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淋代陸軍飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年6月訪問  



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撮影年月日1948/05/15(USA M1011 128) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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1938年11月10日撮影
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国立国会図書館デジタルコレクション(上3枚とも)Bulletin No. 143-44, September 1944. survey of Japanese airfields in Empire area. Report No. 3-h(1), USSBS Index Section 6 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 46, Security-Classified Intelligence Library. 1932-1947. 65 ft = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 各種日本関係情報) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:CINCPAC-CINCPOA: Surveys, air target maps and air information summaries) 

青森県三沢空港の東にあった陸軍の「淋代飛行場」。

情報が極めて少ないミステリアスな飛行場です。

上に貼った英文は、おおよそですが、こんな感じかと。

淋代飛行場は本州東北部に位置しており、
三沢飛行場の1~2マイル以内にあるとされている
1930年、飛行場は6,500ftあり、国内最高の飛行場の一つでした。
現時点では、主に海軍の不時着場および水上機の停泊地として使用される
と考えられています。
滑走路の数、長さ、表面、諸施設などに関する情報は入手できません。
写真の質が悪いため、規模についての情報を知ることはできません
この飛行場は時々フルマキ(古間木のことか?)として知られています。


■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」

の中で、「淋代陸軍飛行場(淋代牧場)三沢市」として紹介されています。


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赤マーカー地点。

滑走路方向


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青マーカー地点。

滑走路方向


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黄マーカー地点。

飛行地区方向



     青森県・淋代陸軍飛行場跡地         
淋代陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:青森県三沢市三沢向平
座 標:40°42'04.1"N 141°24'50.8"E
標 高:17m
滑走路:900mx160m(04/22)、900mx170m(13/31)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

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「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県三沢市の招和台公園内に「報知日米號搭乗員慰霊之碑」があります。


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公園の一角に

・報效義會三番艇遭難之碑
・鎮魂碑

と共に並んで設置してありました。


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碑の隣に説明版が設けてありました。

報知日米號搭乗員慰霊之碑(全文)
 昭和二年、アメリカ人リンドバーグがニューヨーク・バリ間およそ五千八百キロメートルにおよぶ大西洋無着陸横断飛行に成功したことから、冒険飛行家たちはにわかに太平洋に熱い視線を送るようになりました。そうしたおり、昭和六年に三沢村の人たちから見守られながら二人のアメリカ人が淋代海岸から飛び立ち、途中車輪を捨てて四十一時間余りも飛び続け八千キロメートルのかなたアメリカ・ワシントン州のウェナッチに胴体着陸し世界初の太平洋無着陸横断飛行を成し遂げたのです。
 一方、日本人もこうしてはおれないぞと報知新聞社が2回ほど北アメリカに向かって飛び立つ計画を試みましたが、いずれも失敗してしまいました。本間機長以下の搭乗員はその3回目の計画に挑むことになりました。そして、小比類巻要人宅に泊まって村人たちの協力を得ながら準備をととのえ、昭和七年九月二十四日未明、満を持して淋代海岸を離陸しました。しかし、数時間後に通信が途絶えてしまいました。それから約一年間北の洋上を捜索しましたが何の手掛かりも得られませんでした。離陸に先立ち井下通信士は、「技術には充分な自信あるも天祐は左右し難し」との遺書を家族にあてていました。きっと万が一のことを覚悟されていたに違いありません。

●本間 清 機長、新潟県佐渡郡河原田町(現佐和田町)出身 享年四十五歳 北洋天低暗雲迷 霧塞前程転凄惨 決然破暁就鵬程 爆々快翔横北溟
●馬場英一郎 操縦士、滋賀県坂田郡春照村(現伊吹町)出身 享年二十八歳
●井下 知義 通信士、島根県邑智郡川越村(現桜江町)出身 享年三十二歳

 この碑は昭和三十七年、本間機長と海軍兵学校が同期であった桑原虎男氏らによって資金が集められ建てられたものです。この碑の維持管理は、浜三沢町内会及び三沢市遺族会が建立者の遺志を引き継ぎ行っています。



■ミサワ航空史(2015年1月31日発行)21-26p

の中で、日本人による挑戦の詳細について、以下記されていました。

「日米報知号」の太平洋横断挑戦飛行
 リンドバークの大西洋横断飛行の壮挙に刺激され、今度の太平洋横断は、国産機を使用して日本人操縦士によって行なうべきであるという世論を具体化し、帝国飛行協会が中心となり、昭和2年8月から準備が進められた。使用機である川西K12「桜号」は、当時の技術をもって行なえる最新の設計と最も進歩した資材を使って研究・試作された結果、第一号機実験機は昭和3年6月に完成、各務ヶ原において試験飛行がおこなわれたが、その性能判断に関して、航空局側と制作者側の間に紛糾が起こり、第2号実行機は引き続いて同年8月に完成したが、これも航続力不十分として、同年9月、航空局の命により壮挙は打ち切りとなってしまったことは、航空熱が高まっていた日本としては甚だ残念なことであった。
 三沢の市街地から四川目海岸に至る道路沿いにある招和台という公園の一角に、ひっそりと石碑が建っているが、次のような碑文が刻まれている。

 機長兼航空士本間清、操縦士馬場英一郎、通信士井下知義の搭乗する第三報知日米号は、昭和7年9月24日午後5時35分淋代を出発し、勇躍太平洋横断飛行の途につきたるが、択捉島通過の報を最後として消息を絶つに至れり。かくてわが航空界空前の壮挙は挫折したりと雖も三士の烈々たる気迫は後進を奮い立たしめ著しく遅れたる斬界の発展促進に寄与するところすこぶる大なるものありたり。爾来三十星霜その忘れ去られん事を憂い茲に慰霊碑を建立するものなり。 昭和37年9月24日 発起人一同

 これは「日米報知号」本間清中佐以下3名の搭乗員の慰霊碑であるが、その遭難時から30年後に建立されたものである。
 昭和5年、日本中で航空熱が高まる中で、報知新聞社の後援で吉原清治操縦士が単独操縦で8月20~30日、ベルリン~東京立川間11,404kmを翔破、実飛行時間79時間58分の軽飛行機による驚異的母国訪問長距離飛行に成功していた。翌年の昭和6年同型の水上機「報知日米号」による太平洋飛び石伝い横断飛行計画を発表、社内に横断飛行実行委員会を設け、副社長寺田四郎を委員長として、その成功の万全を期したのである。此の具体的な計画作成に当たっては、吉原清治飛行士が中心となり、帝国飛行協会の安達賢造中佐らの応援を得て計画を練ったが、計画の概要は、ユンカースA-50水上機を使用して、島伝えに北太平洋を飛行しようというものであった。

