台湾・歸仁飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾 台南市 帰仁(きじん)区にあった日本軍の「歸仁飛行場」。
現在は中華民国陸軍の飛行場になっています。
■「歸仁機場(歸仁飛行場)的歷史-陸軍歸仁輕航基地」というサイト様(下記リンク参照)に地図があり、
先頭のグーグルマップはこの地図から作図させて頂きました。
同サイト様には当飛行場についての詳しい解説もあり、それによりますと、
昭和19年(1944年)に設置された特攻機の出撃基地。
「農地を埋めて飛行場を建設することにより、日本軍の食糧と体力を奪うことを目的に、
連合軍側の人物が日本軍に潜入してこの飛行場を造らせたのだ」
未確認ながらこんな民間伝承がある。
とのことです。
また、十字滑走路の長さについては、1,800m、1,280m等、幾つかの数字が並んでいるのですが、
実際に作図して長さを測ってみると、飛行場の南北方向の長さは1,600m、
いかにも滑走路っぽい部分の長さが1,070mしかありませんでした。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
連合軍は当飛行場を、MAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類しています。
これは、4,500ft(約1,370m)以上の滑走路を備えていることが条件です。
とあります。
地図をそのまま作図するとこの条件を満たしていないことと、
上述の通り滑走路の長さについて様々な数字が存在することから、
もしかしたらオイラが作図に使用した地図は、
「ここにこんな形の滑走路アリ」という記号のようなものか、かなりアバウトなものかもしれません。
台湾・歸仁飛行場跡地
歸仁飛行場 データ
設置管理者:日本軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾台南市帰仁区七甲里
座 標:22°58'46.6"N 120°17'04.2"E
標 高:18m
滑走路:1,800m(18/36)、1,280m(09/27)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年 設置
関連サイト:
歸仁機場(歸仁飛行場)的歷史-陸軍歸仁輕航基地■
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ)■
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台湾・二林飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾彰化県二林(じりん)鎮にあった「二林飛行場」。
先頭のグーグルマップは、
■飛行場の測候所/前進二林飛行場! から作図させて頂きました(下記リンク参照)。
同サイト様によれば、当飛行場は1944年6月に農地を収用し、日本海軍によって建設されました。
また、付属施設はないとのことです。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
連合軍は当飛行場をMLG(Medium Bomber Landing Ground:中爆撃機着陸場)に分類していました。
台湾・二林飛行場跡地
二林飛行場 データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾彰化県二林鎮中西里
座 標:23°53'24.7"N 120°20'57.8"E
標 高:10m
飛行場:1,500mx1,150m(不定形)
滑走路:1,500mx100m
方 位:18/36
(データはグーグルアースから)
沿革
1944年06月 15日 収用
関連サイト:
飛行場の測候所/前進二林飛行場!■
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ)■
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台湾・宜蘭(南)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾北部、太平洋側に位置する宜蘭(ぎらん)県。
与那国島から最も近く、南部山岳地帯は2,000mを優に超えるため、
多分与那国から肉眼で見えているのはこの辺りではないかと。
宜蘭には、北、南、西と、3つの宜蘭飛行場がありました。
先頭のグーグルマップは、U.S. Army Map Service,/Giran から作図しました(下記リンク参照)。
青マーカーの辺りから北東に延びているのが、最も古い「宜蘭(北)飛行場」。
その南東側にあるのが、V字滑走路の「宜蘭(南)飛行場」。
西側にちょっと離れているのが「宜蘭(西)飛行場」です。
この記事ではV字滑走路の「宜蘭(南)飛行場」について取り上げます。
■太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署(下記リンク参照)にはこうありました。
鳳山、宜蘭、小港、八塊等、日本では珍しいV字形が採用されたのは、
