中部・4 [■旅行記]
Ⓐ道の駅 ヘルシーテラス佐久南→Ⓑ自宅
4日目
2:55 起床
3:25 道の駅 ヘルシーテラス佐久南 出発
本日は土曜日。
親とは別々に暮らしてるオイラだけど、土曜日には決まりがある。
毎週土曜日の朝6時過ぎに母から買い物リストの電話があり、
3時からやってるストアで買い物をして、7時頃から実家で一緒に朝食なのだ。
何食わぬ顔でこのルーティーンに乗れれば、
車中泊などして遊び惚けていたことがバレずに済むという寸法だ。ぐふふ(悪人顔)
弟からも「ま~たスナフキン生活再開ですか。羨ましいご身分で。クスクス」とかチクチク言われそうだし。
イザとなれば途中から高速使おうか。とも思っていたけど、このまま下道で間に合いそう。
早目に戻れれば、買い物前に給油や自宅で荷降ろししようかとも思ってたけど、
そこまで時間はなさそう。
結局、道の駅 ヘルシーテラス佐久南から実家近くのストアに直行。
店舗駐車場に車を停め、母から電話が来るまで仮眠しようとシートを倒した瞬間、
着信がΣ(゚Д゚;)
監視カメラでも仕込まれてるんか。
買い物して実家で朝食採ってたら、「アンタ、どっか行ってたの?」と出し抜けに問われた(@Д@)
バレてしまったらしょうがない。
正直に白状しました。
「あ、あー、そういえば、お土産があるんだった。うっかりしてたや」
車に(本当はお客さん用に買ったお土産を)取りに行ったのでした。
出発前の言動が怪しかったらしいデス。
洗い物して実家を後にし、給油して、買い物して、自宅に戻ったのでした。
ということで、3年前に購入したフィット4でやっと車中泊ができたのでした。
■道の駅での車中泊論争
ところで車中泊といえば、自粛期間中に「人混みが避けられるレジャー」ということで、
キャンプ、それから車中泊が注目されてました。
コロナ以前から道の駅での車中泊については、マナー違反が多々報告されており、
ハッキリと「車中泊禁止」を打ち出す道の駅も出現しており、
「罰金5万円」を謳う道の駅まで登場する始末(XДX)
(オイラが以前利用させて頂いた北海道の某道の駅もハッキリ「車中泊厳禁」になってた)
道の駅での車中泊はOKなのかNGなのか。
道の駅を管轄する国交省公式サイト内に見解が出ていました■
休憩施設「道の駅」
質問
「道の駅」駐車場での車中泊は可能ですか?
回答
「道の駅」は休憩施設であるため、駐車場など公共空間で宿泊目的の利用はご遠慮いただいています。
もちろん、「道の駅」は、ドライバーなど皆さんが交通事故防止のため24時間無料で利用できる休憩施設であるので、施設で仮眠していただくことはかまいません。
「車中泊は可能ですか?」と設問しているのですが、自らの設問に対し、
「車中泊は可能です」
「車中泊は不可です」
という直接的な回答をしていません。
宿泊はNG
仮眠はOK
というのが国交省様の公式見解ですが、
じゃあ、何が「宿泊」に当たるのか、どんな状態が「仮眠」になるのか、
結局のところ車中泊はドッチなのか。
こういう場合、「書き手の気持ちになって考えればわかる」とかよく言われますが、
日本語弱いオイラは、国交省様が車中泊をどう見なしているのか、
国交省様の気持ちがイマイチ分からないです(〃__)σ
いろいろググってみると、イマイチ分からなくて困ってしまったのはオイラばかりではなかったです。
「宿泊」と「仮眠」の定義を巡って全国各地の道の駅、地元観光協会で解釈が様々分かれてしまい、
車中泊を容認する道の駅がある一方で、
「国交省がこういう公式見解なので車中泊はダメです」とか、
「国交省がこういう公式見解なので、これこれに該当する車中泊はダメです」
等、対応もバラバラになってしまいました。
これは利用者側についても同様で、
「道の駅で車中泊できるに決まってる」vs「ダメに決まっている」
で激しい議論が巻き起こってました。
例えば…
「運転席を倒して寝るのが『仮眠』。後部座席をフラットにして寝たら『宿泊』」
「数時間寝るのが『仮眠」。6時間も7時間も寝たら、そんなのもう『仮眠』じゃない」
「深夜になってから道の駅に入り、日が昇る前には出ていく。これが正しい『仮眠』」
「サンバイザーならともかく目かくし使うなんて『仮眠』じゃない。これは立派な『宿泊』に該当する」