 昭和6年5月4日、同機は羽田飛行場近くの河口から離水して、本県沼崎(現在の上北町)の小川原湖に着水し、その後北海道根室を通過して、5月9日、千島列島エトロフ島内保湾に事故のため不時着水し故障修理後、沙那に到着。ここで気化器の分解修理をおこなってから、さらに新知島上空に達した時、気化器が凍結して再び不時着となり、「報知日米号」の太平洋横断計画は中途で挫折となってしまった。
 同年、報知新聞社は直ちに「第二報知日米号」を準備して再挑戦となったが、7月5日、根室で訓練中に大波で機体が大破してしまい、この計画も出発前にして失敗に終わることになった。
 報知新聞は、昭和7年度の計画として、「3大横断飛行」を計画していた。第一は飛行艇での逆横断飛行、第二は一気にアラスカまでの飛行、第三はシアトル・東京間無着陸飛行という内容であった。
 昭和6年11月14日、横浜出帆の「エムプレス・オブ・ジャパン」号で、予備陸軍航空兵大尉名越愛徳・同特務曹長浅井兼吉の二人が渡米、ニューキャッスル市のべランカ航空機制作会社製作機に荒木貞夫陸軍大将が「報知日の丸号」と命名し、昭和7年3月29日、フロイド・ベネット飛行場で試験飛行中に墜落大破、名越大尉は機体と共に殉職し、遂にこの逆横断飛行も失敗に終わったのである。
 一方、吉原飛行士も英国サザンプトンで水陸両用飛行艇「サロー・カティサーク」号を完成させ、3月末にサンフランシスコへ送り、5月2日にオークランド飛行場に到着。昭和7年5月16日(日本時間17日)オークランド飛行場で試験飛行中に機関士大石竜弥が同乗し、港の一角であるオークランド水道から離水したが、250ftの高度に達した時に突然エンジンが停止し、急いで着水降下ようとしたが(ママ)、水面に届かぬ前に河岸に降りて転覆し、吉原・大石共に重傷を負い、機体は大破して、再使用は不可能の状態となった。またもや失敗となり、逆横断飛行も出発を見ないままに終わってしまった。
 報知新聞社長であった野間清治は、報知新聞社の面子にかけても必ず北太平洋横断飛行を成功させることを願い、当時海軍航空隊出身の名パイロット本間清中佐、馬場英一郎飛行士、井下知義通信士の3人を同乗させ、ユンカースW-33型による「報知日米3号」に期待をかけることになった。

 「第三報知日米号」が、淋代飛行場に到着したのは、昭和7年9月10日午後3時36分であった。羽田飛行場を出発した「第三報知日米号」は、燃料補給のためもあって淋代に到着したのである。そして、中旬の天候の状況を見てから、アラスカ、ノームを指して北太平洋を一気に横断の壮途に上ることになった。「第三報知日米号」は、「第一報知日米号」「第二報知日米号」のように、僅か80馬力の軽飛行機ではなく310馬力の長距離機であった。 機長の本間清中佐は、佐渡河川原田の生まれ、元霞ケ浦海軍航空隊教官当年43歳の男盛り、沈着にして大胆、我が国空中航法の権威者であり、馬場英一郎一等飛行操縦士は、滋賀県坂田郡春照村の生まれ、第3回逓信省海軍委託生出身、堺・松山間の定期航空に従事し、ユンカース大型機の操縦にかけては我が国きってのナンバー・ワンであって、豪胆にして細心、当年28歳の青年飛行家であったし、井下通信士も無線通信のベテランということで、全国民は「今度こそは成功間違いなし」と感じていた。
 昭和7年9月24日、「第三報知日米号」は、国民に期待を担い(ママ)、勇躍淋代海岸を離陸して千島半島沿いにノームへ向って北上中、色丹島付近上空で消息を絶ってしまったのである。
 当時の「東奥日報」(昭和年9月25日発刊)(ママ)は、「第三報知日米号」の淋代離陸を次のように報道している。「日本航空界の権威本間清中佐を機長として邦人最初の歴史的壮挙たる太平洋無着陸横断を決行する24日の朝は来た。この日午前2時起床した本間中佐、馬場、井下三勇士は揃いの赤革の服に同じ色の靴に身を固め、山田航空官と共に自動車で星瞬く夜道を駆り、3時半淋代飛行場に到着。井上(ママ)通信士は食料品及び身の回りのものを積み込み、馬場操縦士は神田技師と共に午前4時から約10分間に亘ってエンジンの試験をなし、凄惨なる青色の焔をエキゾーストパイプより吐き物凄い光景を呈した。其の結果は1,380回転を算へ好調子を示した。比頃東風やや強かったが本間機長は決然として飛行決行を声明し、4時20分宿舎より準備してきた弁当で朝食を済まし、それより太田常利少佐と共に自動車で滑走コースを点検して後、予て賀陽宮殿下より賜った日章旗を機上に立て朝風になびかせながら記念写真をなし、愈々今日決行することになった。見送りにため(ママ)来場した山田航空官、北山保安課長、福士三本木警察署長、林三沢村長、小比類巻同前村長、報知新聞関係者、山田本社社長と共に天幕内でビールを乾杯する予定であったが、風の都合でこれを中止し、多数に見守られながら、午前5時20分滑走を開始した、2度滑走を失敗し、3度目に約800m滑走後、午前5時35分見事に離陸し、銀翼燦然として大鵬の如くはるかな東方雲間に機影を没しアラスカのノームに向けて大壮途に上った」
 完全に天候回復した9月24日午前5時37分、「第三報知日米号」は、800m足らずの滑走で離陸し、太平洋横断の絶好のスタートを切ったのである。「午前9時50分、色丹島を通過、高度1,000、天候良好にして一同元気、異常なし」「午前10時16分、択捉島南々東20mil(マイル)地点を通過」との好調な無電連絡があったが、午前11時頃から交信感度が落ち、落石あたりから「感度が鈍くて受信不可能なり、11時30分より交信すべし」との問いに「OK」という返信があったのを最後に、ブッツリと連絡が絶えてしまったのである。翌25日午後3時、ノーム到着の予定時間を過ぎても「第三報知日米号」は姿を現さず、遂に正式の捜索依頼がアメリカ、ソ連、カナダの各国に発せられることになった。
 いろいろと報知号と思しき無電を傍受したという誤報が舞い込むばかりであったが、ただ「第三報知日米号」の最後の目撃者がいたのである。択捉島の茂世路鉱山で働いていた鉱夫達で、その1人、三浦鉱夫の話を掲げれば「9月24日の午後11時半頃、別に報知新聞社の飛行機が飛ぶということも知らずに、私ら十数名の者は、この択捉島の北の端にある硫黄嶽に登って、丁度昼食をしていたとき、異様な爆音を聞いたので振り仰いで見たら、銀色の美しい飛行機が南の方から現れ、南東の洋上を得撫島の方向を指して、悠々と飛んでゆくのを見届けた。どこの飛行機が知らないが、この辺では全く珍しいことであるから、思わず万歳を叫んだのですが、間もなく茂世路嶽の陰に隠れてしまい、私たちは作業の時間も来たので、そのままにして再び仕事に取り掛かりました。あれが報知新聞社の太平洋横断飛行機だったのですか。それなら声を限りに声援するところでしたのに・・。とにかく銀色の美しい飛行機でした」と。
 択捉島の東をよぎったのであれば、海峡を隔てた隣の島である得撫島をかすめて行く筈なのに、この島の居住者である農林省養狐場監視人は、当日は快晴で昼頃は戸外にいたと証言しているのに、爆音も機影も全く気がつかなかったというのである。その後の捜査でも、同島上には遭難機体は発見されていないのである。ということは、千島特有の悪気流にもまれたか、機体或いは発動機に突発的な故障か異常が発生したのか、潮流の早い両島の間に墜落し、満タンで重い機体が一瞬のうちに海中に没し去ったのか、と想像するしかない。送信後消息を絶ったのであれば、いわゆるスキップ・ディスタンス(無電の電波の減滅地域)現象で、SOSを発しても応答がないまま、無念の涙をのんだのであろうか。こう結論つけられるに及んで、1年間にわたる捜査結果をまとめ、報知新聞社もこの計画を断念せざるを得なくなったのである。
 こうして、報知新聞社による太平洋横断飛行計画は悲惨な結果に終わることになってしまった。4名死亡、2名重傷という大きな犠牲を払って、合計5回にわたる壮挙は全て失敗という無残な結果に終わった。この時代に、世界の航空界が挙って注目した太平洋横断飛行計画の中で、これまで世界の航空界で後進国とされていた日本人による数少ない横断飛行への挑戦の記録として注目されることで意義があったと考えられる。
 報知新聞社は、昭和10年12月、「満天下ご同情の各位に謝す」と社告を掲載し、「謹みて太平洋横断飛行の経過を報告す」という冊子を出版し、その経過を詳細に発表し、此計画の幕を閉じることになったのである。
 日本人による太平洋横断飛行の悲願が達成したのは、それから7年経過した昭和14年8月の毎日新聞社の世界一周機「ニッポン」号であった。この年、三沢は日本海軍の航空基地として第一歩を進めていたのである。