周囲に拡張可能な土地が不足していたためでした。
飛行場敷地は、近くの地形、集落、鉄道、道路、川、谷の障害物によって制限を受けます。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されていました。
有蓋掩体壕、もしくはその地割が(オイラが数えた範囲で)9ヶ所現存しています。
特にその中の1つは「員山機堡」として整備され、記念館も併設しています(青マーカー)。
先頭のグーグルマップをご覧いただきますと、誘導路がそのまま現在まで道路として残っている部分が多いですね。
また誘導路に沿ってウサギの耳がたくさんあります。
これはU.S. Army Map Service,/Giran の描き方を見ると、駐機場ではなく無蓋掩体壕だと思うのですが、
(オイラが見た範囲では)1か所だけ、この地割が残っています(赤マーカー地点)。
現地で見てみたい~。
元々飛行場だった部分、滑走地区がかなり拡張され、西側が鋭く斜めになってますが、
これは作図の参考にしたU.S. Army Map Service,/Giran が見切れているせいです。
在台日本人向けTAIPEInavi/特攻隊飛行跡地(宜蘭市)というサイト様によれば、
宜蘭市内には南北、そして西にも軍用飛行場が建設され、民間機は北飛行場に限られていたこと、
南飛行場は1941年に建設されたこと等記されていました。
また「宜蘭飛行場」で画像検索すると、南飛行場の2本の滑走路が東側で結合してV字型になっている
ものが多数出てきます。
U.S. Army Map Service,/Giran では、南飛行場の北側の滑走路について、
「1944年10月工事中」と記されており、この後工事が続いて結合してのではないかと。
台湾・宜蘭(南)飛行場跡地
宜蘭(南)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾宜蘭県宜蘭市建業里
座 標:24°43'56.4"N 121°45'00.5"E
標 高:7m
滑走路:1,700mx200m(09/27)、1,600mx70m(05/22)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1941年 南飛行場建設
1945年08月 終戦
関連サイト:
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ)■
U.S. Army Map Service,/Giran■
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台湾・台東(南)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾台東県台東にあった「台東(南)(北)飛行場」。
先頭のグーグルマップ、西側の山吹色のシェイプと、東側のレモンイエローのシェイプに分かれてますが、
レモンイエロー北東にある着陸場部分(現行滑走路北側部分)が以前記事にした「台東(北)飛行場」です。
そしてその南側のV字滑走路と、西側の山吹色の2本の滑走路が、「台東(南)飛行場」。
「台東(南)飛行場」には合計4本の滑走路があったのですね。
この記事では「台東(南)飛行場」を取り上げます。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
当飛行場は連合軍によりHLG(Heavy Bomber Landing Ground:重爆撃機着陸場)に分類されていました。
作図のうちレモンイエローのシェイプは、 U.S. Army Map Service/Formosa(以下AMS)から、
山吹色のシェイプは、「盟軍記載的二戰臺灣機場」というサイト様に航空写真があり、
そこから作図しました(下記リンク参照)。
AMSの地図はかなり末期の航空写真から作成されたものなんですが、
その後更に一部誘導路と掩体壕を潰してまで、2本の滑走路と誘導路を追加したことになります。
物凄い増強ぶりですね(XДX)
■太平洋戰爭下日本陸軍於高雄地區的機場整備與航空隊部署(下記リンク参照)には、
この物凄い増強をした理由が示されていました。
米軍が太平洋で着実に前進するにつれて、1944年初頭の大本営は米軍を警戒し、琉球、尖閣諸島(宮古列島、八重山列島、釣魚台などを含む)、台湾およびその他の重要な地域への交通を確保しました。絶対防衛圏と南ルートについては、上記地域の軍事力を強化するために「十号作戦準備」が実施された。台湾の航空戦闘準備に加えて、宜蘭、花蓮、台東などの場所に「第2飛行場」が追加された。
着実に勢力を増してゆく米軍への対抗策として、日本軍は台湾の軍事力強化のため「第2飛行場」追加を計画し、
その計画の中に台東飛行場が含まれていたのですね。
建設時期が明確ではないのですが、防衛研究所資料からすると、V字滑走路はかなり後の時期に建設されました。
それでこのV字滑走路を含む「台東(南)飛行場」≒「第2飛行場」ということなのではないかと。
前出の「盟軍記載的二戰臺灣機場」(41コマ。下記リンク参照)にはこうあります。