「キャンピングカーは『動く宿泊施設』だからダメ」
「車内で寝具を使用したら『宿泊』に当たるからダメ」
「マットレス、寝袋、布団、毛布は寝具に当たる。道の駅でそういうものを使った瞬間、それは『宿泊』行為」
「タオルケットだけならギリOK」
などなど。。。
そんな中、国交省に直接取材して車中泊の是非を確認する方がおられます。
行動力m(_ _)m
取材の結果、ざっくり「(マナーを守れば)車中泊しても構わない」というのが国交省の見解のようなのですが、
それでも反対派との間で現在でも議論は続いているようです。
そうやって直接確認した事実をもって、道の駅や地元観光協会に直接交渉した結果、
「車中泊禁止」を撤回する道の駅もあります■■
国交省の公式見解をどのように解釈するか、いろいろググって賛否を確認した結果、
オイラ個人としましては、「道の駅での車中泊はOK」と判断しております。
まあ、車中泊を敵視する方がいるのも分かります。
マナー違反の多い道の駅では、地元の方にとっては毎日被害を被る訳ですからね。
オイラもマナー違反者のバカ騒ぎでちっとも寝れず、
翌日以降の行程がボロボロ。というひっっっっっどいメに何度か遭遇してます(ー"ー;)
オイラの車中泊旅行は毎回、その日ドコまで進めるのかまったくわからず、
暗くなってきて、「もう今日は撮影できない」となってから、
次の見学ポイント近くに道の駅はないかな。と行き当たりばったりで探すのが常。
ですので、ドコの道の駅を利用するのか、その時になってみないと分かりません。
夜遅くやっと辿り着いた道の駅が「車中泊厳禁」を謳ってたら悲し過ぎです。
ということで今回の旅行では、「今夜はココの道の駅で車中泊しよう」と決めたら、
その道の駅について、スマホで車中泊事情についてチェックしてから向かうようにしました。
オイラも含めてですが、道の駅で車中泊する側も、何がNG行為なのか、
まだ道の駅の使い方が定着してないというのが大きいのかも。
道の駅のトイレ周辺には、何がNGかについて貼りだされていることが多いです。
その1つ1つは、地元の方、施設側からの切実な声。
利用させて頂くからには、せめて掲示されている内容は厳守しようと思います。
国交省の車中泊に対するスタンスは、今のところ容認ですが(容認だとオイラは思ってる)、
道の駅での車中泊による余りに酷いトラブルが今後も続き、被害報告が国交省に続々届くようだと、
国交省様の公式見解がガラリと変わることだって、十分あり得ます。
双方にとって気持ちの良い利用方法が定着することを切に願います。
今回の中部旅行記はこれで終わりです。
お付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m
本日の走行距離:141km
総走行距離数:1,537km
総燃費:30.07km/L
過去記事見返してみたら、初代フィットは北海道周っても20km/L
フィット3は22km台でした。
ハイブリッド凄いですね(@Д@)
(もう続かない)
福井県・亀山防空監視哨跡 [├場所]
2023年5月訪問
福井県大野市亀山山上にあった「亀山防空監視哨」。
当監視哨について、大野市の公式サイトに紹介されていましたので、
詳しくは下のバナーからご覧ください。
でも監視哨についての案内、説明板は特に見当たりませんでした。
登って登って一番上にありました。
福井県・亀山防空監視哨跡
亀山防空監視哨 データ
所在地:福井県大野市城町3-109
座 標:35°59'N 136°29'E
標 高:249m
(座標、標高は現地銘板から)
沿革
昭和20年代前半に埋められる
関連サイト:
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中部・3 [■旅行記]
Ⓐ道の駅 九頭竜→Ⓑ亀山防空監視哨→ⓒ千石平場外離着陸場→Ⓓ小松空港→Ⓔ能登空港→Ⓕ柳瀬飛行場跡地→Ⓖ富山空港→Ⓗ松本空港→Ⓘ道の駅 ヘルシーテラス佐久南(車中泊)
3:20 起床
昨晩は気がつかなかったのですが、ここは越美北線の九頭竜湖駅前がそのまま道の駅になってる感じでした。
ホームにちょっと出てみたのですが、終着駅で線路が途切れてました。
終着駅ってなんか良くないですか?
