広島県・江田島の飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年5月訪問
広島県江田島市にある 海上自衛隊第1術科学校大原訓練場。
戦後、進駐軍によってここに滑走路が建設されました。
当飛行場につきましては、ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」様から全面的に情報頂きました。
探し物をしていてたまたまブログを拝見して初めてこの飛行場の存在を知ったのですが、
Google、アジ歴、国立国会図書館デジタルコレクション、埼玉県立図書館で検索しても、
当飛行場に関する情報は一切出てきません。
管理人のわき様が地元取材を元に徹底的に調べて内容をまとめたブログ記事が唯一無二のものです。
そんな訳で、当飛行場について詳しくは、
ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地■
をご覧くださいませ。
関連情報を徹底的に調べ上げておられ、凄いの一言です。
オイラも見倣わねば。
管理人のわき様、掲載快諾下さり、どうもありがとうございましたm(_ _)m
当飛行場は、規模と致しましては、未舗装の800m級滑走路です。
「進駐軍が新規で建設した小規模滑走路」としては、
岩手県の「見前滑走路」■
神奈川県の「伊勢佐木町(若葉)飛行場」■ 「間門飛行場」■
長野県軽井沢の飛行場跡地■
等あります。
軽井沢の飛行場は休暇でゴルフを楽しむ将校用なので別として、
他は連絡、通信用でした。
当飛行場も恐らく同じ用途なのではないかと。
赤マーカー地点。
滑走路北端付近。
黄色矢印方向に滑走路が伸びてました。
先頭のグーグルマップ、航空写真をご覧頂いた方が早いのですが、滑走路として使用していた当時は、
画面奥に向って滑走路を横切る道路はなく、画面左側にも少し滑走路が続いてました。
滑走路方向に沿った道路。
フェンスと緑に阻まれるのですが、ちょっとだけ滑走路跡が見えました。
青マーカー地点。
滑走路のある場所は埋立地なんですが、水路を暗渠化して滑走路にしてたんですね。
広島県・江田島の飛行場跡地
江田島の飛行場 データ
設置管理者:進駐軍
種 別:陸上飛行場
所在地:広島県江田島市江田島町大原官有地
座 標:34°15'08.5"N 132°27'02.7"E
標 高:7m
滑走路:830mx40m(最大)
方 位:01/19
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1947年 この頃から約8年間運用していたと思われる
関連サイト:
「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地■
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中四国九州・2 [■旅行記]
Ⓐ福石PA→Ⓑ道口PA→ⓒ江田島の飛行場跡地→Ⓓ港湾監視所跡→Ⓔ和佐基地跡地→Ⓕ八幡IC→ⒼB29墜落地点→Ⓗ直方飛行場跡地→(多々良航空基地跡地)→Ⓐ九州飛行機香椎工場スベリ跡→Ⓑ名島飛行場跡地→ⓒリンドバーグ飛来記念写真パネル→Ⓓ博多海軍航空隊跡地→Ⓔ道の駅むなかた(車中泊)
2日目
3:15 起床。気温9℃
3:45 福石PA 出発
4:45 道口PA
広島県の高屋ICで高速降りて、江田島へ。
その後、広島の中心部を越えて山口県へ。
広島中心部は渋滞がもの凄いので、有料道路利用。
10:30 玖珂PA
11:20 給油(航続距離あと30kmだった)
15:05 八幡ICから高速に乗って福岡県へ。
福岡県に入って1ヵ所目、直方で滑走路跡の角を撮ってたら、
小学生くらいの女の子たちが「誰かアミ持ってませんかー?」
と言いながらこちらに向かって走って来た(決してオイラに向って言ってない)ので、
「持ってませーん」と言ったら、「あー」と言いながらズッコケていた。
(水路にボールを落としちゃったらしい)
普段のオイラなら絶対こんなノリじゃないのに、
跡地周って知らない土地で動いてるせいで、なんか変なテンションになってた。
通報されなかったかしらん。
名島飛行場跡地で碑の近くにやはり小学生くらいの男の子がいたけど、
構わず碑をカシャカシャ撮ってたら、
「ここに何かあるんですか?」と話し掛けられた。
「ここは昔、飛行場だったんだよ」
「エッ、飛行場!?」
興味ありそうな反応だったので、飛行場といっても、ここから海でね〜
とか話し始めたら、急速に興味を失い、「そうなんだ〜」と言いながら
さりげなく立ち去られました(o ̄∇ ̄o)フフ
ここはすっかり美しい公園に整備されており、かつて水上機地があったとは思えない場所なのですが、
基地があった証として航空隊の碑がどこかにあるのです。
自宅で調べた際、この碑がおおよその場所しか分からず、探し回って見つけられるかどうか、
