山梨県・河口湖自動車博物館・飛行館 [├場所]
2023年8月訪問
山梨県南都留郡にある「河口湖自動車博物館・飛行館」。
8月の1か月間のみ見学可。
別にデジイチで撮ってもいいじゃん(ー"ー;)
内心そう思ってたのですが、館内はものすごく混雑しており、展示方法も様々で、
床に直置きしてるものから吊ってるものまであり、そのせいでしゃがみ込んだり、
大きく前かがみになったり、逆立ちしたりで思わぬ位置に見学者がいるため、
カメラ振り回したり、ましてや三脚立ててる場合じゃなかったです。
以下ずらずらと。

てっきり、1機の零戦をコツコツとレストアしているものとばかり思っていたので、展示品の多様さに驚きました。

ゼロ戦に使用していたエンジンパーツ


クランクケース。
「クランクケース」って、車のボンネット開けた時に見える箱状のものしか知らないのですが、
星形エンジンのクランクケースはこんななんですね。
すごい新鮮。
ロボットみたい。


彩雲の誉エンジン。
右側にクランクケースの丸い部分が見えてますね(この丸い部分もクランクケースか知らないけど)。
今までは、"鉄の塊"にしか見えなかったけど、クランクケースの役割を認識できたおかげで、
円筒形のクランクケースにびっしりとクランクがとりついてるんだなと、急に透過して見えるように。

銀河に使用された誉エンジン。



ここで順路は屋外へ。






屋内に戻りました。
零戦の骨組み。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、
この頃迄は中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、
出来る限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない
骨組みの状態で展示しております。
この機体は是非このまま骨組み状態でいて欲しい。

海軍の性能要求を満たす為、堀越技師が「1gでも軽く」に心血を注いだ零戦。
骨組み一つ一つの太さ、孔の位置と大きさ全てに氏のこだわりが詰まっているのだと本で読んでいたものが、
実際に直接見られると感慨深い。
素人のオイラは他機との比較ができないので、その凄さはまだまだ分かってないんでしょうけど。

胴体前部。
こんなにスッパリとエンジン部分と分割できる構造なんですね~。

主翼前縁のリプ(骨組み)がエンジン部分まで飛び出してる!
これも新発見でした。
普段旅客機ばっかし見てるオイラからすると、主翼が極端に前方についてるなぁ。
という印象なんですが、調べたら、零戦はエンジンとプロペラで自重の4割に達してました。
これにスピナー、機銃、滑油、カウル等、その他(もう思いつかないけど)もろもろ含めたら、
自重の半分位いくんじゃないでしょうか。
主翼がこんなに前に寄ってるのも納得ですm(_ _)m



よくこんな細いスカスカの骨組みで、激しい機動ができるものですね(@Д@)



左翼端は真っ直ぐ飛行状態でしたが、右翼側は折った状態でした。



とにかくその繊細さが強く印象に残りました。
こりゃ、不用意に踏んだら壊れる訳だよ。










駐車場奥にも展示機が。


山梨県・河口湖自動車博物館・飛行館
河口湖自動車博物館・飛行館 データ
所在地:山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内
座 標:35°27'13.4"N 138°44'27.5"E
標 高:1,107m
開 館:8月中
運用時間:10:00~16:00
入館料:大人1,500円
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
公式サイト■
ブログ内関連記事■
山梨に行った話 [■旅行記]
Ⓐ自宅→Ⓑ河口湖自動車博物館・飛行館→Ⓐ自宅
8月末、河口湖自動車博物館・飛行館に行ったのでした。
ここは1年のうち、8月しかオープンしていません。
7:10 自宅発

