静岡県・掛川海軍航空基地(未完成・推定位置) [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問
■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」にて当航空基地について扱われていました。
以下引用させて頂きます。
掛川海軍飛行場 ①小笠郡山口村影森 ②掛川市八坂 ③海軍練習航空隊 ④50m造りかけて終戦、中止。⑥未開場 ⑦大井海軍航空隊分遣隊 ⑧茶園 ⑨掛川駅 東方約6km. 大井航空隊の特攻基地として飛行場造成していたと思われるという。⑪掛川市教育委員会掛川市史編纂室よりの資料によると、掛川海軍飛行場は滑走路らしきものを50mほど造りかけて終戦になったという。
「滑走路らしきものを50mほど造りかけて終戦」だったのですね。
気になる滑走路の位置についてなんですが、残念ながら現在のところネットではヒットせず、
この資料以上の情報がありません。
そのため、この資料から場所を推定することになりますのだ。
そして「掛川駅東方約6km」があります。
「影森」と「八坂」は共に掛川市内に字名があります(上のグーグルマップ青マーカー)。
掛川駅、掛川駅東方約6km地点は紫マーカー地点です。
滑走路があったおおよその範囲が分かったところで、
当時の航空写真(上に貼ったもの)で適地を探してみました。
滑走路の向きも長さも不明です。
「特攻基地」とあることから、標準的な長さである「600m滑走路が設置できる場所」
を探したのですが、周辺は起伏に富んでおり、600mの直線を確保できる場所は限られていました。
その中からオイラの独断で7つの候補地を出しました。
次にグーグルアースでこの7候補地の標高の変化を確認したところ、
そのうちの5本は勾配がきつ過ぎてとても滑走路には向かなそうです(赤いライン)。
600mの滑走路が設置できて勾配的にも(そんなには)問題ない箇所は、残る2本(緑のライン)で、
上の航空写真のA,B地点です。
この2候補からどちらか1つを選ばないといけないのですが、
A地点の周辺は工事で荒れた更地っぽい感じがする(ホントにそんな感じがするだけ)のに対し、
B地点の周辺はきちんと道路も整備され、整っている感じです。
資料では、単に「滑走路」ではなく、わざわざ「滑走路らしきもの」と表現していることからすると、
もしかしたら本格的に造成が始まったばかりだったのかも。
ということでオイラの独断ですが、整ってるB地点じゃなくて荒れてるA地点の方だったのではないかと。
仮にココだったと仮定して、先頭のグーグルマップに600mx60mの滑走路を引きました。
ということで、この滑走路位置は、オイラの独断と偏見による推定位置ですのでご了承ください。
オイラの作図は位置、方向が完全に間違っているかもしれませんが、
地元教育委員会からこれだけハッキリした資料が提供されていますから、
終戦間近の時期、この周辺で滑走路建設が実施されたのは間違いないのでしょう。
「実際に完成していたとしたら、こんな感じ」ということで。
当航空基地の資料の中に「⑧茶園」とあります。
オイラが肝心な部分をコピーしてなかったのかもしれませんが、⑧の項目が何を指しているのか不明です。
但し、他の飛行場の情報を見ていくと、この⑧は「現在の状態、その他備考」のようです。
バッチリ茶畑ですね。
オイラとしましては、ここが最も可能性が高いと思うのですが…
掛川海軍航空基地(未完成・推定位置)
掛川海軍航空基地(未完成・推定位置) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:掛川市八坂
座 標: 34°47'40.0"N 138°04'26.2"E?
標 高:52m?
滑走路:600mx50m?