出たとこ勝負だったのですが、あきらめかけた頃やっと発見。
無事見つかって超嬉しい(;´Д⊂)
碑をカシャカシャ撮ったところで18:30。
本日の撮影はここまで。
次の目的地は同じ福岡県の糸島市。
ここから約50km先で、その途中に道の駅はないかと探したのですが、
道の駅はここから30kmほど逆方向なのでした。
19:20 地元のスーパーで本日の夕食と明日の朝食購入。
20:25 道の駅むなかた着
20:55 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:731km
(続きます)
中四国九州・1 [■旅行記]
Ⓐ自宅→Ⓑ清水PA→ⓒ湾岸長島PA→Ⓓ宝塚北SA→Ⓔ福石PA(車中泊)
今年のGWに中国、九州、四国を周ってきたのでした。
午前中仕事を済ませ、昼前に戻ってから車中泊の準備。
12:20 出発。気温21℃
14:35 清水PA
17:00 湾岸長島PA
18:55 宝塚北SA サーモン巻の夕食(燻製風味で超旨い)
20:30 福石PA着
ここで車中泊することに。
GWなので途中渋滞に巻き込まれるのを覚悟してて、果たして大阪を越えられるかしらん。
と心配だったんですが、70〜80kmまで速度低下する程度で、
結局埼玉から岡山までスイスイでした。
福石PAに到着すると、気温13℃。
連日夏日に迫る暑さが続いたため、今回は半袖しか持って来てない。
完全に油断してました。大失敗。超寒い_| ̄|○ il||li
車中泊の際、各窓に目隠しを付けるのですが、
特にリアウインドウは内側に傾斜しているし、熱線で僅かに凸凹しているため、
目隠しの吸盤をぎゅーっ、と貼り付けておいても、徐々に取れてしまうことがあります。
リアウインドウ側を頭にして寝てるのですが、
夜中に目隠しがばさりと顔に落ちてくることもΣ(゚Д゚;)
この目隠しの取説に「吸盤の内側にハンドクリームを塗ると良い」とあったのですが、
連泊するとすぐ効果がなくなって落ちてくるし、ハンドクリームの跡が窓に残ります(〃__)σ ツイテル…
SANEI(サンエイ) 吸盤用 スーパー補助板 直径110mm 透明 繰り返し使える きれいにはがせる PP780-110
- 出版社/メーカー: SANEI(旧社名:三栄水栓製作所)
- メディア: Tools & Hardware
厚さ1mmの透明な丸い板で、吸盤を付けるには不向きな場所に、まずはコレを貼って、
この板に吸盤を付けると、スゴイ付く。というものです。
「繰り返し使えてきれいにはがせる」というのが気に入りました。
1枚500円程度と結構イイお値段なため、試しに2枚だけ購入して、試してみました。
今回4泊したのですが、最終日まで吸盤がピッタリ張り付いていましたヽ( ゚∀゚)ノ
車中泊終ってから剥がしたんですが、謳い文句通り何も問題なし。
リアの目隠しが顔に降って来る問題がこれで解消できました。
20:55 寝る。
おやすみなさい
本日の走行距離:642km
(続きます)
奄美群島・5 [■旅行記]
ホテル→県立図書館→奄美空港→羽田空港→坂戸駅→自宅//
ホテル最寄りの県立図書館へ。
開館時間とほぼ同時に入館し、ヒコーキの時間ギリギリまでパソコンデスクをお借りして、
ひたすら資料集めと記録付け。
その後空港に移動。
レンタカーを返却して空港で手続きを済ませ、搭乗待合室にあるパソコンが使えるデスクでもひたすら記録付け。
「搭乗待合室でパソコン作業」
これ、いつかやってみたかったんです(o ̄∇ ̄o)フフ
14:15 奄美空港発
16:20 羽田到着
17:25 羽田発(バス)
19:00 坂戸駅着
徒歩で駐車場に移動し、無事自宅に戻ったのでした。
(あとがき)
2012年与論島にお邪魔したのですが、
今回はそれ以外の(飛行場のある)奄美群島にお邪魔したのでした。
一連の奄美群島旅行記でも書きましたが、奄美群島を訪れて先ず強烈に感じたのは、
島のそこここにある沖縄文化でした(伝統行事、信仰、民具等)。
行く先々の店でも、地元FMでも、TVCMでも、流れているのは琉球民謡の三線の音色。
島の方言は沖縄の方言から類推できるし、
標準語でも、その喋り方やイントネーションはどこか沖縄っぽいです。
(鹿児島県なのに、なんでこんなにオキナワなんだろう??)
日を経るごとにそんな疑問が膨れ上がってゆき、島の図書館では、飛行場について一通り調べたら、
実は余った時間で奄美群島のルーツ関連の本を探してました。
(どの図書館にも、「琉球弧」、「ヤポネシア」という馴染みのない言葉をキーワードにした本が並んでた)
そしてある1冊の本(題名忘れた)の極めて簡潔な1節で、その疑問が一気に解けたのでした。
「1600年までの約400年間、奄美群島は琉球王国の統治下にあったため、言語を始め、その影響は今日に至るまで色濃く残ることとなった」
奄美群島は琉球王国の統治下にあったのか!!