10:55 到着。
駐車場無料。
10km四方の車が全部ここに集結したんじゃないかと思う程、駐車場も館内も混雑してました。
飛行館の入館料は大人1,500円。

こちらは同じ敷地内にある自動車館。
飛行館よりずっと立派な建物なのですが、こちらは入館料大人1,0000円。
オイラは入りませんでしたけど(キリッ)
そしてドコにも寄らずに真っ直ぐ帰路に就いたのでした。
15:20 自宅着。
おしまい。
走行距離:271.9km
燃費:29.4km/L
■飛行場/跡地リストA■ 北海道~関東 [├国内の空港、飛行場]
字数制限のため二分割してあります。続き■
五十音順飛行場索引■■ 場所が分からない飛行場■ 情報お待ちしておりますm(_ _)m
最終更新:2023/11/10 東京都・環七滑走路跡 追加
より大きな地図で 空港、飛行機関係の場所 を表示
北海道
■道北■ (COMPLETE)
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利尻空港
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サロベツフライトクラブ滑走路
浅茅野第一飛行場跡地
浅茅野第二飛行場跡地
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愛別飛行場(廃止後)
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トムラウシフライトクラブ
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旭川飛行場
旭川空港
美瑛滑空場
上富良野演習場飛行場
稚内不時着陸場跡地
■道東■ (COMPLETE)
紋別(オホーツク紋別)空港
旧紋別空港跡地
遠軽駐屯地滑走路
北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)
旧女満別空港跡地
女満別空港
美幌航空公園
美幌第一飛行場跡地
美幌第三飛行場跡地
標津第二航空基地(川北飛行場)跡地
旧中標津空港(標津第一航空基地)跡地
中標津(根室中標津)空港
計根別第一飛行場跡地
計根別第二飛行場跡地
計根別第三飛行場跡地
計根別飛行場
計根別第五飛行場跡地
弟子屈飛行場跡地
別寒辺飛行場
矢臼別飛行場
根室航空機(花咲)不時着陸場、根室第一飛行場跡地
根室航空基地(牧ノ内/根室第二飛行場)跡地
愛国釧路飛行場跡地
釧路(たんちょう釧路)空港
フライトパーク白糠
足寄芽登飛行場
上士幌航空公園
然別演習場滑走路
帯広第二飛行場跡地
十勝飛行場
帯広緑ヶ丘飛行場跡地
音更飛行場跡地
ホープランド飛行場
豊頃(MICとよころ)飛行場(運用当時)
豊頃(MICとよころ)飛行場(廃止後)
豊頃町滑空場跡地
帯広(とかち帯広)空港
上更別飛行場跡地
大樹町多目的航空公園
広尾(小紋別、豊似)飛行場跡地
能取水上基地跡地
厚岸水上機基地跡地
厚岸飛行場跡地
北斗場外離着陸場跡地
トムラウシの飛行場
千代田滑空場跡地
中標津不時着陸場跡地
弟子屈不時着陸場跡地
■道央■ (COMPLETE)
深川市グライダー滑空場
赤平航空公園
たきかわスカイパーク
滝川駐屯地飛行場
美唄農道離着陸場(スカイポート美唄)
新篠津滑空場
UFO PARK 飛行場
孫別演習場の滑走路
北大夕張川滑空場
南幌場外離着陸場
王子江別飛行場跡地
丘珠空港(札幌第二飛行場、新札幌飛行場、札幌飛行場)
札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地
札幌興農園(興農園耕地)飛行場跡地
島松演習場滑走路
北千歳駐屯地滑走路
千歳飛行場(千歳着陸場、千歳第一航空基地)
新千歳空港
千歳第二、第三飛行場跡地
日本航空学園千歳校
鯉沼スカイパーク
沼ノ端飛行場跡地
新冠飛行場
苫小牧不時着陸場跡地
