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広島県・江田島の飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年5月訪問  



無題d.png
撮影年月日1962/07/30(昭37)(MCG628 C25A 8) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


広島県江田島市にある 海上自衛隊第1術科学校大原訓練場。

戦後、進駐軍によってここに滑走路が建設されました。

当飛行場につきましては、ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」様から全面的に情報頂きました。

探し物をしていてたまたまブログを拝見して初めてこの飛行場の存在を知ったのですが、

Google、アジ歴、国立国会図書館デジタルコレクション、埼玉県立図書館で検索しても、

当飛行場に関する情報は一切出てきません。

管理人のわき様が地元取材を元に徹底的に調べて内容をまとめたブログ記事が唯一無二のものです。

そんな訳で、当飛行場について詳しくは、

ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地 

をご覧くださいませ。

関連情報を徹底的に調べ上げておられ、凄いの一言です。

オイラも見倣わねば。

管理人のわき様、掲載快諾下さり、どうもありがとうございましたm(_ _)m

 
当飛行場は、規模と致しましては、未舗装の800m級滑走路です。

「進駐軍が新規で建設した小規模滑走路」としては、

岩手県の「見前滑走路」 
神奈川県の「伊勢佐木町(若葉)飛行場」 「間門飛行場」 
長野県軽井沢の飛行場跡地 

等あります。

軽井沢の飛行場は休暇でゴルフを楽しむ将校用なので別として、

他は連絡、通信用でした。

当飛行場も恐らく同じ用途なのではないかと。


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赤マーカー地点。

滑走路北端付近。

黄色矢印方向に滑走路が伸びてました。

先頭のグーグルマップ、航空写真をご覧頂いた方が早いのですが、滑走路として使用していた当時は、

画面奥に向って滑走路を横切る道路はなく、画面左側にも少し滑走路が続いてました。


DSC_2860_00001.jpg
滑走路方向に沿った道路。


DSC_2862_00001.jpg
フェンスと緑に阻まれるのですが、ちょっとだけ滑走路跡が見えました。


DSC_2866_00001.jpg
青マーカー地点。

滑走路のある場所は埋立地なんですが、水路を暗渠化して滑走路にしてたんですね。




     広島県・江田島の飛行場跡地         
江田島の飛行場 データ
設置管理者:進駐軍
種 別:陸上飛行場
所在地:広島県江田島市江田島町大原官有地
座 標:34°15'08.5"N 132°27'02.7"E
標 高:7m
滑走路:830mx40m(最大)
方 位:01/19
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1947年 この頃から約8年間運用していたと思われる

関連サイト:
「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地 
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中四国九州・2 [■旅行記]


Ⓐ福石PA→Ⓑ道口PA→ⓒ江田島の飛行場跡地→Ⓓ港湾監視所跡→Ⓔ和佐基地跡地→Ⓕ八幡IC→ⒼB29墜落地点→Ⓗ直方飛行場跡地→(多々良航空基地跡地)→Ⓐ九州飛行機香椎工場スベリ跡→Ⓑ名島飛行場跡地→ⓒリンドバーグ飛来記念写真パネル→Ⓓ博多海軍航空隊跡地→Ⓔ道の駅むなかた(車中泊)


2日目

3:15 起床。気温9℃

3:45 福石PA 出発

4:45 道口PA

広島県の高屋ICで高速降りて、江田島へ。

その後、広島の中心部を越えて山口県へ。

広島中心部は渋滞がもの凄いので、有料道路利用。

10:30 玖珂PA

11:20 給油(航続距離あと30kmだった)

15:05 八幡ICから高速に乗って福岡県へ。

福岡県に入って1ヵ所目、直方で滑走路跡の角を撮ってたら、

小学生くらいの女の子たちが「誰かアミ持ってませんかー?」

と言いながらこちらに向かって走って来た(決してオイラに向って言ってない)ので、

「持ってませーん」と言ったら、「あー」と言いながらズッコケていた。

(水路にボールを落としちゃったらしい)

普段のオイラなら絶対こんなノリじゃないのに、

跡地周って知らない土地で動いてるせいで、なんか変なテンションになってた。

通報されなかったかしらん。

名島飛行場跡地で碑の近くにやはり小学生くらいの男の子がいたけど、

構わず碑をカシャカシャ撮ってたら、

「ここに何かあるんですか?」と話し掛けられた。

「ここは昔、飛行場だったんだよ」

「エッ、飛行場!?」

興味ありそうな反応だったので、飛行場といっても、ここから海でね〜

とか話し始めたら、急速に興味を失い、「そうなんだ〜」と言いながら

さりげなく立ち去られました(o ̄∇ ̄o)フフ


DSC_2938_00001.jpgDSC_2940_00001.jpg


次、博多海軍航空隊跡をうろつく。

ここはすっかり美しい公園に整備されており、かつて水上機地があったとは思えない場所なのですが、

基地があった証として航空隊の碑がどこかにあるのです。

自宅で調べた際、この碑がおおよその場所しか分からず、探し回って見つけられるかどうか、

出たとこ勝負だったのですが、あきらめかけた頃やっと発見。

無事見つかって超嬉しい(;´Д⊂)

碑をカシャカシャ撮ったところで18:30。

本日の撮影はここまで。

次の目的地は同じ福岡県の糸島市。

ここから約50km先で、その途中に道の駅はないかと探したのですが、

道の駅はここから30kmほど逆方向なのでした。

19:20 地元のスーパーで本日の夕食と明日の朝食購入。

20:25 道の駅むなかた着

20:55 寝る

おやすみなさい

本日の走行距離:731km


再訪の場所は既存記事に追記してあります。

福岡第二飛行場(名島水上飛行場)跡地 
博多海軍航空基地跡地 



(続きます)

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中四国九州・1 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ清水PA→ⓒ湾岸長島PA→Ⓓ宝塚北SA→Ⓔ福石PA(車中泊)


1日目

今年のGWに中国、九州、四国を周ってきたのでした。

午前中仕事を済ませ、昼前に戻ってから車中泊の準備。

12:20 出発。気温21℃

14:35 清水PA

17:00 湾岸長島PA

18:55 宝塚北SA サーモン巻の夕食(燻製風味で超旨い)

20:30 福石PA着 

ここで車中泊することに。

GWなので途中渋滞に巻き込まれるのを覚悟してて、果たして大阪を越えられるかしらん。

と心配だったんですが、70〜80kmまで速度低下する程度で、

結局埼玉から岡山までスイスイでした。

福石PAに到着すると、気温13℃。

連日夏日に迫る暑さが続いたため、今回は半袖しか持って来てない。

完全に油断してました。大失敗。超寒い_| ̄|○ il||li


車中泊の際、各窓に目隠しを付けるのですが、

特にリアウインドウは内側に傾斜しているし、熱線で僅かに凸凹しているため、

目隠しの吸盤をぎゅーっ、と貼り付けておいても、徐々に取れてしまうことがあります。

リアウインドウ側を頭にして寝てるのですが、

夜中に目隠しがばさりと顔に落ちてくることもΣ(゚Д゚;)

この目隠しの取説に「吸盤の内側にハンドクリームを塗ると良い」とあったのですが、

連泊するとすぐ効果がなくなって落ちてくるし、ハンドクリームの跡が窓に残ります(〃__)σ ツイテル…


SANEI(サンエイ) 吸盤用 スーパー補助板 直径110mm 透明 繰り返し使える きれいにはがせる PP780-110

SANEI(サンエイ) 吸盤用 スーパー補助板 直径110mm 透明 繰り返し使える きれいにはがせる PP780-110

  • 出版社/メーカー: SANEI(旧社名:三栄水栓製作所)
  • メディア: Tools & Hardware


なんとかならんかといろいろ検索して見つけたのがコチラ。

厚さ1mmの透明な丸い板で、吸盤を付けるには不向きな場所に、まずはコレを貼って、

この板に吸盤を付けると、スゴイ付く。というものです。

「繰り返し使えてきれいにはがせる」というのが気に入りました。

1枚500円程度と結構イイお値段なため、試しに2枚だけ購入して、試してみました。

今回4泊したのですが、最終日まで吸盤がピッタリ張り付いていましたヽ( ゚∀゚)ノ

車中泊終ってから剥がしたんですが、謳い文句通り何も問題なし。

リアの目隠しが顔に降って来る問題がこれで解消できました。


20:55 寝る。

おやすみなさい

本日の走行距離:642km

(続きます)

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奄美群島・5 [■旅行記]


ホテル→県立図書館→奄美空港→羽田空港→坂戸駅→自宅//


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5日目

ホテル最寄りの県立図書館へ。

開館時間とほぼ同時に入館し、ヒコーキの時間ギリギリまでパソコンデスクをお借りして、

ひたすら資料集めと記録付け。

その後空港に移動。

レンタカーを返却して空港で手続きを済ませ、搭乗待合室にあるパソコンが使えるデスクでもひたすら記録付け。

「搭乗待合室でパソコン作業」

これ、いつかやってみたかったんです(o ̄∇ ̄o)フフ


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14:15 奄美空港発


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16:20 羽田到着

17:25 羽田発(バス)

19:00 坂戸駅着

徒歩で駐車場に移動し、無事自宅に戻ったのでした。


(あとがき)

2012年与論島にお邪魔したのですが、

今回はそれ以外の(飛行場のある)奄美群島にお邪魔したのでした。

一連の奄美群島旅行記でも書きましたが、奄美群島を訪れて先ず強烈に感じたのは、

島のそこここにある沖縄文化でした(伝統行事、信仰、民具等)。

行く先々の店でも、地元FMでも、TVCMでも、流れているのは琉球民謡の三線の音色。

島の方言は沖縄の方言から類推できるし、

標準語でも、その喋り方やイントネーションはどこか沖縄っぽいです。

(鹿児島県なのに、なんでこんなにオキナワなんだろう??)

日を経るごとにそんな疑問が膨れ上がってゆき、島の図書館では、飛行場について一通り調べたら、

実は余った時間で奄美群島のルーツ関連の本を探してました。

(どの図書館にも、「琉球弧」、「ヤポネシア」という馴染みのない言葉をキーワードにした本が並んでた)

そしてある1冊の本(題名忘れた)の極めて簡潔な1節で、その疑問が一気に解けたのでした。

「1600年までの約400年間、奄美群島は琉球王国の統治下にあったため、言語を始め、その影響は今日に至るまで色濃く残ることとなった」

奄美群島は琉球王国の統治下にあったのか!!