三沢に飛来した航空機たち 2p
 日本はこれらアメリカ人による4度の挑戦を指をくわえて見ていたわけではありませんでした。報知新聞社は北太平洋を飛び石伝いに横断する事を企画し、ドイツ製のユンカースA-50ユニオール機にフロートを装着し"報知日米号"と命名し挑戦しました。パイロットは有名な吉原清治に頼み、羽田飛行場の海老取川を昭和6年(1931年)5月4日に出発し小川原湖の沼崎(上北町)に着水、燃料補給後根室まで飛行しましたが、天候が悪く以後の飛行を断念しました。(吉原清治は同機で前年の8月20日~30日の10日間でベルリン~東京間114,041kmを実飛行時間79時間58分で飛行した時の人でした。)

 50日後吉原清治は再度同じ機体("第二報知日米号")で挑戦しましたが、気象条件が悪く、またしても失敗、「損傷した機体にとりすがって吉原は男泣きした」と記録にあります。
 報知新聞社が天下に発表した太平洋横断計画は、報知新聞社はもとより日本航空界の名誉にかけても完遂せねばならなかった意地があったようです。

 同昭和6年(1931年)9月24日午前5時37分、淋代海岸を多数の村民が見守る中出発したのが"第三報知日米号"(ドイツ製ユンカースW33L型)で、本間中佐、馬場飛行士、井上通信士の三名が乗り込み勇躍出発しましたが、エトロフ島を過ぎた午前11時03分の交信を最後に消息を絶ち、行方不明となりました。(この3名の不幸な偉業は村民の心に強く残り、昭和37年、市内岡三沢の平和台に三有士の慰霊碑が建立されました。)
 *この機体ユンカースW33L型は、1928年(昭和3年)、65時間25分の無給油滞空世界記録を樹立したり大西洋逆横断飛行に最初に成功する等、数多くの記録を残している当時では名機と謳われた機体でした。
 このように昭和5年からのわずか一年の間に次々と試みられた太平洋横断飛行への挑戦は、北太平洋の厳しい自然に阻まれことごとく失敗しました。





     青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑         
報知日米號搭乗員慰霊之碑 データ
維持管理:浜三沢町内会及び三沢市遺族会
所在地:青森県三沢市三沢山ノ神招和台公園内
座 標:40°41'32.5"N 141°24'02.8"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1927年05月 リンドバーク、大西洋単独無着陸横断飛行に成功
     08月 帝国飛行協会が中心となり、国産機を使用しての太平洋横断飛行準備
1928年06月 第一号機実験機完成。各務ヶ原にて試験飛行
     08月 第2号実行機完成
     09月 航続力不十分として航空局の命により壮挙打切り
1931年05月 4日 報知日米号、小川原湖に着水。翌日米国に向け離水するも、故障が続き断念
     07月 5日 第二報知日米号、根室で訓練中に大波で大破
     10月 ミス・ビードル号 淋代海岸から太平洋無着陸横断飛行に成功
1932年03月 29日 報知日の丸号、試験飛行中に墜落
     05月 16日 「サロー・カティサーク」号、使用不能の大破
     09月 24日 第三報知日米号淋代を離陸。択捉島通過の報を最後に消息を絶つ
1962年    碑建立

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現地の碑文、説明板


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青森県・七戸平野と小川原沼 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県七戸、小川原湖では大正時代、飛行演習が行われていました。

前記事でも参照させて頂いた「ミサワ航空史」にこの件が記されていました。

■「ミサワ航空史」15p

(大正13年の陸軍立川-旭川間連絡飛行についての記述に続けて)この前年2月にも、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われ、この地帯一帯は他に例が無いほど航空基地としては適地であり、価値のある地域であることが認められていた。

陸軍としても近い将来に民有地を買収して飛行場の設置を考えたいところであったが、予算上の問題から早急には実現できない状態であった。海軍にあっても、同様であって、淋代平や小川原沼という一帯は、飛行場ばかりでなく爆撃機の練習地としても最適な場所であると見込んでいたのである。将来、航空隊の増強の時代が来れば、軍事的見地からもこの地が優先される特徴を持っていると把握していたのである。

とのことで、

大正12年(1923年)2月、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われた

のですね。


・七戸平野について

【七戸平野】でググっても、「この範囲です」とスッキリした説明はありません。

よそ者のオイラの推測になってしまうのですが、

七戸町は、西部は山地、東部が平野になっています。

それで七戸平野とは、七戸町の平野部のことだと思います。


・小川原沼について

Wiki/小川原湖によれば、

「かつては小川原沼(小河原沼、こがわらぬま)という名称だったが、1958年(昭和33年)1月1日に小川原湖に改称された」(沼→湖)

「冬季には湖面が結氷」

とあります。

七戸の平野部と小川原湖は非常に近いため、この周辺で演習が行われていたと思われます。

実は、「青森県内で耐寒・氷上飛行演習」が行われたということは知っていたのですが、

長い間具体的な場所が不明のままになっていました。

この書籍のおかげでやっとその場所が判明したのでした。

ありがたやm(_ _)m

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赤マーカー地点。

七戸平野(を撮っているつもり)

大正時代、この辺りで耐寒飛行演習をしていたはず。

「他に例が無いほど」と評されるのも納得の眺めでした。


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青マーカー地点。

小川原沼公園から。

100年前、ここで飛行演習が行われたのですね~。

…と、記事はここですんなり終わりません。(デジャヴ)


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以下、大正12年の耐寒・氷上飛行演習とは全く別の話になってしまうのですが、

同じく小川原沼公園の駐車場にこんな説明版がありました(黄マーカー地点)。

太平洋横断「報知日米号」寄港の地(全文)

