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鹽埔(新圍)飛行場跡地
台東(南)飛行場跡地
宜蘭(南)飛行場跡地
二林飛行場跡地
歸仁飛行場跡地
千島:
「陸空-本土周辺-16飛行場記録(千島の部)第1復員局」
「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
樺太:
「陸空-本土周辺-11 飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
「陸空-本土防空-47飛行場記録(樺太の部)第1復員局」
「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
朝鮮:
「航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
台湾:
TAIWANAIRBLOG■
盟軍記載的二戰臺灣機場■
日治下臺南永康機場的時空記憶■
「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
支那:
U.S. Army Map Service, 1942-1945/China City Plans■
「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
朝鮮・甕津飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2024年10月 記事作成(未訪問)
北朝鮮人民共和国 黄海南道 甕津(オンジン/おうしん)市にある甕津空港。
ここはかつて日本海軍の「甕津飛行場」でした。
■航空基地図 綴(南東.朝鮮.満洲 等)
に見取平面図があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました(戦史史料・戦史叢書検索 で閲覧できます)。
レイヤを作ってグーグルマップに重ねると、滑走路もそうですし、誘導路、それから有蓋掩体壕が現存しています。
有蓋掩体壕は、しっかり形が残っているものが3基(赤マーカー)、有蓋掩体壕跡らしきものが1機(青マーカー)、
それから無蓋掩体壕がぎっしりまとまっている場所が1つ(黄色マーカー)ありました。
尤も、北朝鮮では、現在でも無蓋掩体壕を使用しているのと、
ココの無蓋掩体壕は見取平面図には載っていないので、もしかしたらこれは終戦後に建設されたものかも。
それはともかく、誘導路や掩体壕の痕跡がハッキリ残っているため、
図と食い違う部分は、グーグルマップの痕跡を優先して作図しています。
例えば、西北西方向の現在までハッキリ残っている滑走路。
当時はこの滑走路の東端から南方向に短い滑走路が伸びていて、
図ではまるで差金のように直角になっているのですが、
グーグルマップに残る痕跡を優先して鈍角にしてあります。
英語版Wiki/Ongjin Airport(甕津空港)によれば、
朝鮮戦争で国連が北朝鮮を占領していた間、K-17 という名称で使用されていましたが、海岸沿いにあるため、通常の使用には適していなかった可能性があります。1971 年に再建活動が行われました。しかし、飛行場は今でもほとんど使用されていません。
とありました(Google翻訳)。
朝鮮・甕津飛行場跡地
(1)甕津飛行場 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
座 標:37°55'41.7"N 125°25'11.2"E
標 高:18m
滑走路:2,000mx200m(10/28)、1,500mx180m(14/32)、900mx300m(18/36)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは防衛研究所資料から)
(2)甕津空港(現在) データ
設置管理者:北朝鮮人民共和国
種 別:陸上飛行場
所在地:北朝鮮人民共和国 黄海南道 甕津(おうしん)市
座 標:37°55′51.70″N 125°24′54.30″E
標 高:51m
滑走路:2,027mx50m
方 位:11/29
(主に英語版Wiki/Ongjin Airport から)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
航空基地図 綴(南東.朝鮮.満洲 等)
朝鮮・元山飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2024年10月 記事作成(未訪問)
「附図第3 元山飛行場略図 7」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13020881400、飛行場周辺地図 (迎日.蔚山.元山.平澤.連浦)(防衛省防衛研究所)(上2枚とも)
朝鮮民主主義人民共和国 江原道 元山(ウォンサン/げんざん)市 葛麻洞にある軍民共用の葛麻飛行場。
かつてここは日本海軍の「元山飛行場」でした。
グーグルアース2002年5月の画像に日本軍当時の滑走路、誘導路の痕跡がかなり残っていました。
先頭のグーグルマップは、グーグルアース2002/5/21の画像と上に貼った「附図第3 元山飛行場略図」
から作図しました。
作図してから確認したのですが、上に貼った図で東西方向の滑走路の長さが「1500」となっているのですが、
グーグルアース2002/5/21の画像で確認したところ、これは1,500mではなく、恐らく1,300mと思います。