雲雀ヶ丘飛行場跡地
アップルポート余市
倶知安駐屯地滑走路
大滝飛行場
白老滑空場
敷生飛行場跡地
幌別駐屯地滑走路跡地
室蘭飛行場跡地
小樽航空水上基地(小樽海軍飛行場)跡地
富浦不時着陸場跡地
室蘭市(室蘭市知利別)飛行場跡地
シノダイ岬離着陸場跡地
苫小牧飛行場跡地
南恵庭駐屯地場外離着陸場跡地(未訪問)
■道南■ (COMPLETE)
八雲(室蘭八雲)飛行場
奥尻空港
旧奥尻空港跡地
鹿部飛行場
函館(赤川)飛行場跡地
函館空港
東 北
■青森県■ (COMPLETE)
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旧青森空港跡地
青森空港
淋代海岸滑走路跡地
三沢空港
カワヨグリーン牧場滑走路
八戸駐屯地飛行場
八戸航空基地飛行場
三本木(三沢第二)飛行場跡地
茂浦水上機基地
淋代陸軍飛行場跡地
木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地
■岩手県■ (COMPLETE)
観武ヶ原飛行場跡地
鶯宿滑空訓練所跡地
山田水上機基地跡地
花巻(いわて花巻)空港
岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地
岩手県第二滑空訓練所跡地
金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地
小山(水澤)飛行場跡地
花巻の不時着陸用滑走路跡地
見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地
■宮城県■ (COMPLETE)
瀬峰場外離着陸場(セミネ飛行場)
四壇原(高清水)飛行場跡地
王城寺原秘匿飛行場跡地
航空自衛隊松島基地(旧海軍矢本飛行場)
利府森郷場外離着陸場
霞目飛行(旧陸軍仙台飛行場、仙台第二飛行場)
青野木場外離着陸場(スカイライフ飛行場)
仙台空港(旧増田陸軍飛行場)
角田滑空場
宮城野原陸軍練兵場(仙台第一飛行場)跡地
追廻練兵場跡地
■秋田県■ (COMPLETE)
能代陸軍(東雲)飛行場跡地
ハイランド滑空場跡地
大館能代(あきた北)空港
田代菜の花飛行場
大潟場外離着陸場跡地
旧秋田空港跡地
四ツ小屋滑空場
秋田空港
稲沢場外MLP専用飛行場
六郷(明田地)飛行場跡地
土浦海軍航空隊秋田基地跡地
新屋の飛行学校跡地
後三年滑空機練習所跡地
佐藤章飛行士発着跡地
北楢岡飛行場跡地
■山形県■ (COMPLETE)
庄内空港(おいしい庄内空港)
真室川飛行場跡地
升形飛行場(滑空場)跡地
大蔵村南山の場外離着陸場
玉野原飛行場跡地
山形空港(おいしい山形空港)
日飛(漆山)飛行場跡地
むつみ飛行場
八幡原飛行場跡地
寒河江の滑空場跡地(推定位置)
■福島県■ (COMPLETE)
ふくしまスカイパーク
梁川場外離着陸場
原町陸軍飛行場跡地
磐城陸軍飛行場跡地
馬場平飛行場跡地
第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地
矢吹陸軍飛行場跡地
福島空港
棚倉(沢田、石川沢田)飛行場跡地
須賀川飛行場跡地
浅川航空基地跡地
第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地
御代田航空基地跡地
関 東
■茨城県■ (COMPLETE)
十王飛行場
河原子滑空場跡地
水戸北飛行場跡地
水戸陸軍(水戸東)飛行場跡地
水戸南(吉田)飛行場跡地
湊町海岸滑空場跡地
大洗場外離着陸場跡地
水戸フライングクラブ
百里飛行場(茨城空港)
鉾田(豊鹿島)飛行場跡地
北浦海軍航空隊跡地
神之池航空基地跡地
内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地
軽野滑空場跡地
筑波航空基地(友部飛行場)跡地