オイラはこのことを全っっったく知りませんでした。
本当にお恥ずかしい話です。
沖縄県民の端くれとして、この歴史的事実はきちんと心に刻んでおかねば。
400年の琉球時代が終わって更に400年経ったけど、それでもこれだけ沖縄っぽさが残るのは、
気候風土、島同士という同じ環境が大きいのかしらん。
これまた図書館で見つけたある書籍(題名忘れた)なんですが、その一節が強く印象に残りました。
「本土とも、沖縄とも、ちょっと違う。独特な発展を遂げた島、奄美」
自宅に戻り、集めまくった資料を見ながら改めて思い返すと、
すごく沖縄っぽいけど、でもやっぱり奄美は奄美でした。
祖国復帰十五周年の記念樹
詳しく書くとキリがないので簡単に書くと、
終戦と共に奄美群島と沖縄を軍政下に置いた米国は、これら島々を日本に返還せず、
アメリカの信託統治にしようと目論んでいた時期がありました。
この辺りのことは、
アジ歴/本土復帰から70年 ー アジ歴資料からみる奄美群島返還の軌跡 ー■ で非常に分かり易く解説されてました。
これで奄美群島の旅行記はおしまいです。
長々とお付き合い、ありがとうございましたm(_ _)m
(もう続かない)
うっかり貼り忘れた写真を以下まとめて貼っておきます。
鹿児島県・奄美大島要塞司令部跡
2024年4月訪問
鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋にある「奄美大島要塞司令部跡」碑。
大島海峡防備のため設置された陸軍施設です。
前記事でも触れましたが、手安弾薬本庫跡等、現存するこの要塞の一部が国指定史跡になりました。
画面左端に碑が建立しています。
碑文(全文)
大正九年(一九二〇)古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部が開設され、直ちに大島海峡東口(皆津崎・安脚場)、同西口(西古見・実久)四地点に砲台陣地構築と共に要塞司令部施設工事が着工。後に「太平洋上の防衛制限条約」(ワシントン)が締結され工事は中止の止むなきに至った。大正十二年(一九二三)砲台工事は未完成のまゝ奄美大島要塞司令部は、現在地に開庁された。以来、要塞司令官以下各砲台監視員・所要兵科要員が常駐した。この時同時開設された父島、膨湖島要塞と共に、日本三大要塞として国防第一線を担った。以来要塞地帯法・軍紀保護法等の施行により一般住民の日常生活にも制約を受けるに至った。昭和十六年(一九四一)大東亜戦争勃発、大島海峡は南進基地と化し、艦船や戦闘機の発着が激化、海峡両岸各地には三軍の防備部隊が駐屯、沖縄作戦と共に敵機は要塞司令部を目標として間断なく来襲、同司令部も遂に古仁屋市街地と共に被爆、周囲の塀に無数の弾痕を残し終戦となった。
こゝに由来の一端を記し後世に伝承する。 平成三年秋 瀬戸内大正会
鹿児島県・奄美大島要塞司令部跡
奄美大島要塞司令部跡 データ
設置管理者:陸軍
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋399-1
座 標:28°09'05.2"N 129°18'43.1"E
(座標は碑の位置。グーグルアースから)
沿革
1920年 古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部開設
1923年 奄美大島要塞司令部開庁
1941年 大東亜戦争
1945年 終戦
1991年 碑建立
関連サイト:
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この記事の資料:
現地碑文
鹿児島県・手安弾薬本庫跡
2024年4月訪問
鹿児島県奄美大島南端、手安にある「手安弾薬本庫跡」。
前記事の古仁屋基地から車で約2kmの場所にあります。
当「手安弾薬本庫跡」と、「西古見砲台跡」、「安脚場砲台跡」の三か所が「奄美大島要塞跡」として、
2022年12月に国指定史跡に指定されました。
当施設については、良質のサイト様が多数ありますので、詳しくはそちらをご覧いただくと良いと思います。
説明板:旧陸軍弾薬庫跡(全文)
この弾薬庫跡は、旧陸軍により昭和七年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒態勢がとられていたため地元民は この壕の存在すら知らなかった。
終戦により、武装解除とともに大量の弾薬が運びだされ、当地沖の大島海峡にすてられて、初めて弾薬庫という事がわかった。
この施設の内部は網の目に組まれた鉄骨を厚いコンクリートで固め、さらに銅板を張りめぐらせ空気が漏れないように、又、湿気防止のため周囲は空間を設け風圧に耐えるため二重壁の構造になっているなど、当時の弾薬庫としては珍しく規模、構造とも日本で最も優れた施設であったと言われている。
(字が欠けている部分は、あちこちのサイト様に掲載されている当説明版の古い写真から補いました)
内部の写真をずらずらと並べますが、なんのこっちゃか分からなくなるので。
動きとしてはこんな感じで、入口から入って、出口から出ました。
ではさっそく。
この写真からだとよく分らないですが、上述の説明版にある通り、弾薬庫が二重構造になってます。
もっとパシャパシャ撮っとけば良かった。
こちらに立て掛けてあった見取図を活用させて頂きましたm(_ _)m
通路を通って第二弾薬庫に行きます。
この写真だと、その厳重で手の込んだ二重構造が伝わりますかね。
説明版によれば、昭和7年完成とのことで、100年近く昔のものです。
ただただ驚くばかりです。
出た。
電気を消して帰ります~。
鹿児島県・手安弾薬本庫跡
手安弾薬本庫 データ
設置管理者:陸軍
