群馬県・旧中島飛行機地下工場跡 [├場所]
2023年4月訪問
群馬県太田市にある八王子霊園。
ここに「旧中島飛行機地下工場跡」があります。
青マーカー地点。
2023年7現在のストリートビューだとこの柵はまだ設けられていないのですが、
ここから入って、上ってすぐの所にあります。
2023年7現在のストリートビューだとこの柵はまだ設けられていないのですが、
ここから入って、上ってすぐの所にあります。
旧中島飛行機地下工場跡(全文) ●所在地 太田市大字西長岡地内
このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和二十年(一九四五)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(一九四五年十一月十三日)には、既にすべての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中をのぞくことができたといいます。
この地下工場の掘削は、昭和二十年一月から始まり、一五〇〇(注2)人が十時間交替で働いたといわれます。四月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた二百八十人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和二十年五月から終戦後の十一月までの七ヵ月の間に、五十人の中国人が無残な死を遂げました。
昭和二十年十一月一日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から奉持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には八十五名の殉難烈士の氏名と、帰国することができた中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和二十八年(一九五三)八月には遺骨の発掘、慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に納められています。
この説明版は、昭和四十七年(一九七二)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明版が老朽化したため、戦後五十周年を記念し、平和への願いを込めて、立て替えたものです。
(この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)
(注1)終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の2分の1に相当し
ます。
(注2)この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2,000人を超える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、合わせると3,000人以上にもなります。
平成八年(一九九六)三月三十一日 太田市教育委員会
現在目にできるのは土管? が顔を出した部分のみですが、
説明板によれば、トンネルは幅約4m、高さ約3.4mとのことですから、相当な大きさだったのですね。
このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和二十年(一九四五)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(一九四五年十一月十三日)には、既にすべての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中をのぞくことができたといいます。
この地下工場の掘削は、昭和二十年一月から始まり、一五〇〇(注2)人が十時間交替で働いたといわれます。四月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた二百八十人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和二十年五月から終戦後の十一月までの七ヵ月の間に、五十人の中国人が無残な死を遂げました。
昭和二十年十一月一日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から奉持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には八十五名の殉難烈士の氏名と、帰国することができた中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和二十八年(一九五三)八月には遺骨の発掘、慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に納められています。
この説明版は、昭和四十七年(一九七二)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明版が老朽化したため、戦後五十周年を記念し、平和への願いを込めて、立て替えたものです。
(この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)
(注1)終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の2分の1に相当し
ます。
(注2)この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2,000人を超える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、合わせると3,000人以上にもなります。
平成八年(一九九六)三月三十一日 太田市教育委員会
現在目にできるのは土管? が顔を出した部分のみですが、
説明板によれば、トンネルは幅約4m、高さ約3.4mとのことですから、相当な大きさだったのですね。
群馬県・旧中島飛行機地下工場跡
中島飛行機地下工場 データ
所在地:群馬県太田市大字西長岡地内
座 標:36°21'14.0"N 139°20'02.8"E
標 高:112m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1945年01月 中島飛行機太田製作所藪塚工場として建設
08月 15日 終戦
11月 1日 慰霊祭
13日 米国戦略爆撃調査団による調査
1953年08月 遺骨の発掘、慰霊祭
1972年 日中友好協会群馬県連合会、「トンネルの由来」を記した説明版設置
1996年03月 31日? 説明版立て替え
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この記事の資料:
現地の説明板
2023-07-13 05:00
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