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青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年6月訪問  



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地図:A『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License.  Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図 
無題g1.png
地図:B 測量年1944(昭19)(50000 55-9-5 八戸) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


青森県上北郡おいらせ町にあった「木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)」。

青森県内に「木下」なる飛行場があるということは、15年近く前から知っていたのですが、

どうしても場所を特定できず、「ミサワ航空史」のおかげでやっと位置、詳細情報が知れましたm(_ _)m

■「ミサワ航空史」26pの中で、

「木ノ下飛行場のあった木ノ下平付近の地図」として、現在の木ノ下の地図に円が描かれていました。

先頭のグーグルマップは、この円と当時の地割を加えたものです。

木ノ下飛行場は昭和13年に完成し、昭和15年と16年の2年間定期航路が開設されていました。

地図:Aは大正2年測図。

地図:Bは昭和19年測図ですから、定期航路廃止から3年後のものです。

地図:Aと地図:Bの赤丸周辺の地割を比較すると、特に目立った変化がありません。

つまり、大正2年~昭和19年までの31年間、この周辺の地割はほとんど変化していないということで、

定期航路が開設していた昭和15年~16年当時も、こんな地割だったはずです。

「ミサワ航空史」に飛行場の面積が出ており、30万坪(≒99.17ha)とあります。

上の円の範囲でピッタリの広さの地割を探したのですが、

どうしてもしっくりくる地割を見つけることができませんでした。

実は同書の年表には、「昭和13年12月23日 木ノ下飛行場が竣工 140町歩」とあります。

140町歩≒138.8haなので、「30万坪」より更に大きくなります。


赤マーカーから東北東方向に広々と目立つ細長い地割がありますね。

仮にこの地割の中に滑走路を設けたら。ということで作図したのが黄色のシェイプです。

因みにこのシェイプの面積は64.3haなので、同資料に出てくる数字からすると、

実際にはこれの1.5~2倍強の面積だったことになります。

仮にこんな形だったとすると、滑走路の長さは1,350mx420~590m。

札幌の飛行場は当時800m足らずと思われ、仙台は終戦時に1,210mでしたから、

1,350mというのは、長さとしては十分と思います(雪のことは知らないけど)。

以下、「ミサワ航空史」に記されている木ノ下飛行場についての記述を引用させて頂きます。

木ノ下平臨時飛行場の竣工
 昭和5年9月24日、立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たって、再び大正13年夏のときと同様に、木ノ下地区を臨時飛行場として使用した。その後、同年10月9日にも飛来している。これは北海道への往復の中継地として使用されたのである。
 翌6年6月20日には、地元紙・東奥日報が弘前8師団の航空隊が設置される計画があることを報じている。「8師団航空隊は木ノ下平に設置か 陸軍機5機飛来して実地調査」という見出しで、次のような報道を掲載している。
 「軍制改革に伴う8師団航空隊設置に関し、先に上北郡下田村古間木付近がその場所として有望視されているとの事に最近八戸に於ても同市付近の蒼前平付近を候補地として運動を開始したと伝えられているが、来る20・21日の両日に亘り、航空本部より陸軍機5機が古間木付近の木ノ下平に飛来することになったが、航空隊設置の前提としての実地調査とみられ・・・木ノ下平は従来陸軍機の着陸地として陸軍当局に重視され、且つ古間木駅にも近く・・」
 しかし、この計画は実現しなかった。日本陸軍としては、この地の牧野を借用することになったが、その将来性を認識しながらも、予算がつかず遂に買収を行うことはなかった。
 陸軍としては、昭和11,12年と例年のように、耐寒飛行テストのため、七戸平野方面での雪上飛行テストを行い、小川原沼付近は飛行場として注目されていた。そして、この場所が、昭和13年7月に、所沢-立川航空隊間の本州・北海道連絡飛行の臨時着陸飛行場として、木ノ下平が注目されることになったのである。事前調査が、この年夏にあって、この年に北海道での陸軍演習があったとき、臨時飛行場として使用されることになった。使用機は、陸軍が長年使用しているフランス製サルムソン2A2複葉機(陸軍名・乙式一型偵察機)に雪橇を装着した冬季装備した陸軍機であった。この耐寒飛行テストには、当時陸軍航空大尉であったあの「航研機」(昭和13年・世界周回航続飛行記録樹立機)の主操縦士・藤田雄蔵の姿もあった。積雪時以前に現地の事前調査にも訪れていた。
 昭和13年12月15日、木ノ下飛行場が完成した。民間航空の東京-札幌間空路の冬期間向け飛行場で、夏期間は青森油川飛行場を使用するというものであった。東京・仙台・札幌間の空路を結ぶ民間定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた。それは、12月22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。当日の模様を地元紙・東奥日報は次のように伝えている。
「冬の東北・北海道定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空の港、上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。
 主なる来賓は左の通り
 県知事代理大橋県道路主事、航空局岩崎青森飛行場長・太田航空会社青森出張所主任・猪狩青森測候所長・中田秀雄気象台盛岡支所長、田畑県土木技師、長尾三本木警察署長、岩橋三本木土木出張所長、柏崎下田村助役、杉山六戸村助役、佐藤古間木駅長・苫米地古間木郵便局長、菅木ノ下小学校長、付近消防組幹部、牧野組合員、渡辺無線技手外駐在員や地元関係者らが出席した。開式陳告後、皇居遥拝、国歌斉唱、田中木ノ下気比神社神職の修跋式外行事(ママ)があり太田、岩崎、知事代理などの玉ぐし奉奠あって式を終え祝宴に移った 岩崎場長の挨拶があり盛宴であった」
とある。
 見渡す限りの平坦な草原地帯であった飛行場用地30万坪は牧野組合から借用し、格納庫(132坪)と事務所・住宅(43坪)があって、古間木局33番の電話、無線施設も備え付けられていた。
 地元紙・東奥日報は、翌14年1月17日に行われた試験飛行を次のように伝えている。
「札幌-木ノ下平間定期旅客機の試験飛行は、17日空の難所津軽海峡を一気に飛び越え見事成功した 旅客機は6人りユニバーサル・スーパーAB00機で、操縦は空のエキスパート亀居飛行士 河内技師 宮本無線技師の外に航空会社の下山国内課長が搭乗員激励のため同乗 この日午前10時15分おりからの快晴を利して札幌飛行場を離陸したが、風やや強く風速10mの空を快翔 苫小牧通過南方目指して津軽海峡を一気に突破 太平洋無着陸横断飛行で名高い青森県三沢村淋代海岸伝えに木ノ下飛行場へ飛び午前11時28分見事なる操縦で無事着陸したもので 同機は雪上飛行に備えて橇を据付けてある」
 同機は、午後1時半に離陸して札幌に向った。風速17mの逆風だったため2時間25分もかかって札幌に着き、帰路は1時間12分であった(ママ)。こうして試験飛行は成功した。
 本格的定期航路は、昭和15年6月15日から開始されたが、戦時体制強化の時代に入り、この民間定期空路は、同16年10日(ママ)をもって航路廃止となった。