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安540
座 標:28°09'26.9"N 129°17'57.2"E
標 高:47m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1931年 この頃建設
1945年 終戦
2022年 国指定史跡
関連サイト:
瀬戸内町/手安弾薬本庫跡■
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この記事の資料:
現地の説明版
九州の戦争遺跡
鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年1月訪問
鹿児島県奄美大島の南端に海軍の「奄美大島水上基地(古仁屋基地)」がありました。
この記事作成に当たって、鹿児島のこういちさん、地元図書館の学芸員さんに大変お世話になりました。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
先頭のグーグルマップは、「せとうちなんでも探検隊/須手」■ から作図させて頂きました(これが一番詳細だった)。
■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100
十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として整備が進められた。
施設名 奄美大島
工事要領等 古仁屋基地現工事を極力促進す
(滑走台新設を含む)
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行
防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
位置 鹿児島県大島郡古仁屋
基地名 奄美大島水上基地
建設ノ年 1940
飛行場 80x40 60x15 混木
格納庫 1,800㎡
収容施設 士官 50 兵員 150
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
隧道並に地下施設 〇(施設あるも数量不明)
掩体 〇(施設あるも数量不明)
■名瀬市史 下巻
62p
大島の要塞とその重要性 日本海軍の戦略からいって、南西諸島の役割として、二つのことが考えられていた。その一つは、艦隊の前進基地としての役割、すなわち迎撃戦の場合、主力の前進基地として、大島の薩川湾が考えられていた。これはのちには、トラック島に変わることになる。今一つの役割は、海上交通上の要地という考え方である。南西諸島は、南方からの重要物資の輸入や、補給作戦などにおいて、南方航路の哨戒や護衛のための中間基地として、重要であると考えられていた。
63p
十九年十月十日、空母十七隻を基幹とした米機動部隊の延一四◯◯機による南西諸島の空襲は、空の威力をまざまざとみせつけられた。海軍は、古仁屋の須手の航空基地の滑走台新設、喜界に小型機約五◯機分の秘匿所工事を、二十年二月完成をメドに、指令した。陸軍も、十八年、徳之島に機動用飛行場の建設に着手した。
66p
近海における戦闘は、昭和二十年(一九四五)3月ごろ米機動部隊が接近してきてから、航空隊による索敵および攻撃がなされている。三月二十五日には、喜界空港から天山五機が発進し、米戦艦二隻に夜間雷撃を加えている。二十六日、第一機動(中継)基地航空部隊指揮官は、喜界基地使用を有利と認め薄暮、七◯一空司令を基地司令官として、彗星一八機・天山五機を率い、同島に進出させている。そのうち、天山五機は二十七日◯時発進し(未帰還二)、彗星一二機は五時三◯分発(未帰還九)となっている。4月十一日には、本島南方にある機動部隊へ、爆戦五◯機・彗星九機が攻撃を加え、空母二隻・艦船三隻に被害を与えたが、二五機が未帰還となっている。4月二十五日には、古仁屋からも、瑞雲三機が沖縄周辺艦船攻撃に飛び立っている。このように奄美諸島近海では、終戦まで毎日のように、米機動部隊と日本特攻隊との激戦が展開されていたのである。
施設跡・1
ということで現地にお邪魔してきました。
現在は埋立が進んでいますが、当時は道路隔ててすぐ浜辺でした。
山を削って平地を確保したんでしょうね。
当時は基地の施設が立ち並んでいた場所ですが、現在はガス会社等の敷地になっています。
紫マーカー地点。
海軍航空隊古仁屋基地跡碑。
須手二本松公園の道路側にあります。
平成三年九月 海軍航空隊古仁屋基地跡 瀬戸内町大正会之建
碑文 この須手地内は大東亜戦中旧日本海軍航空隊唯一の南進中継基地として前線に匹敵する役割を果した戦跡の地である 平成三年九月
施設跡・2
ここも基地当時、諸施設があった場所です。
ここで海側を振り返ると、
こんな感じ。
海沿いの脇道がありますね。
入り口の形状はなだらかに変わりましたが、この脇道は当時からありました。
この脇道を進んでみます。
施設跡・3
この建物は当時の詳細な地図に描かれた地割と一致しています。
施設跡・4
このスベリは、基地当時の地図には無いので、戦後に建設されたと思うのですが、
防波堤?の沖に向って伸びる部分は、一部が当時の地図に出ています。
画面右側、「立入禁止」「遊泳禁止」2枚看板が並んでます。
ここでカメラを右に振ると、
こんな感じ。
砂浜は、「立入禁止」の看板のあるコンクリが立ち塞がる向こう側があり、
この場所からこれ以上西に進めないっぽいので、施設跡(と思われるもの)を撮りつつ、県道に出ることに。
施設跡・5
県道に出て、一気に150m位西に進みました。
先頭のグーグルマップで見た方が早いのですが、ここから山奥に向って、