大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場)跡地
石岡航空基地(東の辻飛行場)跡地
千代田場外離着陸場
古河航空機乗員養成所(岡郷/小堤/関戸の飛行場)跡地
下館ULP飛行場
関城ULP飛行場
下館飛行場跡地
明野場外離着陸場
真壁(桜川、筑波)滑空場
海老ケ島秘匿飛行場跡地
西筑波飛行場跡地
大畑秘匿飛行場跡地
大曽根飛行場跡地
谷田部航空基地跡地
霞ヶ浦海軍航空隊跡地
土浦海軍航空隊跡地
舟島水上機離着水場跡地
阿見飛行場
阿見飛行場(廃止後)
ピッコロ水上飛行場(鹿島海軍航空隊跡地)
竜ヶ崎(貝原塚)飛行場跡地
竜ヶ崎飛行場
大利根飛行場
守屋飛行場
守谷(MFOC守屋)飛行場跡地
真壁(金敷)秘匿飛行場跡地
つくば滑空場
■栃木県■ (COMPLETE)
スカイフィールドナス)
黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地
金丸原陸軍飛行場跡地
湯津上(佐良土)飛行場跡地
御前原飛行場跡地
今市飛行場跡地
鬼怒川(氏家)滑空場
ツインリンクもてぎ南滑走路
宇都宮場外離着陸場
宇都宮陸軍(清原/鐺山)飛行場跡地
大野原飛行場跡地
宇都宮(宇都宮南)飛行場
壬生(上長田/国谷)飛行場跡地
仁良川飛行場跡地
小山絹滑空場
藤岡(静和)飛行場跡地
スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡場外離着陸場)
中禅寺湖水上機基地跡地
黒磯滑空場跡地
■群馬県■ (COMPLETE)
板倉滑空場
大西(館林エアロ、旧陸軍館林)飛行場(運用当時)
館林(大西)飛行場跡地追加
太田小泉飛行場跡地
尾島飛行場跡地
新田陸軍(生品)飛行場跡地
桐生愛国飛行場跡地
前橋(堤ヶ岡)飛行場跡地
高崎飛行場跡地
相馬原飛行場
伊勢崎場外離着陸場
坂東飛行場跡地
敷島滑空訓練所跡地
■埼玉県■ (COMPLETE)
羽生滑空場
読売加須滑空場(旧大利根滑空場)
宝珠花滑空場
妻沼グライダー滑空場
児玉飛行場跡地
三尻陸軍(稜威ケ原)飛行場跡地
小原(熊谷南)飛行場跡地
荒川河畔グライダー場跡地
関東松山飛行場跡地
東京フライングクラブ飛行場
ホンダエアポート
桶川陸軍飛行場跡地
坂戸陸軍飛行場跡地
高萩飛行場跡地
大宮の中島飛行機飛行場跡地
越谷(論田、新和、荻島)飛行場跡地
所沢飛行場跡地
入間基地(旧豊岡飛行場、修武台飛行場、ジョンソン基地)
狭山飛行場跡地
吹上飛行場
大里飛行場
浦和(埼玉第一)飛行場跡地
朝霞訓練場離着陸場跡地
川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地
■千葉県■ (COMPLETE)
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地
香取航空基地(干潟の飛行場)跡地
横芝(栗山、横芝栗山)飛行場跡地
成田国際空港(成田空港)
下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地
豊成(東金)飛行場跡地
関宿滑空場
蕃昌飛行場跡地
柏飛行場跡地
逓信省印旛地方航空機乗員養成所、印旛(草深)飛行場跡地
下総航空基地
松戸飛行場跡地
習志野離着陸場
船橋飛行場跡地(初代)
船橋飛行場跡地(二代目)
伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地
下志津飛行場跡地
稲毛飛行場跡地
白戸飛行機教習所跡地
浦安市の臨時滑走路
誉田飛行場(平川滑空場)跡地
真名(茂原)飛行場跡地
茂原海軍航空基地跡地
太東航空基地跡地
木更津飛行場
館山航空基地
県営千葉県魚群探見飛行場跡地
大利根飛行場跡地(水上機基地)
佐原飛行場跡地
五井水上基地跡地
第一航空学校跡地
川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地
