青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年6月訪問
地図:A『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■
地図:B 測量年1944(昭19)(50000 55-9-5 八戸)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
青森県内に「木下」なる飛行場があるということは、15年近く前から知っていたのですが、
どうしても場所を特定できず、「ミサワ航空史」のおかげでやっと位置、詳細情報が知れましたm(_ _)m
■「ミサワ航空史」26pの中で、
「木ノ下飛行場のあった木ノ下平付近の地図」として、現在の木ノ下の地図に円が描かれていました。
先頭のグーグルマップは、この円と当時の地割を加えたものです。
木ノ下飛行場は昭和13年に完成し、昭和15年と16年の2年間定期航路が開設されていました。
地図:Aは大正2年測図。
地図:Bは昭和19年測図ですから、定期航路廃止から3年後のものです。
地図:Aと地図:Bの赤丸周辺の地割を比較すると、特に目立った変化がありません。
つまり、大正2年~昭和19年までの31年間、この周辺の地割はほとんど変化していないということで、
定期航路が開設していた昭和15年~16年当時も、こんな地割だったはずです。
「ミサワ航空史」に飛行場の面積が出ており、30万坪(≒99.17ha)とあります。
上の円の範囲でピッタリの広さの地割を探したのですが、
どうしてもしっくりくる地割を見つけることができませんでした。
実は同書の年表には、「昭和13年12月23日 木ノ下飛行場が竣工 140町歩」とあります。
140町歩≒138.8haなので、「30万坪」より更に大きくなります。
赤マーカーから東北東方向に広々と目立つ細長い地割がありますね。
仮にこの地割の中に滑走路を設けたら。ということで作図したのが黄色のシェイプです。
因みにこのシェイプの面積は64.3haなので、同資料に出てくる数字からすると、
実際にはこれの1.5~2倍強の面積だったことになります。
仮にこんな形だったとすると、滑走路の長さは1,350mx420~590m。
札幌の飛行場は当時800m足らずと思われ、仙台は終戦時に1,210mでしたから、
1,350mというのは、長さとしては十分と思います(雪のことは知らないけど)。
以下、「ミサワ航空史」に記されている木ノ下飛行場についての記述を引用させて頂きます。
木ノ下平臨時飛行場の竣工
昭和5年9月24日、立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たって、再び大正13年夏のときと同様に、木ノ下地区を臨時飛行場として使用した。その後、同年10月9日にも飛来している。これは北海道への往復の中継地として使用されたのである。
翌6年6月20日には、地元紙・東奥日報が弘前8師団の航空隊が設置される計画があることを報じている。「8師団航空隊は木ノ下平に設置か 陸軍機5機飛来して実地調査」という見出しで、次のような報道を掲載している。
「軍制改革に伴う8師団航空隊設置に関し、先に上北郡下田村古間木付近がその場所として有望視されているとの事に最近八戸に於ても同市付近の蒼前平付近を候補地として運動を開始したと伝えられているが、来る20・21日の両日に亘り、航空本部より陸軍機5機が古間木付近の木ノ下平に飛来することになったが、航空隊設置の前提としての実地調査とみられ・・・木ノ下平は従来陸軍機の着陸地として陸軍当局に重視され、且つ古間木駅にも近く・・」
しかし、この計画は実現しなかった。日本陸軍としては、この地の牧野を借用することになったが、その将来性を認識しながらも、予算がつかず遂に買収を行うことはなかった。
陸軍としては、昭和11,12年と例年のように、耐寒飛行テストのため、七戸平野方面での雪上飛行テストを行い、小川原沼付近は飛行場として注目されていた。そして、この場所が、昭和13年7月に、所沢-立川航空隊間の本州・北海道連絡飛行の臨時着陸飛行場として、木ノ下平が注目されることになったのである。事前調査が、この年夏にあって、この年に北海道での陸軍演習があったとき、臨時飛行場として使用されることになった。使用機は、陸軍が長年使用しているフランス製サルムソン2A2複葉機(陸軍名・乙式一型偵察機)に雪橇を装着した冬季装備した陸軍機であった。この耐寒飛行テストには、当時陸軍航空大尉であったあの「航研機」(昭和13年・世界周回航続飛行記録樹立機)の主操縦士・藤田雄蔵の姿もあった。積雪時以前に現地の事前調査にも訪れていた。
昭和13年12月15日、木ノ下飛行場が完成した。民間航空の東京-札幌間空路の冬期間向け飛行場で、夏期間は青森油川飛行場を使用するというものであった。東京・仙台・札幌間の空路を結ぶ民間定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた。それは、12月22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。当日の模様を地元紙・東奥日報は次のように伝えている。
「冬の東北・北海道定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空の港、上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。
主なる来賓は左の通り
県知事代理大橋県道路主事、航空局岩崎青森飛行場長・太田航空会社青森出張所主任・猪狩青森測候所長・中田秀雄気象台盛岡支所長、田畑県土木技師、長尾三本木警察署長、岩橋三本木土木出張所長、柏崎下田村助役、杉山六戸村助役、佐藤古間木駅長・苫米地古間木郵便局長、菅木ノ下小学校長、付近消防組幹部、牧野組合員、渡辺無線技手外駐在員や地元関係者らが出席した。開式陳告後、皇居遥拝、国歌斉唱、田中木ノ下気比神社神職の修跋式外行事(ママ)があり太田、岩崎、知事代理などの玉ぐし奉奠あって式を終え祝宴に移った 岩崎場長の挨拶があり盛宴であった」
とある。
見渡す限りの平坦な草原地帯であった飛行場用地30万坪は牧野組合から借用し、格納庫(132坪)と事務所・住宅(43坪)があって、古間木局33番の電話、無線施設も備え付けられていた。