オイラはこのことを全っっったく知りませんでした。

本当にお恥ずかしい話です。

沖縄県民の端くれとして、この歴史的事実はきちんと心に刻んでおかねば。

400年の琉球時代が終わって更に400年経ったけど、それでもこれだけ沖縄っぽさが残るのは、

気候風土、島同士という同じ環境が大きいのかしらん。

これまた図書館で見つけたある書籍(題名忘れた)なんですが、その一節が強く印象に残りました。

「本土とも、沖縄とも、ちょっと違う。独特な発展を遂げた島、奄美」

自宅に戻り、集めまくった資料を見ながら改めて思い返すと、

すごく沖縄っぽいけど、でもやっぱり奄美は奄美でした。


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祖国復帰十五周年の記念樹


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こんな歌があったんですね(@Д@)

詳しく書くとキリがないので簡単に書くと、

終戦と共に奄美群島と沖縄を軍政下に置いた米国は、これら島々を日本に返還せず、

アメリカの信託統治にしようと目論んでいた時期がありました。

この辺りのことは、

アジ歴/本土復帰から70年 ー アジ歴資料からみる奄美群島返還の軌跡 ー で非常に分かり易く解説されてました。

これで奄美群島の旅行記はおしまいです。

長々とお付き合い、ありがとうございましたm(_ _)m

(もう続かない)


うっかり貼り忘れた写真を以下まとめて貼っておきます。


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鹿児島県・奄美大島要塞司令部跡

   2024年4月訪問  



 
鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋にある「奄美大島要塞司令部跡」碑。

大島海峡防備のため設置された陸軍施設です。

前記事でも触れましたが、手安弾薬本庫跡等、現存するこの要塞の一部が国指定史跡になりました。


DSC_2851_00001.jpg

県立古仁屋高校正門。

画面左端に碑が建立しています。


DSC_2846_00001.jpgDSC_2847_00001.jpgDSC_2849_00001.jpgDSC_2850_00001.jpg


碑文(全文)
 大正九年(一九二〇)古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部が開設され、直ちに大島海峡東口(皆津崎・安脚場)、同西口(西古見・実久)四地点に砲台陣地構築と共に要塞司令部施設工事が着工。後に「太平洋上の防衛制限条約」(ワシントン)が締結され工事は中止の止むなきに至った。大正十二年(一九二三)砲台工事は未完成のまゝ奄美大島要塞司令部は、現在地に開庁された。以来、要塞司令官以下各砲台監視員・所要兵科要員が常駐した。この時同時開設された父島、膨湖島要塞と共に、日本三大要塞として国防第一線を担った。以来要塞地帯法・軍紀保護法等の施行により一般住民の日常生活にも制約を受けるに至った。昭和十六年(一九四一)大東亜戦争勃発、大島海峡は南進基地と化し、艦船や戦闘機の発着が激化、海峡両岸各地には三軍の防備部隊が駐屯、沖縄作戦と共に敵機は要塞司令部を目標として間断なく来襲、同司令部も遂に古仁屋市街地と共に被爆、周囲の塀に無数の弾痕を残し終戦となった。
 こゝに由来の一端を記し後世に伝承する。 平成三年秋 瀬戸内大正会




     鹿児島県・奄美大島要塞司令部跡         
奄美大島要塞司令部跡 データ
設置管理者:陸軍
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋399-1
座 標:28°09'05.2"N 129°18'43.1"E
(座標は碑の位置。グーグルアースから)

沿革
1920年 古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部開設
1923年 奄美大島要塞司令部開庁
1941年 大東亜戦争
1945年 終戦
1991年 碑建立

 
関連サイト:
ブログ内関連記事

この記事の資料:
現地碑文


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鹿児島県・手安弾薬本庫跡

   2024年4月訪問  





鹿児島県奄美大島南端、手安にある「手安弾薬本庫跡」。

前記事の古仁屋基地から車で約2kmの場所にあります。

当「手安弾薬本庫跡」と、「西古見砲台跡」、「安脚場砲台跡」の三か所が「奄美大島要塞跡」として、

2022年12月に国指定史跡に指定されました。

当施設については、良質のサイト様が多数ありますので、詳しくはそちらをご覧いただくと良いと思います。


DSC_2845_00001.jpg

県道から手安弾薬本庫跡に通じる細道入ってすぐの所に門柱があります。


DSC_2843_00001.jpgDSC_2844_00001.jpgDSC_2838_00001.jpg
説明板:旧陸軍弾薬庫跡(全文)
 この弾薬庫跡は、旧陸軍により昭和七年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒態勢がとられていたため地元民は この壕の存在すら知らなかった。
 終戦により、武装解除とともに大量の弾薬が運びだされ、当地沖の大島海峡にすてられて、初めて弾薬庫という事がわかった。
 この施設の内部は網の目に組まれた鉄骨を厚いコンクリートで固め、さらに銅板を張りめぐらせ空気が漏れないように、又、湿気防止のため周囲は空間を設け風圧に耐えるため二重壁の構造になっているなど、当時の弾薬庫としては珍しく規模、構造とも日本で最も優れた施設であったと言われている。

(字が欠けている部分は、あちこちのサイト様に掲載されている当説明版の古い写真から補いました)


B.jpg
内部の写真をずらずらと並べますが、なんのこっちゃか分からなくなるので。

動きとしてはこんな感じで、入口から入って、出口から出ました。

ではさっそく。


DSC_2824_00001.jpgA1.jpg


DSC_2823_00001.jpg

DSC_2825_00001.jpg

DSC_2826_00001.jpgA2.jpg
この写真からだとよく分らないですが、上述の説明版にある通り、弾薬庫が二重構造になってます。

もっとパシャパシャ撮っとけば良かった。


DSC_2828_00001.jpg
こちらに立て掛けてあった見取図を活用させて頂きましたm(_ _)m


DSC_2829_00001.jpg
通路を通って第二弾薬庫に行きます。


DSC_2830_00001.jpgA3.jpgDSC_2831_00001.jpgDSC_2835_00001.jpgDSC_2836_00001.jpg
この写真だと、その厳重で手の込んだ二重構造が伝わりますかね。

説明版によれば、昭和7年完成とのことで、100年近く昔のものです。

ただただ驚くばかりです。


DSC_2837_00001.jpgA4.jpg
出た。

電気を消して帰ります~。



     鹿児島県・手安弾薬本庫跡         
手安弾薬本庫 データ
設置管理者:陸軍
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安540
座 標:28°09'26.9"N 129°17'57.2"E
標 高:47m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1931年 この頃建設
1945年 終戦
2022年 国指定史跡


関連サイト:
瀬戸内町/手安弾薬本庫跡 
ブログ内関連記事

この記事の資料:
現地の説明版
九州の戦争遺跡


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鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年1月訪問  



7.jpg
撮影年月日1965/12/21(昭40)(MKU653X C15B 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

9.png
a.png
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)


鹿児島県奄美大島の南端に海軍の「奄美大島水上基地(古仁屋基地)」がありました。

この記事作成に当たって、鹿児島のこういちさん、地元図書館の学芸員さんに大変お世話になりました。

どうもありがとうございましたm(_ _)m

先頭のグーグルマップは、「せとうちなんでも探検隊/須手」 から作図させて頂きました(これが一番詳細だった)。


■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として整備が進められた。

施設名 奄美大島
工事要領等 古仁屋基地現工事を極力促進す
(滑走台新設を含む)
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行

防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
 

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

位置 鹿児島県大島郡古仁屋
基地名 奄美大島水上基地
建設ノ年 1940
飛行場 80x40 60x15 混木
格納庫 1,800㎡
収容施設 士官 50 兵員 150
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
隧道並に地下施設 〇(施設あるも数量不明)
掩体 〇(施設あるも数量不明)


■名瀬市史 下巻
62p
大島の要塞とその重要性 日本海軍の戦略からいって、南西諸島の役割として、二つのことが考えられていた。その一つは、艦隊の前進基地としての役割、すなわち迎撃戦の場合、主力の前進基地として、大島の薩川湾が考えられていた。これはのちには、トラック島に変わることになる。今一つの役割は、海上交通上の要地という考え方である。南西諸島は、南方からの重要物資の輸入や、補給作戦などにおいて、南方航路の哨戒や護衛のための中間基地として、重要であると考えられていた。
63p
十九年十月十日、空母十七隻を基幹とした米機動部隊の延一四◯◯機による南西諸島の空襲は、空の威力をまざまざとみせつけられた。海軍は、古仁屋の須手の航空基地の滑走台新設、喜界に小型機約五◯機分の秘匿所工事を、二十年二月完成をメドに、指令した。陸軍も、十八年、徳之島に機動用飛行場の建設に着手した。
66p
近海における戦闘は、昭和二十年(一九四五)3月ごろ米機動部隊が接近してきてから、航空隊による索敵および攻撃がなされている。三月二十五日には、喜界空港から天山五機が発進し、米戦艦二隻に夜間雷撃を加えている。二十六日、第一機動(中継)基地航空部隊指揮官は、喜界基地使用を有利と認め薄暮、七◯一空司令を基地司令官として、彗星一八機・天山五機を率い、同島に進出させている。そのうち、天山五機は二十七日◯時発進し(未帰還二)、彗星一二機は五時三◯分発(未帰還九)となっている。4月十一日には、本島南方にある機動部隊へ、爆戦五◯機・彗星九機が攻撃を加え、空母二隻・艦船三隻に被害を与えたが、二五機が未帰還となっている。4月二十五日には、古仁屋からも、瑞雲三機が沖縄周辺艦船攻撃に飛び立っている。このように奄美諸島近海では、終戦まで毎日のように、米機動部隊と日本特攻隊との激戦が展開されていたのである。


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施設跡・1

ということで現地にお邪魔してきました。

現在は埋立が進んでいますが、当時は道路隔ててすぐ浜辺でした。

山を削って平地を確保したんでしょうね。

当時は基地の施設が立ち並んでいた場所ですが、現在はガス会社等の敷地になっています。


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紫マーカー地点。

海軍航空隊古仁屋基地跡碑。

須手二本松公園の道路側にあります。


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平成三年九月 海軍航空隊古仁屋基地跡 瀬戸内町大正会之建

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碑文 この須手地内は大東亜戦中旧日本海軍航空隊唯一の南進中継基地として前線に匹敵する役割を果した戦跡の地である 平成三年九月


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施設跡・2

ここも基地当時、諸施設があった場所です。

ここで海側を振り返ると、


DSC_2772_00001.jpg
こんな感じ。

海沿いの脇道がありますね。

入り口の形状はなだらかに変わりましたが、この脇道は当時からありました。

この脇道を進んでみます。


DSC_2775_00001.jpg
施設跡・3

この建物は当時の詳細な地図に描かれた地割と一致しています。


DSC_2776_00001.jpg
施設跡・4

このスベリは、基地当時の地図には無いので、戦後に建設されたと思うのですが、

防波堤?の沖に向って伸びる部分は、一部が当時の地図に出ています。

画面右側、「立入禁止」「遊泳禁止」2枚看板が並んでます。

ここでカメラを右に振ると、


DSC_2778_00001.jpg

DSC_2777_00001.jpg
こんな感じ。

砂浜は、「立入禁止」の看板のあるコンクリが立ち塞がる向こう側があり、

この場所からこれ以上西に進めないっぽいので、施設跡(と思われるもの)を撮りつつ、県道に出ることに。


DSC_2779_00001.jpg

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施設跡・5

県道に出て、一気に150m位西に進みました。


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先頭のグーグルマップで見た方が早いのですが、ここから山奥に向って、

かなりの数の施設が立ち並んでいました。

が、山の方へは行かず、ここで左折して海の方に向います。


DSC_2783_00001.jpg
例によって施設跡(と思われるもの)を撮りつつ進みます。


DSC_2784_00001.jpgDSC_2788_00001.jpg
東京大学医科学研究所 奄美病害動物研究施設
ハブ実験飼育中に付ききけんですから入ってはいけません

「古仁屋基地跡地は現在東大の施設になっている」的な説明をしばしば目にしました。

いよいよ中枢に踏み込みます!<(`・ω・´)(入ってないけど)。


DSC_2789_00001.jpgDSC_2790_00001.jpgDSC_2792_00001.jpgDSC_2793_00001.jpgDSC_2791_00001.jpgDSC_2794_00001.jpg
これは先程の東大施設内を外側から撮ったのですが、

第四塁 
品名 第二石油類(JIS2号軽油)
最大数量 三九〇立
少量危険物貯蔵取扱所
火気厳禁
とあります。

灯油貯めてあるみたいですが、コンクリのこの質感からすると、基地当時の施設を流用しているような…


DSC_2796_00001.jpgDSC_2797_00001.jpg
施設跡・7

中枢の西の端っこに来ました。

基地当時の地図からすると、ここは中枢の敷地外のため、このスベリは当時からあったとしても、

水上機が使用したものではないはず。幅も狭いですし。

以下この周辺をずらずらと。


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DSC_2801_00001.jpgDSC_2803_00001.jpgDSC_2804_00001.jpgDSC_2806_00001.jpg
中枢側。