これは同書14,15pにあるくだりなんですが、

三沢では大正時代から耐寒、雪上飛行テストが続けられていたんですが、

単に「耐寒、雪上飛行テストに向いている」というだけでなく、

非常に古くから飛行場として「他の例が無いほど適地」と評されており、

これが今回の飛行場建設へと繋がりました。


ということで、木ノ下飛行場は昭和13年12月に完成し、昭和15年6月から本格的に開始となったのですが、

札幌-東京間の定期航空路は、昭和12年4月から始まっており、

札幌は現在門柱だけが残っている札幌第一飛行場、青森は油川飛行場、

そして仙台は現在の霞目飛行場が使用されていました。

青森については、油川飛行場で定期便が始まったのに、後になってわざわざ「冬期用の飛行場」を造ったのですね。

油川と木ノ下は直線距離で65kmも離れています。

油川は青森市中心部に隣接しており、利便性は高かったはず。

木ノ下の本格的な使用は昭和15年からですが、その前年の昭和14年9月には、

油川に着陸できなかった旅客機が木ノ下飛行場に着陸するという一幕もありました。

本格的な使用が昭和15年6月からで、翌年路線廃止ということは、

木ノ下飛行場が「冬期用の飛行場」本来の目的で使用されたのは、昭和15年の一冬限りだったんでしょうか。


ところで気になる点なんですが、

記述の中で、木ノ下飛行場の位置について、

「新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた」

「上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された」

とあります。


6.png
地図:C『三沢』五万分一地形圖【測量時期】 大正3年測図/『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License.  Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図 

古間木駅は、1961年に三沢駅に改称して現在に至ります。

で、「古間木駅東方約1里(≒3.92km)」付近とある訳ですが(紫マーカー地点)、

これは「向山駅東側近く」とは明らかに違う場所です。

「向山駅東側近く」は、飛行場のあった場所で納得なんですが、

「古間木駅東方約1里」というのは、ちょっとどうなんでしょうか。

「古間木駅南東方約1里」なら、赤丸にかなり近い位置まで届くんですが。。。

せっかくお歴々が参集して開港を祝った木ノ下飛行場でしたが、1年ほどで路線は廃止となってしまいました。

その後、飛行場がどうなったかについて、同書には出ておらず、ネットで検索しても分からずじまいです。

実は木ノ下飛行場が竣工した昭和13年、村有地を海軍飛行場(後の三沢基地)用地として売却することが議決されており、

三沢の飛行場についての話は、一気にこの海軍航空基地にもっていかれてしまいます。

戦時下の影響が日増しに強まっており、航路再開など当面見込めないでしょうし、

木ノ下飛行場の用地は元々牧野組合からの借用でしたから、早々に解約してしまい、

本来の用途に戻ったのでしょうか。


DSC_0657_00001.jpg


赤マーカー地点。

当時ここから北海道へ、東京へと旅客機が飛んでいたと思うのですが…。



    青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地      
木ノ下飛行場 データ
管理者:航空局?
種 別:民間飛行場?
所在地:青森県上北郡おいらせ町向山東
座 標:40°38'10.8"N 141°23'39.9"E?
標 高:39m?
面 積:99.17ha(138.8haともあり)
滑走路:1,350mx310m?
(座標、標高、滑走路長さはグーグルアースから)

沿革
1924年  夏 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
1928年07月 16日 立川陸軍飛行隊の4機が三本木木ノ下平に着陸。翌日旭川へ出発
        25日 旭川から復路の1機が三本木町沖山原野に不時着、飛行不能となる
1930年09月 24日 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
     10月 9日 立川陸軍飛行隊、北海道への往復の中継地として使用
1931年06月 20日 東奥日報、弘前8師団の航空隊設置計画を報ずる
1937年04月 1日 日本航空輸送、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-東京間の定期航路開始
1938年01月 17日 木ノ下・札幌間試験飛行実施
     12月 15日 木ノ下飛行場完成。22日竣工式
1939年01月 17日 試験飛行実施
    09月 15日 東京・札幌間定期航空旅客機 青森に着陸出来ず木ノ下飛行場に着陸。乗客3名
1940年06月 15日 本格的定期航路開始
1941年    航路廃止

