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山梨県・河口湖自動車博物館・飛行館 [├場所]

   2023年8月訪問  



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山梨県南都留郡にある「河口湖自動車博物館・飛行館」。

8月の1か月間のみ見学可。


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別にデジイチで撮ってもいいじゃん(ー"ー;)

内心そう思ってたのですが、館内はものすごく混雑しており、展示方法も様々で、

床に直置きしてるものから吊ってるものまであり、そのせいでしゃがみ込んだり、

大きく前かがみになったり、逆立ちしたりで思わぬ位置に見学者がいるため、

カメラ振り回したり、ましてや三脚立ててる場合じゃなかったです。

以下ずらずらと。


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てっきり、1機の零戦をコツコツとレストアしているものとばかり思っていたので、展示品の多様さに驚きました。


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ゼロ戦に使用していたエンジンパーツ


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クランクケース。

「クランクケース」って、車のボンネット開けた時に見える箱状のものしか知らないのですが、

星形エンジンのクランクケースはこんななんですね。

すごい新鮮。

ロボットみたい。


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彩雲の誉エンジン。

右側にクランクケースの丸い部分が見えてますね(この丸い部分もクランクケースか知らないけど)。

今までは、"鉄の塊"にしか見えなかったけど、クランクケースの役割を認識できたおかげで、

円筒形のクランクケースにびっしりとクランクがとりついてるんだなと、急に透過して見えるように。


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銀河に使用された誉エンジン。


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ここで順路は屋外へ。


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屋内に戻りました。

零戦の骨組み。


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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、
この頃迄は中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、
出来る限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない
骨組みの状態で展示しております。

この機体は是非このまま骨組み状態でいて欲しい。


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海軍の性能要求を満たす為、堀越技師が「1gでも軽く」に心血を注いだ零戦。

骨組み一つ一つの太さ、孔の位置と大きさ全てに氏のこだわりが詰まっているのだと本で読んでいたものが、

実際に直接見られると感慨深い。

素人のオイラは他機との比較ができないので、その凄さはまだまだ分かってないんでしょうけど。


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胴体前部。

こんなにスッパリとエンジン部分と分割できる構造なんですね~。


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主翼前縁のリプ(骨組み)がエンジン部分まで飛び出してる!

これも新発見でした。

普段旅客機ばっかし見てるオイラからすると、主翼が極端に前方についてるなぁ。

という印象なんですが、調べたら、零戦はエンジンとプロペラで自重の4割に達してました。

これにスピナー、機銃、滑油、カウル等、その他(もう思いつかないけど)もろもろ含めたら、

自重の半分位いくんじゃないでしょうか。

主翼がこんなに前に寄ってるのも納得ですm(_ _)m


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よくこんな細いスカスカの骨組みで、激しい機動ができるものですね(@Д@)


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左翼端は真っ直ぐ飛行状態でしたが、右翼側は折った状態でした。


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とにかくその繊細さが強く印象に残りました。

こりゃ、不用意に踏んだら壊れる訳だよ。


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駐車場奥にも展示機が。


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     山梨県・河口湖自動車博物館・飛行館         
河口湖自動車博物館・飛行館 データ
所在地:山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内
座 標:35°27'13.4"N 138°44'27.5"E
標 高:1,107m
開 館:8月中
運用時間:10:00~16:00
入館料:大人1,500円
(座標、標高はグーグルアースから)

関連サイト:
公式サイト 
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山梨に行った話 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ河口湖自動車博物館・飛行館→Ⓐ自宅

8月末、河口湖自動車博物館・飛行館に行ったのでした。

ここは1年のうち、8月しかオープンしていません。

7:10 自宅発


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10:55 到着。

駐車場無料。

10km四方の車が全部ここに集結したんじゃないかと思う程、駐車場も館内も混雑してました。

飛行館の入館料は大人1,500円。


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こちらは同じ敷地内にある自動車館。

飛行館よりずっと立派な建物なのですが、こちらは入館料大人1,0000円。

オイラは入りませんでしたけど(キリッ)

そしてドコにも寄らずに真っ直ぐ帰路に就いたのでした。

15:20 自宅着。

おしまい。


走行距離:271.9km
燃費:29.4km/L

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東京都・中島飛行機三鷹研究所跡 [├場所]

   2023年6月訪問  



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撮影年月日1944/10/16(昭19)(8911 C1 57) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

東京都三鷹市大沢3丁目。

大学、SUBARU、公園が整備されているこの場所にはかつて、「中島飛行機三鷹研究所」がありました。

前出の中島飛行機武蔵製作所の南西約4.5kmに位置しています。

米国本土爆撃機「富嶽」用エンジン(ハ54)はここで開発が進められました。

■<研究ノート>中島飛行機三鷹研究所―その建設まで―
■中島飛行機三鷹研究所―その稼働期―

というサイト様 に膨大な聞き取り調査を元にした詳細な資料があり、

拙記事を作るにあたり、大変参考にさせて頂きましたm(_ _)m

創業者の中島氏は当三鷹研究所を、単なる航空機の研究拠点としてではなく、

「航空機を含む先進技術全般の研究開発、政治・経済・社会など国家経営に資する研究も行う総合研究所」

にするという壮大な構想を持ち、世界から各分野の優れた学者を招聘するつもりだったのだそうです(@Д@)

当地の南約1kmに調布飛行場、北東約4.5kmに武蔵製作所、東北東約7.3kmに東京工場がありました。


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赤マーカー地点付近。

研究所当時の正門が現在もICUの正門になっており、

正門から敷地中央に伸びる直線道路(現マクリーン通り)もそのまま残っています。

(以下4枚とも)


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SUBARU 東京事業所。

これまでエンジン、トランスミッション、それに近年ではハイブリッドカーの開発を担ってきたのだそうです。

「ここに一大研究拠点を」という中島氏の遺志を継いだのでしょうか。


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     東京都・中島飛行機三鷹研究所跡         
中島知久平は晩年を研究所敷地南西側にある「泰山荘」で過ごしたのだそうです。

中島飛行機三鷹研究所 データ
所在地:東京都三鷹市大沢3丁目
座 標:35°41'09.7"N 139°31'55.5"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1940年 晩春 土地買収開始
1941年 12月 8日 地鎮祭
1944年 春頃 鉄筋三階建ての設計本館完成。その後組立工場完成
      初夏 中心となる発動機試作工場・設計本館(研究本館)・格納庫が本格稼働
1945年 終戦
1950年 泰山荘を含む周辺地が国際基督教大学所有となる

関連サイト:
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東京都・武蔵野ふるさと歴史館 [├場所]