水上機用の滑走台跡です。


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施設跡・8


DSC_2811_00001.jpgDSC_2812_00001.jpgDSC_2814_00001.jpg
赤マーカー地点。

当時はここに滑走台があり、日常的に水上機が使用していました。




     鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地         
奄美大島水上基地(古仁屋基地) データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安
座 標:28°09'00.3"N 129°18'01.7"E
滑走台:80x40 60x15 混木
(座標はグーグルアースから。滑走台長さは防衛研究所収蔵資料から)

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」
名瀬市史 下巻
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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鹿児島県・旧奄美空港跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年1月訪問  



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撮影年月日1984/05/10(昭59)(KU843X C5 16) 
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撮影年月日1990/12/25(平2)(KU905X C19 11) 廃港から2年後。滑走路にXマーキング
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鹿児島県奄美大島にあった旧奄美空港。

奄美群島復興振興事業により、総工費1億9千万円で着工したもので、1964年開港。

1988年、北東約2kmに新空港が開港するまでは、ここが奄美大島の空の玄関でした。

現在、滑走路の南側とエプロン、ターミナル等は奄美パークとして整備されています。


■航空振興(1970年発行)
空港紹介/再拡張計画が要望される奄美空港(一部抜粋)
 開港当初は東亜航空のコンベア240による鹿児島-奄美-徳之島間、ヘロン機による鹿児島-喜界-奄美間各1便であったが、40年7月に全日空がF-27により鹿児島-奄美-沖縄間週2便正式運行するようになり、このため41年4月1日小さいながらも"国際空港"になった。その後旅客の増加にともない増便、また機種も両者ともYS-11に変更、現在の定期便は東亜航空が鹿児島間3便、徳之島間2便、沖永良部間、喜界島間各1便、全日空が鹿児島-奄美-沖縄間週6便となっているが、各便とも利用率は比較的高く、特に奄美-鹿児島間は盛況で、オフシーズンの場合でも捌ききれない現状である。これら定期便のほか自衛隊機、使用事業機、自家用機等の飛来も多く、それに台湾、フィリピン等の中継基地としても活用され、離島空港としては大変な繁盛ぶりで、42年に拡張されたエプロンも、すでに狭隘になり再拡張の要望が強い状況である。
 当空港は北緯30°以南にあるため、沖縄FIRに属し管制指示は、すべて米軍が運営する沖縄ACCから受けており、また徳之島、沖永良部、喜界各空港の管制指示、管制通報など管制上の業務については、当所がカバーするという特異な業務形態にあるため、運用にあたる職員のはかりしれぬ労苦は並々ならぬものがある。

問題点
 離島空港は地形上との制約から、いずれも幾多の問題を抱えているようであるが、当空港も悩みは多い。その一つに着陸帯両端の急勾配がある。特に02側は急勾配表示はしているが、10m余の断崖で、その下は県道を隔てて
サンゴ礁の隆起した海になっており、気流の乱れも激しく危険なため、早くから緩勾配実施の要望が出されているが、延長問題ともからんで早急な実現は困難のようである。(以下略)


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奄美大島の空の玄関として賑わう奄美空港


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タクシーが並ぶターミナル周辺
南海日日新聞社, 沖縄グラビア社 編『新奄美大観』,南海日日新聞社,1970.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9774504 (参照 2024-05-14)上2枚とも


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『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)



ということで、現地にお邪魔してきました。
 

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赤マーカー地点。

ここが滑走路の南側の端っこで、ターニングパッド跡の辺りから滑走路方向。

前述の「航空振興」で問題点として挙げられていた箇所です。

高低差ができてますが、当時の滑走路はあの高さだったのではないかと。

あの高い所に移動してみます。


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青マーカー地点。

移動してきました。

R/W02エンド付近から海方向。

こんな急勾配ギリギリに滑走路端があると、気流が乱れて上手く飛べないのですね。

某ヒロインもここに着陸する時はユパ様に運んでもらうのかしらん。


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黄色マーカー地点。

野外ステージ上から。

ここから奥にあるあの白い施設に向って真っすぐ滑走路でした。


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灰マーカー地点。

当時はこの辺りから、ターミナル、駐車場エリアが広がってました。


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黒マーカー地点。

当時はここから奥に向ってエプロンでした。


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紫マーカー地点。

展望台。


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(*´∀`*)


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立入できないエリアなのですが、滑走路面が見えます。


DSC_2765_00001.jpg
この黄色のラインは、一応滑走路のつもり。

当時の航空写真と比較すると、奥の野外ステージの辺りから、白くて丸い施設を通過しているはずなので、

多分こんな感じだったのではないかと思います。



     鹿児島県・旧奄美空港跡地         
旧奄美空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県大島郡笠利町
標 点:28°24′55″N 129°41′55″E
標 高:23.3m
面 積:18.62ha
着陸帯:1,360mx90m
滑走路:1,240mx30mアスファルト
方 位:02/20
(データは航空統計年報 昭和37年から。方位は航空写真から)


沿革
1961年11月 30日 空港設置許可(旧空港)
1964年03月 17日 第3種空港政令指定
     06月 1日 供用開始(R/W1,240m×30m)
     07月 ターミナルビル供用開始。東亜航空が鹿児島線、徳之島線開設
1965年02月 東亜航空が喜界線開設
     03月 全日空が鹿児島線、沖縄線開設
1967年   単車輪荷重8.5tまで着陸可能に補強
1972年02月 東亜国内航空が沖永良部線開設
1982年09月 3日 空港設置許可(新空港R/W2,000m×45m)
1983年12月 東亜国内航空からの路線移管により日本エアコミューターが喜界、徳之島、沖永良部、与論線開設
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)
2001年09月 30日 奄美パーク開園


関連サイト:
鹿児島県/奄美空港 
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この記事の資料:
航空振興(1970年発行)
航空統計年報 昭和37年
全国空港ウォッチングガイド


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鹿児島県・奄美空港 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1983/11/03(昭58)(KU831Y C2 20) 新空港設置許可から1年。開港まであと4年8ヵ月
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撮影年月日1996/02/12(平8)(KU953X C17C 11) 開港から7年7ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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SkyVector.com

鹿児島県奄美群島最大の島、奄美大島。

その奄美大島の北東部、リーフ上に奄美空港があります。

元々は南西約2kmに旧空港があったのですが、1988年の現空港開港により、ジェット化を果たしました。

国内主要都市空港と奄美群島各空港とのハブ空港としての機能を果たしています。


【奄美空港 建設】等のワードで図書目録を見ると、

上述の通り新空港の滑走路はリーフ上に建設されたため、反対運動が起こったこと、

またエプロンやターミナル、駐車場周辺には多数の遺跡が存在することから、発掘調査が実施されたこと

等出てきました。


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     鹿児島県・奄美空港         

    ビュー:☆☆☆☆★  
屋上に広々とした無料展望デッキあり。
滑走路側は高いフェンスが張られているが、細長い窓が設けてあり、エプロン、滑走路全域見渡せる


    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
分かり易いターミナル。ファミレス、各種売店あり


    マニア度:☆☆☆★★  
周辺は撮影スポットに恵まれている


    総合:☆☆☆☆★  
奄美群島と本土を結ぶハブ空港


奄美空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県奄美市
標 点:北緯28度25分51秒東経129度42分45秒
標 高:4.2m
面 積:109.6ha
着陸帯:2,120m×300mC級
滑走路:2,000m×45mLA-12
方 位:03/21
誘導路:2,383m×23~30m
エプロン:331.5m×190m(MJ-1,SJ-2,プロペラ-3,大型ヘリ-1)
駐車場:241台
照明施設:精密進入用灯火1式
無線施設:VOR/DME,ILS
運用時間:8時00分~19時30分(11.5時間)
(主に県公式サイトから)


沿革
1982年09月 新空港設置許可
1983年   この年から遺跡調査実施
1985年07月 新空港の航空灯火設置許可(CAT-1)
1987年04月 新空港の空港施設変更許可
     05月 新空港の航空灯火変更許可
     09月 新空港の航空灯火変更許可(PAPI)
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)、航空灯火供用開始(1期夜間照明,PALS420m)
       日本エアシステムが鹿児島線ジェット化
1989年07月 24日 航空灯火変更許可(転回灯,SALS)
     09月 21日 航空灯火供用開始(2期PALS900m)
1990年07月 1日 空港施設供用開始(2期着陸帯150m→300m)  航空灯火供用開始(3期CAT-1)
1992年12月 日本エアシステムが東京線を開設(MD-81)
1993年03月 2日 空港施設変更許可(A/P拡張等の変更3~4期) 航空灯火変更許可(4~4期)
1994年09月 日本エアシステムが関西線を開設
1995年02月 21日 航空灯火変更許可(R/W灯等)
     06月 22日 空港施設供用開始(3期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(4期平行T/Wに伴う)
     11月 エアーニッポンの鹿児島・那覇線が全便ジェット化
1996年05月 23日 空港施設供用開始(4期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(5期平行T/Wに伴う)
1997年05月 22日 航空灯火供用開始(R/W灯等)
1998年12月 日本エアシステムが関西線休止、伊丹線開設
1999年02月 エアーニッポンの那覇線休止。琉球エアコミューターが那覇線開設
2004年12月 6日 航空灯火変更許可(高輝度誘導案内灯)
2005年06月 30日 空港施設変更許可(A/P拡張) 航空灯火変更許可(A/P拡張に伴う)
2007年09月 27日 空港施設変更供用開始(A/P拡張) 航空灯火変更供用開始(A/P拡張に伴う)
2009年08月 18日 航空灯火変更許可(CCR用無停電電源装置)
2011年04月 7日 航空灯火変更供用開始(CCR用無停電電源装置)
2016年09月 7日 航空灯火変更許可(SALS光度変更)

 
関連サイト:
空港公式サイト 
鹿児島県/奄美空港 
航空局/奄美空港(38コマ) 
ブログ内関連記事

この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド

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鹿児島県・喜界空港 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1965/06/08(昭40)(MKU653X C21 2) 町営飛行場として開港から6年。1,080mx30m
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撮影年月日1977/10/22(昭52)(CKU776 C46 3) 1,200mx30m舗装化から9年後
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

鹿児島県喜界島にある「喜界空港」。

島の西部北岸に位置しており、海軍の喜界航空基地跡地を整備して建設されました。


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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22)