世界最大の難関「北太平洋横断」に挑戦!
 昭和六年当時、世界ではリンドバーグによる大西洋横断の次は、太平洋横断との機運が高まっていた。それまで、航空機による太平洋横断を実現した者は誰もなく、世界各国が覇者になろうと競い合っていたのであった。

 この世界最大の難関といわれた「北太平洋横断」に日本で挑戦したのが、「報知日米号」である。別名、「ユンカース・ユニオールA50型水上飛行艇(八十馬力)」、その操縦士は、前年、東京とドイツのベルリン間の一万一千キロの空路を開拓し、一躍空の英雄になった吉原清治飛行士(佐賀県出身)であった。

 さて、日米親善、北太平洋横断航空路開拓を掲げたこの事業は、報知新聞社が事業主となり、国庫補助金をはじめ十六宮家や財界、そして、小学生に至るまでの多くの国民から寄付金が集められた。さらに、応援歌や行進曲、飛行小唄が作られるなど、国をあげての取組となった。

 なお、「報知日米号」は、日本からアメリカまで、二十数か所で着水しながら、太平洋新航路開拓を目指すことになった。したがって、航空路沿線の詳細な地理的、気象的な資料全てを世界航空界に提供するという重大な任務が課せられていたという点においては、その後の「無着陸の冒険飛行」とは、一線を画する事業であった。

 さらに、アジアからアメリカ大陸に向けての「最初の郵便飛行」でもあったので、吉原飛行士には、当時の「フーヴァーアメリカ大統領」あてのほか、三十通を越えるメッセージも託されることになった。

「報知日米号」が「小川原湖・浦野館村」に
 昭和六年五月四日、午前十時十分。「報知日米号」は、羽田東京飛行場に集まった三十万人の期待と夢を乗せて、最初の補給地「小川原湖・浦野館村(現在の東北町)」に向けて旅立った。

 浦野館村では、漆戸村長を中心に、和田後援会長、久保副会長、米内山理事及び会員三十名、姥名青年団長ほか、三十名の団員、阿部在郷軍人分会長をはじめ分会委員総出で「報知日米号」の到着を歓迎する体制が整えられた。また、村内の各戸では、国旗を掲揚する準備も終わり、全村をあげての歓迎準備が整えられていた。

 そして、五月四日、午後三時三十三分、「報知日米号」は、村内五つの小学校高学年全員が歌う「北太平洋横断歌」の大合唱に迎えられ、無事小川原湖に着水した。

 また、翌日の出発の時は、湖岸を埋めた一万人を超す大観衆の声援に送られて、アメリカのサンフランシスコに向
けて力強く旅立った。

 この出来事は、対岸にある淋代(三沢市)から「ミス・ビードル号」が飛び立つ五か月前のことであった。

故障続きの「報知日米号」の運命は…
 しかし、小川原湖を飛び立った「報知日米号」は、千島海域で機体に異変が起き、不時着を余儀なくされるなど、
故障が続いた。さらに、五月十四日には、新知(シンシル)湾上空で遭難し、新知島付近に着水した。そして、漂流中に吉原飛行士は九死に一生を得て救助された。
 
 その後も吉原飛行士による「第二報知日米号」での二回目の挑戦も、同年七月五日、根室湾で高波に遭い失敗に終
わった。

 さらに、霞ケ浦海軍航空隊による「第三報知日米号」での計画も、昭和七年九月二十四日、択捉(エトロフ)島南
島沖で通信が途絶え、悲劇的な結果となり、ついにこの「北太平洋横断計画」は失敗に終わったのだった。

ここに、先人たちの偉業をたたえる!
 これは、我が国の航空史に残る一大イベントの最初の中継地点として、ここ小川原湖が選ばれたこと、そして、多くの浦野館村の住民がこの場所に集い、「報知日米号」の雄姿を迎え、見送ったという歴史的事実をここに刻み、先人たちの偉業をたたえるものである。

(資料提供:東北町文化財保護審議会)平成二十三年七月一日 東北町教育委員会

DSC_0513_00001.jpgDSC_0515_00001.jpg(説明版から拡大・上2枚とも)




     青森県・七戸平野と小川原沼         
・七戸平野 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡七戸町

・小川原沼 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡 小川原湖

沿革(ミサワ航空史年表から)
1922年01月 29日~2月8日 陸軍飛行学校、上北郡七戸原野にて耐寒飛行実施(本邦初)
1923年02月 3日~7日 陸軍航空第3大隊、七戸原野にて自動橇試験。小川原沼湖上の氷上滑走飛行実施
1931年05月 4日 報知日米号、北太平洋横断飛行のため小川原湖に着水。翌5日根室に向け離水
1992年04月 15日 小川原湖投棄のF-16燃料タンク、米軍捜索発見できず。シジミ漁に影響
1998年03月 小川原湖からプロペラなど引き揚げられる
     08月 15日 3月に引き揚げられたのは、昭和19年5月30日訓練中に墜落した三沢空の零戦と判明

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この記事の資料:
現地の説明板
ミサワ航空史


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青森県・立川飛行隊の中継飛行場跡地 [├場所]

   2023年6月訪問  



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『三沢』五万分一地形圖 大正3年測図(以下3枚とも)


大正時代、青森県三沢村(当時)の淋代牧場が陸軍の東京~旭川中継飛行場として使用されたことがあります。

このことは、「ミサワ航空史」(2015年1月31日発行)にて詳しく扱われていました。

■ミサワ航空史 15p
立川飛行隊の三沢村着陸
 大正13年8月初旬、立川陸軍飛行場から、北海道旭川で行われる陸軍大演習に参加のため、立川第六飛行大隊が北海道との連絡飛行を実施することになり、三沢村を中間着陸地点として選び、目下準備中との報道がなされている。(地元紙「東奥日報」)この年、立川陸軍飛行隊第五大隊の若竹少佐が三沢村にやって来て、立川-旭川間の飛行演習の中継飛行場として調査を行っていた。帰隊後、7月16日付けで三沢村に飛行機発着所を設けることが決まった。(中略)

気になるその場所について、同資料内では続けてこうあります。

 旭川への中継地として選定されたその場所は、岡三沢北端(先頭のグーグルマップ青マーカー)より約2,700m(約25丁)北方で、本道の西側にある小田内(紫マーカー)東南側の牧場であった。(中略)


0.png

中継地となった牧場の位置について「小田内東南側」とある訳ですが、

その小田内からちょうど南東方向に道路があるため、

臨時飛行場はこの道路を挟んでA,Bいずれかの側にあったのだと思います。

等高線の間隔からすると、より平坦なB側の可能性が高いんじゃないかと。

Bは「岡三沢北端より約2,700m(約25丁)北方」という条件にもピッタリ当てはまります。

(A側はなんか一部広葉樹林になってるし)