大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場跡地
習志野4丁目滑走路跡地
■東京都■ (COMPLETE)
千住草加間国道秘匿滑走路跡
赤羽飛行場跡地
板橋(前野)飛行場跡地
成増陸軍飛行場跡地
成増飛行場秘匿滑走路跡地
篠崎飛行場(江戸川飛行場)跡地
江戸川飛行場跡地
洲崎(深川浦)飛行場跡地・江東区
月島飛行場(晴海連絡用滑走路)跡地
東雲飛行場跡地
代々木練兵場跡地
東京国際空港(羽田空港)
東京羽田飛行場(1931~1939)
東京飛行場(1940~1945)
ハネダエアベース(1945~1952)
東京国際空港(1952~)
戸田橋滑空場跡地
読売飛行場跡地
調布飛行場
東京陸軍航空学校滑空場跡地
横田(旧福生、多摩)飛行場
国立飛行場跡地
立川飛行場
昭和飛行場跡地
環七滑走路跡
旧陸軍大島飛行場、北の山陸軍飛行場、旧大島空港跡地
大島空港(東京大島かめりあ空港)
神津島空港
三宅島空港
八丈島海軍(三根)飛行場跡地
八丈島空港
新島空港
陸軍新島飛行場跡地
新島村営場外離着陸場跡地
洲崎飛行場(江東区豊洲)跡地
深川7号埋立地(洲崎飛行場・江東区辰巳)跡地
中島大井(大井)飛行場跡地
(洲崎飛行場跡地(父島))
(父島飛行場)
(千鳥(下の、第一)飛行場跡地)
(元山(第二)飛行場跡地)
(北(上の、第三)飛行場跡地)
(硫黄島飛行場)
(南鳥島飛行場)
■神奈川県■ (COMPLETE)
伊勢佐木町(若葉)飛行場跡地
間門飛行場跡地
第十一横浜水上基地(根岸飛行場)跡地
横浜水上基地(富岡飛行場)跡地
横須賀第一(追浜)飛行場跡地
横須賀第二(長井)飛行場跡地
横須賀第三(黒崎、初声)飛行場跡地
キャスナー陸軍飛行場
相模(中津)飛行場跡地
大山秘密航空基地(厚木第二飛行場)跡地
新厚木基地跡地
厚木飛行場
厚木(銀紙)飛行場跡地
藤沢飛行場跡地
磯子飛行場跡地
三本葭飛行場跡地
玉井飛行場跡地
片岡飛行場跡地
宗里飛行場跡地(第一航空学校)
更新履歴
2023/11/10 東京都・環七滑走路跡 追加
2023/11/01 道央・南恵庭駐屯地場外離着陸場跡地 追加
2023/11/01 道央・苫小牧飛行場跡地 追加
2023/10/30 道央・シノダイ岬離着陸場跡地 追加
2023/10/02 青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 追加
2023/09/28 青森県・淋代陸軍飛行場跡地 追加
2023/09/11 岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地
2023/08/17 愛知県・築地の水上飛行場跡地岐 追加
2023/03/20 岐阜県・各務原中飛行場跡地 追加
2023/01/23 群馬県・敷島滑空訓練所跡地 追加
2022/12/19 千葉県・習志野4丁目滑走路跡 追加
2022/12/12 千葉県・習志野離着陸場 追加
2022/12/05 千葉県・大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場跡地 追加
2022/11/28 埼玉県・川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地 追加
2021/03/08 東京都・江戸川飛行場跡地 追加
2021/03/01 東京都・成増飛行場秘匿滑走路跡地 追加
2020/05/10 神奈川県・新厚木基地跡地 追加
2020/02/17 兵庫県・六甲飛行場跡地 追加
2020/02/10 岡山県・吉井川左岸福岡付近着陸場跡地 追加
2020/02/03 岡山県・岡山練兵場着陸場跡地 追加
2020/01/06 静岡県・飛行第七連隊飛行場跡地 追加
東京都・中島飛行機三鷹研究所跡 [├場所]
2023年6月訪問