上に貼ったのは、「還ってきた奄美群島の運輸交通事情」と題する記事の一部です。

奄美群島が日本に返還されたのは、1953年12月24日のことでした。

その直後の奄美群島の飛行場について、現状と要望が記されています。

戦時中、奄美群島にあった陸上飛行場は、

日本陸軍が建設した「徳之島飛行場」、そして日本海軍の「喜界航空基地」の2つだけでした。

どちらも破壊され、現在は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付けられているとあります。

台風の際、ひどいと1ヵ月もの間孤立してしまうため、

要望として、緊急輸送用に軍用飛行場跡地に是非飛行場の再開を、とあります。

この要望記事が出てからおよそ5年後に航空路が開設することになったのでした。

 
■喜界町誌693p-
(2)喜界空港建設の経緯
 喜界島に民間航空路が建設されたのは、一九五九(昭和三十四)年八月であった。その経緯については竹内譲著『趣味の喜界島史』を要約する。
 一九五八(昭和三十三)年に中里の旧海軍飛行場を民間旅客機の空港に転用するという航空開設案に沿って、県土木部の港湾係長、大島支庁土木課の港湾係長、鹿児島航空保安事務所の施設課長三名が、一月二十九日に来島し、現地調査を実施した。その結果、県は昭和三十三年度の復興予算の中から、三百九十二万円を空港の整備に支出する方針を固めたところ、大蔵省は奄美復興中央審議会で
・本格的空港は大島本島に造るべき
・喜界飛行場を整備しても、法定の第三種空港には該当せず、国の補助が受けられない
との理由からこれに反対し、県の提案を保留にした。町では七月十日、運輸省・自治省・復興審議会に陳情したが、不首尾に終った。
 これにより、同年七月二十九日、町は独力で飛行場の整備に着手した。大島市長からブルドーザーを借り受け、町民・喜界高校の生徒の労力によって工事は進み、その一方で、東亜航空からは鹿児島支社長が来島し、工事の指導にあたった。このような経緯で空港としての環境が整備された。滑走路は長さ百二十㍍、幅五十㍍となり、一面に美しい朝鮮芝が植えこまれた。
 町と議会は、町民の熱意と既成事実を関係当局に陳情し、事業費三百九十二万円の補助を得ることに成功した。
①離着陸試験の実施
 一九五八(昭和三十三)年八月二十一日、運輸省鹿児島航空保安事務所による初の離着陸試験は、東亜航空の七人乗り双発機ビーチクラフトで行われ、鴨池-喜界島間三百五十㌖を一時間三十八分で飛んだ。航空局では、三十四年五月二十日、七月二十五日の二回にわたり、安全性と設備状況などを綿密に調査し、就航出願中の東亜航空に路線許可を与えた。
②旅客輸送の開始
 一九五九(昭和三十四)年八月十日午前十一時十分に県の副議長、土木部長、鹿児島航空保安事務所長、東亜航空会長、同社長らを乗せた一番機が鴨池の上途式場を飛び立った。翌八月十一日から旅客の輸送をはじめたが、運賃は大人片道五千五百円、十二才未満はその三割引きで、一日おきに運行した。また、同年十月一日からは喜界-鹿児島間の空路速達便が開設され、東京には早くて二日で速達が届くようになったが、半年後には廃止された。
(3)その後の喜界空港の変遷
 以下の記述は『喜界町町勢要覧』「喜界島」一九九九、『喜界町町制施行四十周年記念誌』「喜界島」、『鹿児島県喜界町広報きかい縮小版 第一巻』等による。
・一九六七(昭和四十二)年九月、空のダイヤ一時休止(空港滑走路延長・整備のため)
・同年十二月、空のダイヤ三か月ぶりに再開
・一九六八(昭和四十三)年十一月、喜界空港舗装整備なる
・一九六九(昭和四十四)年四月、YS11定期就航実現
・一九七一(昭和四十六)年四月、喜界空港第三種空港に昇格
・一九八〇(昭和五十五)年七月一日、喜界-鹿児島線航空直行便就航
・一九八二(昭和五十七)年三月、喜界-鹿児島線航空直行便運休
・一九八三(昭和五十八)年十二月十日、日本エアコミューター(株)の十九人乗りドルニエ機喜界-奄美間に就航、一日五往復
・一九九三(平成五)年七月、喜界空港運用時間延長
・一九九五(平成七)年四月、鹿児島直行便サーブ機就航
・一九九五(平成七)年九月、ドルニエ機の最終飛行(十二年間就航)
・一九九六(平成八)年十一月、鹿児島直行便サーブ機二便体制
・一九九九(平成十一)年七月現在、喜界-奄美間三往復、喜界-鹿児島間二往復体勢で就航中


大蔵省から「喜界島に第三種空港はムリ。補助金出さない」と言われ、各所に陳情に赴くも不首尾となりますが、

「それならば」と町が独力で空港建設して実績を作り、最後は第三種空港にまでしています。

凄いですね(@Д@)


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青マーカー地点。

R/W25エンド付近。

遊歩道が整備され、周辺は広々としていますが、滑走路面は見えません。


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赤マーカー地点。

R/W07側PAPI


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R/W07側エンド周辺。


DSC_2668_00001.jpgDSC_2669_00001.jpg
ランウェイエンドから撮るなら、こちら側からのが良さげですね。


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ターミナルと駐車場


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黄色マーカー地点。

ターミナル横/エプロン前には、ヒコーキ眺めるのにおあつらえ向きの場所があります。

この東屋敷地の片隅(凄く分かりにくいけどフェンス沿いの奥)に碑があります。


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「記念樹」。

裏面には、

「復帰十五周年記念 関西より郷土訪問團訪れる 昭和四十四年五月(一九六九年) 関西奄美会建之」

と刻まれていました。


DSC_2677_00001.jpgDSC_2683_00001.jpgDSC_2675_00001.jpg
ヒコーキ眺めながら軽食とかステキやん(*´∀`*)





     鹿児島県・喜界空港         
    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキなし。
フェンス隔ててエプロン目の前に東屋あり。


    施設:☆☆☆★★  
ターミナル前に無料駐車場あり
非常に小さなターミナル。売店にて土産物、軽食メニュー取り扱い(テーブル席あり)


    マニア度:☆☆☆★★  
展望デッキはないけど、東屋、滑走路西側エリア等、恵まれた撮影スポットあり


    総合:☆☆☆★★  
空港について公式に扱っているサイトは、国交省、鹿児島県の「県内の空港」のみ。地元自治体や空港独自のサイトは見当たらず


喜界空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:KKX
4レター:RJKI
所在地:鹿児島県大島郡喜界町
座 標:北緯28度19分17秒東経129度55分41秒
標 高:4.65m
面 積:20.9ha
着陸帯:1,320m×100m F級
滑走路:1,200m×30m LA-4
誘導路:90m×18m
方 位:07/25
エプロン:78m×50m(プロペラ-1)
駐車場:81台
照明施設:昼間着陸用灯火1式
無線施設:RAG
運用時間:8時30分~18時30分(10時間)【4月1日~9月30日】
     8時30分~17時30分(9時間)【10月1日~3月31日】
(主に県公式サイトから)


沿革
1945年08月 15日 終戦。喜界航空基地は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付け
1953年12月 24日 本土復帰
1958年01月 29日 現地調査。大蔵省、海軍飛行場を民間空港に転用とする県の提案を保留
     07月 10日 町、運輸省・自治省・復興審議会に陳情したが、不首尾
       29日 町、独力で飛行場(120mx50m)を整備し、関係当局から補助金獲得
     08月 21日 運輸省鹿児島航空保安事務所、離着陸試験実施(東亜航空のビーチクラフト機)。
1959年02月 6日 飛行場設置許可申請(喜界町管理)
     05月 20日 航空局、安全性と設備状況等の調査実施
     07月 25日 航空局、安全性と設備状況等の調査実施。その後東亜航空に路線許可
     08月 10日 供用開始(R/W1,080×30m未舗装)。鴨池から1番機。翌日から旅客輸送開始
     10月 1日 喜界-鹿児島間の空路速達便開設(半年後に廃止)。
1965年07月 12日 空港設置許可
1967年09月 滑走路延長・整備のため空のダイヤ一時休止
     12月 空のダイヤ再開
1968年05月 1日 供用開始(R/W1,200×30m未舗装)
     08月 12日 空港施設変更許可(滑走路舗装)
     08月 26日 供用休止(S43年8月26日~43年12月27日)
     12月 28日 空港施設変更供用開始(R/W1,200×30m)
1969年04月 YS-11型機、定期就航
1971年04月 1日 第3種空港政令指定
1974年07月 26日 設置者の地位の承認許可(喜界町→鹿児島県)。喜界島空港から喜界空港に名称変更
1975年08月 30日 航空灯火設置許可(昼間照明)
1976年08月 1日 航空灯火供用開始(昼間照明)
1980年07月 1日 鹿児島線直行便就航
1982年03月 鹿児島線直行便運休
1982年05月 29日 航空灯火変更許可(予備電源)
1983年06月 29日 航空灯火変更供用開始(予備電源)
1983年12月 10日 日本エアコミューター、ドルニエ機(19人乗)による奄美線就航。1日5往復
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI)
     07月 運用時間延長
1995年04月 鹿児島直行便就航(サーブ機)
1996年11月 鹿児島直行便2便化(サーブ機)


関連サイト:
鹿児島県/喜界空港 
航空局/喜界空港(39コマ) 
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この記事の資料:
現地の碑文
喜界町誌

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鹿児島県・喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問 2024/8更新  



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撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 139) 終戦翌年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県喜界島(きかいじま)の西側、北岸にあった海軍の「喜界航空基地(喜界ヶ島航空基地)」。

本土と沖縄の途上にある海軍航空基地であったため、末期には特攻機の中継地となりました。

この島の名称は古来様々あり、そのためか海軍作成の資料でもこの島の航空基地を指して、

確認できるだけでも「喜界航空基地」、「喜界島航空基地」と表記が分かれています。


■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地
整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として
整備が進められた。

施設名 喜界島
工事要領等 小型機0.五隊使用可能の如く、滑走路長さ最小限一,〇〇〇mに拡張す
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行

防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

位置 鹿児島県大島郡
基地名 喜界ヶ島
建設ノ年 1944
飛行場 1,200x300 800x270 芝張
格納庫 〇(施設あるも数量不明)
収容施設 200名
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
掩体 小型18


■喜界町誌485p-
六 太平洋戦争(途中から)
沖縄戦が開始されると奄美大島は日本本土防衛の最前地点となり、海軍飛行場のある喜界島は特攻機の中継基地となった。

1 海軍喜界島飛行場
 中里海岸を整備して東西に長い海軍不時着飛行場が完成したのは一九三一(昭和六)年で、時々海軍機が飛来するようになり、石垣積みの露天格納庫を設け、一九四三(昭和十八)年頃までは不時着飛行場として利用されていた。南方の戦局が悪化し、敵の進行速度が速くなると、一九四四(昭和十九)年五月、海軍佐世保鎮守府司令部は設営隊(宮本部隊)を編成して喜界島へ派遣し、飛行場拡張工事を命じた(その頃、請負会社星野組も来島し工事した)。
 両町村の動員係は集落毎に人夫を割当て、国民学校、青年学校生徒も勤労奉仕作業に参加し、拡張工事は急速に進められた。完成した飛行場は幅二〇㍍、長さ一〇〇〇㍍東西南北二つの滑走路があり、どの方向からも離着陸できるようになった。
 飛行場周辺には戦闘指揮所(鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所)や掩体壕、弾薬庫、燃料庫などが宮本部隊の手によって造られ、一九四四(昭和十九)年九月には、飛行場を守る戦闘部隊である巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊が駐屯するようになった。
 当時、巖舞台に所属していた整備兵宮原清三氏(島中出身)によると、昭和二十年三月末から敵機の来襲が頻繁になり、特攻機が出撃できない時もあった。その時は飛行場の反対側に位置する志戸桶集落南部海岸の草原に設営された模擬飛行場に、竹と藁で編んだ模擬飛行機を並べ、吹き流しを立て、恰も本物の飛行場であるかのように装い、敵機が此処を攻撃している間に特攻機を出撃させたことも度々あり、約百機の特攻機をこの飛行場から見送った。その約九割は帰ってこなかったという。

2 軍作業の動員
(1)飛行場の整備、掩体壕、誘導路作業
 飛行機を格納する掩体壕は飛行場から一~二㌖離れた水天宮山の麓や、赤連・池治集落の丘の麓にも造られ、誘導路で結ばれていた。(赤連の掩体壕二か所には終戦まで飛行機が格納されていた)

