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青森県・立川飛行隊の中継飛行場跡地 [├場所]

   2023年6月訪問  



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『三沢』五万分一地形圖 大正3年測図(以下3枚とも)


大正時代、青森県三沢村(当時)の淋代牧場が陸軍の東京~旭川中継飛行場として使用されたことがあります。

このことは、「ミサワ航空史」(2015年1月31日発行)にて詳しく扱われていました。

■ミサワ航空史 15p
立川飛行隊の三沢村着陸
 大正13年8月初旬、立川陸軍飛行場から、北海道旭川で行われる陸軍大演習に参加のため、立川第六飛行大隊が北海道との連絡飛行を実施することになり、三沢村を中間着陸地点として選び、目下準備中との報道がなされている。(地元紙「東奥日報」)この年、立川陸軍飛行隊第五大隊の若竹少佐が三沢村にやって来て、立川-旭川間の飛行演習の中継飛行場として調査を行っていた。帰隊後、7月16日付けで三沢村に飛行機発着所を設けることが決まった。(中略)

気になるその場所について、同資料内では続けてこうあります。

 旭川への中継地として選定されたその場所は、岡三沢北端(先頭のグーグルマップ青マーカー)より約2,700m(約25丁)北方で、本道の西側にある小田内(紫マーカー)東南側の牧場であった。(中略)


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中継地となった牧場の位置について「小田内東南側」とある訳ですが、

その小田内からちょうど南東方向に道路があるため、

臨時飛行場はこの道路を挟んでA,Bいずれかの側にあったのだと思います。

等高線の間隔からすると、より平坦なB側の可能性が高いんじゃないかと。

Bは「岡三沢北端より約2,700m(約25丁)北方」という条件にもピッタリ当てはまります。

(A側はなんか一部広葉樹林になってるし)

ということで、中継飛行場として使用された淋代牧場は、

B(グーグルマップ黄マーカー)の辺りにあったのではないかと思います。



 
実際に中継飛行場として使用された日についても同資料内に記されていました。
 
16p
 北海道旭川を中心とした陸軍大演習に参加するため、立川飛行隊6機が8月10日5時40分立川飛行場を離陸し、途中仙台に着陸し、10時45分三戸郡田子村上空を通過し、11時25分無事上北郡三沢村に着陸し、休息して準備を整
え、ここで待機していた木塚中尉以下40余名の協力を得て、到着機6機中5機の準備が出来たので、午後1時20分青森から天候状況報告の通信を受け、出発には差し支えなかったことを確認して、一気に旭川に飛び立って行った。
 飛行コースは、野辺地町東方約3里の上空を下北郡に向けて進み、同郡を斜めに通過し、津軽海峡に出て、約1,300m/h(ママ)(27里程度)の速度で、一直線に旭川へ飛行した。残された1機は、別段故障を生じたことでもなく準備の手遅れのために、若干後に廻っただけのことであったが、2時20分に出発準備が整い、同30分青森からの天候通報を得てから、3時4分旭川へ向けて離陸していった。そのコースは、先に出発した5機と全く同じであった。
 その後、同月19日には桜井飛行第5大隊長が三沢に来たが、予定された20日は東南の風が激しくて飛行中止となり、翌20日7時10分に旭川を飛び立って、三沢に到着した6機(森玉参謀本部附大尉機、立川飛行第5大隊機2機、
所沢飛行学校機3機)は、午前10時20分から50分にかけて三沢に着陸後、三沢からは桜井大隊長も同乗して離陸し、上空で数回宙返り飛行を披露して、次の中継地である盛岡を経由して、立川へ向けて去っていった。
 この離着陸地点は、三沢村小田内東南側の牧場が選ばれ、この牧草地帯の飛行場の設営や警備、見物人の整理など村を挙げて協力したのである。到着前の8月2日には、各学校に飛行機到着の日には、学童に国旗を持たせて歓迎の意を表すよう通知し、また牧場に放牧してある牛馬の移動の手配、4日には見物人の取り締りについて総代会を開催したりしている。(中略)
 以来、木ノ下地区をはじめとする航空機発着の適地としての注目が集まることになるが、その後の淋代からの太平洋横断飛行や民間航空の中継飛行場としての木ノ下飛行場(現市街の南側)の設置や三沢海軍航空隊基地、戦後の米軍
ミサワ基地へと繋がる「三沢航空史」の幕開けとなることになる。

