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千島・第三幌筵航空基地跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022年1月作成(未訪問)  



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1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)


千島列島の幌筵(ぱらむしる)島にあった「第三幌筵航空基地」。

現在でもしっかりと跡が残ってますね。

この飛行場も情報が非常に限られており、詳しいことは不明です。



     千島・第三幌筵航空基地跡地         
第三幌筵航空基地 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:幌筵島
座 標:50°21'28.9"N 155°33'37.8"E
標 高:10m
滑走路:1,200mx50m
方 位:15/33
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは米軍資料から)

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千島・第二占守航空基地跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022年1月作成(未訪問)  



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1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)


千島列島最東端、占守(しゅむしゅ)島にあった「第二占守航空基地」。

「第一占守航空基地」の北東約3.5km、潮見第二飛行場の滑走路南端から僅か400m足らずに位置していました。

上に貼ったグーグルマップだと想像もつきませんが、当時は赤マーカーの東側まで別飛湖が広がっており、

ここは湖岸に設けられた水上機基地でした。

ここも情報が非常に限られており、詳細は不明です。




     千島・第二占守航空基地         
第二占守航空基地 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:水上機基地
所在地:占守島
座 標:50°44'24.4"N 156°15'04.1"E
標 高:7m
(座標、標高はグーグルアースから)

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千島・潮見第二飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022年1月作成(未訪問)  



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1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)


占守島にあった日本陸軍の「潮見第二飛行場」。

「潮見第一飛行場」の東南東約3.6kmに位置していました。



     千島・潮見第二飛行場跡地         
潮見第二飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
座 標:50°44'53.3"N 156°15'08.9"E
標 高:21mm
滑走路:1,400mx150m
方 位:17/35
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは米軍史料から)


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樺太・大泊航空基地跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022年1月記事作成(未訪問)  




赤マーカー地点。
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1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

ロシア サハリン州コルサコフの東郊外。

かつての南樺太大泊(おおどまり)町に日本海軍の「大泊航空基地」がありました。

ロシア語版Wiki/コルサコフ飛行場 によれば、飛行場は1943年に日本によって建設されました。

1,200mx80mコンクリート滑走路と、25の土塁掩体壕が設けられました。

戦後は1995年までソ連海軍の航空基地として使用されました。

現在は民間飛行場となり、様々なイベント(オートレース、音楽祭、展示会など)が開催されています。



     樺太・大泊航空基地跡地         
大泊航空基地 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:樺太庁大泊郡大泊町(現・ロシア サハリン州コルサコフ)
座 標:46°37'19.4"N 142°48'48.8"E
標 高:66m
滑走路:1,500mx120m(02/20)、1,200mx80m(08/26)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは米軍資料から)

沿革
1943年 建設
1945年 接収。以後1995年までロシア海軍が使用

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台湾の飛行場 [└日本統治時代の飛行場]

台湾観

ということで、2021年3月22日から始まった台湾強化月間、これにて終了です。

毎週月曜日に台湾の飛行場を1つずつアップした訳ですが、

アップしたその日に閲覧数が30~40になってました。

それだけの方が毎週月曜日に見に来て下すったんですね。

お付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m


学生時代歴史が大嫌いで、余りに無知なオイラは、

日本統治時代から終戦を経て現代に至る台湾の歴史の一端について、記事作成の過程で学ぶ機会を得たのですが、

掩体壕等当時の遺構が台湾各地で展示施設化していたり、中にはこうした遺構がよく見えるようにと、

わざわざ建物を撤去するケースまであり、当時を懐かしむ手記も多数拝見しました。

一方で、日台間には霧社事件に象徴される凄惨な歴史も存在しており、

当時に関して、現在でも日本に対する否定的な意見が存在するのもまた事実。

「台湾は親日国だよね~(o ̄∇ ̄o)」などという単純な関係では決してありませんでした。

台湾についての情報量が格段に増えたことにより、台湾観を得る機会に恵まれました。

これだけでも、台湾の飛行場を記事化して良かったと思います。


錯綜する情報

台湾の飛行場記事を作り始めた時、オイラの手持ちの資料は、

防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

の2資料だけでした。

この2資料では台湾について、合計22の飛行場が扱われており、

当時日本軍が台湾に造った飛行場はこれで全てだと思っていました。

ところがこれがとんでもない勘違いで、その後実際に記事作成を進める過程で、

未知の飛行場が出るわ出るわで、最終的に70まで達したのでした(XДX)