(滑走路東端のターニングパッドがハッキリ残ってて、ここから西側に1,350m先から海になる)
「元山海軍飛行場ケーブル工事に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004461400、密大日記 第6冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)
こっちはもう準備整ってるけど陸軍さんのせいで工事出来ない。
陸軍さんどうなってますのん? という内容^^;
この電報から、元山飛行場は恐らく昭和13年頃建設が始まったのではないかと。
Wiki/葛麻飛行場 によれば、
第二次大戦後、朝鮮戦争で米海兵隊が使用、休戦後は朝鮮人民軍が使用。
2014年に軍民共用化のため着工、2015年にターミナルビル公開。
とのことでした。
朝鮮・元山飛行場跡地
(1)元山飛行場 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
座 標:39°10'04.1"N 127°28'50.1"E
標 高:3m
滑走路:1,000mx80m(18/36)、1,500mx80m(08/26)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さはアジ歴資料から)
(2)葛麻飛行場(現在) データ
設置管理者:朝鮮民主主義人民共和国
種 別:軍民共用
3レター:WOS
4レター:ZKWS
所在地:朝鮮民主主義人民共和国 江原道 元山市 葛麻洞
座 標:39°9'52"N 127°29'19"E
標 高:2m
滑走路:3,125m×50m(15R/33L)、3,500m×60m(15L/33R)、500m×30m(02/20)
(データはWikiから)
沿革
1938年 この頃着工
1940年 元山航空隊開隊
1945年 終戦
1950年 朝鮮戦争中アメリカ海兵隊が使用
1953年 休戦。朝鮮人民軍が使用
2014年 軍民共用化工事
2015年 旅客ターミナル公開
2016年 元山国際友好航空祝典。航空ショー
2018年 平昌オリンピックで使用
関連サイト:
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朝鮮・水原飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2024年10月 記事作成(未訪問)
大韓民国京畿道水原(スウォン/すいげん)市にある水原空軍基地。
かつてここは日本陸軍の「水原飛行場」でした。
■陸軍飛行場要覧(北海道・朝鮮)に図があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。
朝鮮京畿道 水原郡
滑走路 六〇x一五〇〇米 コンクリート舗装
掩体 大四四ヶ所
収容施設 六〇〇名分
※戦史史料・戦史叢書検索で見れます(10コマ)。
■疾風と共に : 飛行第二十二戦隊部隊史107p
三月上旬といえば、緯度の高い朝鮮ではまだ相当に気温が低く寒い。水原飛行場も朝晩は完全に凍結し、日中日光を受ける部分が漸く溶けだすという状態であった。水原は飛行場完成以来日が浅いもののようで、舗装された滑走路以外、氷が解けると飛行機の地上滑走すらむずかしくなるような状態であった。
戦隊長は以上のような状態では、円滑な部隊の行動が望めないと決心し、早速各方面に連絡調整した結果、部隊は三月八日京城西方の金浦飛行場に移動し、ここで戦力回復のための錬成訓練を行なうようになった。
※国立国会図書館デジタルコレクションで見れます(56コマ)。
敷地の広々とした飛行場ですが、実際の運用にはご苦労があったのですね。
本土航空作戦記録 (文書名: Japanese Monographs = 日本軍戦史 ; Monograph No. 23) (ボックス番号: 3)■
本土決戦の際、米軍が郡山付近に上陸した想定の飛行部隊展開配置図。
水原飛行場も作戦に組み入れられていました。
詳しくは潭陽飛行場記事をご覧ください■
国立国会図書館デジタルコレクションで【水原飛行場】と検索すると、
朝鮮戦争での水原飛行場関連を記した多数の書籍がヒットします。
マッカーサーも降り立った飛行場です。
飛行場敷地は1,800mx1,000mの方形で、東側に付属施設、西側に幅600mで飛び出た部分のある形状ですが、
線路と川に挟まれた地形にうまいことフィットする形状になっています。
図によれば、滑走路は方形の飛行地区のかなり東側に寄った場所に設けられています。
作図の際、この滑走路位置をどうやって決めようか悩みました。
現行の空軍基地には三本の滑走路があって、
幅は一番西側の滑走路が44m、真ん中と東側の滑走路が46mなんですが、
一番東側の15L/33Rだけ、明らかに60m幅の舗装面に46m幅の滑走路が乗る恰好になっています。
この幅60mは日本軍当時の滑走路幅と同じ。
それで、一番東側の15L/33Rが日本軍当時の滑走路位置だと考えました。
但し、日本軍当時の滑走路長さが1,500mだったのに対し、
この60m幅は、現行の滑走路の長さ(2,743m)いっぱいに続いています。
それからもう一つ、現行3本ある滑走路にペイントされている磁方位(数字で滑走路の向きを示す)は、
15R/33L、15L/33R、16/34
となっており、この数字だけ見ると、1本だけ微妙に滑走路の向きが違うのかと思いますが、
実際に滑走路同士の間隔を測ってみると、1m単位で同じでした。
つまり、ペイントされている数字は異なるのに、完全に平行滑走路ということです。
ドユコト??
