマ列島周辺に集結中の敵艦船を攻撃目標と定め、我が第三飛行小隊は四機を以て、A機が指揮の上、沖縄本島東南部の全域湾に集結中の敵機動武隊を攻撃の目標と決定。故に我は単機命令通り全域湾に突入したが何も無い。このまま飛行時間を空費して燃料ばかり少なくなり、唯海上に燃料切れのため死んでは割に合わぬ気がして、それじゃあ又出直すことに決め帰路に途く。然し、海上の雲中航法で、旨く帰り着けるかどうか燃料も少ないし、不安であったことは事実である。燃料計を見ると、到底基地迄は無理なようである。ままよ、どうせ何処かで死ぬ身じゃないか、思えば気が楽である。それにしても本隊はどうしたか気になる。攻撃予定時間は既に過ぎている。旨く目標を捕捉出来たか、攻撃は成功したか、全員散華の後だろうか。否小生と同じ天候不良のため目標捕捉が出来ず、引き返したのではないだろうか。犬死には誰でも欲しない筈だ。(後で考えられることは、本隊は雲上飛行で目標に迫ったので、敵の電波探知機により、早くから敵空軍に捕捉され、途中でやられた可能性大なり)
(中略))
北進を始めると雲の切れ間が現れ天候が良くなっている気がしたが、相変わらず視界は〇米である。

 気がついてみると、出発して大分時間が経っている。空腹を覚えたが何も食べる物はない。朝食の握り飯は、本来の愛機の座席に積んだままである。やがて前方の視界が少し明け、次に見たことのない島影を見て、一瞬緊張(どこの島か不明故、或いは戦場の島かも)その中、航法の再点検により奄美大島らしいが確信がない。それで行く時に望見した北端半島の形の見覚えがあるので、それを探して見た処、間違いなく奄美大島であることがわかり、更に名瀬の市街地も確認したが、ちょうど名瀬湾内には商船がやられていて、半分船体を海中に没していたのが一艘あった。

 さて、燃料計は残り少なく、基地までは遠い故着陸せねばならぬが、この島には飛行場も無いので、陸地は平坦部分もないし、海岸に着陸以外方法はないと考え旋回中見た飛行地図の中に、奄美大島の東方海上に喜界島があり、而も島の北西海岸に、海軍の不時着場のマークがあるではないか。
 そこで考えたこの奄美大島の東海岸の僅かな短い砂浜の海岸に、決死で不時着するか、然し爆弾を抱いたままでは、助かる見込みは少ない。実在有無確認の上、万一東方海上に喜界島が見つからぬ時は、奄美大島の不時着も致し方ないと考え、まず地図上の島を求めて、名瀬を後に数分飛んでみた。やがて目指す方向は太平洋である。島の捕捉に失敗すれば、何もない海岸で、広い海では一巻の終わりである。

 後の奄美大島が視界から消えぬ間に、前方目的の島が視界に入らねば、引き返すつもりであったが、西の海上に島影が消えんとする頃、ようやく(東方)前方海上に淡く水平線上に島影が見えたので、そのまま近づくと、まさしく島で而も北西の海岸に面していたため、飛行場もすぐ目に入った。
 喜んだのは束の間で、よく見ると飛行場は全面が爆弾を受け穴だらけ、直線部分が無いので、着陸は不能である。然し海岸に不時着するよりはまだましだが、真直ぐに穴のない部分を探して、二、三回旋回して見て、やっと四、五百米の直線部分を発見、海岸より高度〇米で近着き、着地と同時にエンジンスイッチを切り乍ら直進滑走あるのみ。

 ところがである、基地には誰一人いない。無人島かもしれぬし、何とかして爆弾を放棄せぬと着陸できぬ。抱いたまま着陸に失敗すれば自爆以外にない。まず投下スイッチを入れても落ちない。海上で機体を急転等、色々試して見たが、全く反応なし、燃料もないし、斯くなる上は、共に抱いて洋上を何時間も飛んだので別れ難いか。

  えい、ままよそのまま、海上を超低空で海岸の端から着地。後は滑走力が弱り自然停止迄待つ外ない。中々停まらぬ長い長い時間が終わった気がして、やっと速度が減って来て、止まりそうになって、ほっとした瞬間、左車輪を軸に機体が左旋回を始めながら尾部が浮き上がり始めた。しまった最後かと思った処、尾部が水平近く浮き上がり、方向が左九十度向きを変えた時、完全に機体は停止して、尾部が元の位置に下ったので助かった。