かなりの数の施設が立ち並んでいました。
が、山の方へは行かず、ここで左折して海の方に向います。
例によって施設跡(と思われるもの)を撮りつつ進みます。
東京大学医科学研究所 奄美病害動物研究施設
ハブ実験飼育中に付ききけんですから入ってはいけません
「古仁屋基地跡地は現在東大の施設になっている」的な説明をしばしば目にしました。
いよいよ中枢に踏み込みます!<(`・ω・´)(入ってないけど)。
これは先程の東大施設内を外側から撮ったのですが、
第四塁
品名 第二石油類(JIS2号軽油)
最大数量 三九〇立
少量危険物貯蔵取扱所
火気厳禁
とあります。
灯油貯めてあるみたいですが、コンクリのこの質感からすると、基地当時の施設を流用しているような…
施設跡・7
中枢の西の端っこに来ました。
基地当時の地図からすると、ここは中枢の敷地外のため、このスベリは当時からあったとしても、
水上機が使用したものではないはず。幅も狭いですし。
以下この周辺をずらずらと。
中枢側。
水上機用の滑走台跡です。
施設跡・8
赤マーカー地点。
当時はここに滑走台があり、日常的に水上機が使用していました。
鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地
奄美大島水上基地(古仁屋基地) データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安
座 標:28°09'00.3"N 129°18'01.7"E
滑走台:80x40 60x15 混木
(座標はグーグルアースから。滑走台長さは防衛研究所収蔵資料から)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の碑文
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」
名瀬市史 下巻
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
鹿児島県・旧奄美空港跡地 [├国内の空港、飛行場]
2024年1月訪問
撮影年月日1984/05/10(昭59)(KU843X C5 16)■
撮影年月日1990/12/25(平2)(KU905X C19 11)■ 廃港から2年後。滑走路にXマーキング
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
奄美群島復興振興事業により、総工費1億9千万円で着工したもので、1964年開港。
1988年、北東約2kmに新空港が開港するまでは、ここが奄美大島の空の玄関でした。
現在、滑走路の南側とエプロン、ターミナル等は奄美パークとして整備されています。
■航空振興(1970年発行)
空港紹介/再拡張計画が要望される奄美空港(一部抜粋)
開港当初は東亜航空のコンベア240による鹿児島-奄美-徳之島間、ヘロン機による鹿児島-喜界-奄美間各1便であったが、40年7月に全日空がF-27により鹿児島-奄美-沖縄間週2便正式運行するようになり、このため41年4月1日小さいながらも"国際空港"になった。その後旅客の増加にともない増便、また機種も両者ともYS-11に変更、現在の定期便は東亜航空が鹿児島間3便、徳之島間2便、沖永良部間、喜界島間各1便、全日空が鹿児島-奄美-沖縄間週6便となっているが、各便とも利用率は比較的高く、特に奄美-鹿児島間は盛況で、オフシーズンの場合でも捌ききれない現状である。これら定期便のほか自衛隊機、使用事業機、自家用機等の飛来も多く、それに台湾、フィリピン等の中継基地としても活用され、離島空港としては大変な繁盛ぶりで、42年に拡張されたエプロンも、すでに狭隘になり再拡張の要望が強い状況である。
当空港は北緯30°以南にあるため、沖縄FIRに属し管制指示は、すべて米軍が運営する沖縄ACCから受けており、また徳之島、沖永良部、喜界各空港の管制指示、管制通報など管制上の業務については、当所がカバーするという特異な業務形態にあるため、運用にあたる職員のはかりしれぬ労苦は並々ならぬものがある。
問題点
離島空港は地形上との制約から、いずれも幾多の問題を抱えているようであるが、当空港も悩みは多い。その一つに着陸帯両端の急勾配がある。特に02側は急勾配表示はしているが、10m余の断崖で、その下は県道を隔てて
サンゴ礁の隆起した海になっており、気流の乱れも激しく危険なため、早くから緩勾配実施の要望が出されているが、延長問題ともからんで早急な実現は困難のようである。(以下略)
奄美大島の空の玄関として賑わう奄美空港
タクシーが並ぶターミナル周辺
南海日日新聞社, 沖縄グラビア社 編『新奄美大観』,南海日日新聞社,1970.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9774504 (参照 2024-05-14)上2枚とも
『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)
赤マーカー地点。
ここが滑走路の南側の端っこで、ターニングパッド跡の辺りから滑走路方向。
前述の「航空振興」で問題点として挙げられていた箇所です。
高低差ができてますが、当時の滑走路はあの高さだったのではないかと。
あの高い所に移動してみます。
青マーカー地点。
移動してきました。
R/W02エンド付近から海方向。
こんな急勾配ギリギリに滑走路端があると、気流が乱れて上手く飛べないのですね。
某ヒロインもここに着陸する時はユパ様に運んでもらうのかしらん。
黄色マーカー地点。
野外ステージ上から。
ここから奥にあるあの白い施設に向って真っすぐ滑走路でした。
