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鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月 訪問  



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撮影年月日1947/05/13(昭22)(USA M1001 112) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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国立国会図書館デジタルコレクション/


鹿児島県の徳之島、天城村淺間に建設された陸軍の「浅間飛行場(徳之島北飛行場)」。

マップをご覧の通りで現在の徳之島空港よりも少し内陸にありました。


■徳之島町誌(1970) 186p-
第九節 徳之島陸軍飛行場
 戦時中、陸軍飛行場は天城村浅間の現在の旅客飛行場の東側南北にわたり滑走路を作り、同町岡前たんぼの南
北の丘陵下に掩体壕と滑走路、松原の北の山の手へ滑走路と掩体壕建設計画途上、終戦で中止となった。この飛
行場の影響は徳之島全島に及ぶので、ここに集録する。

1.浅間飛行場
 昭和十八年、戦局は悪化し南方各島嶼各作戦は敗退を続け、インド・ビルマ作戦も後退を続けていた。敵の進
攻速度は速くなり、フィリピン、台湾、沖縄、奄美と本土への飛び石伝いの島々の防衛強化がさけばれてきた。
同年十月八日、航空本部熊本支所長一行十二人が徳之島に来た。一行は平土野に泊り、九日は上田利光天城村長
ら幹部を帯同し、浅間部落一帯を視察、十日は瀬龍部落一帯を視察し、安藤俊良技師、太宰見習視官ら三人を残
して、一行は沖縄県平島に出発した。
 十月十二日には安藤陸軍技師を主任として鹿児島県より派遣された藤崎修技手、天城村碇山昌明土木技手等が
浅間部落一帯の測量をはじめた。測量が終ると土地買収が始まった。土地は宅地は一畝歩で七十二円、畑は一等
地五十四円、二等地三十九円、三等地二十一円であった。家屋の転居料は倉、牛馬豚舎含めて、最高五千円、最
低三、四百円のものもあった。数十年、数百年、先祖代々住みなれた宅地家屋の移転は平和な住民にかなり苦痛
であった。値上げなどを要望すれば、国家総動員法で没収されると公言し、住民はしかたなく異議もできないま
ま移転でごった返した。買収した地域は浅間部落の通称、福殿地より幅員六十二メートル、浅間原を北に、川津
辺部落の半田川に至る南北千五百メートルの滑走路と海岸線にいたる約七十九町歩の宅地や農地であった。