   2023年7月訪問  



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前記事に登場した武蔵境駅から線路沿いに800mほど下った所に、武蔵野ふるさと歴史館があります。

オイラがお邪魔した際、ちょうど

米軍宿舎返還50年 戦争と武蔵野Ⅸ ~Target から Green Parkへ~ 2023.7.29-9.28

という企画展がありました。

分かり易い展示と丁寧な説明。

分野も量もかなりのものだったのですが、オイラの興味のある一部分だけ以下ずらずらと。
 

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中島飛行機の工場拡張
第1次拡張期
昭和9年(1934) 太田工場(太田製作所)の設立
昭和12年(1937) 武蔵野製作所の新設決定
昭和13年(1938) 田無鋳鍛工場の設立(後の中島航空金属株式会社)
  武蔵野製作所の竣工
  太田、東京(荻窪)、武蔵野、田無の各製作所が陸・海軍の管理工場に指定
  資本金5,000万円に増資。小泉製作所および多摩製作所の新設決定
昭和14年(1939) 前橋工場の新設決定
昭和16年(1941) 多摩製作所開設
第2次拡張期
昭和18年(1943) 亀岡工場にて板金製部品の生産開始。大宮製作所、浜松製作所の開設
  武蔵野・多摩製作所の合併により武蔵製作所へ改称
昭和19年(1944) 半田製作所の操業開始
  宇都宮製作所の操業開始
  三鷹発動機研究工場、三島機関銃装戴工場の設立
昭和20(1945) 大宮製作所で海軍用エンジンの組み立て、浜松工場で陸軍用エンジンの組み立て開始


中島飛行機とは
中島飛行機の誕生
明治17年(1884)に群馬県に生まれた中島知久平は、海軍軍人を経て民間航空機会社を設立し、
のちに政治家へ転身したという異色の経歴の持ち主です。
知久平が創業した中島飛行機は国内有数の航空機メーカーに育ち、同社が製造した航空機はひ
ろく採用されました。

創業者・中島知久平
知久平は16歳で上京し、海軍機関学校で学びます。海外の留学を経て早くから
航空機の軍事利用に注目しており、大正2年(1913)に横須賀海軍工廠造兵部
飛行機造修工場長として海軍初の国産機を完成させるに至ります。

飛行機研究所の創業と苦悩
海軍を退職した知久平は大正6年(1917)にわずか6名の若手技術者と共に研究
所を発足させます。翌年中島飛行機製作所と改称して航空機開発に努めたもの
の、試験飛行機の大破や墜落に見舞われるなど苦労の連続でした。

中島飛行機の拡大
知久平らは大正8年(1919)に四型機の試験飛行に成功し、これを改良した五型
機は陸軍への納入に至ります。大正13年(1924)に東京工場を井荻町(現 杉並
区)に建設し東京進出を果たします。

地域を調べ、学ぶ大切さ
中島飛行機は群馬県をはじめ、東京、埼玉などで大規模な工場を次々に建設し
ました。武蔵野市のみでは、巨大な航空機メーカー中島飛行機の全体像は見え
ません。例えば、武蔵製作所はエンジンを製造する工場であり、太田製作所(現
群馬県)等へ輸送して組み立てることではじめて飛行機の形になりました。
航空機は数万点の部品を必要とすることから、中島飛行機に部品を納品したた
くさんの企業が存在しました。地域の資料を丹念に読み解くことで意外なつな
がりが分かるかもしれません。


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戦争のあしおと
武蔵野製作所・多摩製作所の開設を経て、昭和18年(1943)に両製作所が合併し武蔵製作所とな
りました。最盛期には5万人をこえる人々が働いていたと言われ、武蔵野町の人口も劇的に増加
しました。生産された航空機用エンジンは戦線に送られますが、その生産現場にいた人々もまた
戦線に送り込まれていきました。

武蔵野町への進出
日中戦争の開戦以後、国内の軍需産業は拡大していきます。中島飛行機は昭和
13年(1938)に武蔵野製作所を、昭和16年(1941)に多摩製作所を開設します。
両製作所は昭和18年(1943)に合併し武蔵製作所となりました。
市域の外に目を向けると、先に述べた東京工場は荻窪製作所へ改称され、昭和
16年には三鷹研究所(現 三鷹市)が完成しています。

拡張工事と用地の買収
中島飛行機は製作所周辺の土地を新たに購入することになりますが、武蔵野町
時代の文書からは延命寺(現 武蔵野市八幡町)の土地が1歩(=1坪。3,3㎡)
11円で売却されたと記されています。

武蔵製作所から戦場へ
平成30年(2018)に遺族から寄贈された「寄せ書き入りの日章旗」、令和4年(2022)
に映像制作会社から寄贈された「近藤さんの寄せ書き」は、武蔵製作所で働い
ていた方が戦場へ持参したものです。武蔵製作所で製作されたエンジンが戦場
で使われることは広く知られていても、生産現場の人々もまた戦場へ駆り出さ
れていたことは意外にも知られてません。


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戦争と武蔵野
製作所内から見た戦争
最盛期5万人もの人々が働いたとされる武蔵製作所ですが、同時代に作成された記録は驚くほど
わずかしか残されていません。当時の情報統制のあり様を鑑みると、写真や文書が極めて残りに
くい状態であったことは想像に難くありません。そのような中でもわずかに当時の製作所内の様
子を垣間見る資料が残されています。

長澤副長の手帳
当時武蔵製作所の副長(副工場長)を務めていた長澤雄次氏の遺族から平成30
年(2018)に寄贈されたものです。長澤氏は明治31年(1898)生、東北帝国大
学(現 東北大学)で機械工学を修め、東京製作所副所長、中島飛行機取締役、
大宮製作所(現 埼玉県)所長を経て武蔵製作所の副長を務めました。経営の
中核にいた幹部の同時代の記録はほとんど残されておらず、極めて貴重な資料
です。

付属病院の記録・記憶
中島飛行機は付属の病院を各地に設置しており、そこで勤務する看護婦(看護
師)を自前で養成していました。昭和3年(1928)産まれの上野氏は、自らの卒
業証書を手にしながら当時の様子を語ってくれました。
また、附属病院の日誌には長澤副長の記録と同日の記録が残されており、「数
十名ノ患者ヲ収容」した旨記されています。

市民の証言
昭和12年(1937)生の小峰光弘氏は、実の姉が武蔵製作所に勤務していました。
初空襲(昭和19年(1944)11月24日)の際に姉の帰宅が遅く、夜中に血と埃だ
らけで呆然として帰宅していたこと、その後空襲警報の度に姉が布団にくる
まっておびえていたことを覚えており、凄惨な現場の記憶を間接的に継承して
います。