 よく見ると爆撃の穴の円周に盛り上がった土が、車輪止めの代わりをして呉れたのだった。やっと助かったが、さて無人島では困ったと思いきや、飛行場の端から三三、五五と、人影が現われ、当方に近づいてくる。敵か味方か不明だ。要心のため機銃とピストルで身構えたが、どうも味方らしい見覚えのある合図を始めたので、安心した。それにしても、何処にいたのか姿も見えなかったのに。
 早速、皆が手伝って急ぎ機体を、飛行場端の雑木林内に隠して呉れたので、司令官に報告のため案内を乞うた処、山麓の地下壕に連れて行かれ申告したが、最高責任者は海軍の兵曹長であった。
(中略)
 この島の山頂に過去一年位い前から、地上で或いは空中での事故、戦闘も含め機体の損傷等により、愛機を持たぬ身となった者が約三十名程救助を待っている由、尚、鹿児島南端から遠からぬ此の島にして、斯くも救助困難な情況なるに、燃料のみ充分存在する分けも不思議であるので聞いた処、使った機体が、片端から攻撃を受け、残骸のみ空しく飛行場端の海岸線に、山積みされている由、制空権の無き哀れさよ。

 多数の中より選ばれた二名(少尉と軍曹)を後部席にして、帰途に着く訳だが、機体は先ず爆弾を降し、燃料を満タンにしたが、滑走路の心配があったが、よく調べてみると、東西に約五十米巾で直進滑走できる部分があるではないか。実は、爆撃された穴を毎回補修していたが、その繰り返し中、隅々穴埋め用の土を色違いの山麓の土で埋めた処、空中から見た目には、何時までも未補修に見えるのである。小生も実はそれに錯覚をして、不用の困難な着陸をしたのである。

 尚補足すれば、小生の着陸時、何人も補助をしなかった訳は、実は、巡洋艦でも一発で轟沈できる巨大な爆弾を抱いたまま降りてくる小生は、過去の例通り自爆するであろうことを予測して、危険を避け地下壕に全員退避していた由である。(着陸失敗がほとんどの由)斯くて十四時頃、息を切らして山頂より降りてきた二人を乗せ、狭い草原の短い滑走路を全速で滑走(唯、救いは爆弾を抱いていたより半分以上軽いこと)前方目印の二本のドラム缶が目前に迫るが、中々浮力がつかず、やっとの思いで浮上した。

 後の二人の笑顔が印象的である。高度千五百米迄場周しながら上昇したが、敵機の攻撃を恐れ、至急現場離脱、基地に直進すべく後の二人に催促され、洋上を索敵飛行。途中、硫黄島を左に見、その強烈な臭いを味わい乍ら、一路万世基地に進路を向けて飛び続け、無事着陸した。

 若し、わが本隊もと思ったが、残念乍ら基地にはなく、司令部に報告の時聞いたところ、全機任務完遂の由、なぜか涙が出て止まらない。一人残された身の置き処に苦しむことになった。

 これも運命かと諦め、救助した二名と別れ、昨夜皆と最後の一夜を共にした宿舎の飛龍荘に案内され、別命のあるまで待機を命ぜられた。私の長い長い一日がやっと終った。


寺嶋さん情報ありがとうございましたm(_ _)m




     鹿児島県・喜界航空基地跡         
喜界航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡喜界町
座 標:28°19'18.7"N 129°55'45.7"E
標 高:4m
面 積:138.8ha
滑走路:1,200x300 800x270 芝張(「海軍航空基地現状表(内地の部)」)、1,000mx20m 2本(喜界町誌)
(座標、標高はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料と町誌から併記)

沿革
1931年    海軍不時着飛行場完成
1937年    翌年にかけて拡張整備
1944年05月 飛行場拡張工事。2本の滑走路、戦闘指揮所、掩体壕、弾薬庫、燃料庫等建設
     09月 巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊駐屯
1945年03月 末から敵機頻繁に来襲
     08月 15日 終戦。戦後基地跡は米国民政府の管理となり、農耕地となる
1994年    碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版、碑文
喜界町誌
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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