693p-
3 航空
(1)旧海軍喜界島飛行場
 現在の喜界空港はかつての旧海軍飛行場の跡地に再興された空港である。同飛行場は終戦時には二本の滑走路を持つ奄美諸島では最大級の海軍飛行場で、県本土から沖縄に出撃する特攻機の重要な中継基地であった。
 同飛行場は昭和六年、旧海軍の仮設飛行場として建設され、場内には石垣で囲った露点格納庫を備えて居た。戦争の気配が濃くなった昭和十二年から十三年にかけて拡張整備され、昭和十九年には更に拡充された。そして特攻機の中継基地として利用されたため、米軍の爆撃、機銃掃射も熾烈を極め、多大な被害を島にもたらして戦争は終わった。その後、飛行場は米軍の爆撃の跡を残したまま、民間空港として再出発するまでの十数年間放置されていた。
跡地に建設された喜界空港には昔を思い出させるものは残っていないが、中里集落の一角に残っている「戦闘指揮所」の跡と、スギラビーチの東端の道沿いに平成八年、戦中喜界島海軍基地に駐屯していた従軍有志によって建立された「海軍航空基地戦没者慰霊之碑」は、激しかった日本海軍と米軍の攻防の歴史を物語るかのようである。

 
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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22)


戦後の喜界航空基地跡は、米国民政府の管理となり、農耕地となったのでした。


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黒マーカー地点。

中里戦闘指揮所跡。

町誌には「鉄筋コンクリート造りの地下壕、屋上は見張所」とありましたが、

外観は非常に不思議な形をしており、素人のオイラにはどこが見張所なのかさえ分かりません。

その特徴的な外観を以下ずらずらと。


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赤マーカー地点。

海軍型掩体壕がキレイに残っていました。

南国の強烈な紫外線と潮風に曝されながら、よくこんなに良好な状態が保てるものだと不思議な程でした。

以下ずらずらと。


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紫マーカー地点。

海軍航空基地 戦没者慰霊之碑


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碑文(全文)
 喜界島海軍基地は、昭和十九年、国土防衛の最前線基地として拡張整備され、七月
海軍 巌部隊が常駐することになった。
 翌二十年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受けながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、この間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遥か征って帰らざる壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巌部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦死された人達も多かった。ここに基地開設五十周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念して慰霊碑を建立するものである。
平成六年 月 旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会 会長 海軍主計大尉 関根廣文 外会員一同
碑建立発起人代表 宮原清三 協賛会会長、喜界町長 野村良二 喜界町町民一同

碑文周辺に置いてあるのは、航空基地当時の舗装面だったりするのでしょうか。



■K氏の長い長い一日

寺嶋さんから情報頂きました。

昭和20年5月27日、万世飛行場から特攻出撃したK氏の手記を寺嶋さんが書き起こしたものです。

五月二十七日
 午前三時半に起こされ出発準備、眠いのを堪え乍ら朝食に差し出された握り飯を各々手に、宿舎の人に別れを告げ、バス(軍用)で飛行場に向かう。未だ月明かりもなく暗い。
 司令官の前に集合、全員攻撃成功を祈念して乾杯。そうして司令官の一人一人に対する握手と短い別れの言葉を受け(その頃には全機発動機運転中のため、何時でも出発可能である)S隊長より最後の別れで敬礼。いざ行かん、暗い中で日の丸鉢巻きが特に白く目立つ。
 各自愛機を求めて四散。やがて出発線から爆音も高らかに、翼下には二百五十キロの黒い爆弾を吊り下げて単機で離陸。空中集合に依る編隊を場周で組む予定。
 如何にせん、我が愛機のみ試運転でレバー全開した処、ボスとエンジンが息をつくではないか。上空を見上げると、既に第二小隊まで離陸が終わり、A機が出発せんとしている急ぎ基地の参謀の取り計らいで、飛行場南端松林の中に置いてある予備機を貰い、追いつくべく試運転もそこそこに、出発点にて上空を見れば、空中集合の編隊も終わり、高度千米で枕崎の上空を基点に南進を開始せんとする。

 暗闇の海岸線の松林の土手を目標にして、一気にエンジン全開、なかなか浮力がつかず(爆弾が重いので)かろうじて車輪が浮いたので、高度を取ったが、土手に車輪が引っかかりそうで気が気でない。しかし無事離陸できたが本隊は整然と編隊を組み南進中である。
 同機種、同速故、何れ本隊が少し減速すれば追いつくものと、懸命に全速で追ったが、なかなか距離が縮まらぬ。気がせくがいかんともならず、その中上空は夜が明けたため、大分明るくなったのでよく見ると、もう南西諸島の奄美大島の北端の上空だが、友軍機は二千米位先をスズメの大きさ位で相変わらず見事な編隊で南進中を望見できるようになったが、高度を取れば速度が下がり、本隊とますます離れるので、困った。
 この広い空で本隊を見失ったら、最早最後で二度と会うのは困難だ。仕方なく、高度維持は諦め、距離を縮めるべく努力したが、悲しいかな同機種の悲しさ、本隊の方が減速して呉れない以上追いつき様がない。無情にも知ってか知らずか、減速して待ってくれない。

 やがて奄美大島中間を通過後、行く手に雲が出始めた。愈々雲の中に入れば万事休すだ。本隊と合流は諦めなければならぬ。そこで考えた。目的地に到着するためには、雲の上を飛ぶべきか、否下を飛ぶべきや。咄嗟に小生は下を選んだ。理由は敵の電波探知機を避けるため、天蓋を空けたまま。索敵飛行中の機上は、誰も、一人もいない。自分一人の孤独感で一杯になる。何故か編隊を離れて単独飛行は淋しい。でも、これも運命なら仕方がない。単機で、単機攻撃あるのみ。覚悟は既にできているので、自分でも不思議なくらい落ち着いている。

 思えば昨夜の作戦命令に依れば、第一第二飛行小隊合計六機は、沖縄本島北西部の海上に浮かぶケラマ列島周辺に集結中の敵艦船を攻撃目標と定め、我が第三飛行小隊は四機を以て、A機が指揮の上、沖縄本島東南部の全域湾に集結中の敵機動武隊を攻撃の目標と決定。故に我は単機命令通り全域湾に突入したが何も無い。このまま飛行時間を空費して燃料ばかり少なくなり、唯海上に燃料切れのため死んでは割に合わぬ気がして、それじゃあ又出直すことに決め帰路に途く。然し、海上の雲中航法で、旨く帰り着けるかどうか燃料も少ないし、不安であったことは事実である。燃料計を見ると、到底基地迄は無理なようである。ままよ、どうせ何処かで死ぬ身じゃないか、思えば気が楽である。それにしても本隊はどうしたか気になる。攻撃予定時間は既に過ぎている。旨く目標を捕捉出来たか、攻撃は成功したか、全員散華の後だろうか。否小生と同じ天候不良のため目標捕捉が出来ず、引き返したのではないだろうか。犬死には誰でも欲しない筈だ。(後で考えられることは、本隊は雲上飛行で目標に迫ったので、敵の電波探知機により、早くから敵空軍に捕捉され、途中でやられた可能性大なり)
(中略))
北進を始めると雲の切れ間が現れ天候が良くなっている気がしたが、相変わらず視界は〇米である。

 気がついてみると、出発して大分時間が経っている。空腹を覚えたが何も食べる物はない。朝食の握り飯は、本来の愛機の座席に積んだままである。やがて前方の視界が少し明け、次に見たことのない島影を見て、一瞬緊張(どこの島か不明故、或いは戦場の島かも)その中、航法の再点検により奄美大島らしいが確信がない。それで行く時に望見した北端半島の形の見覚えがあるので、それを探して見た処、間違いなく奄美大島であることがわかり、更に名瀬の市街地も確認したが、ちょうど名瀬湾内には商船がやられていて、半分船体を海中に没していたのが一艘あった。

 さて、燃料計は残り少なく、基地までは遠い故着陸せねばならぬが、この島には飛行場も無いので、陸地は平坦部分もないし、海岸に着陸以外方法はないと考え旋回中見た飛行地図の中に、奄美大島の東方海上に喜界島があり、而も島の北西海岸に、海軍の不時着場のマークがあるではないか。
 そこで考えたこの奄美大島の東海岸の僅かな短い砂浜の海岸に、決死で不時着するか、然し爆弾を抱いたままでは、助かる見込みは少ない。実在有無確認の上、万一東方海上に喜界島が見つからぬ時は、奄美大島の不時着も致し方ないと考え、まず地図上の島を求めて、名瀬を後に数分飛んでみた。やがて目指す方向は太平洋である。島の捕捉に失敗すれば、何もない海岸で、広い海では一巻の終わりである。

 後の奄美大島が視界から消えぬ間に、前方目的の島が視界に入らねば、引き返すつもりであったが、西の海上に島影が消えんとする頃、ようやく(東方)前方海上に淡く水平線上に島影が見えたので、そのまま近づくと、まさしく島で而も北西の海岸に面していたため、飛行場もすぐ目に入った。
 喜んだのは束の間で、よく見ると飛行場は全面が爆弾を受け穴だらけ、直線部分が無いので、着陸は不能である。然し海岸に不時着するよりはまだましだが、真直ぐに穴のない部分を探して、二、三回旋回して見て、やっと四、五百米の直線部分を発見、海岸より高度〇米で近着き、着地と同時にエンジンスイッチを切り乍ら直進滑走あるのみ。

 ところがである、基地には誰一人いない。無人島かもしれぬし、何とかして爆弾を放棄せぬと着陸できぬ。抱いたまま着陸に失敗すれば自爆以外にない。まず投下スイッチを入れても落ちない。海上で機体を急転等、色々試して見たが、全く反応なし、燃料もないし、斯くなる上は、共に抱いて洋上を何時間も飛んだので別れ難いか。

  えい、ままよそのまま、海上を超低空で海岸の端から着地。後は滑走力が弱り自然停止迄待つ外ない。中々停まらぬ長い長い時間が終わった気がして、やっと速度が減って来て、止まりそうになって、ほっとした瞬間、左車輪を軸に機体が左旋回を始めながら尾部が浮き上がり始めた。しまった最後かと思った処、尾部が水平近く浮き上がり、方向が左九十度向きを変えた時、完全に機体は停止して、尾部が元の位置に下ったので助かった。

 よく見ると爆撃の穴の円周に盛り上がった土が、車輪止めの代わりをして呉れたのだった。やっと助かったが、さて無人島では困ったと思いきや、飛行場の端から三三、五五と、人影が現われ、当方に近づいてくる。敵か味方か不明だ。要心のため機銃とピストルで身構えたが、どうも味方らしい見覚えのある合図を始めたので、安心した。それにしても、何処にいたのか姿も見えなかったのに。
 早速、皆が手伝って急ぎ機体を、飛行場端の雑木林内に隠して呉れたので、司令官に報告のため案内を乞うた処、山麓の地下壕に連れて行かれ申告したが、最高責任者は海軍の兵曹長であった。
(中略)
 この島の山頂に過去一年位い前から、地上で或いは空中での事故、戦闘も含め機体の損傷等により、愛機を持たぬ身となった者が約三十名程救助を待っている由、尚、鹿児島南端から遠からぬ此の島にして、斯くも救助困難な情況なるに、燃料のみ充分存在する分けも不思議であるので聞いた処、使った機体が、片端から攻撃を受け、残骸のみ空しく飛行場端の海岸線に、山積みされている由、制空権の無き哀れさよ。