大好物です。
明るい時間帯に見れないのが残念。
4:05 道の駅 九頭竜出発
足場の悪い場所をうろついてる時に足首をひねってしまいました(XДX)イタタ
なんでいつもいつもペダル操作をする右足をやっちゃうのか(ー"ー;)
そんなに大したことなさそうなので、まあ大丈夫。
それから、防空監視哨に続いて千石平場外離着陸場も無事見学することができました。
この2ヵ所はちゃんと行けるかどうか、全くわからなかったので、もー嬉しくて嬉しくて(;´Д⊂)
どう考えてもこのままでは自宅まで燃料足りないので、この後のルートから距離出して、
極力安い場所で入れとこうと市街地で給油することに。
実はこの日は、石川県珠洲市で最大震度6強の地震が発生した日でした。
この時オイラは震源地から約90km離れた富山空港の近くにいました。
富山空港の見学を終え、この後どうやって松本空港に移動しようか、カーナビを操作している最中でした。
後で確認したら富山は震度3だったのですが、
スマホから鋭い音が鳴り響いた直後、結構揺さぶられました。
まさかあんな被害が出ることになるとは……
今回の旅行では極力高速は使わないつもりで、ここまで通った有料道路は、
セントレア(片道180円)のみでした。
富山空港から松本市の進路上には飛騨山脈があり、大きく迂回を強いられます。
下道を利用すると、松本空港に着く頃には薄暗くなってしまうため、
明朝明るくなるまで松本空港周辺で待機する必要があるのですが、
中部縦貫自動車道(550円)を利用したおかげで余裕で明るいうちに着けました。
ありがたや。
空港でお土産をたんと購入。
今回の見学ポイントはこれで全て見ました。
後は自宅に戻るだけ。
20:15 道の駅 ヘルシーテラス佐久南到着。
20:40 寝
(おやすみなさい)
本日の走行距離:590㎞
今回お邪魔した場所のうち、
「亀山防空監視哨」は次の記事でアップしますが、
それ以外は、前回撮る位置を間違えてたので撮り直しとかそんなでしたので、
既存の記事に追記しています。
興味のある方はそちらをご覧くださいませ。
千石平場外離着陸場■
小松空港■
能登空港■
柳瀬飛行場跡地■
富山空港■
松本空港■
(続きます)
愛知県・稲永新田の水上機飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問 2023/8更新
1/25000「蟹江」大正9年測図・大正13.7.30発行「今昔マップ on the web」より作成
鹿児島のこういちさんからのご指摘で、記事を全面的に修正しました。
詳しくはコメント欄をご覧ください。鹿児島のこういちさんありがとうございましたm(_ _)m
愛知県名古屋市港区には大正時代、愛知時計電機の水上機飛行場がありました。
資料:A 報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-05-11)(183コマ)■
これは国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正15年」
「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」の一部。
資料:B 報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-05-11)(225コマ)■
もう1つ、こちらも同じく国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑.大正16年」
本邦民間飛行場調〔大正15.8〕の一部。
時期 | 管理人 | 使用者 | 種類 | 位置 | |
資料:A | 大正14.8 | 愛知時計電機株式会社 | 水上 | 名古屋市南区稲永新田地先名古屋港水面 | |
資料:B | 大正15.8 | 青木鎌太郎 | 水上 | 名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内) |
2つの資料をまとめるとこんな感じ。
資料:Bの使用者である青木鎌太郎氏は愛知時計電機の社長さん。
そして位置については、「名古屋市南区稲永新田地先」まで同じ。
このことから、この2つの資料は同一の飛行場を指していると思います。
ではドコにあったのか。
ということになるのですが、残念ながらネットではこれ以上の情報がないため、
オイラの独断で探すことになりますのだ。
資料にある位置情報としてそれぞれ、
・名古屋市南区稲永新田地先名古屋港水面
・名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内)
とあります。
上に貼った大正9年測図の地図に大きく「區南」とある通り、
当時ここは名古屋市南区だったのですが、名古屋市南区は昭和12年に港区になります。
そして当時この周辺は広く「稲永」でした。