関連サイト:
ブログ内関連記事 

この記事の資料:
ミサワ航空史(2015年1月31日発行)


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最終更新:2023/10/02 青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 追加


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吹上飛行場
  
大里飛行場
  
浦和(埼玉第一)飛行場跡地
  
朝霞訓練場離着陸場跡地
  
川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地 

■千葉県■ (COMPLETE)   
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地
    
香取航空基地(干潟の飛行場)跡地    
横芝(栗山、横芝栗山)飛行場跡地    
成田国際空港(成田空港)     
下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地     
豊成(東金)飛行場跡地    
関宿滑空場
  
蕃昌飛行場跡地    
柏飛行場跡地
    
逓信省印旛地方航空機乗員養成所、印旛(草深)飛行場跡地
   
下総航空基地
    
松戸飛行場跡地  
習志野離着陸場  
船橋飛行場跡地(初代)  
船橋飛行場跡地(二代目)
    
伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地    
下志津飛行場跡地
   
稲毛飛行場跡地
    
白戸飛行機教習所跡地   
浦安市の臨時滑走路
   
誉田飛行場(平川滑空場)跡地
    
真名(茂原)飛行場跡地   
茂原海軍航空基地跡地
    
太東航空基地跡地    
木更津飛行場
    
館山航空基地
    
県営千葉県魚群探見飛行場跡地  
大利根飛行場跡地(水上機基地)  
佐原飛行場跡地 
五井水上基地跡地  
第一航空学校跡地 
川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地 
大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場跡地 
習志野4丁目滑走路跡地 

■東京都■ (COMPLETE)   
千住草加間国道秘匿滑走路跡   
赤羽飛行場跡地  
板橋(前野)飛行場跡地
  
成増陸軍飛行場跡地
  
成増飛行場秘匿滑走路跡地 
篠崎飛行場(江戸川飛行場)跡地  
江戸川飛行場跡地  
洲崎(深川浦)飛行場跡地・江東区  
月島飛行場(晴海連絡用滑走路)跡地 
東雲飛行場跡地  
代々木練兵場跡地
  
東京国際空港(羽田空港)
  
 東京羽田飛行場(1931~1939)  
 東京飛行場(1940~1945)  
 ハネダエアベース(1945~1952)  
 東京国際空港(1952~)  
戸田橋滑空場跡地
  
読売飛行場跡地
  
調布飛行場
  
東京陸軍航空学校滑空場跡地   
横田(旧福生、多摩)飛行場     
国立飛行場跡地   
立川飛行場
    
昭和飛行場跡地
    
旧陸軍大島飛行場、北の山陸軍飛行場、旧大島空港跡地
   
大島空港(東京大島かめりあ空港)  
神津島空港  
三宅島空港
   
八丈島海軍(三根)飛行場跡地
   
八丈島空港
  
新島空港
  
 陸軍新島飛行場跡地  
 新島村営場外離着陸場跡地  
洲崎飛行場(江東区豊洲)跡地
  
深川7号埋立地(洲崎飛行場・江東区辰巳)跡地
  
中島大井(大井)飛行場跡地
  
(洲崎飛行場跡地(父島))
   
(父島飛行場)
  
(千鳥(下の、第一)飛行場跡地)
   
(元山(第二)飛行場跡地)
 
(北(上の、第三)飛行場跡地)
  
(硫黄島飛行場)
  
(南鳥島飛行場)
   

■神奈川県■ (COMPLETE)   
伊勢佐木町(若葉)飛行場跡地      
間門飛行場跡地
      
第十一横浜水上基地(根岸飛行場)跡地     
横浜水上基地(富岡飛行場)跡地
      
横須賀第一(追浜)飛行場跡地
     
横須賀第二(長井)飛行場跡地
      
横須賀第三(黒崎、初声)飛行場跡地
      
キャスナー陸軍飛行場     
相模(中津)飛行場跡地
     
大山秘密航空基地(厚木第二飛行場)跡地  
新厚木基地跡地 
厚木飛行場      
厚木(銀紙)飛行場跡地  
藤沢飛行場跡地      
磯子飛行場跡地
  
三本葭飛行場跡地
  
玉井飛行場跡地
  
片岡飛行場跡地
  
宗里飛行場跡地(第一航空学校)
  


更新履歴
2023/10/02 青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 追加
2023/09/28 青森県・淋代陸軍飛行場跡地 追加
2023/09/11 岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地
2023/08/17 愛知県・築地の水上飛行場跡地岐 追加
2023/03/20 岐阜県・各務原中飛行場跡地 追加
2023/01/23 群馬県・敷島滑空訓練所跡地 追加
2022/12/19 千葉県・習志野4丁目滑走路跡 追加
2022/12/12 千葉県・習志野離着陸場 追加
2022/12/05 千葉県・大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場跡地 追加
2022/11/28 埼玉県・川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地 追加
2021/03/08 東京都・江戸川飛行場跡地 追加
2021/03/01 東京都・成増飛行場秘匿滑走路跡地 追加
2020/05/10 神奈川県・新厚木基地跡地 追加
2020/02/17 兵庫県・六甲飛行場跡地 追加
2020/02/10 岡山県・吉井川左岸福岡付近着陸場跡地 追加
2020/02/03 岡山県・岡山練兵場着陸場跡地 追加
2020/01/06 静岡県・飛行第七連隊飛行場跡地 追加