ということで、中継飛行場として使用された淋代牧場は、

B(グーグルマップ黄マーカー)の辺りにあったのではないかと思います。



 
実際に中継飛行場として使用された日についても同資料内に記されていました。
 
16p
 北海道旭川を中心とした陸軍大演習に参加するため、立川飛行隊6機が8月10日5時40分立川飛行場を離陸し、途中仙台に着陸し、10時45分三戸郡田子村上空を通過し、11時25分無事上北郡三沢村に着陸し、休息して準備を整
え、ここで待機していた木塚中尉以下40余名の協力を得て、到着機6機中5機の準備が出来たので、午後1時20分青森から天候状況報告の通信を受け、出発には差し支えなかったことを確認して、一気に旭川に飛び立って行った。
 飛行コースは、野辺地町東方約3里の上空を下北郡に向けて進み、同郡を斜めに通過し、津軽海峡に出て、約1,300m/h(ママ)(27里程度)の速度で、一直線に旭川へ飛行した。残された1機は、別段故障を生じたことでもなく準備の手遅れのために、若干後に廻っただけのことであったが、2時20分に出発準備が整い、同30分青森からの天候通報を得てから、3時4分旭川へ向けて離陸していった。そのコースは、先に出発した5機と全く同じであった。
 その後、同月19日には桜井飛行第5大隊長が三沢に来たが、予定された20日は東南の風が激しくて飛行中止となり、翌20日7時10分に旭川を飛び立って、三沢に到着した6機(森玉参謀本部附大尉機、立川飛行第5大隊機2機、
所沢飛行学校機3機)は、午前10時20分から50分にかけて三沢に着陸後、三沢からは桜井大隊長も同乗して離陸し、上空で数回宙返り飛行を披露して、次の中継地である盛岡を経由して、立川へ向けて去っていった。
 この離着陸地点は、三沢村小田内東南側の牧場が選ばれ、この牧草地帯の飛行場の設営や警備、見物人の整理など村を挙げて協力したのである。到着前の8月2日には、各学校に飛行機到着の日には、学童に国旗を持たせて歓迎の意を表すよう通知し、また牧場に放牧してある牛馬の移動の手配、4日には見物人の取り締りについて総代会を開催したりしている。(中略)
 以来、木ノ下地区をはじめとする航空機発着の適地としての注目が集まることになるが、その後の淋代からの太平洋横断飛行や民間航空の中継飛行場としての木ノ下飛行場(現市街の南側)の設置や三沢海軍航空隊基地、戦後の米軍
ミサワ基地へと繋がる「三沢航空史」の幕開けとなることになる。

(仙台の着陸地について余談ですが、霞目飛行場はこの頃はまだ開設していなかったため、後に仙台第一飛行場と呼ばれた宮城野原陸軍練兵場が使用されたと思います)

ということで大正13年の夏、小田内の牧場が東京と北海道を中継する臨時飛行場として使用されたのでした。

そして後半に記されているように、このことがその後一連の三沢の航空史へとつながるのですね。


…と、これで記事が終わりなら、「めでたしめでたし」でキレイなのですが、

飛行場の場所が特定したい病のオイラにとって困ったことに、話はこれですんなり終りません。

実は同資料1pにはこの臨時飛行場の位置について、こんな記述があります。

三沢に飛来した航空機たち
 この地三沢における飛行に関わる最初の記録は、大正13年(1924年)8月10日創設間もない陸軍飛行第五大隊(立川)は北海道旭川への長距離飛行演習の中継地として当時軍の放牧場として使用されていた小田内東南部の牧場(現在の当航空科学館の東側一帯あたりか?)に6機の陸軍機が次々と着陸し(中略)使用された機種についての記述はありませんが、当時の記録から推察すると陸軍が大量に装備した乙式一型偵察機(フランス製サルムソン2A2)であろうと思われます。次の記録は昭和3年(1928年)(昭和5年との記録もある)九月二十四日と十月九日のことで、同じく陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機(サルムソン2A2攻撃偵察機)四機が北海道での演習参加の途中臨時飛行場として使用したと記録されています。


1.png
Wikiから。乙式一型偵察機(フランス製サルムソン2A2)230馬力 最高速度187km


ここでは臨時飛行場として使用された牧場の位置について、

「小田内東南部の牧場(現在の当航空科学館の東側一帯あたりか?)」とあります。

「あたりか?」と疑問形なので、地元でも位置は断定しておられないようですね。


7.png


先に取り上げた同資料15pでは、「その場所は、岡三沢北端より約2,700m(約25丁)北方」とあり、

同1pでは、「航空科学館の東側一帯あたりか?」とあります。

上に貼った地図の通りで、この2つは同一の場所を指していません。

グーグルマップで見ると、現在「航空科学館の東側一帯」には畑地が広がり、

飛行場としてよさげに見えるのですが、

大正3年の地図で比較する限り、「航空科学館の東側一帯」はAB地点よりゴチャっとしているように見えます。

五川目に向って東西方向に平坦で細長い地割がありますが、ここは田んぼであって牧場ではありません。

それでも、著者(青森ご出身の航空科学館館長)がそう仰るからには、きっとそれなりの根拠がおありなのだと考え、

両論併記とさせて頂きます。

いずれにせよ、この周辺が中継飛行場として使用されたことは、その後の三沢にとって大きな意味をもつのでした。


DSC_0580_00001.jpgDSC_0581_00001.jpg

赤マーカー地点




     青森県・立川飛行隊の中継飛行場跡地         
立川飛行隊の中継飛行場 データ
設置管理者:淋代牧場?
種 別:臨時飛行場
所在地:青森県三沢市
座 標:40°43'19.5"N 141°22'31.0"E?
標 高:29m?
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革(「ミサワ航空史」から)
1924年07月 7日 淋代牧場臨時総会、陸・海軍両大臣に飛行場用地として牧場買い上げ(7万5千円以上)出願決議
       16日 事前調査の後、立川-旭川間の中継飛行場として使用が決まる
     08月 2日 各学校に歓迎の通知。牧場に放牧してある牛馬の移動の手配
       4日 見物人の取り締りについて総代会を開催
       10日 立川飛行第5大隊が立川より飛来。同日旭川に向け離陸
       20日 旭川より飛来。同日立川に向け離陸
1928年09月 24日 陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機4機、北海道演習参加の途中臨時飛行場として使用
     10月 9日 陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機4機、北海道演習参加の途中臨時飛行場として使用

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「ミサワ航空史」


 


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東北・2 [■旅行記]


Ⓐ道の駅大館能代空港→Ⓑ青森空港→ⓒ七戸平野→Ⓓ小川原沼→Ⓔ青森県立三沢航空科学館→Ⓕ立川飛行隊の中継飛行場跡地→Ⓖ淋代海岸→Ⓗ三沢空港→Ⓘ報知日米号搭乗員慰霊の碑→Ⓐ淋代着陸場跡地→Ⓑ木ノ下飛行場跡地→ⓒ道の駅やまだ(車中泊)


2日目

6:00 起床


DSC_0441_00001.jpg


7:30 まで閉鎖中~。


DSC_0438_00001.jpg


こうやって車中泊しながら飛行場関係を見て周る場合、

基本的に「撮影可能な明るさ(日の出30分後くらい)までには見学ポイント到着」

できるように逆算して起床時間を決めています。

ですので、道の駅でこんなに明るい時間になるのは非常に珍しいです。

珍しいので目隠し状態の車内を撮ってみつ。

結構明るいですね。


DSC_0444_00001.jpg


24時間開放されている第3駐車場。

おかげで助かりましたm(_ _)m

せっかくなのでターミナル内で朝食としゃれこもうと思ったのですが、

カフェは9:00~、レストランは9:30~ だったので、近くのコンビニへ。

(中略)