ということで、この辺りの海面が離着水エリアに設定されていたのではないかと。
車道部分を含め、道路の右側は当時海でした。
この道路の右側から沖に向って離着水エリアだったと思うのですが…
愛知県・稲永新田の水上機飛行場跡地
稲永新田の水上機飛行場 データ
設置管理者:青木鎌太郎
種 別:水上飛行場
所在地:名古屋市南区稲永新田地先(名古屋港内)
座 標:35°05'17.5"N 136°52'09.6"E
(座標はグーグルマップから)
沿革
1925年 この頃愛知時計電機の水上機飛行場があった
関連サイト:
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愛知県・築地の水上飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問
①1/25000「蟹江」大正9年測図「今昔マップ on the web」から作成
②1/25000「蟹江」昭和7年修正「今昔マップ on the web」から作成
③1/25000「蟹江」昭和13年三修「今昔マップ on the web」から作成
この水上飛行場の正確な所属/名称が不明のため、
便宜的に「築地の水上飛行場」として以下話を進めさせていただきます。
■シリーズ 戦争を考えるための遺跡②◆ 愛知時計電機 殉職者之墓
というサイト様にこんな一文がありました■
「航空機工場は広大な面積を必要とするため、現在の熱田区「千年船方」に新工場が建設されます。大正11(1922)年に飛行機組立工場、機械工場が完成し、格納庫は築地4号地につくられました。」
水上機で名を馳せた愛知時計電機ですが、大正時代から航空機製作に携わっていたのですね。
新工場が建設された熱田区「千年船方」は、上に貼った築地3号地、4号地の北東約4kmに位置しており、
現在も愛知時計電機の工場があります(黒マーカー地点)。
築地3号地、4号地の東側に「中川」若しくは「中川運河」と表記がありますが、
更にもう1本東側に「堀川」という川があって、
熱田区「千年船方」の工場はこの「堀川」の上流沿いにありました。
組立工場で完成した水上機は、堀川を下って築地4号地の格納庫に運ばれたのかも。
また、格納庫があるのが砂浜なら、砂浜が天然のスリップとして使えるかもしれませんが、
ここは埋立地であり、「愛知永徳スリップ跡」のようなものも見当たらないため、
海上からやってきた水上機は、山口県の仙崎水上飛行場■ みたいに、
クレーンで引き上げて格納庫に運び入れたのだと思います。
4号地の格納庫がいつ完成したかについての直接的な記述はありませんが、
文脈からすると新工場が完成した同年か、それほど時を経ずして完成したと受け取れます。
上に貼った3つの地図のうち、先頭の①は大正9年測図です。
格納庫が完成したのは早くても大正11年ですから、地図上にも当然まだ何もありません。
で、次に閲覧可能な地図は②昭和7年の地図で、一気に12年も飛んでしまいます。
②昭和7年の地図で格納庫が作られたはずの4号地を見ても、特に「格納庫」的な記載はありませんが、
代わりに「水上飛行場」とあります。
更に、次に閲覧可能な③昭和13年の地図では、「水上飛行場」が消え、
今度は3号地に「飛行機製作所」が出現しています。
築地3号地、4号地から荒子川挟んで西隣に「稲永新田」があるのですが、
この稲永新田地先には、大正14年に愛知時計電機の水上機飛行場があります(次の記事で登場します)。
またこの後、同社はすぐ近くに永徳工場という巨大な工場を建設するなど、
周辺はすっかり「愛知時計電機王国」と化しています。
冒頭述べた通り、上に貼った地図上の「水上飛行場」、「飛行機製作所」の正式名称/所属について、
地図からは不明ですが、
地図上に飛行機関連施設が登場する時期と場所が愛知時計電機のこの地区への進出と重なること、
周辺が愛知時計電機王国と化すという状況からすると、
地図上の「水上飛行場」、「飛行機製作所」は愛知時計電機の施設である可能性が高いと思います。
本当はこの橋からこの画が撮りたかったのですが、
ちょっと向きを変えれば分かりますが、ここは停車はおろか、徒歩では来れない場所なのです。
愛知県・築地の水上飛行場跡地
築地の水上飛行場 データ
設置管理者:愛知時計電機?
種 別:水上機飛行場
所在地:愛知県名古屋市港区築地町10
座 標:35°05'24.8"N 136°52'17.1"E
標 高:6m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1922年 愛知時計電機、飛行機組立工場、機械工場完成。築地4号地に格納庫建設
関連サイト:
ブログ内関連記事■
スペースジェットの格納庫(など) [├場所]
2023年5月訪問
もう8年も前の話になってしまうのですが、
(有)オールドマンの旅行代理店 のOLDMAN様からMRJ(スペースジェット)の写真をお送り頂き、