地元紙・東奥日報は、翌14年1月17日に行われた試験飛行を次のように伝えている。
「札幌-木ノ下平間定期旅客機の試験飛行は、17日空の難所津軽海峡を一気に飛び越え見事成功した 旅客機は6人りユニバーサル・スーパーAB00機で、操縦は空のエキスパート亀居飛行士 河内技師 宮本無線技師の外に航空会社の下山国内課長が搭乗員激励のため同乗 この日午前10時15分おりからの快晴を利して札幌飛行場を離陸したが、風やや強く風速10mの空を快翔 苫小牧通過南方目指して津軽海峡を一気に突破 太平洋無着陸横断飛行で名高い青森県三沢村淋代海岸伝えに木ノ下飛行場へ飛び午前11時28分見事なる操縦で無事着陸したもので 同機は雪上飛行に備えて橇を据付けてある」
同機は、午後1時半に離陸して札幌に向った。風速17mの逆風だったため2時間25分もかかって札幌に着き、帰路は1時間12分であった(ママ)。こうして試験飛行は成功した。
本格的定期航路は、昭和15年6月15日から開始されたが、戦時体制強化の時代に入り、この民間定期空路は、同16年10日(ママ)をもって航路廃止となった。
これは同書14,15pにあるくだりなんですが、
三沢では大正時代から耐寒、雪上飛行テストが続けられていたんですが、
単に「耐寒、雪上飛行テストに向いている」というだけでなく、
非常に古くから飛行場として「他の例が無いほど適地」と評されており、
これが今回の飛行場建設へと繋がりました。
ということで、木ノ下飛行場は昭和13年12月に完成し、昭和15年6月から本格的に開始となったのですが、
札幌-東京間の定期航空路は、昭和12年4月から始まっており、
札幌は現在門柱だけが残っている札幌第一飛行場、青森は油川飛行場、
そして仙台は現在の霞目飛行場が使用されていました。
青森については、油川飛行場で定期便が始まったのに、後になってわざわざ「冬期用の飛行場」を造ったのですね。
油川と木ノ下は直線距離で65kmも離れています。
油川は青森市中心部に隣接しており、利便性は高かったはず。
木ノ下の本格的な使用は昭和15年からですが、その前年の昭和14年9月には、
油川に着陸できなかった旅客機が木ノ下飛行場に着陸するという一幕もありました。
本格的な使用が昭和15年6月からで、翌年路線廃止ということは、
木ノ下飛行場が「冬期用の飛行場」本来の目的で使用されたのは、昭和15年の一冬限りだったんでしょうか。
ところで気になる点なんですが、
記述の中で、木ノ下飛行場の位置について、
「新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた」
「上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された」
とあります。
地図:C『三沢』五万分一地形圖【測量時期】 大正3年測図/『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■
古間木駅は、1961年に三沢駅に改称して現在に至ります。
で、「古間木駅東方約1里(≒3.92km)」付近とある訳ですが(紫マーカー地点)、
これは「向山駅東側近く」とは明らかに違う場所です。
「向山駅東側近く」は、飛行場のあった場所で納得なんですが、
「古間木駅東方約1里」というのは、ちょっとどうなんでしょうか。
「古間木駅南東方約1里」なら、赤丸にかなり近い位置まで届くんですが。。。
せっかくお歴々が参集して開港を祝った木ノ下飛行場でしたが、1年ほどで路線は廃止となってしまいました。
その後、飛行場がどうなったかについて、同書には出ておらず、ネットで検索しても分からずじまいです。
実は木ノ下飛行場が竣工した昭和13年、村有地を海軍飛行場(後の三沢基地)用地として売却することが議決されており、
三沢の飛行場についての話は、一気にこの海軍航空基地にもっていかれてしまいます。
戦時下の影響が日増しに強まっており、航路再開など当面見込めないでしょうし、
木ノ下飛行場の用地は元々牧野組合からの借用でしたから、早々に解約してしまい、
本来の用途に戻ったのでしょうか。
当時ここから北海道へ、東京へと旅客機が飛んでいたと思うのですが…。
青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地
木ノ下飛行場 データ
管理者:航空局?
種 別:民間飛行場?
所在地:青森県上北郡おいらせ町向山東
座 標:40°38'10.8"N 141°23'39.9"E?
標 高:39m?
面 積:99.17ha(138.8haともあり)
滑走路:1,350mx310m?
(座標、標高、滑走路長さはグーグルアースから)
沿革
1924年 夏 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
1928年07月 16日 立川陸軍飛行隊の4機が三本木木ノ下平に着陸。翌日旭川へ出発
25日 旭川から復路の1機が三本木町沖山原野に不時着、飛行不能となる
1930年09月 24日 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
10月 9日 立川陸軍飛行隊、北海道への往復の中継地として使用
1931年06月 20日 東奥日報、弘前8師団の航空隊設置計画を報ずる
1937年04月 1日 日本航空輸送、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-東京間の定期航路開始
1938年01月 17日 木ノ下・札幌間試験飛行実施
12月 15日 木ノ下飛行場完成。22日竣工式
1939年01月 17日 試験飛行実施
09月 15日 東京・札幌間定期航空旅客機 青森に着陸出来ず木ノ下飛行場に着陸。乗客3名
1940年06月 15日 本格的定期航路開始
1941年 航路廃止
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この記事の資料:
ミサワ航空史(2015年1月31日発行)
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