13:05 青森県立三沢航空科学館の手前で給油。

自宅からここまで1,041km無給油で来れました。

この分なら、もう途中で給油せずに自宅に戻れそう。

三沢空港周辺は見学ポイントが密集していて、

効率良く周れるように順番決めてあったんですが、

実際に現地で走ってみたら、基地、地形のせいで大きく迂回を強いられました。

案内標識に従い、計画を無視して進みました。

16:35 無事青森県内の見学終了。

明るいうちに終わって一安心。

即南下し岩手県の次のポイントに向いました。


19:40 道の駅やまだ着。

20:15 寝る。

本日の走行距離:427km

(おやすみなさい)


本日周った場所のうち、

七戸平野と小川原沼
立川飛行隊の中継飛行場跡地
報知日米号搭乗員慰霊の碑
淋代着陸場跡地
木ノ下飛行場跡地

はこの後順番に記事アップします。

それ以外は既存の記事に追記してありますので~。

大館能代空港 
青森空港 
青森県立三沢航空科学館 
淋代海岸 
三沢空港 

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岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年5月訪問  



無題.png
撮影年月日1948/05/15(USA R1424 90) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


岩手県盛岡市を走る国道四号線に終戦直後、米軍の「見前滑走路」が建設されました。

この情報は、盛岡でステイホーム中さんから頂きました。

盛岡でステイホーム中さん情報ありがとうございましたm(_ _)m

教えて頂いた情報は、

「戦後、GHQが盛岡市南部の国道4号線上に「見前滑走路」を設置し、軍用セスナ機が往来していましたが、わずか400メートルほどでした。」

というもので、埼玉県民のオイラにとっては分からないことだらけだったんですが、

マップで確認すると、盛岡市内を走る国道四号線の南端部に「西見前」、「東見前」という地名があり、

その北側、住所的には「見前」でなくなるんですが、学校や公民館等の施設名に「見前」が付く地域まで含めると、

その範囲は国道四号線の沿線3km以上に及びます。

この3km以上の範囲から400mの滑走路区間を絞り込まねばならないのですが、

ググってもサッパリ情報がないため、盛岡市立図書館のレファレンスサービスを利用させて頂きました。

盛岡市立図書館様からご紹介頂いたのは、

「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」

という書籍でした。

ちょっと長いんですが、以下関係個所を抜粋して引用させて頂きます。

84p
一、進駐軍滑走路
長く虚しい戦争は終った。打ちのめされた虚脱感のみ残る村に、ぼつぼつ復員兵が戻ってきた。しかし見前村の戦争は、まだ終わっていなかった。八月十五日の終戦の日からちょうど一カ月経った九月十六日、米軍落下傘歩兵第五十二連隊二,八〇〇名が盛岡に進駐し、上田の盛岡高等工業学校(今の岩手大学工学部の前身)を接収して兵舎とした。
(中略)そして十日後には、米軍飛行機(連絡用)の離着陸滑走路を見前村に求めたのである。そこは、大寺田茶屋から和野橋間の国道(四号線)利用した応急の滑走路で、直ちに土木工事が始まった。国道の松並木は、戦争末期に松根油をとるため大半は切り倒されていたが、残された根を片づけ両側の草地を整備して、国道東側には吹流しを立てた。
まさに国道は滑走路であった。

十月なかば米軍飛行機が飛来し、初めて滑走路に降りた。青い眼のアメリカ兵など戦争中も見ることのなかった村人たちはただ恐れおののいたが、恐いもの見たさに遠巻きをして見ていた。
 飛行機は一週間に一度ぐらい飛んできて、和野のムトウ酒店前で待っていたジープが、盛岡公園下のアメリカ軍政部(今の教育会館のところ)や上田の落下傘部隊に向けて、連絡に走っ
た。
 滑走路を使う時は国道は縄を張って通行禁止となり、着陸した飛行機は再び離陸するまで国道の傍に置かれた。この間、MPや警察官が厳重な見張りをした。

 飛去する飛行機は小型の複葉機が多かったが、どこから飛んできてどこえ飛んで行くのか誰も知らなかった。
 「大方、仙台あたりだべ」「いや、東京から直接来るんだべさ」人々は勝手に想像したが、冬になると滑走路の除雪に部落一同が動員され、国道の上を飛行機が離着陸できるように鏡のように掃いた。滑走路が通行止になる間は、人々は両側の雪原を渡って歩いたが、ズボズボ踏み込んでよく転んだ。
 飛行機が来る日は、子供達は学校をサボって滑走路に集まった。いま見前農協の課長クラス以上の年配は、みんなそうして大きくなったガキ大将たちだ。

86p
 この年(昭和26年)秋の文化の日「カッソーロ」には名前も「平和の翼」と名づけた飛行機が飛ぶ予定で、参観者約五,〇〇〇人が集まったが(当時の見前村の人口より多い)、強風のため五日に延びた。ところが五日も風のため飛行機は再度着陸に失敗した。
 それほどこの辺は広々と開けた水田地帯で、西方はるかの東北線の線路からさえぎるものはなく、いったん西風が吹くと、大火になったり飛行機が着陸不能となったりした。

87p
 いまこの滑走路の両側にはびっしりと会社、工場が建ち並び東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物があるので、昔のように強風にさられれることもなくなった。

 この米軍滑走路が最後に使われたのは、都南村合併の前年、二十九年の秋である。
 この日米軍機四機が見前滑走路に着陸したが、そのことは事前に知らされていて、村人たちは飛行機の見納めに続々集まってきた。藤沢現組合長もその一人だったが、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」
と感慨一入のものがあったという。

 今から思えば、三十数年前までこの国道に飛行機が離着陸したなんて夢のような話しである。しかし実際に「見前滑走路」は存在し、青い眼の米軍飛行兵がこの辺を闊歩していたのだ。
 いまでも地区の老人たちは、和野の北端と南端の間の国道四号線を「カッソーロ」と呼んでいる。