拙ブログにて掲載させて頂いたことがありました■
MRJ開発当時はいつ姿を現すとも知れぬシャッターチャンスをものにするため連日空港に通いつめ、
現在も月に4~5回は小牧に通っておられるのだそうです(@Д@)
ご本人は上には上がと謙遜しておられるのですが、
B727やF86Dの頃から、また返還前の沖縄の頃から撮影を続けてこられた、
オイラにとってはまさに雲の上の存在です。
今回MRJの格納庫を記事にするに当たり、OLDMAN様から様々ご教授頂きました。
おかげ様でこうして記事の体にすることが出来ました。
OLDMAN様ありがとうございましたm(_ _)m
愛知県営名古屋空港(小牧基地)。
空港ターミナルに隣接して、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所 小牧南工場の広大な敷地があります。
事業内容に「航空機の最終組立・艤装」が含まれる通り、
MRJはここで組み立てられ、初飛行、試験飛行を続けていました。
名古屋空港の立体駐車場から。
カメラを右に振ると-
幅150m、奥行130mの巨大な格納庫。
"SPACEJET FINAL ASSEMBLY HANGAR"
直訳すると「スペースジェット最終組立格納庫」となるのでしょうか。
「アッセンブリハンガー」と呼ばれていたのだそうです。
なんとか型式証明取得までこぎ着けていれば、注文を受けたMRJはここで組み立てられ、
続々と世界各国の航空会社に送り出されたはずなのですが…。
(開発中止の発表の際には「型式証明取得まであと2年かかる」としていた)
今年(2023年)2月、MRJの開発中止が正式に発表され、
オイラは「残された機体はどうなるんだろう(´・ω・`)」と心配してました。
そんな中三菱は、4月になって突然「米国に渡った4機は既に全機解体済み」と、
しれっと事後報告で爆弾発言をおかましになったのでした(@Д@)
OLDMAN様からは、
「アッセンブリハンガーには、現在まだ3機の機体が並べて保管されているようです。
ハンガー正面から見て、左右に白無垢の機体でエンジン無し。真ん中はANA塗装の機体が
保管されているようです。」
と教えて頂いていたのですが、その後更に新聞記事をお送り頂きました。
それによれば、6月29日 都内で開かれた三菱の定時株主総会にて
「国内に四機の機体を残しており、どのような形で生かしていくかを検討している」
とありました。
アッセンブリーハンガーの3機については、これだけ具体的な状況が伝えられていますから、
少なくともこの時点ではここに3機あったのだと思います。
もしかして、もう1機は「テクニカルハンガー」(後述)とか別の場所に駐機してたのかしらん。
ともかく、ある日突然「国内に残っていた機体も既に全機解体済み」なんて事後アナウンスされ、
この世からスペースジェットが全て消し去られるとか、そういうのだけは勘弁して欲しいです(;´Д⊂)
振り返ると、
こんな感じ。
片側二車線の道路を隔てて空港敷地内に入れるようになっています。
MRJのアッセンブリーハンガー←→空港間出し入れはここからしていたのですが、
通路を挟んでの横断は夜間、早朝に行っていたのだそうです
(空港近くにお住いのOLDMAN様のお仲間の航空ファンの方からの情報)。
コンクリート舗装の部分は歩道の縁石も中央分離帯もないですね。
MRJの全幅29.2mに対し、
グーグルマップ計測ですが、コンクリート舗装の幅は24m、扉の間口は34m位あります。
OLDMAN様ご本人は、格納庫の扉が開いているところをご覧になったのは、完成した当時ぐらいとのこと。
MRJを格納庫から空港に入れるのは道路横断の関係から、
当分は早朝と夜間のみと当初から聞いておられたのだそうです。
またアッセンブリーハンガーから空港敷地への出し入れが早朝夜間に限られていたのではないかとする
事情として、少々別の話になるのですが、
自衛隊が使用するF-35Aは同小牧南工場内に設けられた「名古屋FACO」にて現在も生産が続いています。
完成した機体の初フライトは米軍パイロットが担当するのですが、
初フライト時、機体の組み立て関係者は朝5時出勤。
アイラン(定期整備)後の機体が朝フライト予定の時も同様。
こうしたことからMRJも同様に、引き入れ作業は早朝、夜間だったのではないか。
とのことでした。
(でも量産が進めば、場所が手狭になって昼間の移動もあるだろうと話しておられたらしい)
オイラが現地にお邪魔した際は、この横断通路しか気がつかなかったんですが、
後日自宅に戻ってからグーグルマップで確認したら、
アッセンブリーハンガーの北側にも道路を挟んで三菱のハンガーがあり、
北東の角付近に横断通路がありました(紫マーカー)。
但し、こちらのコンクリート舗装の幅は15m程度のため、MRJのために設けたのではないと思います。
また、これは正式名称かどうか不明ですが、
「テクニカルハンガー」と呼ばれるハンガーがあって(先頭のグーグルマップ青マーカー)、