方 位:02/20?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年08月 15日 50mほど造りかけて終戦
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
中部を周った話・1 [■旅行記]
Ⓐ自宅→Ⓑ沼津水上飛行場跡地→ⓒ静岡空港→Ⓓ掛川海軍飛行場(未完成)→Ⓔ一色海岸→Ⓕ緑十字機不時着の碑→Ⓖ浜松練兵場跡地→Ⓗ道の駅アグリステーションなぐら(車中泊)
2023年5月のゴールデンウイークに中部を周ったのでした。
2019年10月に同じく中部を周って以来、3年7ヵ月ぶりの車中泊です。
ゴールデンウイークですからドコも混雑必死ですし、
遠出をして自宅に戻る際も、上り線渋滞に巻き込まれるハズ。
週間予報では、お天気が良いのは最初の2日間のみ。
本来なら、こんな悪条件が重なってまで出掛けるようなオイラではないのですが、
今回のコロナで「行けるうちに行っとこう」と強く思ったのでした。
突然4年近く車中泊自粛する羽目になるなんて、夢にも思いませんでしたからね。
お天気はすぐ悪くなるので、東北とか九州方面は除外。
となると埼玉県民のオイラとしましては、せいぜい東北地方の南側~中部のいずれかになるのですが、
「三菱航空機株式会社」→「MSJ資産管理株式会社」に社名変更したり、
MRJの公式サイトを閉鎖■ したり、
米国に駐機していた機材は既に全機解体済みであると事後報告したりと、
三菱が黒歴史を早急に消しにかかっているのを出発前に知ったので、
今のうちに痕跡を撮っとこうと中部を周ることにしたのでした。
今乗ってるフィット4は、コロナ禍が始まったばかりの2020年3月に購入したので、初車中泊です。
フィットは代々後部座席を簡単に畳めて、(このクラスとしては)広大な荷室になるのがウリですが、
これまでのフィットは、寝てると丁度腰の位置に凸があり、
これを打ち消すため(オイラの場合ですが)スノコを2枚敷いて、スノコ同士の凸凹を消すために板を敷いてと、
ここまでしてやっとマットレスのお出ましなのでした。
今回のフィット4は、腰の位置の凸がなくなったので、後部座席を畳めば荷室に直接マットレスが敷けます。
但し、荷室の後部が7cm低いため、この対策が必要です。
ホンダ公式サイトに「「フィット」の車中泊の使い勝手を検証!」というページがあって■
快適に車中泊する方法が解説されてました。
(オイラは極力持ってるものを使用するので別方式にしましたけど)
(ということで前フリが長くなりましたが)
6:40 自宅発(見学ポイントの資料、マップ作製が前日までに終わらなかった)。
静岡県沼津市を目指して走行中、トイレを使おうとセブンに駆け込んだ(結構切羽詰まってた)のですが、
トイレの前にナント10人の行列!!(XДX)
そういえば駐車場も家族連れの行楽客と思しき車や大型バイクがギッシリで、
本当にゴールデンウイークな感じ。
ずっとコロナで我慢してて、ようやく緩和した最初のGWなので、反動が一気に出てます。
今回行く先々でそんな状態でした(オイラも人のこと言えないけど)。
無事用を足して後、買い物をしようとしたら、ナナコカードが無い!!Σ(゚Д゚;)
仕事道具と一緒に自宅におきっぱにしてました。
お昼はローソンでお握り弁当を買ったのですが、お握りのキャンペーン中ということで、
好きなお茶1本貰えましたヽ(*´ヮ`)ノ
それは良かったんですけど、Suicaで支払いしようとしたら、残高216円(☆Д☆)
子供か。
ナナコカードもない、Suicaも残高ない…
現金多少持っといてヨカッタ。
今回の旅行中、中部の空港もアチコチお邪魔したのですが、
どこも大賑わいでした。
17:30 本日予定の見学ポイントを全て周り終え、後は愛知県に移動するのみ。
セブンで夕食購入のついでにSuicaチャージ。
今回の旅行中の支払いは、普段めったに使わないSuicaを使いまくりました。
19:40 道の駅アグリステーションなぐら着。
次の見学ポイントの手前50kmです。
早速車内を寝られる状態にしたのですが、久々で要領を忘れてて右往左往(゚Д゚;≡;゚Д゚)
窓の形が大きく変わったので、今まで使用していた自作目隠しは使えません。
フィット4専用の目隠しが販売されていたのでポチッて、一応出発前に試してあったんですが、
ん~。まあ使えないことはないかな。
「窓の形に成形した」とか取説にはあったけど、実際に取り付けてみると、どれも二回りくらい大きいです。
20:10 寝
(おやすみなさい)
本日の走行距離:393㎞
今回お邪魔した場所のうち、
「掛川海軍飛行場(未完成)」「緑十字機不時着の碑」「浜松練兵場跡地」
の3つはこの後順番に記事アップしますが、
それ以外は、前回撮る位置を間違えてたので撮り直しとかそんなでしたので、
既存の記事に追記しています。
興味のある方はそちらをご覧くださいませ。
沼津水上飛行場跡地■
静岡空港■
一色海岸■
(続きます)
廃滑走路 [├資料]
運用当時の滑走路面がそのまま残っている(のではないかと思われる)一覧です。