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淋代陸軍飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年6月訪問  



無題6.png
撮影年月日1948/05/15(USA M1011 128) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
2.png
1938年11月10日撮影
3.png4.png
国立国会図書館デジタルコレクション(上3枚とも)Bulletin No. 143-44, September 1944. survey of Japanese airfields in Empire area. Report No. 3-h(1), USSBS Index Section 6 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 46, Security-Classified Intelligence Library. 1932-1947. 65 ft = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 各種日本関係情報) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:CINCPAC-CINCPOA: Surveys, air target maps and air information summaries) 

青森県三沢空港の東にあった陸軍の「淋代飛行場」。

情報が極めて少ないミステリアスな飛行場です。

上に貼った英文は、おおよそですが、こんな感じかと。

淋代飛行場は本州東北部に位置しており、
三沢飛行場の1~2マイル以内にあるとされている
1930年、飛行場は6,500ftあり、国内最高の飛行場の一つでした。
現時点では、主に海軍の不時着場および水上機の停泊地として使用される
と考えられています。
滑走路の数、長さ、表面、諸施設などに関する情報は入手できません。
写真の質が悪いため、規模についての情報を知ることはできません
この飛行場は時々フルマキ(古間木のことか?)として知られています。


■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」

の中で、「淋代陸軍飛行場(淋代牧場)三沢市」として紹介されています。


DSC_0641_00001.jpg


赤マーカー地点。

滑走路方向


DSC_0645_00001.jpgDSC_0646_00001.jpg


青マーカー地点。

滑走路方向


DSC_0647_00001.jpg


黄マーカー地点。

飛行地区方向



     青森県・淋代陸軍飛行場跡地         
淋代陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:青森県三沢市三沢向平
座 標:40°42'04.1"N 141°24'50.8"E
標 高:17m
滑走路:900mx160m(04/22)、900mx170m(13/31)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県三沢市の招和台公園内に「報知日米號搭乗員慰霊之碑」があります。


DSC_0640_00001.jpg

公園の一角に

・報效義會三番艇遭難之碑
・鎮魂碑

と共に並んで設置してありました。


DSC_0631_00001.jpg


碑の隣に説明版が設けてありました。

報知日米號搭乗員慰霊之碑(全文)
 昭和二年、アメリカ人リンドバーグがニューヨーク・バリ間およそ五千八百キロメートルにおよぶ大西洋無着陸横断飛行に成功したことから、冒険飛行家たちはにわかに太平洋に熱い視線を送るようになりました。そうしたおり、昭和六年に三沢村の人たちから見守られながら二人のアメリカ人が淋代海岸から飛び立ち、途中車輪を捨てて四十一時間余りも飛び続け八千キロメートルのかなたアメリカ・ワシントン州のウェナッチに胴体着陸し世界初の太平洋無着陸横断飛行を成し遂げたのです。
 一方、日本人もこうしてはおれないぞと報知新聞社が2回ほど北アメリカに向かって飛び立つ計画を試みましたが、いずれも失敗してしまいました。本間機長以下の搭乗員はその3回目の計画に挑むことになりました。そして、小比類巻要人宅に泊まって村人たちの協力を得ながら準備をととのえ、昭和七年九月二十四日未明、満を持して淋代海岸を離陸しました。しかし、数時間後に通信が途絶えてしまいました。それから約一年間北の洋上を捜索しましたが何の手掛かりも得られませんでした。離陸に先立ち井下通信士は、「技術には充分な自信あるも天祐は左右し難し」との遺書を家族にあてていました。きっと万が一のことを覚悟されていたに違いありません。

●本間 清 機長、新潟県佐渡郡河原田町(現佐和田町)出身 享年四十五歳 北洋天低暗雲迷 霧塞前程転凄惨 決然破暁就鵬程 爆々快翔横北溟
●馬場英一郎 操縦士、滋賀県坂田郡春照村(現伊吹町)出身 享年二十八歳
●井下 知義 通信士、島根県邑智郡川越村(現桜江町)出身 享年三十二歳

 この碑は昭和三十七年、本間機長と海軍兵学校が同期であった桑原虎男氏らによって資金が集められ建てられたものです。この碑の維持管理は、浜三沢町内会及び三沢市遺族会が建立者の遺志を引き継ぎ行っています。



■ミサワ航空史(2015年1月31日発行)21-26p

の中で、日本人による挑戦の詳細について、以下記されていました。

「日米報知号」の太平洋横断挑戦飛行
 リンドバークの大西洋横断飛行の壮挙に刺激され、今度の太平洋横断は、国産機を使用して日本人操縦士によって行なうべきであるという世論を具体化し、帝国飛行協会が中心となり、昭和2年8月から準備が進められた。使用機である川西K12「桜号」は、当時の技術をもって行なえる最新の設計と最も進歩した資材を使って研究・試作された結果、第一号機実験機は昭和3年6月に完成、各務ヶ原において試験飛行がおこなわれたが、その性能判断に関して、航空局側と制作者側の間に紛糾が起こり、第2号実行機は引き続いて同年8月に完成したが、これも航続力不十分として、同年9月、航空局の命により壮挙は打ち切りとなってしまったことは、航空熱が高まっていた日本としては甚だ残念なことであった。
 三沢の市街地から四川目海岸に至る道路沿いにある招和台という公園の一角に、ひっそりと石碑が建っているが、次のような碑文が刻まれている。