テスト中はここに機体を格納しておき、ハンガー前に引き出して飛行前チェックをしていたのだそうです。
ということで、以上頂いた情報でした。
三菱関係者の口は非常に堅く、情報はなかなか外部に伝わらないとのことでした。
以前送って頂いた貴重な写真を改めて掲載させて頂きます。
今回オイラの問い合わせに、わざわざお仲間の方に確認までとって頂きました。
なかなか知り得ない情報をご教授頂いたOLDMAN様とお仲間の方に改めて感謝致しますm(_ _)m
愛知県・三菱小牧南工場
三菱航空機株式会社(現:MSJ資産管理株式会社)は名古屋空港ターミナルビル内に本社を設けていたのですが、2021年3月に退去。2023年8月、本社跡に空飛ぶクルマや産業用ドローンを手がける新興企業2社が活用とのアナウンスがありました。
三菱小牧南工場 データ
所在地:愛知県西春日井郡豊山町大字豊場1番地
事業内容:航空機の最終組立・艤装、航空機の修理、航空機の飛行試験、顧客支援
(所在地、事業内容は公式サイトから)
沿革
2013年10月 飛行試験機初号機の最終組み立て開始
2014年10月 18日 ロールアウト
2015年06月 8日 地上走行試験
11月 11日 初飛行
2020年10月 22日 事業凍結
2023年02月 開発中止
関連サイト:
名古屋航空宇宙システム製作所■
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中部を周った話・2 [■旅行記]
Ⓐ道の駅 アグリステーションなぐら→Ⓑ名古屋飛行場跡地→ⓒSPACEJET FINAL ASSEMBLY HANGAR、県営名古屋空港→Ⓓ清州(甚目寺)飛行場跡地→Ⓔ西築港水上飛行場跡地→Ⓕ稲永新田の水上機基地跡地→Ⓖセントレア→Ⓗ(木曽川滑空場)→Ⓘ(大平山の防空監視哨跡)→Ⓙ道の駅 九頭竜(車中泊)
2日目
3:20 起床
4:00 道の駅 アグリステーションなぐら出発
これまで車中泊で使っていたマットレスは、もう10年以上使ってて(一時期自宅で毎晩使ってた)、
すっかりヘタってしまったため、3年ほど前に車中泊専用に買い替えをしたのでした。
今回初めて使ったのですが、底着き感も全くなく、車内に直接敷いても問題ありませんでした。
それから、一晩車内で過ごすと、翌朝窓にびっしりと結露が付きます。
実は大きな声では言えないんですけど、これまではボックスティッシュを大量に使ってこの結露を拭き取っていて、
5連泊すると、ほぼ1箱使い切ってました。
YouTubeの車中泊動画で、百均で結露取り用のワイパーが紹介されており、
今回使ってみたのですが、水分を完全に取りきるのは難しいものの、ティッシュの使用量は激減しました。
- ショップ: 楽天ビック(ビックカメラ×楽天)
- 価格: 492 円
住宅用窓の結露取りが売ってるんですが、住宅用窓とは異なり車の窓(特にフロント、リアガラス)は
微妙に湾曲しているので、その湾曲に追従できる柔らかさがないと、泣きを見るハメになります。
そう。オイラのように(;´Д⊂)
目隠しも問題なし。
車から何から、今回いろいろ変わったけど、取り敢えず(ほぼ)問題なく車中泊できて一安心。
旅行出発前の段階では、お天気が良いのは本日までで、明日からは激しい雨も予想されていました。
予報通りなら、今日の夕方埼玉に帰ろうと考えていたのですが、
移動中の地元FMによれば、どうやらお天気の崩れは後ろにずれ込んだようで、
明日まではお天気良さそうです。
それで本日は愛知県を周り、明日は北陸方面を周ることに。
12:40 セントレアを見学したところで、愛知県内のポイントは全て終了。
(本当はあいち航空ミュージアムだけ残ったけど、GW中なのでパス)
岐阜県の木曽川滑空場に向かうことに。
で、現場近くまで来たのですが、木曽川滑空場は非常に細い中州のような場所にあります
(厳密には中州じゃないけど)。
上流側も下流側もゲートにカギがかけられて通せんぼされ、「カギのない車は進入禁止」で滑空場に行けません。
オイラが上流側行ったり下流側行ったり、ウロウロしている間にも、時折真っ白なグライダーが急上昇してます。
徒歩ならゲートの先に進めるんですが、上流側からだと約4km、下流側からだと多分8km位あります。
ん~、上流側から行っても、往復するだけで2時間半はかかるな~。
ゲートの前で立ち尽くすオイラを尻目に、ロードバイクが次々颯爽とゲートを通過してゆきます。
ロードバイクいいな~(´・ω・`)
今からだと、戻って来る頃には真っ暗になるかも。
実は前回お邪魔しようとした際もゲートに阻まれて滑空場に行けませんでした。
「今度来るときはゲート開けますから連絡ください」とご親切なコメント頂いていたのですが、
もう10年も前の話だし、お楽しみを邪魔することになるので遠慮しました。
到着時間を考えていずれまた出直すことにして、次に向かったのでした。