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歴史公文書から見た戦争
戦争が本格化し、様々な形で戦争が市民の身近に近づいてきます。例えば資源の回収の場合、当
初は金属製品のうち不用品の回収として行われますが、回収対象となるものは増え続けます。周囲
から徴兵・応召により戦地に人が送られ、武蔵製作所を皮切りに米軍の空襲を受け、「戦火」が
市民に迫ります。

金属や資源の回収
不用品から門扉や鉄柵、寺院の梵鐘などにも対象が広がり、武蔵野町では昭和
19年(1944)4月27日に消防団警鐘台(火の見やぐらのこと)まで回収された
という記録が残されています。

移転への補助
武蔵野町では強制的な疎開はありませんでしたが、親類等を頼って自主的に避
難する縁故疎開などの様々な移転の動きがあり、町も財政的な支援を行いまし
た。「移転奨励金交付規定」を制定し、地方への転出者に対し1,330世帯分40万
円の追加予算を町会(町議会)が可決します。当時の武蔵野町は1万1,261世帯
ですから、1割強の世帯への交付を想定していたようです。

被害の記録
武蔵製作所に隣接する源正寺(現 武蔵野市緑町)が受けた被害について、武
蔵野町役場に届けられた文書が残されています。度重なる空襲の被害により甚
大な被害を受けた本堂の再建を断念し、取り壊すことを届け出たものです。

戦時下の公文書
一般に、終戦時に多くの公文書が焼却等の処分を行われたとされています。武蔵野町
役場における処分命令の収受等については詳らかではありませんが、少なくとも軍事、
特に徴兵に関する文書は全くと言っていいほど残されておらず、歴史公文書として移
管されたものもありません。断言はできませんが、処分の実施が強く推測されます。


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日本の新聞から見た戦争

情報統制が厳しい当時の日本において、国民が得られる貴重な情報源の一つが新聞でした。当
時の国民はどのような情報を得て日々の判断の材料としていたのでしょうか。

情報源としての検討
当時の新聞は政府の統制下にあり、事前に検閲を受けなければなりませんでし
た。「新聞に掲載されたから事実である」とするのは早計です。十分に内容を検
討し、クロスチェックする必要があります。

同時代の人の考えに寄り添うには
未来に生きる私たちは、過去に起きた事象の「結果」を知っています。一方、
当時の人々は未来を完全に知ることはできません。実は「当時の国民がどのよ
うな情報をもとに判断を強いられていたのか」ということを知ることは研究に
おいてとても大切なことです。
資料は使い方をしっかり考え、適切に使いこなすことがとても大切です。

資料の保存
当時の新聞は一般的にそれほど上質の紙を用いていません。新聞は高速で大量
の印刷を行うため輪転機という機械を使います。また、インクのにじみ止めが
紙の両面を対象に施されています。一般にインクのにじみ止めに使われる薬品
は酸性であることが多く、これが紙本体を浸食してしまい時間の経過とともに
ボロボロになりやすいのです。

資料の修復・デジタル化
現物の資料を取り扱うには慎重な作業を要します。しかし、劣化が著しい資料
は必要最低限の修復を施し、利用の頻度を極力減らすため撮影等のデジタル化
が有効です。


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米軍から見た空襲

武蔵野ふるさと歴史館は米国国立公文書からからの資料収集を継続して実施しています。米軍は、
武蔵製作所を攻撃するにあたり偵察飛行の実施をはじめとした詳細な情報収集を行いましたが、
実は事前分析・作戦の実施・結果の検証がセットになっており、膨大な資料を蓄積していました。
これを連邦政府の公文書館であるNational Archivesで所蔵し、現在世界中の人々に無料で
公開しています。

事前の偵察
戦略爆撃機B29には様々なバリエーションの機体が存在しており、その中の一
つであるF13は写真偵察機として本土空襲実施にあたり情報収集を行いまし
た。武蔵製作所上空には何度も飛来し、大量の写真を提供し続けました。

作戦の記録
作成を左右する情報はあらゆるものと言って良いほど残されています。当日の
天候、飛行時の状況、離陸の失敗・目標未到達・未帰還それぞれの航空機番号
とその理由…といった具合です。

戦後の情報収集
戦時中、米軍は生産施設の破壊のための成果を正確に把握するよう努めますが、
「製作所の中」に関する情報収集の手段がありませんでした。しかし、戦後米軍
は陸海軍の合同機関「戦略爆撃調査団」を組織し、日本側へ資料提出を求め、
必要であれば関係者への尋問等を行って膨大な資料・情報を収集して報告書を
作成しました。この「最終報告書」が現在私たちが当時を研究するための最も
基本的な資料になっています。


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     東京都・武蔵野ふるさと歴史館         
武蔵野ふるさと歴史館 データ(2023/11現在)
所在地:東京都武蔵野市境5丁目15-5
開館時間:午前9時30分~午後5時
休館日:金曜日、祝日、年末年始、特別整理日
入館料:無料

関連サイト:
武蔵野市/武蔵野ふるさと歴史館 
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東京都・武蔵製作所の引き込み線跡 [├場所]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1944/11/07(昭19)(8921 C6 132) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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1/25000「吉祥寺」昭和2年修正「今昔マップ on the web」から作成 


前記事の中島飛行機武蔵製作所から中央本線武蔵境駅に引き込み線がありました。

上の航空写真、赤矢印で指しているのが引き込み線です。

先頭のグーグルマップはこの航空写真と、武蔵野市作成の説明板の引き込み線図を比較しつつ作図しました。

それからすぐ上に貼った地図は、昭和2年のもの(武蔵製作所完成の11年前)で、

武蔵境駅から境浄水場まで専用線が引かれています。

武蔵境駅~武蔵製作所までの引き込み線を敷設した際、境浄水場の専用線を一部流用しています。

(今昔マップ、当時の航空写真で線形を確認しました)