 機長兼航空士本間清、操縦士馬場英一郎、通信士井下知義の搭乗する第三報知日米号は、昭和7年9月24日午後5時35分淋代を出発し、勇躍太平洋横断飛行の途につきたるが、択捉島通過の報を最後として消息を絶つに至れり。かくてわが航空界空前の壮挙は挫折したりと雖も三士の烈々たる気迫は後進を奮い立たしめ著しく遅れたる斬界の発展促進に寄与するところすこぶる大なるものありたり。爾来三十星霜その忘れ去られん事を憂い茲に慰霊碑を建立するものなり。 昭和37年9月24日 発起人一同

 これは「日米報知号」本間清中佐以下3名の搭乗員の慰霊碑であるが、その遭難時から30年後に建立されたものである。
 昭和5年、日本中で航空熱が高まる中で、報知新聞社の後援で吉原清治操縦士が単独操縦で8月20~30日、ベルリン~東京立川間11,404kmを翔破、実飛行時間79時間58分の軽飛行機による驚異的母国訪問長距離飛行に成功していた。翌年の昭和6年同型の水上機「報知日米号」による太平洋飛び石伝い横断飛行計画を発表、社内に横断飛行実行委員会を設け、副社長寺田四郎を委員長として、その成功の万全を期したのである。此の具体的な計画作成に当たっては、吉原清治飛行士が中心となり、帝国飛行協会の安達賢造中佐らの応援を得て計画を練ったが、計画の概要は、ユンカースA-50水上機を使用して、島伝えに北太平洋を飛行しようというものであった。

 昭和6年5月4日、同機は羽田飛行場近くの河口から離水して、本県沼崎(現在の上北町)の小川原湖に着水し、その後北海道根室を通過して、5月9日、千島列島エトロフ島内保湾に事故のため不時着水し故障修理後、沙那に到着。ここで気化器の分解修理をおこなってから、さらに新知島上空に達した時、気化器が凍結して再び不時着となり、「報知日米号」の太平洋横断計画は中途で挫折となってしまった。
 同年、報知新聞社は直ちに「第二報知日米号」を準備して再挑戦となったが、7月5日、根室で訓練中に大波で機体が大破してしまい、この計画も出発前にして失敗に終わることになった。
 報知新聞は、昭和7年度の計画として、「3大横断飛行」を計画していた。第一は飛行艇での逆横断飛行、第二は一気にアラスカまでの飛行、第三はシアトル・東京間無着陸飛行という内容であった。
 昭和6年11月14日、横浜出帆の「エムプレス・オブ・ジャパン」号で、予備陸軍航空兵大尉名越愛徳・同特務曹長浅井兼吉の二人が渡米、ニューキャッスル市のべランカ航空機制作会社製作機に荒木貞夫陸軍大将が「報知日の丸号」と命名し、昭和7年3月29日、フロイド・ベネット飛行場で試験飛行中に墜落大破、名越大尉は機体と共に殉職し、遂にこの逆横断飛行も失敗に終わったのである。
 一方、吉原飛行士も英国サザンプトンで水陸両用飛行艇「サロー・カティサーク」号を完成させ、3月末にサンフランシスコへ送り、5月2日にオークランド飛行場に到着。昭和7年5月16日(日本時間17日)オークランド飛行場で試験飛行中に機関士大石竜弥が同乗し、港の一角であるオークランド水道から離水したが、250ftの高度に達した時に突然エンジンが停止し、急いで着水降下ようとしたが(ママ)、水面に届かぬ前に河岸に降りて転覆し、吉原・大石共に重傷を負い、機体は大破して、再使用は不可能の状態となった。またもや失敗となり、逆横断飛行も出発を見ないままに終わってしまった。
 報知新聞社長であった野間清治は、報知新聞社の面子にかけても必ず北太平洋横断飛行を成功させることを願い、当時海軍航空隊出身の名パイロット本間清中佐、馬場英一郎飛行士、井下知義通信士の3人を同乗させ、ユンカースW-33型による「報知日米3号」に期待をかけることになった。