ということで、17時ちょっと前に防空監視哨跡のある山の麓に到着。
まだまだ明るいのですが、山中は日が傾くとすぐ真っ暗になるので、この時間からだともう山には入れません。
実は、ドコからどう登れば良いのか、事前に調べきれてなくて、
次の見学ポイントに向かう進路上だし、当たりを付けるつもりで来たのでした。
しばし「ここから登るんじゃないかしらん」と出発前に考えていた場所をウロウロ。
……なんか分かんない。
地元の方に聞くこともできず、ここもいずれ出直すことに。
二連敗です(つД⊂;)
ということで、次の見学ポイント手前にある道の駅に移動して車中泊することにしたのですが、
ここで天気予報をチェック。
もしも天気の崩れが更にズレて、明後日までお天気がもつようなら、琵琶湖の西側にある見学ポイントに向おうか。
と考えていたのですが、お天気が良いのはやっぱり明日まででした。
ということで、琵琶湖の向こうには周らず、このまま北上して北陸を目指すことに。
19:30 道の駅 九頭竜着
20:20 寝
(おやすみなさい)
本日の走行距離:413㎞
今回お邪魔した場所のうち、
「SPACEJET FINAL ASSEMBLY HANGAR」「西築港水上飛行場跡地」「稲永新田の水上機基地跡地」
の3つはこの後順番に記事アップしますが、
それ以外は、前回撮る位置を間違えて撮り直しとかそんなでしたので、
既存の記事に追記しています。
興味のある方はそちらをご覧くださいませ。
名古屋飛行場跡地■
県営名古屋空港■
清州(甚目寺)飛行場跡地■
セントレア■
木曽川滑空場■
(続きます)
静岡県・和地山練兵場跡地 [├場所]
2023年5月訪問
1/25000「浜松」大正6年測図「今昔マップ on the web」より作成
ここはかつて歩兵第六十七連隊の「和地山練兵場」でした。
大正6年、この練兵場でアート・スミスが曲芸飛行大会を行ないました。
当時10才だった本田宗一郎少年が約20km離れた自宅から自転車で駆け付け、
木の上から飛行の様子を見物したという逸話は余りに有名です。
この時宗一郎少年が受けた影響は非常に大きく、後にこう記しています。
「彼にあやかりたくて,学帽を後ろに向けてかぶり,夢中でペダルを踏んで家にかえったものである。それからが大変である。寝ても醒めてもスミスの影像が頭にチラついて仕方がない。とうとう竹で造ったプロペラを自転車の前につけて親父の鳥打帽に紙製の眼鏡というものものしいいでたちで村中飛び回った記憶がある」
「いつか自分も飛行機をつくりたい」という思いを、ご本人は自著の中で、
「生涯を貫くような熱心な願い、熱烈な希望」と表現しています。
会社を立ち上げた本田宗一郎氏は、「国産軽飛行機 設計を募集」という新聞広告を出しました。
社内報でも「いよいよ私どもの会社でも軽飛行機を開発しようと思っております」と語っています。
当時、この構想は結局実現しませんでしたが、
この新聞広告を見てホンダへの入社を決めたのが、大学院で航空工学を学んでいた川本氏でした。
その後、川本氏は社内に航空機の研究チームを発足。
そのメンバーの中に、後にホンダジェットの顔となる藤野氏がいました
(藤野氏も「ヒコーキがやりたい」と考えてホンダに入社した)。
後に自ら小型飛行機の免許を取得して大空を舞うようになった本田宗一郎氏でしたが、
結局最後までホンダジェットの開発を知らされませんでした。
これは、本人が知ったら喜びのあまり誰かにしゃべってしまう危険ががあるのと、
現場に乗り込んで混乱させるのを社員が恐れたからとされています。
これは、氏の天衣無縫な人となりとともに、
晩年になって尚ヒコーキへの情熱がいささかも失われなかった証左でもあります。
この場所でヒコーキを見た本田宗一郎少年の燃え盛る情熱は決して衰えず、
その情熱が約100年の時を経てホンダジェットとして結実しました。
その意味では、この場所こそホンダジェットを産んだ地なのだと思います。
赤マーカー地点。
静岡県・和地山練兵場跡地
和地山練兵場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:静岡県浜松市中区和地山3丁目
座 標:34°43'43.5"N 137°43'05.7"E
標 高:37m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1917年 アート・スミスによる曲芸飛行大会実施
関連サイト:
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静岡県・緑十字機不時着の碑 [├場所]
2023年5月訪問
静岡県磐田市鮫島海岸。
ここに「緑十字機不時着の碑」があります。
緑十字機不時着の碑(全文)
戦後の平和はここから始まった -鮫島住民の支援活動に感謝- 誰かおらんか!…… ここはどこかね? ここは天竜川の河口左岸に程近いところです 早く東京へ帰らないと大変なことになる 勅使だ! 勅使だ!