滑走路について、非常に具体的に触れられていますね。

で、この資料から滑走路についていろいろ考えますのだ。


滑走路のあった期間

資料によりますと、昭和20年9月16日に進駐があり、進駐から10日後に滑走路建設の要請がありました。

直ちに工事が行われ、1番機の着陸が10月半ばでしたから、

進駐から約1ヵ月後にはもう滑走路として運用開始したことになります。

最後の使用が「昭和29年の秋」とありますから、国道四号線が米軍の滑走路として使用されていた期間は、

1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間、ということになります。 

結構長いこと使用していたんですね。


滑走路のあった場所

ご紹介頂いた本には、ドコが滑走路だったかについて、様々な情報が載せられています。

まず、「国道(四号線)」を利用したとあるわけですが、

滑走路としての使用が終了した1954年から、この記事をアップする時点で既に69年も経過していますし、

この書籍自体、発行から既に35年が経過しています(2023年現在)。

ということで、そもそも滑走路だった頃の国道四号線は、現在の国道四号線と同じなのかを確認しました。

この周辺の国道四号線はバイパスなどなく、当時から線形も変化なし。

ということで、現在の国道四号線上に滑走路があった。ということになります。


更に、滑走路として使用していた区間には現在、

「東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物がある」

とあります。

「ワマヤボール」と「一戸マーケット」の2つはググっても見つからなかったのですが

国道四号線東側に都南病院(赤マーカー)、そして西側に永大産業(紫マーカー)がありました。

都南病院と永大産業は四号線挟んで斜め向かいという位置関係ですね。

国道四号線の少なくともこの範囲は、滑走路として使用していたということで確定です。

但し、都南病院~永大産業の範囲は、最大でも100mちょいしかなく、400mにはまだまだ足りません。

それで次に、この範囲を含めて、ドコまで滑走路として使用していたか推測します。

この部分の直線がどの程度続いているかなんですが、

都南病院前から南側は約300mの直線が続き、

一方、都南病院前から北側は、約650mの直線が続きます。

ということで、合計950mの「直線区間」の中に400mの滑走路があったはず。


上記資料では国道を滑走路とするための土木工事として、

「残された(松並木の)根を片づけ両側の草地を整備」したとあります。

1948年の航空写真で見てみると、この950mの直線区間の北側部分は、

道の両側に木や建物がズラリと迫っている箇所が多いです。

当時この区間の道路幅は約6mでした(後述)。

資料には、飛来したのは「小型の複葉機が多かった」とあります。

機種までは記されておらず、オイラも大戦当時の米陸軍が使用した複葉機は1つしか知りません。


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ボーイング・ステアマン モデル75:Wikiから


10,000機以上生産された複葉練習機、ボーイング・ステアマン モデル75です。

複葉機は、必要な翼面積を2枚に分けて上下に重ねるため、同じ翼面積の単葉機と比較して、

全幅が相当短くなるはずなんですが、それでもモデル75の全幅は9.81mありました。

幅6m道路で、両脇に木や建物がズラリと迫っていては、まったく寸法が合いません。

一方、950mの直線区間の南側部分は、道路の両側が整備されてキレイに何も無い状態です。

上に貼った1948年の航空写真のそれぞれの位置に、都南病院と永大産業を書き加えましたが、

この2つの建物がある「滑走路確定」の場所は航空写真で確認すると、

「道路の両側が整備され」ているように見えます。

上述の通り、国道四号線が滑走路として使用されたのは、1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間なのですが、

この周辺で地理院の航空写真で閲覧可能なのは、1947年、1948年、1952年で、

滑走路として運用している時期に3回撮影が実施されたことになるのですが、

いずれの年の写真でも、この区間の両側はクリーンな状態が維持されています。

また、上記資料では「大寺田茶屋から和野橋間」が滑走路とあります。

よそ者のオイラはこれだけでは一体ドコのことやらサッパリなんですが、

これも地元図書館のレファレンスサービスで教えて頂きました。


和野はかなり範囲が広く、この周辺を含んでいるのですが、

上に貼った航空写真の四号線北側部分、川を越した箇所から両側が整備された状態が始まっているように見えます。

ググっても確認できなかったのですが、この川を越す橋、これが「和野橋」なんじゃないでしょうか?

「都南病院」と「永大産業」を含む、間違いなく滑走路跡として特定できる部分を含め、

・直線であること
・道路の左右がきちんと整備されていること
・橋から始まること

これらの条件を満たす区間の長さを測ってみると、418mでした。

これは盛岡でステイホーム中さんから頂いた「わずか400メートルほど」という情報とも合致します。

最後に滑走路として使用していた当時の道路幅なんですが、

上に貼った1948年の航空写真を引き伸ばしてレイヤを作って確認したところ、

白く写っている道路の幅は6m、左右の整備されている部分まで含めると、17mでした。

先頭のグーグルマップはこれを反映して作図しています。

資料にも「この辺は広々と開けた水田地帯で」とある通り、この400m区間に限っては、

国道の東西どちら側も水田地帯が広がっており、本当に広々しています。

この区間なら、全幅10mを超える機体でも、充分運用可能だったのではないかと。

ということで、滑走路は多分ここだったのではないかと思います。


ところで、これだけの広々とした幅があれば充分運用可能。と書いておいてアレなんですが、

「運用可能」というのは飽くまで小型機に限っての話であり、

長さ400m、幅6m("着陸帯"含め17m)というのは、一般的な滑走路としては相当短く、狭いです。

滑走路の長さがたった400m程度でしたから、離着陸速度が遅く、翼面荷重の低い(重量の割に主翼が大きい)

機体でないとここの滑走路は使えません。

「小型の複葉機が多かった」とあるのも道理です。

但し、着陸速度が遅く、重量の割に主翼が大きい機体ということは、

それだけ風に煽られ易く、横風に弱いということです。

盛岡でステイホーム中さんからも、「西風が強い」というご当地事情を教えて頂いていたんですが、

上述の資料の中では、「強風のせいで5日に延期」とか、「着陸失敗」といった表現が見られます。

着陸できるのか、無事着陸できたとして、今度は離陸できるのか、

天気図と睨めっこしながら関係者は相当気をもんだでしょうし、パイロットは神経をすり減らしたはずです。


話は変わりますが、同資料には、駐機中のヒコーキの大きな写真が掲載されています。

支柱付き高翼単葉(主翼下面に大きく"US ARMY")、単発固定ピッチのプロペラ、固定脚尾輪式の機体で、

多分セスナL-19と思います。


3.png 
セスナL-19  By U.S. Army - U.S. Army photo from the official U.S. Department of the Army publication Vietnam Studies - Airmobility 1961-1971. Washington D.C. 1989 [1] photo [2], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9545770


「滑走路(昭和20年代)」とキャプションがついており、

恐らく国道四号線脇の草地に駐機している場面ではないかと。


機 種 全幅(m) 自重(kg) 翼面積(㎡) 翼面荷重(kg/㎡) 出力(hp) 最大速度(km/h)
モデル75 9.80 876 27.7 48 220 200
セスナL-19  10.97  732 16.2  68  213 185
一式「隼」 10.837 1,975  22 117.7 1,150  548
二式「鍾馗」 9.45 2,106 15  184.67 1,450 615
三式「飛燕」 12.00  2,630  20 173.5  1,175 560
四式「疾風」 11.24  2,698  21  185.24 2,000  650


上記2機種と日本陸軍戦闘機の比較。

(型式により数字が大きく異なる場合がありますので、「おおよその目安」ということでご了承ください)

全幅は似たり寄ったりですが、それ以外の数字が全然違いますね。

二式「鍾馗」は「1,500m滑走路でも止まりきれずに衝突」なんて記録が残る一方、

L-19なんて、離着陸滑走距離170m~180mですからね。

L-19は自重僅か732kgで、これは軽自動車で現在主流のトールワゴンが1,000kg前後であるのと

比較すると、如何に軽いか分かります(最軽量車種はダイハツのミライース:650kg)。

滑走路の長さがたったの400mですからこういう機体でないと離着陸できず、

この飛行場にこの機体は、必然の組み合わせということですね。

資料とさせて頂いた書籍には、機体の近くに軍服に身を固めた3人の米兵が写っているのですが、

アメリカンソルジャー達よりもずっと機体に近い所にお母さんや子供達はじめ大勢群がっており、

柵もロープもなく、機内を覗き込んでいる元祖ヒコーキマ〇ア様らしき姿もあります。

現代の航空祭等では、自衛隊機でさえロープを張って同じ日本人を必要以上に近寄らせない。

という措置が取られることもあることからすると、余りの無警戒振りが不思議な感じなんですが、

分別をよく弁えた当時の方々だからこそ、この無警戒振りが成立するのでしょうか。

資料には、「駐機中の機体は厳重に警備された」とあるんですが……(o ̄∇ ̄o)