撮影年月日1944/10/16(昭19)(8911 C1 57)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
東京都三鷹市大沢3丁目。
大学、SUBARU、公園が整備されているこの場所にはかつて、「中島飛行機三鷹研究所」がありました。
前出の中島飛行機武蔵製作所の南西約4.5kmに位置しています。
米国本土爆撃機「富嶽」用エンジン(ハ54)はここで開発が進められました。
■<研究ノート>中島飛行機三鷹研究所―その建設まで―
■中島飛行機三鷹研究所―その稼働期―
というサイト様■■ に膨大な聞き取り調査を元にした詳細な資料があり、
拙記事を作るにあたり、大変参考にさせて頂きましたm(_ _)m
創業者の中島氏は当三鷹研究所を、単なる航空機の研究拠点としてではなく、
「航空機を含む先進技術全般の研究開発、政治・経済・社会など国家経営に資する研究も行う総合研究所」
にするという壮大な構想を持ち、世界から各分野の優れた学者を招聘するつもりだったのだそうです(@Д@)
当地の南約1kmに調布飛行場、北東約4.5kmに武蔵製作所、東北東約7.3kmに東京工場がありました。
赤マーカー地点付近。
研究所当時の正門が現在もICUの正門になっており、
正門から敷地中央に伸びる直線道路(現マクリーン通り)もそのまま残っています。
(以下4枚とも)
SUBARU 東京事業所。
これまでエンジン、トランスミッション、それに近年ではハイブリッドカーの開発を担ってきたのだそうです。
「ここに一大研究拠点を」という中島氏の遺志を継いだのでしょうか。
東京都・中島飛行機三鷹研究所跡
中島知久平は晩年を研究所敷地南西側にある「泰山荘」で過ごしたのだそうです。
中島飛行機三鷹研究所 データ
所在地:東京都三鷹市大沢3丁目
座 標:35°41'09.7"N 139°31'55.5"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1940年 晩春 土地買収開始
1941年 12月 8日 地鎮祭
1944年 春頃 鉄筋三階建ての設計本館完成。その後組立工場完成
初夏 中心となる発動機試作工場・設計本館(研究本館)・格納庫が本格稼働
1945年 終戦
1950年 泰山荘を含む周辺地が国際基督教大学所有となる
関連サイト:
ブログ内関連記事■
東京都・武蔵野ふるさと歴史館 [├場所]
2023年7月訪問
オイラがお邪魔した際、ちょうど
米軍宿舎返還50年 戦争と武蔵野Ⅸ ~Target から Green Parkへ~ 2023.7.29-9.28
という企画展がありました。
分かり易い展示と丁寧な説明。
分野も量もかなりのものだったのですが、オイラの興味のある一部分だけ以下ずらずらと。
中島飛行機の工場拡張
第1次拡張期
昭和9年(1934) 太田工場(太田製作所)の設立
昭和12年(1937) 武蔵野製作所の新設決定
昭和13年(1938) 田無鋳鍛工場の設立(後の中島航空金属株式会社)
武蔵野製作所の竣工
太田、東京(荻窪)、武蔵野、田無の各製作所が陸・海軍の管理工場に指定
資本金5,000万円に増資。小泉製作所および多摩製作所の新設決定
昭和14年(1939) 前橋工場の新設決定
昭和16年(1941) 多摩製作所開設
第2次拡張期
昭和18年(1943) 亀岡工場にて板金製部品の生産開始。大宮製作所、浜松製作所の開設
武蔵野・多摩製作所の合併により武蔵製作所へ改称
昭和19年(1944) 半田製作所の操業開始
宇都宮製作所の操業開始
三鷹発動機研究工場、三島機関銃装戴工場の設立
昭和20(1945) 大宮製作所で海軍用エンジンの組み立て、浜松工場で陸軍用エンジンの組み立て開始
中島飛行機とは
中島飛行機の誕生
明治17年(1884)に群馬県に生まれた中島知久平は、海軍軍人を経て民間航空機会社を設立し、
のちに政治家へ転身したという異色の経歴の持ち主です。
知久平が創業した中島飛行機は国内有数の航空機メーカーに育ち、同社が製造した航空機はひ
ろく採用されました。
創業者・中島知久平
知久平は16歳で上京し、海軍機関学校で学びます。海外の留学を経て早くから
航空機の軍事利用に注目しており、大正2年(1913)に横須賀海軍工廠造兵部
飛行機造修工場長として海軍初の国産機を完成させるに至ります。
飛行機研究所の創業と苦悩
海軍を退職した知久平は大正6年(1917)にわずか6名の若手技術者と共に研究