 「第三報知日米号」が、淋代飛行場に到着したのは、昭和7年9月10日午後3時36分であった。羽田飛行場を出発した「第三報知日米号」は、燃料補給のためもあって淋代に到着したのである。そして、中旬の天候の状況を見てから、アラスカ、ノームを指して北太平洋を一気に横断の壮途に上ることになった。「第三報知日米号」は、「第一報知日米号」「第二報知日米号」のように、僅か80馬力の軽飛行機ではなく310馬力の長距離機であった。 機長の本間清中佐は、佐渡河川原田の生まれ、元霞ケ浦海軍航空隊教官当年43歳の男盛り、沈着にして大胆、我が国空中航法の権威者であり、馬場英一郎一等飛行操縦士は、滋賀県坂田郡春照村の生まれ、第3回逓信省海軍委託生出身、堺・松山間の定期航空に従事し、ユンカース大型機の操縦にかけては我が国きってのナンバー・ワンであって、豪胆にして細心、当年28歳の青年飛行家であったし、井下通信士も無線通信のベテランということで、全国民は「今度こそは成功間違いなし」と感じていた。
 昭和7年9月24日、「第三報知日米号」は、国民に期待を担い(ママ)、勇躍淋代海岸を離陸して千島半島沿いにノームへ向って北上中、色丹島付近上空で消息を絶ってしまったのである。
 当時の「東奥日報」(昭和年9月25日発刊)(ママ)は、「第三報知日米号」の淋代離陸を次のように報道している。「日本航空界の権威本間清中佐を機長として邦人最初の歴史的壮挙たる太平洋無着陸横断を決行する24日の朝は来た。この日午前2時起床した本間中佐、馬場、井下三勇士は揃いの赤革の服に同じ色の靴に身を固め、山田航空官と共に自動車で星瞬く夜道を駆り、3時半淋代飛行場に到着。井上(ママ)通信士は食料品及び身の回りのものを積み込み、馬場操縦士は神田技師と共に午前4時から約10分間に亘ってエンジンの試験をなし、凄惨なる青色の焔をエキゾーストパイプより吐き物凄い光景を呈した。其の結果は1,380回転を算へ好調子を示した。比頃東風やや強かったが本間機長は決然として飛行決行を声明し、4時20分宿舎より準備してきた弁当で朝食を済まし、それより太田常利少佐と共に自動車で滑走コースを点検して後、予て賀陽宮殿下より賜った日章旗を機上に立て朝風になびかせながら記念写真をなし、愈々今日決行することになった。見送りにため(ママ)来場した山田航空官、北山保安課長、福士三本木警察署長、林三沢村長、小比類巻同前村長、報知新聞関係者、山田本社社長と共に天幕内でビールを乾杯する予定であったが、風の都合でこれを中止し、多数に見守られながら、午前5時20分滑走を開始した、2度滑走を失敗し、3度目に約800m滑走後、午前5時35分見事に離陸し、銀翼燦然として大鵬の如くはるかな東方雲間に機影を没しアラスカのノームに向けて大壮途に上った」
 完全に天候回復した9月24日午前5時37分、「第三報知日米号」は、800m足らずの滑走で離陸し、太平洋横断の絶好のスタートを切ったのである。「午前9時50分、色丹島を通過、高度1,000、天候良好にして一同元気、異常なし」「午前10時16分、択捉島南々東20mil(マイル)地点を通過」との好調な無電連絡があったが、午前11時頃から交信感度が落ち、落石あたりから「感度が鈍くて受信不可能なり、11時30分より交信すべし」との問いに「OK」という返信があったのを最後に、ブッツリと連絡が絶えてしまったのである。翌25日午後3時、ノーム到着の予定時間を過ぎても「第三報知日米号」は姿を現さず、遂に正式の捜索依頼がアメリカ、ソ連、カナダの各国に発せられることになった。
 いろいろと報知号と思しき無電を傍受したという誤報が舞い込むばかりであったが、ただ「第三報知日米号」の最後の目撃者がいたのである。択捉島の茂世路鉱山で働いていた鉱夫達で、その1人、三浦鉱夫の話を掲げれば「9月24日の午後11時半頃、別に報知新聞社の飛行機が飛ぶということも知らずに、私ら十数名の者は、この択捉島の北の端にある硫黄嶽に登って、丁度昼食をしていたとき、異様な爆音を聞いたので振り仰いで見たら、銀色の美しい飛行機が南の方から現れ、南東の洋上を得撫島の方向を指して、悠々と飛んでゆくのを見届けた。どこの飛行機が知らないが、この辺では全く珍しいことであるから、思わず万歳を叫んだのですが、間もなく茂世路嶽の陰に隠れてしまい、私たちは作業の時間も来たので、そのままにして再び仕事に取り掛かりました。あれが報知新聞社の太平洋横断飛行機だったのですか。それなら声を限りに声援するところでしたのに・・。とにかく銀色の美しい飛行機でした」と。
 択捉島の東をよぎったのであれば、海峡を隔てた隣の島である得撫島をかすめて行く筈なのに、この島の居住者である農林省養狐場監視人は、当日は快晴で昼頃は戸外にいたと証言しているのに、爆音も機影も全く気がつかなかったというのである。その後の捜査でも、同島上には遭難機体は発見されていないのである。ということは、千島特有の悪気流にもまれたか、機体或いは発動機に突発的な故障か異常が発生したのか、潮流の早い両島の間に墜落し、満タンで重い機体が一瞬のうちに海中に没し去ったのか、と想像するしかない。送信後消息を絶ったのであれば、いわゆるスキップ・ディスタンス(無電の電波の減滅地域)現象で、SOSを発しても応答がないまま、無念の涙をのんだのであろうか。こう結論つけられるに及んで、1年間にわたる捜査結果をまとめ、報知新聞社もこの計画を断念せざるを得なくなったのである。
 こうして、報知新聞社による太平洋横断飛行計画は悲惨な結果に終わることになってしまった。4名死亡、2名重傷という大きな犠牲を払って、合計5回にわたる壮挙は全て失敗という無残な結果に終わった。この時代に、世界の航空界が挙って注目した太平洋横断飛行計画の中で、これまで世界の航空界で後進国とされていた日本人による数少ない横断飛行への挑戦の記録として注目されることで意義があったと考えられる。
 報知新聞社は、昭和10年12月、「満天下ご同情の各位に謝す」と社告を掲載し、「謹みて太平洋横断飛行の経過を報告す」という冊子を出版し、その経過を詳細に発表し、此計画の幕を閉じることになったのである。
 日本人による太平洋横断飛行の悲願が達成したのは、それから7年経過した昭和14年8月の毎日新聞社の世界一周機「ニッポン」号であった。この年、三沢は日本海軍の航空基地として第一歩を進めていたのである。