詳しくはやまおじさんのコメント欄をご覧ください。

やまおじさんありがとうございましたm(_ _)m

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赤マーカー地点。

ぎんなん橋


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ぎんなん橋の傍らに説明版がありました。

武蔵野の戦争の記憶を訪ねて(全文)
中島飛行機 武蔵製作所 工場引き込み線 橋台跡

 現在の都立武蔵野中央公園らか市役所あたりまでには、かつて戦前の日本を代表する航空機メーカーであ
った中島飛行機株式会社武蔵製作所という軍需工場がありました。
 工場は、昭和13(1938)年から20(1945)年まで稼働し、零戦や隼などの軍用機のエンジンを生産
していました。この工場への物資輸送のため、武蔵境駅から工場まで引込線が敷設されました。戦争末
期、工場はアメリカ軍による激しい空襲を受けましたが、その際、この引込線や隣接する境浄水場も被
弾しました。
 戦後、昭和26(1951)年、工場跡の一角に「東京スタジアムグリーンパーク野球場」が開設され、プ
ロ野球観戦などの観客輸送のため、引き込み線は敷き直され、三鷹駅からの国鉄「武蔵野競技場線」として
生まれ変わりました。しかし、間もなく野球場は閉鎖され、引き込み線も昭和34(1959)年に廃止になり
ました。
 その後、玉川上水から北側は、「グリーンパーク遊歩道」として、また南側は「堀合(ほりあわい)遊歩道」
(三鷹市)として生まれ変わりましたが、この場所には、コンクリート製の橋台だけが残されました。平成
24(2012)年、都道の建設に伴い、橋台の上に「ぎんなん橋」が設置されました。
 この橋台跡は、工場への引き込み線の遺構で唯一残った戦争遺跡です。

この橋台は現存しているのですが、オイラは見落としてました。

超ガックシ_| ̄|○ il||li

ブログ:MacとCameraの言いたい放題2で見れます 

an-kazuさんありがとうございましたm(_ _)m


説明板に記されている通り、戦時中この引込線も被弾しました。

戦後、工場跡の一角に球場が作られ、「観客輸送のため、引き込み線は敷き直され」とありますが、

これは被弾部分を修復したこともあるのでしょうが、

武蔵境駅に繋がっていたのを、お隣の三鷹駅に線路を付け替え、

それから工場敷地内を走る線路も観客に都合の良いように、球場近くに線路の付け替えをしました。

その後、球場は閉鎖され、ほどなく引き込み線も廃止され、線路跡は遊歩道として整備されました。

工場用引き込み線敷設
   ↓
被弾、終戦
   ↓
武蔵野競技場線として敷き直し
   ↓
球場閉鎖、路線廃止
   ↓
線路跡を遊歩道として整備

線路目線で時系列にするとこんな感じ。


ということで、線路跡の一部が現在も遊歩道になっているのですが、

戦時中工場用に使用されていた線路跡も、戦後敷き直された線路跡も、

どちらも遊歩道になっています。

このため、元競技場用線路だった遊歩道のことを「ここは元工場用線路だった」と見なす等、

ネット上では一部、情報が錯綜しています。




     東京都・武蔵製作所の引き込み線跡         
武蔵製作所の引き込み線 データ
所在地:東京都武蔵野市、三鷹市

沿革
中島飛行機武蔵製作所への物資輸送のため引込線敷設
1945年08月 終戦
1951年04月 武蔵野競技場線開業
     05月 東京スタジアムグリーンパーク野球場竣工(1シーズンで閉鎖)
1952年    武蔵野競技場線休止
1956年    球場解体
1959年11月 武蔵野競技場線廃止
2012年    橋台の上にぎんなん橋設置

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明板


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東京都・中島飛行機武蔵製作所跡地 [├場所]

   2023年7月訪問  



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撮影年月日1944/11/07(昭19)(8921 C6 132) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1/25000「吉祥寺」昭和20年部修「今昔マップ on the web」から作成 


東京都武蔵野市。

ここに中島飛行機武蔵製作所がありました。

日本の軍用機用エンジンの約3割を賄う、一大軍需工場でした。

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赤マーカー地点。

通りからひょいっと入ってすぐの所に中島飛行機武蔵製作所工場 正門跡の説明版があります。


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武蔵野の戦争の記憶を訪ねて(全文)
中島飛行機 武蔵製作所 工場正門跡
 現在の市役所から都立武蔵野中央公園にかけて、戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株
式会社のエンジン製造工場であった武蔵製作所という巨大軍需工場がありました。敷地面積は、約56万㎡、東京
ドーム約12個分の広さでした。この工場では、約5万人の従業員が働き、日本の軍用機用エンジンの約3割ほどを
生産していました。このため、第二次世界大戦末期には、アメリカ軍の爆撃機B29によるマリアナ諸島からの日
本本土最初の攻撃目標となり、終戦までに合計9回もの爆撃を受けました。死者は、工場の従業員だけでも200
名以上、負傷者は、500名以上といわれており、周辺の一般住民にも多くの犠牲者が出ました。
 現在、高齢者総合センターがあるこの場所は、当時、工場の正門入口があった場所です。(右写真参照)中島飛
行機は、1938(昭和13)年、陸軍専用工場の「武蔵野製作所」(写真右側)を、この地へ進出させ、この場所に
工場の正門が作られました。その後、1941(昭和16)年に武蔵製作所の西隣に海軍専用工場の「多摩製作所」
が完成し、1943(昭和18)年、両工場は合併を経て、中島飛行機武蔵製作所「東工場」、「西工場」とそれぞれ名
称が変わりました。
 当時、この正門から出入りできる社員は、工場の幹部クラスだけと言われており、一般の従業員は、別の入口
から、工場敷地内に数キロメートルにおよび張り巡らされていた地下道を通り各職場に通っていました。


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説明版一部拡大


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青マーカー地点。

武蔵野中央公園内にある「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」


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(一部拡大)

Ⅰ(全文)
ここは、東洋一といわれた航空機エンジン工場=中島飛行機武蔵製作所の跡地であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲の最初の目標となった場所です。

 この都立武蔵野中央公園の場所には、戦時中、中島飛行機武蔵製作所という東洋一といわれた航空機エンジン(当時は「発動機」と呼ばれました)の大工場がありました。零式戦闘機(通称「零戦」)や一式戦闘機「隼」のエンジンもこの工場で製造されていました。そのために、先の大戦末期の1944(昭和19)~1945(昭和20)年にかけて、アメリカ軍によって激しい空襲を受けました。
 アメリカ軍は、1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島サイパン島を占領し、そこに大型爆撃機B29の基地を築きます。そして、同年11月24日には、同島から日本本土空襲を開始しました。その最初の目標が、この中島飛行機武蔵
製作所でした。それ以後、この工場は合計で9回の空襲を受け、工場内だけで200名以上の犠牲者、工場をはずれた爆弾によって周辺の地域でも数百名の市民が巻き添えとなりました。
 この説明板のある場所は工場のほぼ中心にあたり、空襲の際には「爆撃照準点」(Aiming Point)として、たびたび標的となりました。