不思議に思ってグーグルアースの過去画像を見てみたら、
2012/3/20までは15R/33L、15L/33Rの2本しかありませんでした。
2014/4/8の画像で西側に第三の滑走路が出現していますが、ランウェイナンバーのペイントはまだ無し。
2015/2/8の画像ですっかり16/34とペイントが施されており、現在に至ります。
ここまでが事実で、ココから先はオイラの憶測なんですが、
三本目の平行滑走路を作ったならば、本来は真ん中の滑走路は15L/33R→15C/33C に変更し、
三本目の滑走路に15L/33Rというランウェイナンバーを譲るべきなんですが、
長年の慣れもあるでしょうし、煩雑な諸々の変更業務を避けるため、
「16/34ですけど何か?」ということにしたんじゃないでしょうか。
朝鮮・水原飛行場跡地
(1)水原飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮京畿道水原郡
座 標:37°14'23.4"N 127°00'16.1"E
標 高:24m
飛行場:1,000mx1,800m(不定形)
滑走路:1,500mx60m(コンクリート)
方 位:15/33?
(座標、標高、方位はグーグルアースから。飛行場、滑走路長さは防衛研究所資料から)
(2)水原空軍基地(現在) データ
設置管理者:大韓民国空軍
種 別:軍用飛行場
3レター:SWU
4レター:RKSW
所在地:大韓民国京畿道水原市
座 標:北緯37度14分21.86秒 東経127度0分25.39秒
標 高:27m
滑走路:2,743m×46m(15R/33L)、2,743m×46m(15L/33R)、2,297m×44m(16/34)アスファルト
(主にWiki/水原空軍基地から)
沿革
1945年 この頃建設
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
陸軍飛行場要覧(北海道・朝鮮)
疾風と共に : 飛行第二十二戦隊部隊史
朝鮮・西帰浦の飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
2024年12月 記事作成
前記事の続きです。
東西70km、南北30km余りの済州島は、軍事上の要衝として日本軍により次々と飛行場が建設された訳ですが、
済州島航空基地、済州島飛行場、済州東飛行場、陸軍秘匿飛行場ときて、5番目の飛行場が建設されたのでした。
■済州島血の歴史 : 4・3武装闘争の記録 20p
「第五十八軍の作戦方針は、漢拏山(紫マーカー)を複廓陣地として長期持久し、もって済州(青マーカー)、摹瑟浦(黒マーカー)、西帰浦(赤マーカー)などの飛行場群の使用を阻止妨害するにあった。」
書籍のタイトルにある「4・3武装闘争」とは、済州島で1948年4月3日に発生した大事件(済州島四・三事件)を指し、
これは第二次大戦後のことなので、日本軍と直接の関りはないのですが、
引用した箇所は、大戦末期について触れたもので、その内容は、
沖縄を落した米軍がいよいよ済州島に攻め上がってきた際の第五十八軍(済州島に配備された日本陸軍)
の作戦方針です。
ここで「西帰浦などの飛行場群」として、西帰浦に日本軍の飛行場があったことが記されています。
■地元サイト
「済州島には5つの日本軍飛行場が建設された」とする地元サイト様は複数あり、例えばこうあります■
日帝強占期の済州に建設された飛行場の中には、俗称アルトル飛行場とチョントルビ行場、ジンドル飛行場が代表的だ。これらの飛行場のほか、当時済州市チョチョン邑京畿里付近に建設された陸軍秘密飛行場と県西帰浦市役所一帯に造成された小規模飛行場があった。(中略) 県西帰浦市役所の建物を中心に東に東洪川まで、西に旋盤内まで芝生飛行場だった。(Google翻訳・以下同様)