■歴史の記録■
緑十字機の不時着
一九四五(昭和二〇)年八月二〇日二三時五五分、終戦処理のためマッカーサー連合国軍最高司令官の指示を受け、降伏文書等の重要書類を運ぶ緑十字機(一式陸上輸送機、搭乗員六名・軍使九名)が沖縄・伊江島から千葉・木更津へ向かう途中、原因不明の燃料不足で鮫島海岸に不時着した。
日本の危機
戦況下、軍使の東京到着の遅れは連合国に遅延工作とみなされ、本土総攻撃が予想された。ソ連軍も北方四島に侵攻し、北海道は一部が占領される危機的状況にあり、列島は一刻を争う緊迫状態に陥っていた。
鮫島住民の支援
不時着。そこに偶然居合わせたのが鮫島住民だった。軍使一行の道案内、リヤカーによる降伏文書等の運搬、茶の接待、濡れた衣服の乾燥、電話の案内など迅速かつ的確な支援により、日本は事なきを得た。
もし、この救援が無かったら本土決戦、日本分断統治の可能性もあり、人々の命や財産がどれほど失われたか計り知れない。今日に続く永き平和は、この地の支援から始まっている。 平成二九年八月二〇日 鮫島自治会
伊江島飛行場で米陸軍のC-54輸送機(DC4)に乗り換えてフィリピンのニコルス飛行場(当時)に到着しました。
木更津航空基地 7:18発。
伊江島飛行場 13時過ぎ着。同14時発。
ニコルス飛行場 17:54着(現地時間)。
(資料により時刻には多少のバラツキあり)
往路と同様、マニラから伊江島飛行場までは米軍機で移動。
伊江島飛行場で海軍の一式陸攻に乗り換えて木更津航空基地を目指しました。
ところが木更津航空基地まであと1時間というところで燃料切れを起こしてしまいました。
使節団の手記には「伊江島飛行場に到着した我々は大勢の米兵に取り囲まれて盛んに撮影された」とある通り、
当時伊江島飛行場は完全に米軍の基地と化しており、
「降伏許すまじ」とする日本の継戦派により意図的に燃料搭載量を減らされたとか、
燃料系にわざと細工したとか、そういう陰謀めいたものの入り込む余地は少なそうですが……
他サイト様によれば、鮫島海岸に不時着した一行は、
徒歩とトラックで辿り着いた浜松の飛行場から空路調布飛行場へ飛び、
すぐさま総理官邸に駆け付け、事なきを得ました。
実はアメリカ側からは、「往復ともに同行程のこと」と指示されていたのですが、
不慮の事故ですから復路が多少変更になってしまったのはどうしようもないです。
当時の浜松には「浜松飛行場」と「三方原飛行場」、2つの陸軍飛行場がありましたが、
どちらの飛行場に辿り着いたのかは不明です。
飛行場に着いてみればエンジンが故障した飛行機しか残ってなくて、
午前2時頃から応急修理を始め、一同東京に向けて機内に入ったのは8時頃だったので、
修理だけで約6時間のロス。
もかかわらず、官邸到着の予定時刻を7時間あまりの遅刻に留めています。
恐らくこれは木更津航空基地に着陸後、
官邸までの陸路の移動時間が長くかかるのが計算に入っていたからなんじゃないでしょうか。
当時はアクアラインなんてないですから、木更津から総理官邸に向かうには、
ぐーっと東京湾を大回りするしかないですからね。
ところが不時着というアクシデントにより、到着飛行場が木更津から調布に変更となりました。
調布飛行場から総理官邸なら、陸路の移動時間で相当な時間短縮になったはずです。
(調布飛行場→官邸:直線距離で20km、木更津航空基地→官邸:80kmくらい?)
往路の起点となった木更津航空基地は海軍の基地。
木更津航空基地と伊江島飛行場の往復に使用した(使用する計画だった)一式陸攻は海軍機。
使用機と飛行場、どちらも海軍です。
アクシデントのせいで予定外に利用した浜松の飛行場はどちらも陸軍の飛行場。
到着した調布飛行場も陸軍の飛行場。
陸軍機だから陸軍の飛行場を使用したのか、遅刻を最小限に留めるために臨機応変に到着地を変更したのか、
どちらだったんでしょうか。
静岡県・緑十字機不時着の碑
緑十字機不時着の碑 データ
所在地:静岡県磐田市鮫島海岸
座 標:34°39'32.8"N 137°50'52.9"E
関連サイト:
鮫島自治会■
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この記事の資料:
現地の碑文