-中島飛行機株式会社‐
 ここに工場を開設したのは、中島飛行機株式会社という戦前日本の航空機製造のトップメーカーでした。同社は、群馬県出身の海軍機関大尉であった中島知久平(1884-1949年)が、兵器としての航空機に注目し、その開発・製造には民間企業の創設が必要であるという考えから海軍を辞め、1917(大正6)年に郷里で飛行機研究所を創設したことに始まります。やがて、太田製作所(陸軍・機体組立)、小泉製作所(海軍・機体組立)など群馬県を中心として、おもに東日本に展開しました。東京では、1925(大正14)年に、エンジンの設計・製造のため、東京製作所(後の荻窪製作所)が開設されたのが最初です。
 同社は、日中戦争(1937~45年)、太平洋戦争(1941~45年)にともなって急成長を遂げます。同社の代表機は、九七式艦上攻撃機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」、夜間戦闘機「月光」などです。その他に、三菱重工業株式会社が開発した「零戦」も、エンジンはすべて中島飛行機で製造され、機体も3分の2が中島飛行機で製造されました。太平洋戦争期には、中島飛行機株式会社と三菱重工業株式会社の2社で日本の航空機全製造機数の6割以上を製造しました。

-中島飛行機武蔵製作所について-
 1937(昭和12)年、日中戦争の始まるこの年、軍部は航空機各社に対して増産を要求します。中島飛行機では、当初、東京製作所の拡張を検討しますが、周辺地域の市街地化のため断念し、北多摩郡武蔵野町に新工場を建設することとなります。


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Ⅱ(全文)
-中島飛行機武蔵製作所について-
<陸軍専用工場・武蔵野製作所(のちの東工場)>
 こうして、1938(昭和13)年に北多摩郡武蔵野町西窪(現緑町)に、最初に開設されたのが、陸軍専用の発動機工場
である武蔵野製作所です。この場所が選ばれたのは、まとまった広い土地が得られることのほか、青梅街道を使えば
荻窪にも近く、陸軍所沢飛行場や群馬県の機体組立工場への輸送にも便利だったからです。
 武蔵野製作所の開設当初の建物は、時計塔を備えた本館など一部を除き、鉄骨スレートぶき、鋸屋根の平屋建て
の建物であり、面積は12万㎡の大工場でした。後に工場の北側には、地下1階地上3階一部4階の鉄筋コンクリート
造りで近代的な建物の組立工場や、北西側には、発動機の試運転工場が増設されます。
 これらの工場建物は、地下道でつながれていました。これは工員たちが効率的に移動するためと、生産工程で
排出される切子(きりこ)などの廃棄物を地下に落し、電気トロッコで回収するためでした。

<海軍専用工場・多摩製作所(のちの西工場)>
 一方、多摩製作所は、1941(昭和16)年に海軍専用工場として、武蔵野製作所の隣接地である北多摩郡武蔵野町関前(現八幡町)に作られました。地下1階地上3階一部4階の鉄筋コンクリート造りの近代的建物でした。建坪は5万3千㎡ながら、総床面積は23万㎡に及びました。建物は、東西に翼を広げるように、6棟が中央部で連結され、流れ作業で部品を製造し、組み立てていくシステムになっていました。中央部には、大型のエレベーターも設置されていました。

<両工場の合併・武蔵製作所>
 武蔵野製作所と多摩製作所では、それぞれに、同じ「栄」型エンジンが盛んに製造されていましたが、陸海軍の間での秘密保持のため、二つの工場は壁で仕切られ、技術の開発から資材の調達に至るまで、別の組織として運用されていました。
 しかし、戦局の悪化する1943(昭和18)年末には、「行政査察」の結果、合併が命じられます。こうしてできたのが武蔵製作所です。合併後は、武蔵野製作所が東工場、多摩製作所が西工場と呼ばれました。
 なお、1945(昭和20)年4月、重要軍需産業の国営化の方針に基づき、中島飛行機株式会社は「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」となりました。

<働いていた人は4万5千人とも、5万人とも>
 合併によって工場に働く従業員は、数万人に達しました。その中には、国家総動員法に基づく国民徴用令で動員された徴用工や、少年工として農村などで採用された青少年も多数いました。さらに、1944(昭和19)年4月になると、学徒勤労動員が本格的に始まり、中島飛行機武蔵製作所にも、大学、専門学校、中等学校などから学生・生徒が続々と動員されました。最終的には、約40校、数千人に達したと推定されます。
 最盛期を迎えたこの頃、中島飛行機武蔵製作所には、「一機でも多く、戦地に」という掛け声の下に、4万5千人から5万人が、2交代あるいは3交代で働き、24時間体制で操業していました。


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Ⅲ(全文)
-B29のマリアナ基地配備と日本本土空襲-
 一方、アメリカ軍は、1944(昭和19)年6月半ば、日本の南、約2,400㎞に位置するマリアナ諸島サイパン島に上陸し、7月には占領しました。続いて、アメリカ軍は、グアム島、テニアン島も占領し、これらの島々に大型爆撃機B29の基地を建設します。
 B29は、4つの高出力エンジンを備え、1万mの高高度でも飛行できる性能を持ち、マリアナ諸島から発進して、宮城県以南の日本本土を爆撃し、再びマリアナ基地に戻ることができる航続能力を備えていました。原爆の投下を行ったのも、この爆撃機です。
 アメリカ軍はサイパン島占領後、1944(昭和19)年10月頃には基地を整備し、B29の配備を開始しました。11月になると偵察機を飛ばし、日本本土の詳細な空中写真を撮影します。こうして、1944(昭和19)年11月24日には、マリアナ基地配備のB29が、最初に日本本土で空襲を行ないました。この空襲の第一目標が中島飛行機武蔵製作所でした。

<9回に及んだ空襲>
① 高高度精密爆撃=初期の空襲(4回)
 1944(昭和19)年11月24日の初めての空襲では、工場内だけでも57名が犠牲となり、負傷者も多数に及びました。12月3日には第2回の空襲があり、この空襲でも60名が犠牲になりました。特に12月3日には勤労動員の学生・生徒も十数名が亡くなり、また武蔵野町でも、この日、初めて市民の犠牲者が出ました。
 空襲は、その後、12月27日(第3回)、翌年1月9日(第4回)にもありました。
 これら4回の空襲は、「高高度昼間精密爆撃」といって、高度約1万m上空から、目標である工場を狙って爆弾を投下する方法で実施されました。しかし、実際には精度が悪く、工場の破壊という目標には遠く及ばないものでした。