当時の台湾総督府、日本軍が台湾全島に建設した飛行場の全体像は、実は未だつかめておらず、

研究途上の分野となっています。

オイラの独断で言わせていただければ、その最大の理由は、

当事者である日本側に全体を網羅する系統立てた資料が存在しない(残っていない)ことです。

1つの飛行場に限って見れば、日本側に非常に詳細な資料が残っているケースもあるにはあるのですが、

「台湾の飛行場全体」という観点で言えば、連合軍(主に米軍)の作成した資料、航空写真が、

質、量共に日本側の資料を遥かに凌駕しています。

終戦時に膨大な資料を焼却処分した側と、そんな必要まったくなかった側。

(ちょっと違うけど)まさに「歴史は勝者によって作られる」ですね。

ところが連合軍作成資料は文字通り世界中に散逸してしまっており、

あちこちの国に出掛けて行って断片情報を収集、解析しなければなりません。

その飛行場がいつ、誰によって、どんな規模で建設され、その後どんな変遷を辿ったのか、

判断の拠り所とすべき資料がこの有様ですので、情報が混乱する元となります。

様々な資料を比較することにより、特定の資料に間違いがあることが明らかになったケースもあります。

地元台湾、日本、連合軍で飛行場の名称が異なっていることも混乱に拍車をかけています。

これら紙媒体に加えて、地元の方の証言もあります。

実際に現地で見てこられた方の証言は非常に貴重なのですが、

軍機の外からその方の目で見た部分に限られており、既に80年近い時間経過という問題もあり、

資料と食い違うことが多々あります。


飛行場の主体が台湾総督府から陸軍、海軍に移管したり、陸軍と海軍の間でも移管、共用があったり、

飛行場の隣接地に新たに滑走路が建設されるケースが多数あるのですが、

それが元の飛行場の拡張なのか、別個の新飛行場と見なすべきのか、

はたまたそれが本物の飛行場なのか、囮の飛行場なのか、

建設途中で中止したのか、計画だけで終戦を迎えたのか等々、

一次資料に不備があるため、資料の取捨選択、解釈の違いが様々な二次資料を生み出します。

こうしたことから、それぞれの飛行場の基本情報について意見が統一されていないどころか、

終戦までに日本は台湾に一体幾つの飛行場を造ったのかでさえ、資料によりまちまちです。

台湾全島の飛行場リストを掲げた資料は複数あるのですが、

飛行場の数は統一しておらず、オイラの知る限り最多は74です。

これ以外にも、「〇〇にも飛行場があったとする地元の方の伝承がある」等、

噂レベルまで含めるなら、飛行場の数は更に増えます。

日本国内だって、末期に建設された秘匿飛行場の情報はかなりあやしいですからね。

事程左様に情報が錯綜しているため、

オイラとしては、拙ブログが誤情報の発信源になって迷惑をかけてしまうことを避けようと考え、

・出典の確かな資料で紹介されていること
・且つ複数の資料から確認がとれる情報であること

この条件に合う飛行場だけを記事にしたつもりです。

そんな訳で、拙ブログ内ではこれで台湾編は一応終了なのですが、

これは、「現時点でオイラの知りうる限り確かな情報を全て出し尽くした」ということです。

今後も新たに情報が入手できれば、記事の追加、修正をし続けようと思います。


唯一無二

前述の通り本家日本側に、台湾に建設した飛行場に関する系統立てた資料が存在しません。

そのため当時の飛行場の全体像を解明すべく、

(日本ではなく)台湾の大学、諸機関が国費で米国公文書館、日本の防衛研究所等に赴き、

資料の収集、解析を行っています。

台湾の各サイト様内で、防衛研究所収蔵資料からの引用がしばしば見受けました。

漢字だらけの黒々とした記事の中に、ひらがな混じりの資料がでてくると、なんだか不思議な感じがします。

台湾の戦時中の飛行場情報が世界中の大学、公文書館、図書館に散逸してしまっている訳ですが、

日本の戦時中の飛行場情報も、同様に世界中に散逸してしまっています。

日本でも、外邦図調査のため米国公文書館、資料を収蔵している諸外国の大学に赴くことはありますが、

当時の飛行場に的を絞ってこれだけの規模の調査というのは、オイラの知る限り行っていません。

勝手に名前出して申し訳ないですけど、わざわざ飛行場資料を求めて米国まで赴いた方は、

オイラはPUTINさんという個人(チーム?)以外知りません。


文字通り世界中から収集してきた膨大な資料について、台湾では解析、比較、議論がなされており、

台湾の様々なサイト様にてその一端を垣間見ることができます。

拙記事作成の過程で、これらサイト様にはたびたびお世話になったのですが、

これらのサイト様を拝見してつくづく感じたのは、全体像を解明しようとするその熱量でした。


拙ブログでは、一連の「日本統治時代の飛行場」シリーズとして、千島、樺太、朝鮮、台湾、

それから現在中国に取りかかっていて、

1つ1つの飛行場について、必ず現地語でその飛行場について検索するのですが、

地元サイト様に出てくる内容の圧倒的大多数(98.5%・オイラ脳内調べ)は、

「日本軍がここに飛行場を建設したせいで大変な被害を被った。1945年の勝利で飛行場を取り返した」

という内容で占められています。

他地域では、母語のWikiに飛行場記事があればマシな方で、

その飛行場についての唯一の情報が防衛研究所の資料のみ。

なんてことはザラです。

恨み節を書くお気持ちは理解しますし、台湾にもそうした記事はあります。

そんな中、客観的に飛行場の姿を捉えようとする視点で書かれた記事数で、

台湾は唯一無二の突出した存在です。


上の方で「台湾の資料は内容がまちまちで混乱する」的なことを書きましたが、

これって、他地域とは比較にならない程の情報量だからこそ、比較、議論が可能である。

ということの裏返しなんですよね。

特に TAIWANAIRBLOG様はグーグルマップ上に非常に精密な飛行場の作図を載せておられ、

管理者の張維斌先生に問い合わせたところ、この作図の掲載許可について快諾頂き、

拙ブログ内で随分使用させていただきました。


台湾編に取りかかったのが2021年2月7日、70の記事作成が全て終了したのが、2021年6月30日。

「本当にありがとうございました」とメールしたところ、

「どういたしまして。お役に立ててうれしいです。台湾にワクチンを寄付してくれた日本に感謝します。」

という返信を頂いたのでした。


一連の台湾シリーズ作成で大いに参考にさせて頂いたサイト様を以下列挙します。

本当はまだまだご紹介したいサイト様があるのですが、

台湾編は、こうした地元サイト様の貴重な情報がなければ、決してつくれませんでした。

日治下臺南永康機場的時空記憶 
盟軍記載的二戰臺灣機場 
太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署 
U.S. Army Map Service/Formosa (Taiwan) City Plans 
飛行場の測候所 
TAIWANAIRBLOG 

最後になりますが、張維斌先生はじめ、多数のサイト管理者様に深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。

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