(画角の外ではMPや警察が目を光らせていたりして)

 
資料には、

終戦直後の進駐と滑走路の存在により、「見前村の戦争は、まだ終わっていなかった」とあり、

滑走路の閉鎖を受け、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」

という一節があります。

進駐は様々な形で地元の方々に暗い影を落としたのでしょうが、

それでも写真に写る機体の前の草地に腰を下ろして遊んでいる母子の姿には、ちょっと救われる思いです。

レファレンスサービスで貴重な資料と情報を頂きました盛岡市立図書館兵庫様、どうもありがとうございました。 



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赤マーカー地点。


DSC_0374_00001.jpg


黒マーカー地点。




     岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地         
見前滑走路(進駐軍滑走路) データ
設置管理者:米軍
種 別:連絡用飛行場
所在地:岩手県盛岡市西見前、東見前
座 標:N39°38′27″E141°10′7″
標 高:110m
滑走路:418mx6m?
方 位:16/34
(座標、標高、方位は地理院から、滑走路長はグーグルアースから)

沿革
1945年09月 16日 米軍落下傘歩兵第五十二連隊2,800名盛岡に進駐
        26日 米軍、見前村に連絡用滑走路要求。直ちに工事開始
     10月 中旬、初飛来
1951年11月 3日 「平和の翼」機、強風のため飛行5日に延期。参観者5,000名。5日も強風のため着陸失敗
1954年    秋、最終飛行。滑走路閉鎖

関連サイト:
ブログ内関連記事  

この記事の資料:
「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」


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岩手県・花巻の不時着陸用滑走路跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年5月訪問  



c.pngd.png
撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M621 273) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


岩手県花巻市に現存する花巻防空監視哨聴音壕跡 から僅か270m西にあった「花巻の不時着陸用滑走路」。

正式名称不明のため、拙ブログでは便宜的に「花巻の不時着陸用滑走路」とさせていただきます。

ご了承ください。

この「花巻の不時着陸用滑走路」情報は、いちろうさんに頂きました。

いちろうさん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m

頂いた情報をこちらにそのまま引用させて頂きます。

不時着陸用滑走路のことですが、今90歳くらいの元教員の方の証言で、裏付け資料を探そうと思っていて、そのままにしています。この方は当時の花巻農学校に通っていて、通学路となっていた道路が滑走路だった、と聞いていました。花巻農学校は現在の花巻市文化会館のところにありましたが、ここから北へ一直線の道があります。戦後の米軍航空写真でもその軌跡がはっきり残っています。距離にして900メートルで、後藤野が使えない場合の滑走路とその先生は聞いています。とりさんが訪れた防空監視哨の近所です。何か関連があるのかもしれません。
by いちろう (2020-12-23 09:05)

「後藤野が使えない場合の滑走路とその先生は聞いています」

とのことですが、後藤野飛行場はここから南西約10.5kmにある陸軍の飛行場でした。

後藤野以外の飛行場としましては、ここから南約21kmに同じく陸軍の「金ヶ崎飛行場」があるのですが、

この2つ以外だと、ここから40~50km先になってしまいます。

それで、「後藤野が使えない場合の~」というのは妥当な線と思います。

近隣にある飛行場がどちらも陸軍でしたから、ここも恐らく陸軍の管轄だったんじゃないでしょうか。

また、頂いた情報では「距離にして900メートル」とありますが、

先頭のグーグルマップでは、当時花巻農学校(黄マーカー)から北に伸びる道路を突き当りまで線を引いています。

この場合、長さ1,840mになりますので、900mだったとすると、長さはこの半分ということになります。


DSC_0344_00001.jpg


赤マーカー地点。

滑走路方向。

上に貼った1947年の航空写真と比較すると、「そのままの形で残っているのはこの直線道路だけ」

と言っても過言ではないくらい、周辺の道路は様変わりしています。



     岩手県・花巻の不時着陸用滑走路跡地         
花巻の不時着陸用滑走路 データ
設置管理者:陸軍?
種 別:不時着陸用
所在地:岩手県花巻市若葉町2丁目
座 標:39°23'18.6"N 141°06'03.6"E
標 高:95m
滑走路:900m?
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

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東北・1 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ山形空港→ⓒ玉野原飛行場跡地→Ⓓ第二滑空訓練所跡地→Ⓔ花巻の不時着陸用滑走路跡地→Ⓕ花巻防空監視哨跡地→Ⓖ花巻空港→Ⓗ見前滑走路跡地→Ⓘ観武ヶ原飛行場跡地→Ⓐ秋田空港→Ⓑ道の駅大館能代空港(車中泊)
2023年5月末、2泊3日で東北を周ったのでした。

本当は前々から九州に行く計画を立てていたのですが、丁度台風2号発生。

ずっと天気予報を見てました。

休みのとれる期間中、南九州はギリギリ曇りベースだったのに、

出発直前になって急に雨ベースに変ってしまい、

「どこか晴れる場所はないか」ということで、本当に急遽東北を周ることに。

それでもお天気なのは、初日と二日目のみ。

三日目は岩手県のみ曇り、他は全て雨の予報だったため、

少々変則的に周り方になりました。


1日目

3:10 自宅発

限られたお天気日を有効に使うため、即高速で山形を目指しました。

8:00 山形空港到着。

その後順調に見学を続け、

18:00 秋田空港見学終了。

次の見学ポイントは大館能代空港。

ナビに大館能代空港を目的地にセットして、目的地周辺の道の駅を探したら、

大館能代空港が道の駅でした(知らなかった)Σ(゚Д゚;)

明日見学予定の空港に泊まれるのですから、願ったりかなったりです。

ということで案内スタートで走り出したのですが、カーナビ様が、

「目的地が規制されているため、最寄り地点まで案内します」

とか言ってる。

なんだそりゃ。

意味不明のまま空港に着いたのが20:40。

空港敷地に入る道が途中で塞がれ、閉鎖されています(;´Д⊂)

門には、「19:45閉門」とありました。トホホ

仕方ないので最寄りの道の駅に行こうか。

と思ったのですが、空港から道路に出る所にイイ感じの広々とした駐車場が。

よく見たら、空港の第三駐車場で、ここは24時間開放していました。

後で確認したら、公式サイトにもそう書かれてました。

21:00 寝る


本日の走行距離:838km

本日の見学ポイントのうち、

花巻の不時着陸用滑走路跡地と見前滑走路跡地は続く記事でアップしますが、

それ以外は既存の記事に追記してあります。

山形空港 
玉野原飛行場跡地 
第二滑空訓練所跡地 
花巻防空監視哨跡地 
花巻空港 
観武ヶ原飛行場跡地 
秋田空港 


(続きます)

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