西帰浦にあった飛行場の具体的な位置が示されていますね。
「県西帰浦市役所の建物を中心に」→西帰浦市庁 第1ビル(黄マーカー)
「東に東洪川まで」→(青マーカー)
「西に旋盤内まで」 実はコレが一筋縄では特定できませんでした。
グーグルマップで西帰浦付近を開いた状態で【旋盤内】とワード検索しても、
「旋盤内」なる場所はヒットしません。
それでGoogle翻訳で元のハングル文章をどんどん削ってゆき、「旋盤内」の部分だけ抽出すると、
"선반내"という言葉が残りました(Google翻訳ではなぜか「旋盤内」→「棚内」という訳に変化してた)。
先ほどと同じ要領で、グーグルマップで西帰浦付近を開いた状態で、【선반내】とワード検索すると、
赤マーカー付近を示しました。
…一応辻褄は合ってますね。
サイトに示された範囲に滑走路があったとすると、長さはちょうど1,000mになります。
先頭のグーグルマップは、この地元サイト様の情報に基づいて線を引いた推定図です。
ご了承ください。
推定位置は、現在地方道第1132号線と重なっており、まるで滑走路跡をそのまま道路に転用したかのよう。
ここが元々戦時中から道路であったかは不明なのですが、「芝生飛行場」と記されていることからすると、
少なくとも舗装道路を拡幅して滑走路化したのではなさそうですね。
で、滑走路の長さとしては申し分ないのですが、勾配がけっこう大変なことになってます。
西端から僅か300m足らずで20mも標高が上がり、その後はほぼ平坦なんですが、
ラスト200mで10m標高が下がります。
実は同サイトでは西帰浦の飛行場について、
冒頭部分では日帝強占期の済州に建設された飛行場の1つに数えているものの、
終盤では「4・3事件当時西帰浦市に建設された。」とも記されています。
日本軍が建設したのとは別の飛行場が西帰浦に新たに建設された可能性もあるのですが、
終戦と共に日本軍が建設した飛行場は接収され、その後朝鮮戦争で使用したパターンが多いです。
拡張工事を施したケースも多々あることから、西帰浦の飛行場もそういう部類だったかもしれません。
因みに滑走路ほぼ中央に大きなロータリー(紫マーカー)があり、
グーグルマップでは、史跡を示すマーカーが付いていて、서귀포비행장 터(西帰浦飛行場)とあります。
赤マーカー地点から滑走路方向。
キツイ上りが続きます。
こちらは青マーカー地点から滑走路方向。
すぐ後ろには東洪川の橋があります。
■電報綴
前記事の後半で、電報のやり取りに触れました。
ちょっとおさらい。
昭和20年6月14日 朝鮮担当参謀から済州島担当参謀に対し、「秘匿飛行場建設せよ」
として、具体的な飛行場の位置、規模等指示が出されました。
ところがです。
昭和20年6月25日 朝鮮担当参謀から陸軍次官に対し、「至急、秘匿飛行場建設指令出してください」
と要請しています。
済州島担当参謀に建設指示を出した朝鮮担当参謀が、11日後、今度は陸軍次官に建設指令を出すよう要請―
なんでそんなことするんでしょう??
済州島第58軍参謀長がなかなか言うこと聞かないから、「ちょっと部長からも一言言ってやってくださいよ」
みたいなことなのかしらん。
なんてことを考えたのでした(おさらいはここまで)。
昭和20年6月25日の電報の内容、正確には、
「築参電第六七八〇号(済州島陣内二秘匿飛行場新設ノ件) 至急指令セラレ度」
というものです。
「築」は朝鮮を担当する第17方面軍の通称号/略称なので、
「築参電」の発信者は、朝鮮を担当する第17方面軍ということです。
つまり、築参電第六七八〇号の中に(済州島陣内二秘匿飛行場新設ノ件)について記されていて、
「この『築参電第六七八〇号』を至急指令してくださいよ」という意味なのですが、
ではこの電報はいつ出されたものなのか?