② 海軍航空母艦から発進した小型機による空襲
 1945(昭和20)年2月半ば、アメリカ軍は、日本本土から南に約1,250kmに位置する硫黄島への上陸作戦を実施します。この作戦に当たり、海軍航空母艦(空母)に搭載された多数の小型の爆撃機(艦載機という)によって、関東地方のおもな軍事施設および軍需工場が激しく攻撃されました。その数は1千機といわれ、2月16~17日の2日間にわたって行われました。
 中島飛行機武蔵製作所でも、2月17日に3隻の空母から発進した63機の爆撃機によって、低い高度から爆弾やロケット弾を投下されました。そのため、この日だけで、工場内で80名が犠牲となったほか、建物も大きな損害をうけました。これは9回の空襲の中で最大の損害でした。
 アメリカ軍の空襲は、この作戦が契機の一つとなって大きく転換していきます。すなわち、B29による空襲も高度が下げられ、爆弾も大量化、大型化していきます。3月10日、東京下町に対する空襲(東京大空襲)は、夜間に低高度から市街地に対して、大量の焼夷弾を使った空襲であり、多くの市民が犠牲になりました。


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Ⅳ(全文)
-B29のマリアナ基地配備と日本本土空襲-
③ 激しかった4月の空襲
 中島飛行機武蔵製作所をはじめとする多摩地域の軍需工場に対しても、4月に激しい空襲が立て続けに行われました。まず、4月2日の未明に、低高度から大量の爆弾が投下されました。しかし、工場内では、運動場(現在の武蔵野陸上競技場)から武蔵第一青年学校(前中島飛行機株式会社武蔵野青年学校。現武蔵野市立第四中学校)にかけて落下しただけで、ほとんどの爆弾は、広く北多摩東部の畑地や市街地に落ちました。そのため、現在の練馬区、西東京市を中心として、多くの市民が犠牲となりました。
 4月7日および12日は、硫黄島から戦闘機P51の援護をともなってB29が飛来し、昼間に中高度から大型の1トン爆弾が多数投下されました。7日は工場内に集中しましたが、12日は工場を大きく逸れ、田無駅北側の市街地で多数の犠牲者を出したほか、関前高射砲陣地に落下し、兵士や作業員が多数犠牲となりました。

④ 原爆模擬爆弾と最後の空襲
 その後、中島飛行機武蔵製作所に対する空襲は、しばらくありませんでしたが、4月以降は、硫黄島からP51戦闘機が飛来するようになり、各地で機銃掃射が行われるようになります。6月には沖縄戦が終結、いよいよアメリカ軍の日本本土への上陸=「本土決戦」が迫る中、全国各地の都市が、焼夷弾の空襲を受けるようになります。また、これと並行して、軍需工場などへの空襲も激しさを増しました。
 7月末からは、原爆投下の為の特殊部隊によって、原爆の投下訓練とデータの収集のため、全国で約50か所に原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)が投下されました。原爆模擬爆弾とは、長崎型原爆と同じ形の爆弾で、そこに通常の爆薬を充填したものです。7月29日、そのうちの1発が中島飛行機武蔵製作所をめがけて投下されました。しかし、目標をはずれて、現在の西東京市柳沢に落下し、農作業中の女性と子どもが亡くなりました。

 1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が、同9日、長崎に原爆が投下されます。その間にも、全国各地で激しい空襲が繰り返されていました。しばらく空襲のなかった中島飛行機武蔵製作所にも、8月8日、西工場を狙った空襲が行われました。鉄筋コンクリート3階建ての西工場の3棟目東側は、この空襲で完全に破壊されました。しかし、この日の空襲でも、工場をはずれた爆弾が関前などに落下し、大勢の市民が犠牲となりました。
 なお、空襲が始まると、工場疎開も行われました。疎開先は、浅川(現八王子市)や大谷(栃木県)のような地下工場を主としながら、産業大学(現一橋大学)、興亜専門学校(現亜細亜大学)などの学校の施設や町工場などでしたが、
工場の分散や資材不足で生産能力は著しく低下しました。


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Ⅴ(全文)
-戦後の歩み-
 1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏し、長い戦争は終わりました。武蔵製作所は、激しい空襲のため、工場として再開されることはありませんでした。しかし、鉄筋コンクリート造りの建物は、多くが改修され、再利用されます。東工場で増設された北側の組立工場は、1950(昭和25)年に移転してきた電気通信省(電電公社を経て、現
NTT株式会社となる)「電気通信研究所2号館・3号館」となりました(2001(平成13)年解体)。また、武蔵第一青年学校(旧武蔵野青年学校)校舎は、慶応大学医学部による一時利用を経て、1953(昭和28)年には、武蔵野市立第四中学校の校舎(旧校舎)となります。西工場は、サンフランシスコ平和条約で駐留を続けた在日米軍立川基地のための住宅「米軍住宅グリーンパーク」となりました。
 東工場の工具工場の一角にあった変電室は、1956(昭和31)年に建設された都営武蔵野第二アパートの管理事務所棟として再利用されました(この説明版の場所に建っていましたが、2015(平成27)年に解体)。現在はこれらすべてが姿を消しています。
 中島飛行機武蔵製作所の跡地は、東工場部分は都営アパートに、西工場部分は都立武蔵野中央公園や都立武蔵野北高等学校、東工場北側の組立工場やエンジン試運転場は、NTT武蔵野研究開発センタなどに生まれ変わっています。また、工場の敷地では、現在UR都市機構武蔵野緑町パークタウンや武蔵野市役所がそれに該当します。武蔵野
陸上競技場は、中島飛行機武蔵製作所の運動場でした。なお、UR住宅の場所は、「東京スタジアム・グリーンパーク」という野球場が作られましたが、砂ぼこりがひどく、1951(昭和26)年の短い期間だけ実働し、廃止されました。

 西工場は、1953(昭和28)年に米軍住宅グリーンパークとして改修の上、利用されますが、返還を求める東京都と都民の運動が実り、1973(昭和48)年に返還が決定、1977(昭和52)年に解体され、1989(平成元)年に都立武蔵野中央公園として開園されました。原っぱのままの広大な公園は、市民の要求が実ったものです。
 子どもたちの歓声があふれる、この公園からは、工場の大きさを感じるだけで、激しい空襲を想像することはほとんどできません。この公園は、戦争から平和への時代の移り変わりを象徴するものといえるでしょう。
資料提供 武蔵野市


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爆撃照準点の隣にありました。


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     東京都・中島飛行機武蔵製作所跡地         
中島飛行機武蔵製作所 データ
設置管理者:中島飛行機→国
所在地:東京都武蔵野市八幡町、緑町
座 標:35°43'06.7"N 139°33'37.8"E
面 積:56ha
(座標はグーグルアースから。面積は説明板から)