羽田の旧B滑走路、旧C滑走路はまだ一部残っているだろうと思っていたんですが、
過去の航空写真と比較したところ、すっかり塗りつぶされてしまったようです。
かろうじて旧A滑走路の一部が残ってますが、これもいつまで存続するのか…。
それから、個人、団体所有で現在使用していない滑走路も数ヵ所あるのですが、
将来再開の意向表明されている所等、諸事情から含めませんでした。
今後も滑走路が廃止されたり、いろいろ動きがあると思いますので、
一覧は2023年7月時点のものです。
ご了承くださいませ。
名 称 | 現 状 | |
01 | 北海道・旧愛別飛行場 | ほぼそのままの状態で現存 |
02 | 北海道・旧中標津空港 | 一部緑地、駐車場化 |
03 | 北海道・旧標津第二飛行場 | 太陽光発電施設化 |
04 | 北海道・旧弟子屈飛行場 | 一部消防署 |
05 | 北海道・旧根室航空基地 | 一部自衛隊施設化。風化進むが舗装面現存 |
06 | 北海道・旧紋別空港 | テストコース化 |
07 | 北海道・旧女満別空港 | テストコース化 |
08 | 北海道・旧MICとよころ飛行場 | 太陽光発電施設化 |
09 | 北海道・日本航空学園千歳校 | 一部太陽光発電施設、物流施設化 |
10 | 北海道・旧千歳第二飛行場 | ほぼそのままの状態で現存 |
11 | 北海道・旧千歳第三飛行場 | ほぼそのままの状態で現存 |
12 | 北海道・旧奥尻空港 | 現滑走路の下敷きに。両端部分が現存 |
13 | 青森県・旧青森空港 | 新空港化。滑走路西側は一部駐機場、駐車場化 |
14 | 秋田県・旧ハイランド滑空場 | 風化進むが舗装面現存 |
15 | 秋田県・旧秋田空港 | 一部緑地化、道路が横断するが、舗装面かなり現存 |
16 | 福島県・福島空港旧滑走路 | 平行誘導路化 |
17 | 茨城県・旧阿見飛行場 | 太陽光発電施設化 |
18 | 埼玉県・旧朝霞訓練場離着陸場 | 道路として使用 |
19 | 千葉県・旧香取航空基地 | テストコース化 |
20 | 東京都・羽田旧A滑走路 | R/W15R側一部現存。誘導路として使用 |
21 | 東京都・旧大島空港 | 一部緑化しているがほぼ現存 |
22 | 東京都・立川飛行場旧滑走路 | 接収時の米軍滑走路R/W 19エンド部分他一部現存 |
23 | 石川県・小松空港旧滑走路 | ほぼそのまま現存 |
24 | 兵庫県・旧姫路海軍航空隊 | 開発進むが舗装面まだまだ現存 |
25 | 和歌山県・旧南紀白浜空港 | ほぼそのまま現存 |
26 | 鳥取県・旧海軍美保航空基地 | 海軍当時の東西滑走路一部現存 |
27 | 島根県・旧隠岐空港 | 現存。両端部分太陽光発電施設化。牛の放牧 |
28 | 島根県・旧海軍大社航空基地 | 開発進むが一部舗装面現存 |
29 | 福岡県・旧海軍築城航空基地 | 海軍当時からの旧滑走路現存 |
30 | 宮崎県・新田原基地仮設滑走路 | 仮設滑走路ほぼそのまま現存 |
31 | 鹿児島県・旧枕崎空港 | 太陽光発電施設化 |
32 | 鹿児島県・旧種子島空港 | 現存 |
33 | 沖縄県・旧南大東島飛行場 | 工場、宅地等開発進むが一部舗装面現存 |
34 | 沖縄県・旧奥間レストセンター飛行場 | 現存。一部機材置場として使用 |
35 | 沖縄県・旧上本部飛行場 | 舗装面現存。一部浸食、畑地化 |
36 | 沖縄県・旧石垣空港 | 舗装面現存。浸食進む |
群馬県・中島飛行機小泉製作所伊勢崎第二工場跡 [├場所]
2023年4月訪問
撮影年月日1946/10/28(昭21)(USA M301-A-7 64)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
群馬県伊勢崎市平和町にある「伊勢崎ショッピングモール」。
ここはかつて「中島飛行機小泉製作所伊勢崎第二工場」でした(先頭のグーグルマップ 下の台形)。
前記事の第一工場の南東約1.3kmに位置しています。
工場のあった広々とした敷地跡
工場当時のレンガ壁が一部移築して残っています。
富士重工業株式会社 旧伊勢崎製作所第二工場は、明治45年(1912年)に旧上毛撚糸の紡績工場として建設されたレンガ造り鋸屋根構造の建物です。昭和18年(1943年)に富士重工業の前進「中島飛行機」に売却され戦後は富士重工業の生産工場としてバス、コンテナハウスの生産に活用されました。昭和30年代初め、日本のモータリゼーションの先駆けとして世界的に評価された軽自動車「スバル360」を最初に生み出した工場でもあります。このレンガ壁は、第二工場の東側の側面で竣工当初の状態が良く保たれているため「スバル360誕生の地」のモニュメントとしてまた明治から大正期にかけての工場建築の象徴となる歴史的建築物として平成15年(2003年)5月、この地に移築保存されました。SUBARU The monument of the birthplace of SUBARU 360