灰マーカー地点。
当時はこの辺りから、ターミナル、駐車場エリアが広がってました。
黒マーカー地点。
当時はここから奥に向ってエプロンでした。
紫マーカー地点。
展望台。
(*´∀`*)
立入できないエリアなのですが、滑走路面が見えます。
この黄色のラインは、一応滑走路のつもり。
当時の航空写真と比較すると、奥の野外ステージの辺りから、白くて丸い施設を通過しているはずなので、
多分こんな感じだったのではないかと思います。
鹿児島県・旧奄美空港跡地
旧奄美空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県大島郡笠利町
標 点:28°24′55″N 129°41′55″E
標 高:23.3m
面 積:18.62ha
着陸帯:1,360mx90m
滑走路:1,240mx30mアスファルト
方 位:02/20
(データは航空統計年報 昭和37年から。方位は航空写真から)
沿革
1961年11月 30日 空港設置許可(旧空港)
1964年03月 17日 第3種空港政令指定
06月 1日 供用開始(R/W1,240m×30m)
07月 ターミナルビル供用開始。東亜航空が鹿児島線、徳之島線開設
1965年02月 東亜航空が喜界線開設
03月 全日空が鹿児島線、沖縄線開設
1967年 単車輪荷重8.5tまで着陸可能に補強
1972年02月 東亜国内航空が沖永良部線開設
1982年09月 3日 空港設置許可(新空港R/W2,000m×45m)
1983年12月 東亜国内航空からの路線移管により日本エアコミューターが喜界、徳之島、沖永良部、与論線開設
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)
2001年09月 30日 奄美パーク開園
関連サイト:
鹿児島県/奄美空港■
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この記事の資料:
航空振興(1970年発行)
航空統計年報 昭和37年
全国空港ウォッチングガイド
鹿児島県・奄美空港 [├国内の空港、飛行場]
2024年4月訪問
撮影年月日1983/11/03(昭58)(KU831Y C2 20)■ 新空港設置許可から1年。開港まであと4年8ヵ月
撮影年月日1996/02/12(平8)(KU953X C17C 11)■ 開港から7年7ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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鹿児島県奄美群島最大の島、奄美大島。
その奄美大島の北東部、リーフ上に奄美空港があります。
元々は南西約2kmに旧空港があったのですが、1988年の現空港開港により、ジェット化を果たしました。
国内主要都市空港と奄美群島各空港とのハブ空港としての機能を果たしています。
【奄美空港 建設】等のワードで図書目録を見ると、
上述の通り新空港の滑走路はリーフ上に建設されたため、反対運動が起こったこと、
またエプロンやターミナル、駐車場周辺には多数の遺跡が存在することから、発掘調査が実施されたこと
等出てきました。
鹿児島県・奄美空港
ビュー:☆☆☆☆★
屋上に広々とした無料展望デッキあり。
滑走路側は高いフェンスが張られているが、細長い窓が設けてあり、エプロン、滑走路全域見渡せる
施設:☆☆☆☆★
ターミナル前に無料駐車場あり
分かり易いターミナル。ファミレス、各種売店あり
マニア度:☆☆☆★★
周辺は撮影スポットに恵まれている
総合:☆☆☆☆★
奄美群島と本土を結ぶハブ空港
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県奄美市
標 点:北緯28度25分51秒東経129度42分45秒
標 高:4.2m
面 積:109.6ha
着陸帯:2,120m×300mC級
滑走路:2,000m×45mLA-12
方 位:03/21
誘導路:2,383m×23~30m
エプロン:331.5m×190m(MJ-1,SJ-2,プロペラ-3,大型ヘリ-1)
駐車場:241台
照明施設:精密進入用灯火1式
無線施設:VOR/DME,ILS
運用時間:8時00分~19時30分(11.5時間)
(主に県公式サイトから)
沿革
1982年09月 新空港設置許可
1983年 この年から遺跡調査実施
1985年07月 新空港の航空灯火設置許可(CAT-1)
1987年04月 新空港の空港施設変更許可
05月 新空港の航空灯火変更許可
09月 新空港の航空灯火変更許可(PAPI)
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)、航空灯火供用開始(1期夜間照明,PALS420m)
日本エアシステムが鹿児島線ジェット化
1989年07月 24日 航空灯火変更許可(転回灯,SALS)
09月 21日 航空灯火供用開始(2期PALS900m)
1990年07月 1日 空港施設供用開始(2期着陸帯150m→300m) 航空灯火供用開始(3期CAT-1)
1992年12月 日本エアシステムが東京線を開設(MD-81)
1993年03月 2日 空港施設変更許可(A/P拡張等の変更3~4期) 航空灯火変更許可(4~4期)
1994年09月 日本エアシステムが関西線を開設
1995年02月 21日 航空灯火変更許可(R/W灯等)
06月 22日 空港施設供用開始(3期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(4期平行T/Wに伴う)