沿革
1937年 武蔵野製作所の新設決定
1938年 陸軍専用の「武蔵野製作所」開設。太田、東京(荻窪)、田無の各製作所と共に軍の管理工場に指定
      多摩製作所新設決定
1941年 武蔵製作所の西隣に海軍専用の「多摩製作所」完成
1943年 両工場は合併し、中島飛行機武蔵製作所「東工場」、「西工場」と名称変更
1944年 4月 学徒勤労動員が始まる
     11月24日 B29による初空襲(高高度昼間精密爆撃)
     12月3日 2回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
     12月27日 3回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
1945年 1月9日 4回目の空襲(高高度昼間精密爆撃)
     2月17日 5回目の艦爆による空襲
     4月2日 6回目の空襲(低高度爆撃)
     4月7日 7回目の空襲(1トン爆弾による中高度爆撃)
      12日 8回目の空襲(1トン爆弾による中高度爆撃)
     重要軍需産業の国営化の方針に基づき、「第一軍需工廠第十一製造廠」となる
     7月29日 (パンプキン爆弾投下)
     8月8日 9回目の空襲
      15日 終戦
1950年 東工場で増設された北側の組み立て工場が電気通信研究所2号館・3号館となる
1953年 武蔵野青年学校校舎が慶応大学医学部による一時利用を経て武蔵野市立第四中学校校舎となる
     西工場が米軍住宅グリーンパークとして改修される
1973年 米軍住宅グリーンパーク返還決定
1977年 米軍住宅グリーンパーク解体
1989年 米軍住宅グリーンパーク跡地に都立武蔵野中央公園開園

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東京都・中島飛行機東京工場跡地 [├場所]

   2023年7月訪問  



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撮影年月日1944/10/16(昭19)(8911 C2 73) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1/25000「吉祥寺」昭和2年修正「今昔マップ on the web」から作成 


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東京都杉並区桃井3丁目にあった「中島飛行機東京工場」。

エンジンメーカーとしての地位を確立した「寿」、零戦や隼に搭載された「栄」等、

航空機エンジンを開発、生産しました。

現在は公園、団地等になっています。


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赤マーカー地点。

公園の一角に碑が建立しています。


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ロケット発祥の地(全文)
 戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発の更なる発展を祈念するものである。平成13年11月


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     東京都・中島飛行機東京工場跡地         

中島飛行機東京工場 データ
所在地:東京都杉並区桃井
座 標:35°42'45.9"N 139°36'25.1"E
面 積:
(座標はグーグルアースから)

沿革
1925年 東京工場開設
1930年 「寿」を開発
1931年 中島飛行機株式会社に商号変更
1936年 「栄」を開発
1938年 太田、武蔵野、田無の各製作所と共に軍の管理工場に指定
1945年 4月 中島飛行機は第一軍需工廠に移管。東京工場は同工廠第23製造廠となる
     8月 終戦処理命令により、第一軍需工廠は解散。富士産業に商号変換
1950年 富士産業(株)から第2会社15社が分離・独立富士精密工業(株)(旧東京工場)発足
1955年 ペンシルロケット初フライトに成功
1961年 富士精密工業(株)は、プリンス自動車工業(株)に商号変更
1966年 日産自動車(株)と合併。同社荻窪工場開設
1998年 日産自動車(株)荻窪工場は、群馬県富岡市に移転
2011年 区立桃井原っぱ公園開園

関連サイト:
すぎなみ学倶楽部 
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東京都・ホンダウエルカムプラザ 青山 [├場所]





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guchiさんにイベント情報をお知らせ頂き、最終日に滑り込みでお邪魔してきたのでした。

受付のおねーさんに「撮っちゃいけないものはありますか?」とお尋ねしたところ、

「是非なんでも撮ってください」(にっこり)とのことで、免罪符を得たオイラはいろいろ撮ったのでした。


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平日、しかもオープン間もない時間帯だったからなのか、すいてました。

(極力人が入らない瞬間狙ってますけど)

最新モデルから歴史的なエンジン、海外の珍しい車やバイクなど、いろいろ展示されてました。

特にオイラが気になったものだけアップします~。


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「自転車に小型エンジン付けた」って、どんなだろうと思ってたんですが、

やっと現物見れた。


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ウイングマークといえばホンダバイクの代名詞ですけど、こんなデザインがあったんですね(@Д@)


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ホンダジェットのエンジン


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eVTOL用ガスタービン発電機。

左側の円筒がガスタービンで、


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手前側が発電機。

今日はeVTOLとガスタービン発電機さえ見れれば、他は見れなくてもいいと思ってました(しっかり全部見たけど)。

現在世界中で開発が進められているeVTOLはほぼバッテリー+モーターの組み合わせのため、

航続距離は100km前後なのですが、市場が求めているのはもっと航続距離の長いものだそうです(ホンダ調べ)。

ホンダのeVTOLはガスタービン発電機+モーターの組み合わせで航続距離は400km程度。

クルマと飛行機の間を目指すのだそうです。

型式証明取得のためだけに1,000億円の資金が必要になるのだそうで、

雨後の筍状態のベンチャー企業にとっては、これが大きな障壁となる一方、

コア技術と型式証明取得のノウハウを既に持つホンダは十分勝機があると考えているのだそうです。

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環七滑走路跡 [├国内の空港、飛行場]

   2023年7月訪問  



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航空写真:A
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航空写真:B
撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)