 多数の中より選ばれた二名(少尉と軍曹)を後部席にして、帰途に着く訳だが、機体は先ず爆弾を降し、燃料を満タンにしたが、滑走路の心配があったが、よく調べてみると、東西に約五十米巾で直進滑走できる部分があるではないか。実は、爆撃された穴を毎回補修していたが、その繰り返し中、隅々穴埋め用の土を色違いの山麓の土で埋めた処、空中から見た目には、何時までも未補修に見えるのである。小生も実はそれに錯覚をして、不用の困難な着陸をしたのである。

 尚補足すれば、小生の着陸時、何人も補助をしなかった訳は、実は、巡洋艦でも一発で轟沈できる巨大な爆弾を抱いたまま降りてくる小生は、過去の例通り自爆するであろうことを予測して、危険を避け地下壕に全員退避していた由である。(着陸失敗がほとんどの由)斯くて十四時頃、息を切らして山頂より降りてきた二人を乗せ、狭い草原の短い滑走路を全速で滑走(唯、救いは爆弾を抱いていたより半分以上軽いこと)前方目印の二本のドラム缶が目前に迫るが、中々浮力がつかず、やっとの思いで浮上した。

 後の二人の笑顔が印象的である。高度千五百米迄場周しながら上昇したが、敵機の攻撃を恐れ、至急現場離脱、基地に直進すべく後の二人に催促され、洋上を索敵飛行。途中、硫黄島を左に見、その強烈な臭いを味わい乍ら、一路万世基地に進路を向けて飛び続け、無事着陸した。

 若し、わが本隊もと思ったが、残念乍ら基地にはなく、司令部に報告の時聞いたところ、全機任務完遂の由、なぜか涙が出て止まらない。一人残された身の置き処に苦しむことになった。

 これも運命かと諦め、救助した二名と別れ、昨夜皆と最後の一夜を共にした宿舎の飛龍荘に案内され、別命のあるまで待機を命ぜられた。私の長い長い一日がやっと終った。


寺嶋さん情報ありがとうございましたm(_ _)m




     鹿児島県・喜界航空基地跡         
喜界航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡喜界町
座 標:28°19'18.7"N 129°55'45.7"E
標 高:4m
面 積:138.8ha
滑走路:1,200x300 800x270 芝張(「海軍航空基地現状表(内地の部)」)、1,000mx20m 2本(喜界町誌)
(座標、標高はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料と町誌から併記)

沿革
1931年    海軍不時着飛行場完成
1937年    翌年にかけて拡張整備
1944年05月 飛行場拡張工事。2本の滑走路、戦闘指揮所、掩体壕、弾薬庫、燃料庫等建設
     09月 巖部隊(海軍南西諸島航空隊)喜界島分遣隊駐屯
1945年03月 末から敵機頻繁に来襲
     08月 15日 終戦。戦後基地跡は米国民政府の管理となり、農耕地となる
1994年    碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版、碑文
喜界町誌
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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奄美群島・4 [■旅行記]


ホテル→喜界空港見学→喜界航空基地跡地→喜界空港→奄美空港→旧奄美空港跡地→古仁屋基地跡地→手安弾薬本庫跡→海軍司令部跡→図書館→ホテル


4日目(土曜日)

4:40 起床

本日喜界島の予報は終日曇。

6時から2時間ほど歩き回るつもりなので、助かりました。

10:30に到着する奄美大島も曇なんだけど、11時〜16時まで1mmの雨の予報

明日もオイラが奄美に滞在する時間はずっと雨。

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搭乗便の確認したら、なんか赤文字がついてる!!(@Д@)

「屋久島、種子島便は天候不良のため欠航の恐れあり」とのことで、

オイラの乗る便は影響ないようで一安心。

「九州地方」というくくりでコーションがついたのかしらん。

6:15 カメラ持って出発

先ずは滑走路を反時計回りに一周して、特攻慰霊碑、ランウェイエンド、空港ターミナル等撮影。

その後、戦闘指揮所、掩体壕と、見たかったものを無事全て見終える。

込み入った集落に入ると、そこここにサンゴを積んだ塀、石敢當(沖縄の魔除け)。

7:40 ホテル着。即朝食 


IMG_20240406_074805665_HDR.jpg

鶏飯超絶うまし。

9:30 ホテルの玄関出たら、小雨。

終日雲のハズだったのに…(´・ω・`)

実戦経験のない折り畳み傘を出す。


IMG_20240406_100403259.jpg

空港で手続きを済ませ、無事ヒコーキに搭乗開始。


IMG_20240406_101650282.jpgIMG_20240406_101922931.jpg

座席につくと、Nナンバー(米国籍機)が駐機してました。

こんな離島にNナンバーなんて珍しいと思って、

3/24以降の過去ログ見たら、成田→新千歳→仙台→北九州→仙台→新千歳→成田→奄美→喜界(今ココ)→奄美

という感じで、なんかもう日本中飛び回ってますね。

5分遅れの出発だったけど、今のオイラにとっては、ほぼ定刻通りに飛んでくれてありがたいデス。


IMG_20240406_103810330.jpg
奄美空港到着。

すぐにレンタカー借りて、再び空港駐車場へ。

さっきオイラをレンタカー屋さんに乗せてくれたおじさんが新たな出迎えしてる。


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展望デッキに上がると、さっき喜界空港で見たNナンバーがいました。

空港の撮影を終え、旧空港の撮影。

ここも、もうずっと何年も前から気になっていた場所なのです。

滑走路の南側は、奄美パークとしてもうすっかり再開発が進み、滑走の路面はもう残ってないっぽい。

北側はまだ滑走路が残っているけど、あいにくこちらはパーク内からは立ち入りができません。

一応滑走路跡を横断する道路はあるのですが、ストリートビューで確認すると、

濃い植生が高く茂り、滑走路面は拝めない。

ということで、展望台に上ることに。

展望台へはエレベーターで30秒弱。

展望台は高さ30mあり、1F=3mとすると10階相当ですが、

途中階がないから当然だけど、1Fと2Fのボタンしかないのが変な感じ。

展望台は奄美パークの北端に位置していて、パーク全体を見渡す位置にあるけど、

オイラが見たいのは逆方向の旧滑走路。

扉は施錠してあり、ガラス越しにしか見られないのが残念。

旧空港跡地で見るべき場所は全て見れたので、70km先の古仁屋基地に移動開始。

奄美大島は端から端まで約60km、面積は712.4 km²。

沖縄本島は端から端まで約110km、面積は1,199 km²。

これは個々それぞれイメージの問題なんでしょうけど、

オイラは奄美大島がこんなに大きな島だとは知りませんでした(@Д@)デカッ

途中ファミマでポークたまごおにぎり購入。

埼玉のファミマでもたまにポークたまごおにぎり買うけど、

あれは沖縄で言うところのポークじゃなくてハム使ってるんじゃないかと思うほど味薄い。

こっちのはちゃんとポーク使ってる。

最近改良されたのか、地域性なのか。

油味噌がうめー。

奄美空港から古仁屋までは、島を貫く国道58号線をひたすら走るのですが、結構トンネルが多いです。

普段運転してるクルマはオートライト機能付なので、基本的に夜でもトンネルでもライトの操作はしません。

便利機能にすっかり慣れ切ってしまってるせいで、

トンネル入る時ライト付け忘れるし、トンネル出ても消し忘れます。

あ、言ってるそばからまた忘れた(XДX)

古仁屋基地跡地到着。

小雨の降りしきる中、傘をさしつつ、地図広げたり、メモ取ったりしながら、ひたすら撮影。

想像以上にアチコチ立ち入れ、そして予想を遥かに越えて当時の建物が残ってた。

 

続けて、峠一つ越えた先にある爆弾庫へ。

自動車教習所の真向かいにあり、学校の方から、

「あのスイッチで明るくなりますから。奥の穴は今は閉鎖してる。

ハブが出て危ないよ」

と親切にいろいろ教えて頂く。

内部は分厚いコンクリートの二重構造になっていて、その規模と作り込み方に、

海軍が如何にここを重視していたか伺える。

その後海軍司令部跡へ。


そして最後に図書館へ。

あちこち見学ポイントが多くて、雨で手間取ったせいもあり、閉館までもう1時間切ってる。

もう12年も前になるんですが、鹿児島のこういちさんがここの図書館に直接連絡をとって、

館長さん(現在は異動)を紹介して頂いたのでした。

そのお陰で、古仁屋基地についてかなり詳しい情報を得ることができたのですが、

今回やっと12年越しで現地に来ることができました。

当時はまさかこんなに長いこと来れないとは思っておらず、本当に申し訳ないことをしました。


図書館を後にしてホテルへ。

ホテルに向かう途中、地元スーパーで魚の唐揚げとオリオンビール等購入。

ホテルに到着すると、もう17時過ぎ。

かなりの繁華街にあり、ホテル敷地は車でギッシリ。

ホテルの方から「こちらで動かしておきます」と言われたのでお任せして、ホテルの中へ。

カウンター向いに設置されている自動チェックイン初体験。

事前にメールで送られていたQRコードをかざすと、

明日の朝食券、部屋番号と注意事項を記した用紙が吐き出され、ルームカードキーも出てきた。

これで手続き終了。

すごい時代になったものだ。

操作にまごついたら、受付のおねーさんが苦笑いしながら出てくるんだろうなーとヒヤヒヤだったけど、

オイラでもなんとかなりました。

風呂に入ってビールのんで、まったりしてたら、もう21時過ぎ。

今日は朝から晩までよく歩き回った1日でした。

はー、疲れた。

明日は埼玉に戻る日。

一応全島の見学ポイントは全部見た。

記録もつけずに寝る。

おやすみなさい。


(続きます)

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鹿児島県・徳之島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



3.png
撮影年月日1965/10/20(昭40)(MKU653X C27 5) 運航開始から3年半。私設飛行場当時
0.png
撮影年月日1978/07/24(昭53)(CKU777 C11 8) 北側の新滑走路供用開始まであと3ヵ月余り
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撮影年月日1990/10/28(平2)(KU905X C21 5) 滑走路南端部分拡大。ランウェイナンバーが残ってる
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撮影年月日2003/01/22(平15)(CKU20023X C6 5) Xがペイントされた
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上4枚とも)
2.png
『運輸公報』(628),運輸省大臣官房,1961-10-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645632 (参照 2024-04-22) 
0.png
『運輸公報』(648),運輸省大臣官房,1962-03-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9645648 (参照 2024-04-22)

鹿児島県徳之島にあった徳之島飛行場。

先頭のグーグルマップをご覧の通りで、現在の徳之島空港の滑走路と南側で交差してますね。

東亜航空が1960年に場外飛行場として建設し、後に県に移管、拡張して運用が続けられました。

「一民間航空会社が飛行場を建設、運用する」という、現代の感覚ではちょっと考えられない生い立ちですね。

上に2枚、縦長の『運輸公報』貼ってますが、なんでわざわざこんなものを貼ったかと言いますと、

県公式サイト、町誌等見ても、「東亜航空の場外飛行場」的な表現になっていて、正式名称が不明でした。

いろいろ検索して、運輸省に対し正式に「徳島飛行場」として申請、許可を得ていたのが分かったのでした。

話を戻しますと、その後の需要増に対応するため、新規でジェット化対応の2,000m滑走路建設が計画されます。

現在の滑走路がまずは1,200mで供用開始する1978年までは、この滑走路が徳之島の空の玄関でした。


■「徳之島空港 新滑走路完成とジェット機乗入れ」と題するサイト様 (東亜国内航空航空部作成)