11月 エアーニッポンの鹿児島・那覇線が全便ジェット化
1996年05月 23日 空港施設供用開始(4期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(5期平行T/Wに伴う)
1997年05月 22日 航空灯火供用開始(R/W灯等)
1998年12月 日本エアシステムが関西線休止、伊丹線開設
1999年02月 エアーニッポンの那覇線休止。琉球エアコミューターが那覇線開設
2004年12月 6日 航空灯火変更許可(高輝度誘導案内灯)
2005年06月 30日 空港施設変更許可(A/P拡張) 航空灯火変更許可(A/P拡張に伴う)
2007年09月 27日 空港施設変更供用開始(A/P拡張) 航空灯火変更供用開始(A/P拡張に伴う)
2009年08月 18日 航空灯火変更許可(CCR用無停電電源装置)
2011年04月 7日 航空灯火変更供用開始(CCR用無停電電源装置)
2016年09月 7日 航空灯火変更許可(SALS光度変更)
関連サイト:
空港公式サイト■
鹿児島県/奄美空港■
航空局/奄美空港■(38コマ)
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全国空港ウォッチングガイド
鹿児島県・喜界空港 [├国内の空港、飛行場]
2024年4月訪問
撮影年月日1965/06/08(昭40)(MKU653X C21 2)■ 町営飛行場として開港から6年。1,080mx30m
撮影年月日1977/10/22(昭52)(CKU776 C46 3)■ 1,200mx30m舗装化から9年後
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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鹿児島県喜界島にある「喜界空港」。
島の西部北岸に位置しており、海軍の喜界航空基地跡地を整備して建設されました。
運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22)
奄美群島が日本に返還されたのは、1953年12月24日のことでした。
その直後の奄美群島の飛行場について、現状と要望が記されています。
戦時中、奄美群島にあった陸上飛行場は、
日本陸軍が建設した「徳之島飛行場」、そして日本海軍の「喜界航空基地」の2つだけでした。
どちらも破壊され、現在は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付けられているとあります。
台風の際、ひどいと1ヵ月もの間孤立してしまうため、
要望として、緊急輸送用に軍用飛行場跡地に是非飛行場の再開を、とあります。
この要望記事が出てからおよそ5年後に航空路が開設することになったのでした。
■喜界町誌693p-
(2)喜界空港建設の経緯
喜界島に民間航空路が建設されたのは、一九五九(昭和三十四)年八月であった。その経緯については竹内譲著『趣味の喜界島史』を要約する。
一九五八(昭和三十三)年に中里の旧海軍飛行場を民間旅客機の空港に転用するという航空開設案に沿って、県土木部の港湾係長、大島支庁土木課の港湾係長、鹿児島航空保安事務所の施設課長三名が、一月二十九日に来島し、現地調査を実施した。その結果、県は昭和三十三年度の復興予算の中から、三百九十二万円を空港の整備に支出する方針を固めたところ、大蔵省は奄美復興中央審議会で
・本格的空港は大島本島に造るべき
・喜界飛行場を整備しても、法定の第三種空港には該当せず、国の補助が受けられない
との理由からこれに反対し、県の提案を保留にした。町では七月十日、運輸省・自治省・復興審議会に陳情したが、不首尾に終った。
これにより、同年七月二十九日、町は独力で飛行場の整備に着手した。大島市長からブルドーザーを借り受け、町民・喜界高校の生徒の労力によって工事は進み、その一方で、東亜航空からは鹿児島支社長が来島し、工事の指導にあたった。このような経緯で空港としての環境が整備された。滑走路は長さ百二十㍍、幅五十㍍となり、一面に美しい朝鮮芝が植えこまれた。
町と議会は、町民の熱意と既成事実を関係当局に陳情し、事業費三百九十二万円の補助を得ることに成功した。
①離着陸試験の実施
一九五八(昭和三十三)年八月二十一日、運輸省鹿児島航空保安事務所による初の離着陸試験は、東亜航空の七人乗り双発機ビーチクラフトで行われ、鴨池-喜界島間三百五十㌖を一時間三十八分で飛んだ。航空局では、三十四年五月二十日、七月二十五日の二回にわたり、安全性と設備状況などを綿密に調査し、就航出願中の東亜航空に路線許可を与えた。
②旅客輸送の開始
一九五九(昭和三十四)年八月十日午前十一時十分に県の副議長、土木部長、鹿児島航空保安事務所長、東亜航空会長、同社長らを乗せた一番機が鴨池の上途式場を飛び立った。翌八月十一日から旅客の輸送をはじめたが、運賃は大人片道五千五百円、十二才未満はその三割引きで、一日おきに運行した。また、同年十月一日からは喜界-鹿児島間の空路速達便が開設され、東京には早くて二日で速達が届くようになったが、半年後には廃止された。
(3)その後の喜界空港の変遷
以下の記述は『喜界町町勢要覧』「喜界島」一九九九、『喜界町町制施行四十周年記念誌』「喜界島」、『鹿児島県喜界町広報きかい縮小版 第一巻』等による。
・一九六七(昭和四十二)年九月、空のダイヤ一時休止(空港滑走路延長・整備のため)
・同年十二月、空のダイヤ三か月ぶりに再開
・一九六八(昭和四十三)年十一月、喜界空港舗装整備なる
・一九六九(昭和四十四)年四月、YS11定期就航実現