東京都道318号環状七号線、通称「環七」。

大戦末期、この環七の一部が滑走路として整備されたとする資料があります。

正式名称不明のため、当記事では便宜的に「環七滑走路」として以下話を進めます。

この資料は、以前赤羽飛行場■ で大変お世話になった、

「北区の歴史を学ぶ会」の本間様からお送り頂いて初めて知りました。

本間様どうもありがとうございましたm(_ _)m

因みに現在のところ、ネット、防衛研究所収蔵資料等オイラの手持ち資料には、

ここが滑走路だったとする情報はなく、頂いた資料が唯一のものです。


航空写真:Bから明らかですが、

当時の環七は、国道17号より西側と、国道122号より東側がブツ切れ状態です。

国道122号の東側には隅田川が横たわっていますが、未だ橋脚工事の雰囲気もありません。

実は隅田川を越しても、すぐ先には荒川がラスボス的存在で待ち構えています。

昭和2年の建設計画に盛り込まれた環七は、都心部を環状に大きく囲む形の道路なのですが、

頂いた資料によりますと、国道17号と国道122号の連絡のため、

上に貼った航空写真の部分がいち早く着工したのだそうです。

「国道17号と国道122号の連絡」という意図を知れば、

こんな短い部分だけ先行工事をする意味は十分納得ですね。

余談ですけど、都心部に向かう放射状の道路は充実している一方、

環状道路の整備は令和の現代に至るまで続いており、

埼玉在住のオイラからすると、横方向の道路は近年ようやくが整ってきた。という感覚です。


話を戻します。

先行して着工した環七の「国道17号~国道122号」区間だったのですが、

頂いた資料によりますと、

その後陸軍により用地収容と整備が積極的に進められ、大戦末期の時期には本土決戦に備え、

道路幅を50mに再拡張し、飛行機の離着陸が計画され、建物の強制撤去が行われました。

軍隊がやって来て、柱を鋸で切り綱をつけて引っ張り次々と家が取り壊されていきました。

そこまでして拡幅を進めたのですが、結局一機も飛ぶことなく終戦を迎えました。

そして戦後の昭和25年、ホンダは北区上十条5丁目26番地に東京工場を設置(紫マーカー)。

この拡幅部分をオートバイの試走路として使用しました。

資料には、滑走路にされかけた直線道路を目当てにこの地を工場用地として選んだのではないか。とありました。

ということで、現地にお邪魔してきました。


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赤マーカー地点。

姥ヶ橋交差点には現在陸橋が設けられています。

ここから西に向かって拡幅されました。


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赤マーカー地点。

陸橋下。

外回り側から滑走路方向。


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赤マーカー地点。

陸橋下。

内回り側から滑走路方向。


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青マーカー地点。

姥ヶ橋方向。

姥ヶ橋交差点からここまで650mは直線なんですよね。

もしかしたら滑走路はここまでだったかも。


DSC_1189_00001.jpgDSC_1190_00001.jpg
黒マーカー地点。

地上では環七と中山道が平面交差。

すぐ上には中山道陸橋があり、更にその上には首都高5号線。

おまけにこの真下は板橋本町駅。

東京スゲェ(☆Д☆)


DSC_1188_00001.jpg
こちらも黒マーカー付近。

姥ヶ橋交差点方向。

なんか陸橋ばっかしで見通し悪いですね。

途中にある歩道橋から撮ればヨカッタ。



(追記)

ここを滑走路と見なす妥当性について思いつくところを書いてみます。


1944.png
①撮影年月日1944/11/03(昭19)(8922 C1 29) 
1946.png
②撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)


①1944/11/03撮影
②1946/02/13撮影

何れも地理院で閲覧可能な終戦直前/直後のものです。

①では環七の両側に建物がギッシリと並んでいますが、②では左右共にほぼ更地になっています。

これは、「末期に建物の強制撤去」とする資料と合致します。

次に当時の環七の幅を出してみます。


01.png
②1946/02/13撮影の写真 中仙道陸橋付近でレイヤを作って、


02.png
グーグルマップにレイヤ重ねて(拡大/縮小すると角度がズレるので、とにかく道路幅優先)、


03.png
17mと出ました。

これは現在の車道幅と同じです。

環七は当時からこの幅で建設してたんですね。

ここが滑走路だとすると、屈曲部を含めて最大でも740mしかなく、

長さ的にここは戦闘機等小型機用ということになります。

ここから西南西約2.5kmに成増飛行場の秘匿飛行場がありましたが、ここも道路転用型で、

道路幅は12m程度しかないのですが、左右をクリーンな状態にして対応していたようです。

当時の陸軍戦闘機は全幅10~12m、トレッド幅は3m程度なので、左右に障害物がなければ、なんとかなったはず。

因みに、道路拡張型で幅の狭い滑走路はオイラの知る限り以下5例あります。

京都府・舞鶴非常用滑走路跡地(滑走路幅:15m)
大阪府・藤井寺北滑走路(滑走路幅:11m)
同南滑走路(滑走路幅:11m)
岡山県・京橋不時着場(滑走路幅:13m)
岩手県・見前滑走路(滑走路幅:6m)←これは戦後米軍連絡機用

こうした例からすると、環七の舗装幅17m、しかも左右が更地で、50m幅というのは、かなり広々ですね。

ということで、オイラとしましては、ここでの離着陸は十分可能と思うのですが、

前述の通り、現在のところネットや防衛研究所の資料等からここに滑走路があったとする裏付けが

できておりません。

また、環七の左右が更地になっている幅は、50mどころか実際にはもっと広く、

長さも「ここが滑走路」とする範囲よりずっと東西に長いです。

ともかく、滑走路として運用するため更地にしたにしては、強い違和感を感じます。

空襲の影響なのでしょうか。

情報お待ちしておりますm(_ _)m




     東京都・環七滑走路跡         
環七滑走路 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:本土決戦用滑走路
所在地:東京都北区上十条、板橋区清水町
座 標:35°45'45.0"N 139°42'36.0"E
標 高:28m
滑走路:740mx50m?
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
終戦末期、拡幅工事実施

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東京さ行った話 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ環七滑走路跡→ⓒホンダウエルカムプラザ 青山→Ⓓ旧中島飛行機発動機発祥之地→Ⓔ中島飛行機武蔵製作所跡→Ⓕ中島飛行機三鷹研究所跡→Ⓐ自宅


2023年7月末、東京を周って来たのでした。

快晴の1日でした。

6:10 自宅出発。

和光市の関所で通行手形の厳重なチェックを受け、無事東京都内へ。ありがたや。

自宅を出発した時点で気温は既に30℃ (@Д@)

この日、東京の最高気温は36℃でした。

まずは北区の環七をセカセカと約1時間歩き回ったのですが、

気温もさることながら、コンクリートジャングルで逃げ場のない熱気と排ガスが酷い(XДX)

これでかなり体力を奪われました。

1時間後、車に戻ってコインパーキングの清算をしたら、1,000円の表示!!(☆Д☆)

東京コワイ。

その後も見学ポイントでは全てコインパーキングを利用せざるをえなかったさせて頂いたのですが、

その都度熱中症の諸症状を起こしてしまいそうな金額を払うハメに。

うう、東京コワイ。


DSC_1387_00001.jpg


昼食は埼玉県民会館でそこら辺の草天丼。

その後予定していた都内の見学が終了したのが14:20。

自宅からもってきた水2.5Lをすっかり飲み干してしまい、

セブンで飲み物購入。

まだ時間があるし、帰りがてら寄りたい場所があったのですが、

完全にグロッキー(´Д`;)

(翌々日まで調子悪かった)

ということで、大人しく自宅に戻ることに。

16:40 自宅到着。

黒のポロシャツが塩ふいてましたΣ(゚Д゚;)

今回見学した場所は全て初めての場所だったので、この後順番に記事アップします。

(おしまい)


走行距離:126.2km
燃費:26.0km/L

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