元々は紡績工場だったを中島飛行機に売却したものなのですね。
明治45年(1912年)建設ですから、既に100年を超える歴史があります(@Д@)
群馬県・中島飛行機小泉製作所伊勢崎第二工場跡
中島飛行機小泉製作所伊勢崎第二工場 データ
所在地:群馬県伊勢崎市平和町19−1 伊勢崎ショッピングモール
座 標:36°19'24.7"N 139°12'07.0"E
標 高:66m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1912年 旧上毛撚糸の紡績工場として建設
1943年 中島飛行機に売却
1945年 終戦。富士重工業の生産工場となる
2003年05月 レンガ壁移築保存
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の説明板
群馬県・中島飛行機小泉製作所伊勢崎第一工場跡 [├場所]
2023年4月訪問
ここはかつて「中島飛行機小泉製作所伊勢崎第一工場」でした(先頭のグーグルマップ 上の四角)。
群馬県・中島飛行機小泉製作所伊勢崎第一工場跡
中島飛行機小泉製作所伊勢崎第一工場 データ
所在地:群馬県伊勢崎市末広町 スバル興産群馬伊勢崎グループ
座 標:36°20'01.9"N 139°11'39.4"E
標 高:70m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
群馬県・旧中島飛行機地下工場跡 [├場所]
2023年4月訪問
群馬県太田市にある八王子霊園。
ここに「旧中島飛行機地下工場跡」があります。
2023年7現在のストリートビューだとこの柵はまだ設けられていないのですが、
ここから入って、上ってすぐの所にあります。
このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和二十年(一九四五)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(一九四五年十一月十三日)には、既にすべての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中をのぞくことができたといいます。
この地下工場の掘削は、昭和二十年一月から始まり、一五〇〇(注2)人が十時間交替で働いたといわれます。四月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた二百八十人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和二十年五月から終戦後の十一月までの七ヵ月の間に、五十人の中国人が無残な死を遂げました。
昭和二十年十一月一日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から奉持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には八十五名の殉難烈士の氏名と、帰国することができた中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和二十八年(一九五三)八月には遺骨の発掘、慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に納められています。
この説明版は、昭和四十七年(一九七二)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明版が老朽化したため、戦後五十周年を記念し、平和への願いを込めて、立て替えたものです。
(この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)
(注1)終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の2分の1に相当し
ます。
(注2)この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2,000人を超える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、合わせると3,000人以上にもなります。
平成八年(一九九六)三月三十一日 太田市教育委員会
現在目にできるのは土管? が顔を出した部分のみですが、
説明板によれば、トンネルは幅約4m、高さ約3.4mとのことですから、相当な大きさだったのですね。
群馬県・旧中島飛行機地下工場跡
中島飛行機地下工場 データ
所在地:群馬県太田市大字西長岡地内
座 標:36°21'14.0"N 139°20'02.8"E
標 高:112m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1945年01月 中島飛行機太田製作所藪塚工場として建設
08月 15日 終戦
11月 1日 慰霊祭
13日 米国戦略爆撃調査団による調査
1953年08月 遺骨の発掘、慰霊祭