・一九七一(昭和四十六)年四月、喜界空港第三種空港に昇格
・一九八〇(昭和五十五)年七月一日、喜界-鹿児島線航空直行便就航
・一九八二(昭和五十七)年三月、喜界-鹿児島線航空直行便運休
・一九八三(昭和五十八)年十二月十日、日本エアコミューター(株)の十九人乗りドルニエ機喜界-奄美間に就航、一日五往復
・一九九三(平成五)年七月、喜界空港運用時間延長
・一九九五(平成七)年四月、鹿児島直行便サーブ機就航
・一九九五(平成七)年九月、ドルニエ機の最終飛行(十二年間就航)
・一九九六(平成八)年十一月、鹿児島直行便サーブ機二便体制
・一九九九(平成十一)年七月現在、喜界-奄美間三往復、喜界-鹿児島間二往復体勢で就航中
大蔵省から「喜界島に第三種空港はムリ。補助金出さない」と言われ、各所に陳情に赴くも不首尾となりますが、
「それならば」と町が独力で空港建設して実績を作り、最後は第三種空港にまでしています。
凄いですね(@Д@)
青マーカー地点。
R/W25エンド付近。
遊歩道が整備され、周辺は広々としていますが、滑走路面は見えません。
赤マーカー地点。
R/W07側PAPI
R/W07側エンド周辺。
ランウェイエンドから撮るなら、こちら側からのが良さげですね。
ターミナルと駐車場
黄色マーカー地点。
ターミナル横/エプロン前には、ヒコーキ眺めるのにおあつらえ向きの場所があります。
この東屋敷地の片隅(凄く分かりにくいけどフェンス沿いの奥)に碑があります。
「記念樹」。
裏面には、
「復帰十五周年記念 関西より郷土訪問團訪れる 昭和四十四年五月(一九六九年) 関西奄美会建之」
と刻まれていました。
ヒコーキ眺めながら軽食とかステキやん(*´∀`*)
鹿児島県・喜界空港
ビュー:☆☆☆☆★
展望デッキなし。
フェンス隔ててエプロン目の前に東屋あり。
施設:☆☆☆★★
ターミナル前に無料駐車場あり
非常に小さなターミナル。売店にて土産物、軽食メニュー取り扱い(テーブル席あり)
マニア度:☆☆☆★★
展望デッキはないけど、東屋、滑走路西側エリア等、恵まれた撮影スポットあり
総合:☆☆☆★★
空港について公式に扱っているサイトは、国交省、鹿児島県の「県内の空港」のみ。地元自治体や空港独自のサイトは見当たらず
喜界空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:KKX
4レター:RJKI
所在地:鹿児島県大島郡喜界町
座 標:北緯28度19分17秒東経129度55分41秒
標 高:4.65m
面 積:20.9ha
着陸帯:1,320m×100m F級
滑走路:1,200m×30m LA-4
誘導路:90m×18m
方 位:07/25
エプロン:78m×50m(プロペラ-1)
駐車場:81台
照明施設:昼間着陸用灯火1式
無線施設:RAG
運用時間:8時30分~18時30分(10時間)【4月1日~9月30日】
8時30分~17時30分(9時間)【10月1日~3月31日】
(主に県公式サイトから)
1945年08月 15日 終戦。喜界航空基地は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付け
1953年12月 24日 本土復帰
1958年01月 29日 現地調査。大蔵省、海軍飛行場を民間空港に転用とする県の提案を保留
07月 10日 町、運輸省・自治省・復興審議会に陳情したが、不首尾
29日 町、独力で飛行場(120mx50m)を整備し、関係当局から補助金獲得
08月 21日 運輸省鹿児島航空保安事務所、離着陸試験実施(東亜航空のビーチクラフト機)。
1959年02月 6日 飛行場設置許可申請(喜界町管理)
05月 20日 航空局、安全性と設備状況等の調査実施
07月 25日 航空局、安全性と設備状況等の調査実施。その後東亜航空に路線許可
08月 10日 供用開始(R/W1,080×30m未舗装)。鴨池から1番機。翌日から旅客輸送開始
10月 1日 喜界-鹿児島間の空路速達便開設(半年後に廃止)。
1965年07月 12日 空港設置許可
1967年09月 滑走路延長・整備のため空のダイヤ一時休止
12月 空のダイヤ再開
1968年05月 1日 供用開始(R/W1,200×30m未舗装)
08月 12日 空港施設変更許可(滑走路舗装)
08月 26日 供用休止(S43年8月26日~43年12月27日)
12月 28日 空港施設変更供用開始(R/W1,200×30m)
1969年04月 YS-11型機、定期就航
1971年04月 1日 第3種空港政令指定
1974年07月 26日 設置者の地位の承認許可(喜界町→鹿児島県)。喜界島空港から喜界空港に名称変更
1975年08月 30日 航空灯火設置許可(昼間照明)
1976年08月 1日 航空灯火供用開始(昼間照明)
1980年07月 1日 鹿児島線直行便就航
1982年03月 鹿児島線直行便運休
1982年05月 29日 航空灯火変更許可(予備電源)
1983年06月 29日 航空灯火変更供用開始(予備電源)
1983年12月 10日 日本エアコミューター、ドルニエ機(19人乗)による奄美線就航。1日5往復
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI)
07月 運用時間延長
1995年04月 鹿児島直行便就航(サーブ機)
1996年11月 鹿児島直行便2便化(サーブ機)
関連サイト:
鹿児島県/喜界空港■
航空局/喜界空港■(39コマ)
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現地の碑文
喜界町誌