所を発足させます。翌年中島飛行機製作所と改称して航空機開発に努めたもの
の、試験飛行機の大破や墜落に見舞われるなど苦労の連続でした。
中島飛行機の拡大
知久平らは大正8年(1919)に四型機の試験飛行に成功し、これを改良した五型
機は陸軍への納入に至ります。大正13年(1924)に東京工場を井荻町(現 杉並
区)に建設し東京進出を果たします。
地域を調べ、学ぶ大切さ
中島飛行機は群馬県をはじめ、東京、埼玉などで大規模な工場を次々に建設し
ました。武蔵野市のみでは、巨大な航空機メーカー中島飛行機の全体像は見え
ません。例えば、武蔵製作所はエンジンを製造する工場であり、太田製作所(現
群馬県)等へ輸送して組み立てることではじめて飛行機の形になりました。
航空機は数万点の部品を必要とすることから、中島飛行機に部品を納品したた
くさんの企業が存在しました。地域の資料を丹念に読み解くことで意外なつな
がりが分かるかもしれません。
戦争のあしおと
武蔵野製作所・多摩製作所の開設を経て、昭和18年(1943)に両製作所が合併し武蔵製作所とな
りました。最盛期には5万人をこえる人々が働いていたと言われ、武蔵野町の人口も劇的に増加
しました。生産された航空機用エンジンは戦線に送られますが、その生産現場にいた人々もまた
戦線に送り込まれていきました。
武蔵野町への進出
日中戦争の開戦以後、国内の軍需産業は拡大していきます。中島飛行機は昭和
13年(1938)に武蔵野製作所を、昭和16年(1941)に多摩製作所を開設します。
両製作所は昭和18年(1943)に合併し武蔵製作所となりました。
市域の外に目を向けると、先に述べた東京工場は荻窪製作所へ改称され、昭和
16年には三鷹研究所(現 三鷹市)が完成しています。
拡張工事と用地の買収
中島飛行機は製作所周辺の土地を新たに購入することになりますが、武蔵野町
時代の文書からは延命寺(現 武蔵野市八幡町)の土地が1歩(=1坪。3,3㎡)
11円で売却されたと記されています。
武蔵製作所から戦場へ
平成30年(2018)に遺族から寄贈された「寄せ書き入りの日章旗」、令和4年(2022)
に映像制作会社から寄贈された「近藤さんの寄せ書き」は、武蔵製作所で働い
ていた方が戦場へ持参したものです。武蔵製作所で製作されたエンジンが戦場
で使われることは広く知られていても、生産現場の人々もまた戦場へ駆り出さ
れていたことは意外にも知られてません。
戦争と武蔵野
製作所内から見た戦争
最盛期5万人もの人々が働いたとされる武蔵製作所ですが、同時代に作成された記録は驚くほど
わずかしか残されていません。当時の情報統制のあり様を鑑みると、写真や文書が極めて残りに
くい状態であったことは想像に難くありません。そのような中でもわずかに当時の製作所内の様
子を垣間見る資料が残されています。
長澤副長の手帳
当時武蔵製作所の副長(副工場長)を務めていた長澤雄次氏の遺族から平成30
年(2018)に寄贈されたものです。長澤氏は明治31年(1898)生、東北帝国大
学(現 東北大学)で機械工学を修め、東京製作所副所長、中島飛行機取締役、
大宮製作所(現 埼玉県)所長を経て武蔵製作所の副長を務めました。経営の
中核にいた幹部の同時代の記録はほとんど残されておらず、極めて貴重な資料
です。
付属病院の記録・記憶
中島飛行機は付属の病院を各地に設置しており、そこで勤務する看護婦(看護
師)を自前で養成していました。昭和3年(1928)産まれの上野氏は、自らの卒
業証書を手にしながら当時の様子を語ってくれました。
また、附属病院の日誌には長澤副長の記録と同日の記録が残されており、「数
十名ノ患者ヲ収容」した旨記されています。
市民の証言
昭和12年(1937)生の小峰光弘氏は、実の姉が武蔵製作所に勤務していました。
初空襲(昭和19年(1944)11月24日)の際に姉の帰宅が遅く、夜中に血と埃だ
らけで呆然として帰宅していたこと、その後空襲警報の度に姉が布団にくる
まっておびえていたことを覚えており、凄惨な現場の記憶を間接的に継承して
います。
歴史公文書から見た戦争
戦争が本格化し、様々な形で戦争が市民の身近に近づいてきます。例えば資源の回収の場合、当
初は金属製品のうち不用品の回収として行われますが、回収対象となるものは増え続けます。周囲
から徴兵・応召により戦地に人が送られ、武蔵製作所を皮切りに米軍の空襲を受け、「戦火」が
市民に迫ります。
金属や資源の回収
不用品から門扉や鉄柵、寺院の梵鐘などにも対象が広がり、武蔵野町では昭和