2.二千二百人徴用命令
 十一月二十五日、陸軍の野村潔主計少尉、佐々木曹長らが下士官と技術員、軍属など十数名を引率して十島丸で
亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚げし、更に二十六日は御用船にて平土野港に数十石の材木を荷揚げした。これ
ら資材は浅間湾屋港に運び込まれ、野村少尉ら幹部は川口延男宅に、下士官・軍属は浅間青年会場を宿舎として飛
行場建設をはじめた。十一月二十八日、野村少尉は徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集して飛行場建設
の趣意説明を行ない人夫供出を命じた。命令によると人夫は亀津町四百五十人、伊仙村六百人、東天城村四百三
十人、地元天城村は八百人、合計二千二百八十人の人夫割当て命令であった。また各町村青年学校は男生徒全部
を一ヶ月交替として天城村と東天城村を一班、亀津町と伊仙村を二班として編成し、命令一下、何時でも出動さ
れる如く準備待機せよとのことであった。更にまた天城村に対しては、村内の馬車は薪用材運搬班、大工と石工
は建築班、事務炊事用半として六十名の男女を確保しておくように命じた。また天城村の岡前、阿布木名(天城
と改称)、兼久の三小学校は人夫宿舎に充当するよう命ぜられた。
 これら労務者と青年学校生の待遇については陸軍経理部から天城村は自宅通勤とし、東天城村、亀津町、伊仙
村の労務者は天城村の三小学校舎に収容することになり、賄つきとすることになり、労務賃金は賄つきで普通男
子一日一円五拾銭、大工と石工は二円、自宅通勤労務者は一円八拾銭、同大工と石工は二円三拾銭、女子はその
仕事の内容によって八十銭から一円十銭までとし、青年学校生徒は伊仙、亀津、東天城の出身者は賄つきで一日
五十銭、天城村青年学校生徒は自宅通勤として一日八十銭を支給すると下達された。また勤務時間は午前六時現
場集合、人員点検報告の上、宮城遥拝して七時作業開始、午後六時まで昼食一時間、午前午後十五分ずつの休憩
時間をもうけた。なにしろ午前六時現場集合のため飛行場より遠い学校や部落宿泊者たちは午前三時、四時に起
きて朝食、五時に家を出て徒歩で作業指定現場に向かわないと間に合わないので最初の間は大変つらい仕事であ
った。
 十一月三十日軍命令が天城村に出され、十二月一日より百人ずつの人夫を二日間にわたりだすべきことを命じ
た。人夫は午前六時湾屋港到着、資材上陸のため仮桟橋を設けた。これら資材は岡前、前野の山林から杉材や松
材が所有者の許可なく切り出され、苦情をもってくれば総動員法で処分されると公言され、全部泣き寝入りとな
った。十二月三日から天城村立青年学校に出動命令が下り、益田豊成校長以下職員と男生徒四百人が建設現場に
出動した。工事は野村少尉、太宰見習視官等が直接指揮し、松岡福二兄弟の屋敷より、西の方は宮村永峰の畑、
納芳義美の屋敷の東側、島利栄の屋敷の東側一帯の窪地で、鬱蒼たる畑の周囲の蘇鉄、槇、榕樹、柑橘類の林木
の伐採、抜根を命じた。

3.人夫出動す
 更に青年学校生徒に続いて、人夫出動命令が十二月六日より天城村、他の三ヶ町村には十二月八日より出動す
べき命令がでた。各町村総動員係は小学校卒業の男女から満六十才までの人夫を動員し、人夫の代理出夫は認め
たが病気以外の者は認めず、割当て通り全村民がその出動することになった。これら村外からの労務者は、色あ
せた毛布に日用品を入れ色あせはてた作業着を着て、古い鍬、みつまた、山刀、斧など作業用具を携帯して遠く
伊仙、亀津、東天城村から徒歩できて岡前、天城、兼久の三小学校や各部落青年会場に分宿、あるいは大きい個
人宅に宿泊して飛行場建設に従事した。
 作業は工具が当時既に鉄不足で買えなくなっていたため、ほとんど全部の労務者のもっている鍬、みつまた等
はすべて古いものばかりで作業能率はあがらず、また航空本部も陸軍航空本部徳之島出張所という看板に似ずわ
ずかに数十条の「トロ」用レール、三十数台のトロ、百四台のリヤカーに、中古トラック五台にすぎない有様

で、土工作業器具がないため伐採、抜根、運搬等みな原始的人力に頼る以外に方法がなく、額に玉なす汗をふき
つつ、乏しい配給生活に耐えつつ作業はすすめられた。
 昭和十九年一月から沖永良部、与論両島から三百余名の労務者が応援に来た。悪化しつつある戦局に備えて工
事は突貫作業となり、各現場は競いたち、三月十日の陸軍記念日頃には大体の荒工事を終わり、砂糖黍畑は変じ
て一望坦々たる運動場のようになった。
 また同時に、飛行場外に駐屯する陸軍飛行中隊の兵舎敷地の整備も済み、兵舎、練兵場、倉庫、中隊本部等の
礎石コンクリート設備も終わり仮事務所のバラック建て三十坪余も完成した。航空本部では三月十日陸軍記念日
に、四ヶ町村長ら三役及び全島の小学校長、青年学校長を飛行場、南側の湾屋川下流の川原に招き、起工式をあ
げ必勝を祈る祝宴を開いた。五月に入り飛行場はほとんど落成し、各所に地積一反二畝、三方に二メートルから
三メートルの堤防を築き、一ヶ所より飛行機の出入りできる掩体壕を二十数ヶ所設けた。このうち岡前たんぼの
南側山沿いに滑走路をまわし、通過所を設け、更にたんぼの北側にも同様に掩体壕を作る計画をすすめたが、完
成せぬうちに終戦となった。六月に入り飛行中隊本部、事務室、整備室、倉庫、便所に至るまで完成し、出入門
と歩哨小屋も完成し、場内には守衛を置いて巡視させるほどになった。六月には第六師団経理部長一行の徳之島
巡視が行なわれ、飛行場の完成に伴なって試験飛行を済ませ、毎日数機の飛行機が離着陸するようになった。