の中で、飛行場を建設した当事者である東亜航空(当時)が記事を載せています。

これによれば、

「昭和34年12月東亜航空が滑走路長300mx20mを有する場外施設飛行場を建設し、セスナ機による遊覧飛行を開始した」

ことが、徳之島空港の始まりであると記しています。

後述しますが、徳之島町誌、天城町誌、県の空港サイト等では、

翌昭和35年以降の1,000m超の滑走路建設から沿革が始まっているのですが、

それ以前にもっと小さな滑走路があったのですね。

上に貼った1965年(昭和40年)撮影の滑走路、よく見ると滑走路と着陸帯の北半分が、

やけにモザイク模様になっているのが気になるのですが、

もしかしたら既存の300m滑走路を活かして延長したからなのかもしれません。


■徳之島町誌(1970年) 406p-
空路の開設
 徳之島の空路の開設は、東亜航空が独立でもって空港建設からはじめたのである。東亜航空は徳之島の将来性
に眼をつけて、たまたま同系列資本の奄美パイン株式会社が、すでに、徳之島に進出していたこともあって、空
路開設に踏み切ったのである。島内には、いくつかの候補地があったが、結局、天城町浅間のいまのところに決
定したのである。それ以前、徳之島には、昭和十九年から陸軍が、いまの空港のすぐ上の平地に二〇〇〇メート
ルの滑走路を持つ飛行場を建設したが、これは、戦後政府から県をとおして、すでにこのときにはもとの地主に
払い下げられていたので、これをふたたび空港にすることはムリであった。そのため、その近くの塩田のあとを
整理して、いまの空港を建設したのである。これは、鹿児島県にはただひとつの民間空港であって、昭和三七年
二月七日から使用された。滑走路は一二〇〇メートルの第三種空港の規模である。
 奄美空港は、昭和三十九年までないので、このころは、鹿児島から奄美までの空路は、喜界島まで一六人乗りの
デハビランド・ヘロン一一四型が飛んできていた。徳之島空港の開場とともに、このヘロンが、鹿児島から喜界
島を経由してやってきはじめたのである。このヘロンは、その後、東亜航空で改造されてタウロンとよばれるよ
うになったが、これが、一日一便やってきたのである。このころは、島の人たちは飛行機を利用することなどは
とてもできる相談ではないと思っていた。ところが、就航後まもなく亀津の人の横浜にいる兄弟が危篤になっ
た。これまで、島外にいる人が危篤になれば、もう生きて会えることはまったくないのも同じであったのであ
る。ところが、このとき、空路を利用して、その日のうちに横浜について、生きて会えたというので、あらため
て空路の便利さが強調されるようになったのである。
 その後、奄美空港開設とともに、四〇人乗りのコンベア二四〇型がやってくるようになった。そして、昭和四
〇年から日本航空機製造の六〇人乗りYS一一型が、一日二回「おおらで奄美」とやってきているのである。こ
の空路の開設は、はじめ東亜航空では相当の負担であったが、その後の観光ブームともあいまって、いまでは、
よい営業成績をあげている。空路はいまでは、島の人たちの下駄がわりになってしまって、よく利用されている
し、それにもっともよいことは、本土との時間距離が短縮されて、島の開発に大きなよい影響をあたえているこ
とである。この空港は昭和四四年には、鹿児島県に買収されて、第三種空港となった。

なんで一民間航空会社が飛行場の建設に手を出すのか?

という非常に気になる点について、ここで記されています。

徳之島の将来性、同系列資本の会社が既に進出していたから。ということだったんですね。


■天城町誌(昭和53年発行)112p-

徳島空港
 徳之島空港は、天城町浅間の元陸軍飛行場の下海岸、サンゴ礁の堡礁の上につくられている。昭和三十五年、東京の不二サッシ系の東亜航空株式会社が大島で初めて民間飛行場をつくった。
 滑走路は、浅間の湾屋川下流のサンゴ礁の裾礁から北西へ伸びる堡礁の上に、フロント幅員八〇m、滑走路一二〇〇mを舗装して、塩浜海岸にターミナルをつくって昭和三六年一二月八日、運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査を受けて、手直しもなく完成した。
 同年十二月十六日から試験飛行を行ない、翌三十七年三月より旅客機が飛び始めたが、初めの間はヘロン機で十五人乗りであったが、四十三年よりYS11型六五人乗りが一日二往復している。
 昭和四十八年鹿児島県が買い上げて、滑走路やターミナルを拡大整備、第三種空港に格上げして、滑走路を六〇〇m延長して一八〇〇mに、また滑走路のフロントを九〇mに拡大し、五七年度を目標にジェット機の売込テストなどが行われている。
 徳之島空港の利用者は年々ふえて、四九年度は十一万八七八八人の利用者があった。

幅員について、県サイトと東亜国内航空航空部作成サイトでは30mとあるのに対し、

町誌では80mとあります。

先頭のグーグルマップは、上に貼った1965年の航空写真から作成したんですが、

滑走路幅:36m、着陸帯幅:73mでした(作図に誤差出てるつぽい)。

町誌をよく見ると、長さについては「滑走路一二〇〇m」と記しているのに対し、

幅員については「フロント幅員八〇m」と記し、「フロント」がついています。

こうしたことから、町誌の80mというのは、着陸帯を指しているのだと思います。


1.png
南日本新聞社 編『鹿児島年鑑』昭和36年版,南日本新聞社年鑑編集部,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9769564 (参照 2024-04-21) 


東亜航空が1,200m滑走路の建設許可を貰った年の年鑑です。

「浅間飛行場」とありますね。

【浅間飛行場】でググると、陸軍の浅間飛行場ばかりがズラリとヒットするのですが、

戦後間もない頃の書籍では、東亜航空が建設した飛行場を指して、

「浅間飛行場」、「徳之島浅間飛行場」という表記が見られました。

また、民間航空会社が建設を進める飛行場ではあるのですが、

島内他の町とも一致協力して国と県に援助を要請という雰囲気だったんですね。
 

8.jpg
『十年の歩み』,南西糖業,1976.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11955206 (参照 2024-04-17) 

「徳之島空港」とキャプションついてます。

現行滑走路の供用開始が1978年、この書籍は1976年発行なので、旧滑走路を使用した最終版の風景。

ワイエスにTDAのロゴマーク!!

時代ですね~。


5.jpg
『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)




当時の滑走路の南端部分が一部残っています。

跡地を見てきました。


DSC_2637_00001.jpg
黄色マーカー地点(以下3枚とも)。

滑走路南端から滑走路方向。

奥にフェンスが見えますが、あのフェンスから先は現空港敷地内として区切られてます。

ここで180°回頭すると、


DSC_2633_00001.jpg

DSC_2634_00001.jpg
こんな感じ。

舗装面が崩れてますね。

そのおかげで「サンゴ礁の上に建設された」というのがよく分かります。


DSC_2629_00001.jpgDSC_2630_00001.jpg
ペイントが一部残ってました。

上に貼った1978年の航空写真には、

新滑走路への移行まであと3ヵ月に迫った旧滑走路がカラーで写っているのですが、

ペイントは全て白色です。

一方、2003年の航空写真では、Xマークのオレンジで目立っています。

ということで、このいい感じにかすれて残っているオレンジ色のペイントは、使用不可を示すXと思います。


DSC_2627_00001.jpg

DSC_2624_00001.jpg
赤マーカー地点。

フェンスの向こうに旧滑走路が伸びてます。

DSC_2623_00001.jpg
青マーカー地点。

当時のターニングパッド東隣りに現在はVOR/DMEが設置されていて、旧滑走路をちょっと見下ろすことができます。




     鹿児島県・徳之島飛行場跡地         
・徳之島飛行場(1962年供用開始当時) データ
設置管理者:東亜航空
種 別:場外飛行場
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
着陸帯:1,200mx80m
滑走路:1,080mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。着陸帯、滑走路長さは町誌から)

・徳之島空港(1973年県移管当時) データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:
4レター:
座 標:27°49'49.0"N 128°52'51.5"E
標 高:4m
滑走路:1,200mx30m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは県サイトから)

沿革
1959年12月 東亜航空、300mx20mの私設場外飛行場建設。セスナによる遊覧飛行開始
1960年11月 15日 飛行場設置許可。1,200mx80m(→町誌)
1961年05月 東亜航空、建設着手
     12月 8日 運輸省航空局、鹿児島保安所の完工検査。16日から試験飛行
1962年   NDB設置
     02月 23日 供用開始(R/W 1,080m×30m)(→県サイト)
     03月 運航開始。東亜航空DH.114ヘロン就航(15人乗り)
1964年07月 3日 奄美大島線開設。CV-240型機
1968年    使用機材YS-11型機に変更(65人乗り)。1日2往復
1969年   鹿児島県、飛行場の買い上げを決定
1970年10月 24日 設置者の地位継承許可 東亜航空(株)→鹿児島県
1971年12月 28日 県、運輸大臣に1200m延長設置許可申請(YS-11対策)
1972年01月 27日 空港設置許可
1973年02月 27日 第3種F級空港政令指定。県に移管。滑走路1,800mx90mに拡張(→町誌)
     06月 1日 供用開始(R/W1,200m×30m)(→県サイト)
1975年02月 14日 航空灯火設置許可(昼間照明)
     08月 8日 県、運輸省に設置変更許可申請(2,000m滑走路建設)。28日、公聴会
     10月 18日 空港施設変更許可(R/W2,000m×45m)
1976年07月 東亜航空、鹿児島線開設(YS-11型機)
     08月 10日 航空灯火供用開始(昼間照明)
1978年07月 24日 航空灯火変更許可(LLZ対応)
     11月 3日 空港施設変更供用開始(1期R/W1,200m×45m)

関連サイト:
鹿児島県/徳之島空港 
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この記事の資料:
徳之島町誌(1970年)
天城町誌(昭和53年発行)


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鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月 訪問  



0.png
撮影年月日1947/05/13(昭22)(USA M1001 112) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
4.png
国立国会図書館デジタルコレクション/


鹿児島県の徳之島、天城村淺間に建設された陸軍の「浅間飛行場(徳之島北飛行場)」。

マップをご覧の通りで現在の徳之島空港よりも少し内陸にありました。


■徳之島町誌(1970) 186p-
第九節 徳之島陸軍飛行場
 戦時中、陸軍飛行場は天城村浅間の現在の旅客飛行場の東側南北にわたり滑走路を作り、同町岡前たんぼの南
北の丘陵下に掩体壕と滑走路、松原の北の山の手へ滑走路と掩体壕建設計画途上、終戦で中止となった。この飛
行場の影響は徳之島全島に及ぶので、ここに集録する。

1.浅間飛行場
 昭和十八年、戦局は悪化し南方各島嶼各作戦は敗退を続け、インド・ビルマ作戦も後退を続けていた。敵の進
攻速度は速くなり、フィリピン、台湾、沖縄、奄美と本土への飛び石伝いの島々の防衛強化がさけばれてきた。
同年十月八日、航空本部熊本支所長一行十二人が徳之島に来た。一行は平土野に泊り、九日は上田利光天城村長
ら幹部を帯同し、浅間部落一帯を視察、十日は瀬龍部落一帯を視察し、安藤俊良技師、太宰見習視官ら三人を残
して、一行は沖縄県平島に出発した。
 十月十二日には安藤陸軍技師を主任として鹿児島県より派遣された藤崎修技手、天城村碇山昌明土木技手等が
浅間部落一帯の測量をはじめた。測量が終ると土地買収が始まった。土地は宅地は一畝歩で七十二円、畑は一等
地五十四円、二等地三十九円、三等地二十一円であった。家屋の転居料は倉、牛馬豚舎含めて、最高五千円、最
低三、四百円のものもあった。数十年、数百年、先祖代々住みなれた宅地家屋の移転は平和な住民にかなり苦痛
であった。値上げなどを要望すれば、国家総動員法で没収されると公言し、住民はしかたなく異議もできないま
ま移転でごった返した。買収した地域は浅間部落の通称、福殿地より幅員六十二メートル、浅間原を北に、川津
辺部落の半田川に至る南北千五百メートルの滑走路と海岸線にいたる約七十九町歩の宅地や農地であった。