三沢に飛来した航空機たち 2p
 日本はこれらアメリカ人による4度の挑戦を指をくわえて見ていたわけではありませんでした。報知新聞社は北太平洋を飛び石伝いに横断する事を企画し、ドイツ製のユンカースA-50ユニオール機にフロートを装着し"報知日米号"と命名し挑戦しました。パイロットは有名な吉原清治に頼み、羽田飛行場の海老取川を昭和6年(1931年)5月4日に出発し小川原湖の沼崎(上北町)に着水、燃料補給後根室まで飛行しましたが、天候が悪く以後の飛行を断念しました。(吉原清治は同機で前年の8月20日~30日の10日間でベルリン~東京間114,041kmを実飛行時間79時間58分で飛行した時の人でした。)

 50日後吉原清治は再度同じ機体("第二報知日米号")で挑戦しましたが、気象条件が悪く、またしても失敗、「損傷した機体にとりすがって吉原は男泣きした」と記録にあります。
 報知新聞社が天下に発表した太平洋横断計画は、報知新聞社はもとより日本航空界の名誉にかけても完遂せねばならなかった意地があったようです。

 同昭和6年(1931年)9月24日午前5時37分、淋代海岸を多数の村民が見守る中出発したのが"第三報知日米号"(ドイツ製ユンカースW33L型)で、本間中佐、馬場飛行士、井上通信士の三名が乗り込み勇躍出発しましたが、エトロフ島を過ぎた午前11時03分の交信を最後に消息を絶ち、行方不明となりました。(この3名の不幸な偉業は村民の心に強く残り、昭和37年、市内岡三沢の平和台に三有士の慰霊碑が建立されました。)
 *この機体ユンカースW33L型は、1928年(昭和3年)、65時間25分の無給油滞空世界記録を樹立したり大西洋逆横断飛行に最初に成功する等、数多くの記録を残している当時では名機と謳われた機体でした。
 このように昭和5年からのわずか一年の間に次々と試みられた太平洋横断飛行への挑戦は、北太平洋の厳しい自然に阻まれことごとく失敗しました。





     青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑         
報知日米號搭乗員慰霊之碑 データ
維持管理:浜三沢町内会及び三沢市遺族会
所在地:青森県三沢市三沢山ノ神招和台公園内
座 標:40°41'32.5"N 141°24'02.8"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1927年05月 リンドバーク、大西洋単独無着陸横断飛行に成功
     08月 帝国飛行協会が中心となり、国産機を使用しての太平洋横断飛行準備
1928年06月 第一号機実験機完成。各務ヶ原にて試験飛行
     08月 第2号実行機完成
     09月 航続力不十分として航空局の命により壮挙打切り
1931年05月 4日 報知日米号、小川原湖に着水。翌日米国に向け離水するも、故障が続き断念
     07月 5日 第二報知日米号、根室で訓練中に大波で大破
     10月 ミス・ビードル号 淋代海岸から太平洋無着陸横断飛行に成功
1932年03月 29日 報知日の丸号、試験飛行中に墜落
     05月 16日 「サロー・カティサーク」号、使用不能の大破
     09月 24日 第三報知日米号淋代を離陸。択捉島通過の報を最後に消息を絶つ
1962年    碑建立

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この記事の資料:
現地の碑文、説明板


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青森県・七戸平野と小川原沼 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県七戸、小川原湖では大正時代、飛行演習が行われていました。

前記事でも参照させて頂いた「ミサワ航空史」にこの件が記されていました。

■「ミサワ航空史」15p

(大正13年の陸軍立川-旭川間連絡飛行についての記述に続けて)この前年2月にも、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われ、この地帯一帯は他に例が無いほど航空基地としては適地であり、価値のある地域であることが認められていた。

陸軍としても近い将来に民有地を買収して飛行場の設置を考えたいところであったが、予算上の問題から早急には実現できない状態であった。海軍にあっても、同様であって、淋代平や小川原沼という一帯は、飛行場ばかりでなく爆撃機の練習地としても最適な場所であると見込んでいたのである。将来、航空隊の増強の時代が来れば、軍事的見地からもこの地が優先される特徴を持っていると把握していたのである。

とのことで、

大正12年(1923年)2月、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われた

のですね。


・七戸平野について

【七戸平野】でググっても、「この範囲です」とスッキリした説明はありません。

よそ者のオイラの推測になってしまうのですが、

七戸町は、西部は山地、東部が平野になっています。

それで七戸平野とは、七戸町の平野部のことだと思います。


・小川原沼について

Wiki/小川原湖によれば、

「かつては小川原沼(小河原沼、こがわらぬま)という名称だったが、1958年(昭和33年)1月1日に小川原湖に改称された」(沼→湖)

「冬季には湖面が結氷」

とあります。

七戸の平野部と小川原湖は非常に近いため、この周辺で演習が行われていたと思われます。

実は、「青森県内で耐寒・氷上飛行演習」が行われたということは知っていたのですが、

長い間具体的な場所が不明のままになっていました。

この書籍のおかげでやっとその場所が判明したのでした。

ありがたやm(_ _)m

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赤マーカー地点。

七戸平野(を撮っているつもり)