アジ歴で検索すると、ちょうどこの頃の電報綴を閲覧することができます。
できるのですが、ちょうど築参電第六七八〇号を含め、その前後がごっそりと抜けています(;´Д⊂)
六七八〇号の直前で閲覧できるのは、6月6日の築参電第六四三二號、
直後で閲覧できるのは、6月12日の築参電第六九八六號。
ということは、築参電第六七八〇号(済州島陣内二秘匿飛行場新設ノ件)は、
昭和20年6月6日~12日の間に出されたということになります。
それからもう1つ、こんな電報がありました。
「表紙「機密作戦日誌(乙綴) 昭和20年6月 第17方面軍参謀部作戦班」」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070052400、機密作戦日誌(乙綴) 昭和20年6月(防衛省防衛研究所)→ダウンロード→電報文起案・訳文綴 昭和20年6月(3)→31コマ
これは、昭和20年6月16日 東京の陸軍次長から朝鮮を担当する陸軍第17方面軍参謀長宛の電報です。
東飛行場工事中止に続けて、「秘匿飛行場の䕜陣地内設定に関しては目下研究中」とあります。
※「䕜」という漢字については、(草冠に翠と特に註あり)と添えられているのですが、コレが何を意味するのかイロイロ調べたのですが、分かりませんでした。この電報綴では、文中になぜこの言葉が突然出てくるのか、? マークが付されるケースがちょいちょいあります。
それはともかく、この電報だけでも、飛行場建設に関して、
始めるも止めるも、中央から指示が出ていることが良く分かりますね(海軍飛行場の工事にまで口出ししてますし)。
ちょっと余談ですが、米子飛行場の敷地買収に関する一連の電報が閲覧できます(アジ歴:C01007174600)
これを見ると、既存の飛行場の敷地買収でさえ、陸軍大臣、大蔵大臣まで話が行っており、
経理部等と細かい文書のやり取りが続いています。
ましてや飛行場の新設ともなれば、飛行場設定隊が動きますし、器が完成した後の運用のこともありますから、
朝鮮担当参謀や済州島担当参謀が勝手に新設の指示を出すなど考えられません。
陸軍大臣→朝鮮担当の第17方面軍→済州島担当の第58軍 と、きちんと飛行場新設の指示が出ているはず。
…と考え、電報を探してみることに。
因みにアジ歴では、
昭和19年11月27日~20年7月末までの「機密作戦日誌(乙綴) 昭和20年6月 第17方面軍参謀部作戦班」」
が閲覧できます。
この期間の電報の内容を目次で全部確認したのですが、結局秘匿飛行場関連はこの4つが全てでした。
時系列で並べると、こんな感じ。
①6月6日~12日 築参電第六七八〇号(済州島陣内二秘匿飛行場新設ノ件)
②6月14日 朝鮮担当参謀から済州島担当参謀に対し、「秘匿飛行場建設せよ」(築参電六九二一号)
③6月16日 東京の陸軍次長から済州島担当参謀に対し、「秘匿飛行場の䕜陣地内設定に関しては目下研究中」
④6月25日 朝鮮担当参謀から陸軍次官に対し、「築参電第六七八〇号の件、至急秘匿飛行場建設指令出してください」
4つの電報を見ると、実際に建設の指示を出しているのは②だけであり、
それ以外の3つは、「研究中」だったり要望だったりです。
②では、場所は「橋来里付近」と位置を示し、滑走路、付属施設についても規模を明示しています。
それなのに、その2日後の③で「秘匿飛行場の䕜陣地内設定に関しては目下研究中」って、おかしくないですか?
それと前記事からの繰り返しですが、
既に建設指令出てるのに「建設指令出してください」ってのも、おかしくないですか?
②で建設指示の出ている飛行場が現在の静石飛行場一帯ということは、内部文書から確定しています。
それでオイラとしましては、②を除く、①③④の電報にある秘匿飛行場とは、
現在の静石飛行場に続く、済州島5番目の飛行場=西帰浦の飛行場のことではないかと考えたのでした。
そういう前提でこのやり取りの流れを見ると、スッキリするのですが。。。 (個人の感想です)
拙ブログでは当飛行場の名称として便宜的に「西帰浦の飛行場」としましたが、
オイラの推測が正しければ、ココは4番目に建設された陸軍秘匿飛行場に続く、
「第二の陸軍秘匿飛行場」なのではないかと思います。
なんかモヤモヤした感じですが、一連の済州島内の日本軍飛行場シリーズはこれにて終了です。
朝鮮・西帰浦の飛行場跡地
西帰浦の飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍?
種 別:秘匿飛行場?
所在地:大韓民国 済州特別自治道 西帰浦市 東烘洞
座 標:33°15'11.5"N 126°33'38.2"E?
標 高:71m?
滑走路:1,000mx50m?
方 位:08/26?
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
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