2.二千二百人徴用命令
 十一月二十五日、陸軍の野村潔主計少尉、佐々木曹長らが下士官と技術員、軍属など十数名を引率して十島丸で
亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚げし、更に二十六日は御用船にて平土野港に数十石の材木を荷揚げした。これ
ら資材は浅間湾屋港に運び込まれ、野村少尉ら幹部は川口延男宅に、下士官・軍属は浅間青年会場を宿舎として飛
行場建設をはじめた。十一月二十八日、野村少尉は徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集して飛行場建設
の趣意説明を行ない人夫供出を命じた。命令によると人夫は亀津町四百五十人、伊仙村六百人、東天城村四百三
十人、地元天城村は八百人、合計二千二百八十人の人夫割当て命令であった。また各町村青年学校は男生徒全部
を一ヶ月交替として天城村と東天城村を一班、亀津町と伊仙村を二班として編成し、命令一下、何時でも出動さ
れる如く準備待機せよとのことであった。更にまた天城村に対しては、村内の馬車は薪用材運搬班、大工と石工
は建築班、事務炊事用半として六十名の男女を確保しておくように命じた。また天城村の岡前、阿布木名(天城
と改称)、兼久の三小学校は人夫宿舎に充当するよう命ぜられた。
 これら労務者と青年学校生の待遇については陸軍経理部から天城村は自宅通勤とし、東天城村、亀津町、伊仙
村の労務者は天城村の三小学校舎に収容することになり、賄つきとすることになり、労務賃金は賄つきで普通男
子一日一円五拾銭、大工と石工は二円、自宅通勤労務者は一円八拾銭、同大工と石工は二円三拾銭、女子はその
仕事の内容によって八十銭から一円十銭までとし、青年学校生徒は伊仙、亀津、東天城の出身者は賄つきで一日
五十銭、天城村青年学校生徒は自宅通勤として一日八十銭を支給すると下達された。また勤務時間は午前六時現
場集合、人員点検報告の上、宮城遥拝して七時作業開始、午後六時まで昼食一時間、午前午後十五分ずつの休憩
時間をもうけた。なにしろ午前六時現場集合のため飛行場より遠い学校や部落宿泊者たちは午前三時、四時に起
きて朝食、五時に家を出て徒歩で作業指定現場に向かわないと間に合わないので最初の間は大変つらい仕事であ
った。
 十一月三十日軍命令が天城村に出され、十二月一日より百人ずつの人夫を二日間にわたりだすべきことを命じ
た。人夫は午前六時湾屋港到着、資材上陸のため仮桟橋を設けた。これら資材は岡前、前野の山林から杉材や松
材が所有者の許可なく切り出され、苦情をもってくれば総動員法で処分されると公言され、全部泣き寝入りとな
った。十二月三日から天城村立青年学校に出動命令が下り、益田豊成校長以下職員と男生徒四百人が建設現場に
出動した。工事は野村少尉、太宰見習視官等が直接指揮し、松岡福二兄弟の屋敷より、西の方は宮村永峰の畑、
納芳義美の屋敷の東側、島利栄の屋敷の東側一帯の窪地で、鬱蒼たる畑の周囲の蘇鉄、槇、榕樹、柑橘類の林木
の伐採、抜根を命じた。

3.人夫出動す
 更に青年学校生徒に続いて、人夫出動命令が十二月六日より天城村、他の三ヶ町村には十二月八日より出動す
べき命令がでた。各町村総動員係は小学校卒業の男女から満六十才までの人夫を動員し、人夫の代理出夫は認め
たが病気以外の者は認めず、割当て通り全村民がその出動することになった。これら村外からの労務者は、色あ
せた毛布に日用品を入れ色あせはてた作業着を着て、古い鍬、みつまた、山刀、斧など作業用具を携帯して遠く
伊仙、亀津、東天城村から徒歩できて岡前、天城、兼久の三小学校や各部落青年会場に分宿、あるいは大きい個
人宅に宿泊して飛行場建設に従事した。
 作業は工具が当時既に鉄不足で買えなくなっていたため、ほとんど全部の労務者のもっている鍬、みつまた等
はすべて古いものばかりで作業能率はあがらず、また航空本部も陸軍航空本部徳之島出張所という看板に似ずわ
ずかに数十条の「トロ」用レール、三十数台のトロ、百四台のリヤカーに、中古トラック五台にすぎない有様

で、土工作業器具がないため伐採、抜根、運搬等みな原始的人力に頼る以外に方法がなく、額に玉なす汗をふき
つつ、乏しい配給生活に耐えつつ作業はすすめられた。
 昭和十九年一月から沖永良部、与論両島から三百余名の労務者が応援に来た。悪化しつつある戦局に備えて工
事は突貫作業となり、各現場は競いたち、三月十日の陸軍記念日頃には大体の荒工事を終わり、砂糖黍畑は変じ
て一望坦々たる運動場のようになった。
 また同時に、飛行場外に駐屯する陸軍飛行中隊の兵舎敷地の整備も済み、兵舎、練兵場、倉庫、中隊本部等の
礎石コンクリート設備も終わり仮事務所のバラック建て三十坪余も完成した。航空本部では三月十日陸軍記念日
に、四ヶ町村長ら三役及び全島の小学校長、青年学校長を飛行場、南側の湾屋川下流の川原に招き、起工式をあ
げ必勝を祈る祝宴を開いた。五月に入り飛行場はほとんど落成し、各所に地積一反二畝、三方に二メートルから
三メートルの堤防を築き、一ヶ所より飛行機の出入りできる掩体壕を二十数ヶ所設けた。このうち岡前たんぼの
南側山沿いに滑走路をまわし、通過所を設け、更にたんぼの北側にも同様に掩体壕を作る計画をすすめたが、完
成せぬうちに終戦となった。六月に入り飛行中隊本部、事務室、整備室、倉庫、便所に至るまで完成し、出入門
と歩哨小屋も完成し、場内には守衛を置いて巡視させるほどになった。六月には第六師団経理部長一行の徳之島
巡視が行なわれ、飛行場の完成に伴なって試験飛行を済ませ、毎日数機の飛行機が離着陸するようになった。

大変な苦労の上に建設された飛行場なのですね。


■伊仙町誌 271p
によれば、終戦間もない9月18日のこと、米軍大佐が50人ほどの兵士を引き連れて徳之島に上陸、

島内視察をしたのですが、ちょうど浅間飛行場を視察しているところに、

双胴双発の戦闘機がきて飛行場を爆撃し、約10分ほどで飛び去ったのだそうです。

大佐は怒って、沖縄の米軍本部に連絡。

翌日には参謀総長付法務長官、法務官らが調査に訪れるというハプニングがあったのだそうです。


3.png
運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22) 


上に貼ったのは、「還ってきた奄美群島の運輸交通事情」と題する記事の一部です。

奄美群島が日本に返還されたのは、1953年12月24日のことでした。

その直後の奄美群島の飛行場について、現状と要望が記されています。

この当時、奄美群島にあった陸上飛行場は(水上機基地は奄美大島の古仁屋基地)、

日本陸軍が建設した「徳之島飛行場」、日本海軍の「喜界飛行場」の2つだけで、

どちらも破壊され、現在は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付けられているとあります。

こうした波乱万丈の経緯を経て、現在があるのですね。


DSC_2646_00001.jpgDSC_2647_00001.jpg
紫マーカー地点。

特攻平和慰霊碑の由来
 この地は 旧陸軍飛行場の跡でありさる太平洋戦争における本土防衛最後の砦として 沖縄決戦に出征する紅顔可憐な特別攻撃隊の中継基地となり数多くの若き勇士が 莞爾として翼をつらね 暗雲急を告げる南の空へ飛び立ち 逝いて帰らざることとなりし思い出深きところである
 これら丈夫の 至情至純に満ち溢れし精神を顕彰し 悠久空しく散華せる御霊の とこしえに安らかにあられんことを請い願い 以って祖国日本の永遠の平和と発展を望むは まさに国民の総意といえよう
 天城町では このゆかりも深き 旧飛行場跡に 御遺族 有志の願望に答えるべく 内外からの浄財により 特攻平和慰霊碑を建立して 御霊を幾久しく鎮めまつり その御遺徳を後世に永く伝え 併せて 日本民族の平和と隆盛を祈念するため いささか由来を述べ碑文とする 昭和五十年八月十五日 天城町特攻平和慰霊顕彰会会長 天城町長吉岡為良


DSC_2648_00001.jpg
碑のすぐ前に伸びている滑走路跡の道路。

滑走路方向。

先頭のグーグルマップで確認して頂いた方が話が早いのですが、

碑は、滑走路北端、そして中心線に位置しています。

ここから離陸滑走を開始し、離陸後少し右旋回すれば、僅か100余km先には沖縄。


DSC_2615_00001_01.jpg
灰マーカー地点。

滑走路方向。


DSC_2616_00001.jpgDSC_2617_00001.jpg
説明板拡大(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます。先頭のグーグルマップもここから作図させて頂きましたm(_ _)m)


DSC_2620_00001.jpg
赤マーカー地点。

滑走路南端から滑走路方向。


DSC_2651_00001.jpg
中学校の校庭側から小道に入ってゆくと、説明板があります。

(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます)


DSC_2652_00001.jpg
黒マーカー地点。

無蓋掩体壕跡(の1つ)。

民家があり、撮影方向が限られるのですが、緑の部分が無蓋掩体壕のはず。

画面向って右側に入口があります。

写真からでは伝わりませんが、土地の高低差を巧みに利用しています。


DSC_2610_00001.jpg
黄色マーカー地点。

補助滑走路北方向。


DSC_2605_00001.jpg
同じく黄色マーカー地点。

補助滑走路南方向。


DSC_2613_00001.jpg
青マーカー地点。

誘導路跡。西方向。


DSC_2614_00001.jpg
同じく青マーカー地点。

誘導路跡。東方向。



     鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地         
浅間飛行場(徳之島北飛行場) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡天城町浅間
座 標:27°49'59.2"N 128°53'18.7"E
標 高:16m
面 積:99.2ha
主滑走路:1,500mx62m
着陸帯:1,525mx275m
方 位:18/36
補助滑走路:850mx25m
方 位:01/19
(座標、標高、方位はグーグルアースから。面積は運輸省大臣官房文書課 編『運輸』から)

沿革
1943年10月 8日 航空本部熊本支所長一行12人来島。翌日、天城村長ら幹部を帯同し浅間部落一帯を視察
        12日 浅間部落一帯の測量開始。その後土地買収
    11月 25日 陸軍、亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚。翌日平土野港に数十石の材木荷揚。建設開始
        28日 陸軍、徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集。計2,280名の人夫招集命令
1944年01月 沖永良部、与論両島から300余名の労務者が応援に来る
     03月 10日 大体の荒工事終了。起工式
     05月 飛行場ほぼ完成。無蓋掩体壕20数基建設
     06月 第六師団経理部長一行による巡視。飛行場完成により試験飛行
1945年08月 15日 終戦。米軍による占領統治
     09月 18日 米軍による視察中、爆撃を受ける
       その後、飛行場は米国民政府の財産管理官の管理下に置かれ、農耕地として貸し付けられる
1953年12月 24日 奄美群島返還
1975年08月 15日 特攻平和慰霊碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文、説明板
徳之島町誌(1970)
伊仙町誌(1978)


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