1972年 日中友好協会群馬県連合会、「トンネルの由来」を記した説明版設置
1996年03月 31日? 説明版立て替え
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の説明板
群馬県・中島飛行機太田製作所 [├場所]
2023年4月訪問 2023/9更新
東武伊勢崎線、東武桐生線、そして1941年からは東武小泉線も加わり、
3線の乗り入れる太田駅の目の前という超一等地に広大な敷地を擁しており、
昭和15年に海軍の小泉製作所が完成するまでは、ここで陸、海軍機の設計、開発、生産が行われていました。
まさに中島飛行機の爆発的な拡大の礎となった工場です。
先頭のグーグルマップの太田工場のシェイプは、資料が見当たらなかったため、
上に貼った航空写真から作図しました。
「オイラにはこう見える」という主観で線を引いていますので、ご了承ください。
中島飛行機株式会社その軌跡■ によれば、
1939年~1945年の中島飛行機の機体生産機数21,664のうち、太田製作所は10,506機を生産しました。
これは全体の49%に達します。
現在は「SUBARU群馬製作所 本工場」。
公式サイトによりますと、2023年現在主にLEVORG、IMPREZA、XV、WRX、BRZ
といった車種を生産しているのだそうです。
スバリストならずとも憧れるカッコいいヤツばっかりですな(o ̄∇ ̄o)フフ
太田製作所だった当時、完成した飛行機はこの門から搬出されました。
専用道路が現在も太田飛行場(現・スバル大泉工場)に続いています。
完成した機体が翼を広げたまま運べる広々とした道路です。
この門柱、時代を感じさせる外観ですが、もしかして当時のものなのかしらん。
中島飛行機太田製作所
中島飛行機太田製作所 データ
所在地:〒373-0028 群馬県太田市スバル町1−1
座 標:36°17'54.1"N 139°23'05.1"E
標 高:43m
面 積:20ha
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1934年 工場完成
1938年 東京(荻窪)、武蔵野、田無の各製作所と共に軍の管理工場に指定
1945年 終戦
関連サイト:
ブログ内関連記事■■■
群馬県・中島飛行機小泉製作所跡 [├場所]
2023年4月訪問 2023/9更新
1940年に海軍専用工場として誕生しました。
中島飛行機株式会社その軌跡■ によれば、
1939年~1945年の中島飛行機の機体生産機数21,664のうち、小泉製作所は8,907機を生産しました。
これは全体の41%に達し、まさに「東洋一」と謳われる大工場でした。
青マーカー地点。
工場北東の角から。
巨大工場の地割はそのまま残り、現在も工業団地として使用されています。
当時はこの門から生産された機体が搬出されました。
現在はPanasonicの「北門」。
当初は1機完成する度に君が代と社歌が演奏され従業員みんなで見送ったのだそうです。
当時はこの門から続々と零戦(など)が出てきて、
現在も残る専用道路を使って太田飛行場に運ばれてました。
工業団地の東にある「緑と彫刻の道」。
現在は西小泉駅止まりの東武小泉線ですが、当時はこの工場に従業員を運ぶため、この先まで線路が続いてました。
この道路はその線路跡です(だから前記事の東武杭がそこここに残ってる)。
小泉線、もう少しで利根川を越して、熊谷方面からの従業員も運ぶハズだったんですけどね~。
小泉線が利根川越してれば、ここは今も線路だったのかしらん。
群馬県・中島飛行機小泉製作所跡
中島飛行機小泉製作所 データ
所在地:群馬県邑楽郡大泉町坂田1丁目1
座 標:36°15'07.9"N 139°24'02.3"E
標 高:36m
面 積:132ha
(標高はグーグルアースから)
沿革
1938年 新設決定
1940年04月 20日 開設
1945年02月 25日 初空襲
08月 15日 終戦
関連サイト:
ブログ内関連記事■■■
群馬に行った話 [■旅行記]
Ⓘ自宅→Ⓑ小泉製作所跡→ⓒ太田工場跡地→Ⓓ中島飛行機地下工場跡地→Ⓔ愛国飛行場の石柱→Ⓕ中島飛行機小泉製作所伊勢崎第二工場跡→Ⓖ中島飛行機小泉製作所伊勢崎第一工場跡→Ⓗおおぎやラーメン→Ⓘ自宅
20年近く使ったD200からD7100に切り替えて最初の撮影となりました。
8:30 自宅発
終日薄曇りの1日でした。
桐生の愛国飛行場にあった石柱は、以前撮って記事に載せてたんですが、
オイラのミスなのか何なのか、記事から消えてしまい、バックアップも無くて(;´Д⊂)
良い機会だったので、撮り直してきました。
該当記事にアップしてありますので、興味のある方はご覧下さいませ■
それ以外の場所はすべてこれから順番に記事アップ致します。
ということで順調に撮影して、最後にラーメン食べて自宅に戻ったのでした。
16:00 自宅着
ほぼ中島飛行機巡りの1日でした。
おしまい
本日の走行距離:168.0km
燃費:31.7km/L
(旧小泉製作所で見つけた東武杭)