19年(1944)4月27日に消防団警鐘台(火の見やぐらのこと)まで回収された
という記録が残されています。
移転への補助
武蔵野町では強制的な疎開はありませんでしたが、親類等を頼って自主的に避
難する縁故疎開などの様々な移転の動きがあり、町も財政的な支援を行いまし
た。「移転奨励金交付規定」を制定し、地方への転出者に対し1,330世帯分40万
円の追加予算を町会(町議会)が可決します。当時の武蔵野町は1万1,261世帯
ですから、1割強の世帯への交付を想定していたようです。
被害の記録
武蔵製作所に隣接する源正寺(現 武蔵野市緑町)が受けた被害について、武
蔵野町役場に届けられた文書が残されています。度重なる空襲の被害により甚
大な被害を受けた本堂の再建を断念し、取り壊すことを届け出たものです。
戦時下の公文書
一般に、終戦時に多くの公文書が焼却等の処分を行われたとされています。武蔵野町
役場における処分命令の収受等については詳らかではありませんが、少なくとも軍事、
特に徴兵に関する文書は全くと言っていいほど残されておらず、歴史公文書として移
管されたものもありません。断言はできませんが、処分の実施が強く推測されます。
日本の新聞から見た戦争
情報統制が厳しい当時の日本において、国民が得られる貴重な情報源の一つが新聞でした。当
時の国民はどのような情報を得て日々の判断の材料としていたのでしょうか。
情報源としての検討
当時の新聞は政府の統制下にあり、事前に検閲を受けなければなりませんでし
た。「新聞に掲載されたから事実である」とするのは早計です。十分に内容を検
討し、クロスチェックする必要があります。
同時代の人の考えに寄り添うには
未来に生きる私たちは、過去に起きた事象の「結果」を知っています。一方、
当時の人々は未来を完全に知ることはできません。実は「当時の国民がどのよ
うな情報をもとに判断を強いられていたのか」ということを知ることは研究に
おいてとても大切なことです。
資料は使い方をしっかり考え、適切に使いこなすことがとても大切です。
資料の保存
当時の新聞は一般的にそれほど上質の紙を用いていません。新聞は高速で大量
の印刷を行うため輪転機という機械を使います。また、インクのにじみ止めが
紙の両面を対象に施されています。一般にインクのにじみ止めに使われる薬品
は酸性であることが多く、これが紙本体を浸食してしまい時間の経過とともに
ボロボロになりやすいのです。
資料の修復・デジタル化
現物の資料を取り扱うには慎重な作業を要します。しかし、劣化が著しい資料
は必要最低限の修復を施し、利用の頻度を極力減らすため撮影等のデジタル化
が有効です。
米軍から見た空襲
武蔵野ふるさと歴史館は米国国立公文書からからの資料収集を継続して実施しています。米軍は、
武蔵製作所を攻撃するにあたり偵察飛行の実施をはじめとした詳細な情報収集を行いましたが、
実は事前分析・作戦の実施・結果の検証がセットになっており、膨大な資料を蓄積していました。
これを連邦政府の公文書館であるNational Archivesで所蔵し、現在世界中の人々に無料で
公開しています。
事前の偵察
戦略爆撃機B29には様々なバリエーションの機体が存在しており、その中の一
つであるF13は写真偵察機として本土空襲実施にあたり情報収集を行いまし
た。武蔵製作所上空には何度も飛来し、大量の写真を提供し続けました。
作戦の記録
作成を左右する情報はあらゆるものと言って良いほど残されています。当日の
天候、飛行時の状況、離陸の失敗・目標未到達・未帰還それぞれの航空機番号
とその理由…といった具合です。
戦後の情報収集
戦時中、米軍は生産施設の破壊のための成果を正確に把握するよう努めますが、
「製作所の中」に関する情報収集の手段がありませんでした。しかし、戦後米軍
は陸海軍の合同機関「戦略爆撃調査団」を組織し、日本側へ資料提出を求め、
必要であれば関係者への尋問等を行って膨大な資料・情報を収集して報告書を
作成しました。この「最終報告書」が現在私たちが当時を研究するための最も
基本的な資料になっています。
東京都・武蔵野ふるさと歴史館
武蔵野ふるさと歴史館 データ(2023/11現在)
所在地:東京都武蔵野市境5丁目15-5
開館時間:午前9時30分~午後5時
休館日:金曜日、祝日、年末年始、特別整理日
入館料:無料
関連サイト:
武蔵野市/武蔵野ふるさと歴史館■
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