(仙台の着陸地について余談ですが、霞目飛行場はこの頃はまだ開設していなかったため、後に仙台第一飛行場と呼ばれた宮城野原陸軍練兵場が使用されたと思います)

ということで大正13年の夏、小田内の牧場が東京と北海道を中継する臨時飛行場として使用されたのでした。

そして後半に記されているように、このことがその後一連の三沢の航空史へとつながるのですね。


…と、これで記事が終わりなら、「めでたしめでたし」でキレイなのですが、

飛行場の場所が特定したい病のオイラにとって困ったことに、話はこれですんなり終りません。

実は同資料1pにはこの臨時飛行場の位置について、こんな記述があります。

三沢に飛来した航空機たち
 この地三沢における飛行に関わる最初の記録は、大正13年(1924年)8月10日創設間もない陸軍飛行第五大隊(立川)は北海道旭川への長距離飛行演習の中継地として当時軍の放牧場として使用されていた小田内東南部の牧場(現在の当航空科学館の東側一帯あたりか?)に6機の陸軍機が次々と着陸し(中略)使用された機種についての記述はありませんが、当時の記録から推察すると陸軍が大量に装備した乙式一型偵察機(フランス製サルムソン2A2)であろうと思われます。次の記録は昭和3年(1928年)(昭和5年との記録もある)九月二十四日と十月九日のことで、同じく陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機(サルムソン2A2攻撃偵察機)四機が北海道での演習参加の途中臨時飛行場として使用したと記録されています。


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Wikiから。乙式一型偵察機(フランス製サルムソン2A2)230馬力 最高速度187km


ここでは臨時飛行場として使用された牧場の位置について、

「小田内東南部の牧場(現在の当航空科学館の東側一帯あたりか?)」とあります。

「あたりか?」と疑問形なので、地元でも位置は断定しておられないようですね。


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先に取り上げた同資料15pでは、「その場所は、岡三沢北端より約2,700m(約25丁)北方」とあり、

同1pでは、「航空科学館の東側一帯あたりか?」とあります。

上に貼った地図の通りで、この2つは同一の場所を指していません。

グーグルマップで見ると、現在「航空科学館の東側一帯」には畑地が広がり、

飛行場としてよさげに見えるのですが、

大正3年の地図で比較する限り、「航空科学館の東側一帯」はAB地点よりゴチャっとしているように見えます。

五川目に向って東西方向に平坦で細長い地割がありますが、ここは田んぼであって牧場ではありません。

それでも、著者(青森ご出身の航空科学館館長)がそう仰るからには、きっとそれなりの根拠がおありなのだと考え、

両論併記とさせて頂きます。

いずれにせよ、この周辺が中継飛行場として使用されたことは、その後の三沢にとって大きな意味をもつのでした。


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赤マーカー地点




     青森県・立川飛行隊の中継飛行場跡地         
立川飛行隊の中継飛行場 データ
設置管理者:淋代牧場?
種 別:臨時飛行場
所在地:青森県三沢市
座 標:40°43'19.5"N 141°22'31.0"E?
標 高:29m?
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革(「ミサワ航空史」から)
1924年07月 7日 淋代牧場臨時総会、陸・海軍両大臣に飛行場用地として牧場買い上げ(7万5千円以上)出願決議
       16日 事前調査の後、立川-旭川間の中継飛行場として使用が決まる
     08月 2日 各学校に歓迎の通知。牧場に放牧してある牛馬の移動の手配
       4日 見物人の取り締りについて総代会を開催
       10日 立川飛行第5大隊が立川より飛来。同日旭川に向け離陸
       20日 旭川より飛来。同日立川に向け離陸
1928年09月 24日 陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機4機、北海道演習参加の途中臨時飛行場として使用
     10月 9日 陸軍立川飛行隊の乙式一型偵察機4機、北海道演習参加の途中臨時飛行場として使用

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「ミサワ航空史」


 


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