大正時代、この辺りで耐寒飛行演習をしていたはず。

「他に例が無いほど」と評されるのも納得の眺めでした。


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青マーカー地点。

小川原沼公園から。

100年前、ここで飛行演習が行われたのですね~。

…と、記事はここですんなり終わりません。(デジャヴ)


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以下、大正12年の耐寒・氷上飛行演習とは全く別の話になってしまうのですが、

同じく小川原沼公園の駐車場にこんな説明版がありました(黄マーカー地点)。

太平洋横断「報知日米号」寄港の地(全文)

世界最大の難関「北太平洋横断」に挑戦!
 昭和六年当時、世界ではリンドバーグによる大西洋横断の次は、太平洋横断との機運が高まっていた。それまで、航空機による太平洋横断を実現した者は誰もなく、世界各国が覇者になろうと競い合っていたのであった。

 この世界最大の難関といわれた「北太平洋横断」に日本で挑戦したのが、「報知日米号」である。別名、「ユンカース・ユニオールA50型水上飛行艇(八十馬力)」、その操縦士は、前年、東京とドイツのベルリン間の一万一千キロの空路を開拓し、一躍空の英雄になった吉原清治飛行士(佐賀県出身)であった。

 さて、日米親善、北太平洋横断航空路開拓を掲げたこの事業は、報知新聞社が事業主となり、国庫補助金をはじめ十六宮家や財界、そして、小学生に至るまでの多くの国民から寄付金が集められた。さらに、応援歌や行進曲、飛行小唄が作られるなど、国をあげての取組となった。

 なお、「報知日米号」は、日本からアメリカまで、二十数か所で着水しながら、太平洋新航路開拓を目指すことになった。したがって、航空路沿線の詳細な地理的、気象的な資料全てを世界航空界に提供するという重大な任務が課せられていたという点においては、その後の「無着陸の冒険飛行」とは、一線を画する事業であった。

 さらに、アジアからアメリカ大陸に向けての「最初の郵便飛行」でもあったので、吉原飛行士には、当時の「フーヴァーアメリカ大統領」あてのほか、三十通を越えるメッセージも託されることになった。

「報知日米号」が「小川原湖・浦野館村」に
 昭和六年五月四日、午前十時十分。「報知日米号」は、羽田東京飛行場に集まった三十万人の期待と夢を乗せて、最初の補給地「小川原湖・浦野館村(現在の東北町)」に向けて旅立った。

 浦野館村では、漆戸村長を中心に、和田後援会長、久保副会長、米内山理事及び会員三十名、姥名青年団長ほか、三十名の団員、阿部在郷軍人分会長をはじめ分会委員総出で「報知日米号」の到着を歓迎する体制が整えられた。また、村内の各戸では、国旗を掲揚する準備も終わり、全村をあげての歓迎準備が整えられていた。

 そして、五月四日、午後三時三十三分、「報知日米号」は、村内五つの小学校高学年全員が歌う「北太平洋横断歌」の大合唱に迎えられ、無事小川原湖に着水した。

 また、翌日の出発の時は、湖岸を埋めた一万人を超す大観衆の声援に送られて、アメリカのサンフランシスコに向
けて力強く旅立った。

 この出来事は、対岸にある淋代(三沢市)から「ミス・ビードル号」が飛び立つ五か月前のことであった。

故障続きの「報知日米号」の運命は…
 しかし、小川原湖を飛び立った「報知日米号」は、千島海域で機体に異変が起き、不時着を余儀なくされるなど、
故障が続いた。さらに、五月十四日には、新知(シンシル)湾上空で遭難し、新知島付近に着水した。そして、漂流中に吉原飛行士は九死に一生を得て救助された。
 
 その後も吉原飛行士による「第二報知日米号」での二回目の挑戦も、同年七月五日、根室湾で高波に遭い失敗に終
わった。

 さらに、霞ケ浦海軍航空隊による「第三報知日米号」での計画も、昭和七年九月二十四日、択捉(エトロフ)島南
島沖で通信が途絶え、悲劇的な結果となり、ついにこの「北太平洋横断計画」は失敗に終わったのだった。

ここに、先人たちの偉業をたたえる!
 これは、我が国の航空史に残る一大イベントの最初の中継地点として、ここ小川原湖が選ばれたこと、そして、多くの浦野館村の住民がこの場所に集い、「報知日米号」の雄姿を迎え、見送ったという歴史的事実をここに刻み、先人たちの偉業をたたえるものである。

(資料提供:東北町文化財保護審議会)平成二十三年七月一日 東北町教育委員会

DSC_0513_00001.jpgDSC_0515_00001.jpg(説明版から拡大・上2枚とも)




     青森県・七戸平野と小川原沼         
・七戸平野 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡七戸町

・小川原沼 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡 小川原湖

沿革(ミサワ航空史年表から)
1922年01月 29日~2月8日 陸軍飛行学校、上北郡七戸原野にて耐寒飛行実施(本邦初)
1923年02月 3日~7日 陸軍航空第3大隊、七戸原野にて自動橇試験。小川原沼湖上の氷上滑走飛行実施
1931年05月 4日 報知日米号、北太平洋横断飛行のため小川原湖に着水。翌5日根室に向け離水
1992年04月 15日 小川原湖投棄のF-16燃料タンク、米軍捜索発見できず。シジミ漁に影響
1998年03月 小川原湖からプロペラなど引き揚げられる
     08月 15日 3月に引き揚げられたのは、昭和19年5月30日訓練中に墜落した三沢空の零戦と判明

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この記事の資料:
現地の説明板
ミサワ航空史


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