台東空港については、以前のいくつかの研究では、台東(北)と台東(南)を1つの空港と見なし、いくつかは2つの空港と見なしていました。 米軍は台東(北)が台東空港の旧着陸地であると記録しているので、1つの空港を考えると、南の施設は巨大で、合計4本の滑走路があります。 日本の記録については、前節で述べたように、台東(北)が海軍空港、台東(南)が陸軍空港です。 著者は、2つの空港の建設時期が異なるだけでなく、軍の駐屯地の種類も異なると考えているため、別々に計算する必要があります。
地元研究者の間でも飛行場の分類に関して、評価が分かれる様子が記されていますが、
台湾の飛行場については、名称、用途、陸軍なのか海軍なのか等、判定が分かれているケースが散見されます。
例えばこの資料では、「台東(北)飛行場」は海軍、「台東(南)飛行場」は陸軍としていますが、
他の資料(日治下臺南永康機場的時空記憶)では南北どちらも陸軍として分類しています。
オイラ個人としましては、両方の飛行場が非常に隣接しており、誘導路で非常に仲良く繋がっていることから、
どちらも陸軍であるか、若しくは末期に共用していたような気がするのですが。。。
ザッと見た感じ、掩体壕は現在1つも残ってないようなんですが、
掩体壕が残っていれば陸軍型か海軍型かで判断材料になったんですけどね。
以下完全に余談なんですが、作図の苦労話を。
台湾に何の土地勘も予備知識も持たぬオイラは、AMSの緯度経度情報からおおよそのアタリをつけ、
どこかにV字滑走路の地割は残っていないだろうかとグーグルマップを探したのですが、
まず最初に「ここじゃないだろうか」と思ったのは、現在の滑走路R/W04エンドから西南西約3kmにある、
国立台東大学でした。
大学の陸上トラックの辺りが、方向といい、大きさといい、丁度V字滑走路っぽいです。
ところがこの場所で作図を始めてみたら、AMSと滑走路の角度が約1°合いません。
たったの1°なんですが、滑走路の全長は2,000mあり、1°ズレたままで2,000m伸ばすと、
かなりの歪みになります。
どうもここではないらしい。ということで次に目を付けたのは、
現在の滑走路のR/W04エンド付近でした。
ここも角度といい大きさといい、V字っぽい地割になっています。
ところが、ここもしっくりこず、すっかり途方に暮れてしまったのですが、
AMSに描かれている周辺の主用道路全体をレイヤにしてみたら、
意外なことにほぼそのまま現在まで残っており、想像だにしない場所にV字滑走路が浮かび上がったのでした。
台湾・台東(南)飛行場跡地
台東(南)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾台東県台東新園里、康楽里等
座 標:22°45'08.5"N 121°04'51.7"E
標 高:64m
西側の滑走路:1,500mx150m(01/19)
東側の滑走路:1,450mx190m(04/22)
V字滑走路:2,000mx210m(04/22)、2,000mx210m(17/35)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
盟軍記載的二戰臺灣機場(21,41,42コマ)■
U.S. Army Map Service/Formosa (Taiwan) City Plans/Tainan■
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台湾・鹽埔(新圍)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾の屏東県鹽埔(えんぽ)郷のすぐ南にあった「鹽埔(新圍)飛行場」。
現在のところ、アジ歴、国立公文書館デジタルアーカイブ、手持の防衛研究所収蔵資料、
ネットには情報がない飛行場です。
■「盟軍記載的二戰臺灣機場」というサイト様(下記リンク参照)
が唯一の情報源なんですが、ここに屏東北飛行場との位置関係を写した1945年の航空写真があり、
先頭のグーグルマップはこの航空写真から作図しました。
広範囲を写した不鮮明な写真なので精度に自信ないですが、おおよそこんな感じと思います。
滑走路の長さについては、航空写真からだとかなり読み取り辛いんですが、
写真に書き込まれた数字を参考にしました。
また同資料によれば、
当飛行場は連合軍によりHLG(Heavy Bomber Landing Ground:重爆撃機着陸場)に分類されており、
連合軍は1945年1月の偵察写真で「鹽埔(新圍)飛行場」を確認し、爆撃した後放棄したと思われる。
この飛行場については日本にも記録がなく、詳細は未だ確認されていない。
とありました。
台湾・鹽埔(新圍)飛行場跡地
鹽埔(新圍)飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾 屏東 長治郷 徳和村
座 標:22°42'34.2"N 120°32'38.6"E
標 高:44m
滑走路:1,935mx97m(10/28)、1,200mx64m(01/19)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは資料:盟軍記載的二戰臺灣機場から)
関連サイト:
盟軍記載的二戰臺灣機場(21,40-50コマ)■
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