大変な苦労の上に建設された飛行場なのですね。


■伊仙町誌 271p
によれば、終戦間もない9月18日のこと、米軍大佐が50人ほどの兵士を引き連れて徳之島に上陸、

島内視察をしたのですが、ちょうど浅間飛行場を視察しているところに、

双胴双発の戦闘機がきて飛行場を爆撃し、約10分ほどで飛び去ったのだそうです。

大佐は怒って、沖縄の米軍本部に連絡。

翌日には参謀総長付法務長官、法務官らが調査に訪れるというハプニングがあったのだそうです。


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運輸省大臣官房文書課 編『運輸』4(2),運輸故資更生協会,1954-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275022 (参照 2024-04-22) 


上に貼ったのは、「還ってきた奄美群島の運輸交通事情」と題する記事の一部です。

奄美群島が日本に返還されたのは、1953年12月24日のことでした。

その直後の奄美群島の飛行場について、現状と要望が記されています。

この当時、奄美群島にあった陸上飛行場は(水上機基地は奄美大島の古仁屋基地)、

日本陸軍が建設した「徳之島飛行場」、日本海軍の「喜界飛行場」の2つだけで、

どちらも破壊され、現在は米国民政府の管理となり、農耕地として貸し付けられているとあります。

こうした波乱万丈の経緯を経て、現在があるのですね。


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紫マーカー地点。

特攻平和慰霊碑の由来
 この地は 旧陸軍飛行場の跡でありさる太平洋戦争における本土防衛最後の砦として 沖縄決戦に出征する紅顔可憐な特別攻撃隊の中継基地となり数多くの若き勇士が 莞爾として翼をつらね 暗雲急を告げる南の空へ飛び立ち 逝いて帰らざることとなりし思い出深きところである
 これら丈夫の 至情至純に満ち溢れし精神を顕彰し 悠久空しく散華せる御霊の とこしえに安らかにあられんことを請い願い 以って祖国日本の永遠の平和と発展を望むは まさに国民の総意といえよう
 天城町では このゆかりも深き 旧飛行場跡に 御遺族 有志の願望に答えるべく 内外からの浄財により 特攻平和慰霊碑を建立して 御霊を幾久しく鎮めまつり その御遺徳を後世に永く伝え 併せて 日本民族の平和と隆盛を祈念するため いささか由来を述べ碑文とする 昭和五十年八月十五日 天城町特攻平和慰霊顕彰会会長 天城町長吉岡為良


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碑のすぐ前に伸びている滑走路跡の道路。

滑走路方向。

先頭のグーグルマップで確認して頂いた方が話が早いのですが、

碑は、滑走路北端、そして中心線に位置しています。

ここから離陸滑走を開始し、離陸後少し右旋回すれば、僅か100余km先には沖縄。


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灰マーカー地点。

滑走路方向。


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説明板拡大(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます。先頭のグーグルマップもここから作図させて頂きましたm(_ _)m)


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赤マーカー地点。

滑走路南端から滑走路方向。


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中学校の校庭側から小道に入ってゆくと、説明板があります。

(天城遺産/陸軍浅間飛行場跡 にて閲覧できます)


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黒マーカー地点。

無蓋掩体壕跡(の1つ)。

民家があり、撮影方向が限られるのですが、緑の部分が無蓋掩体壕のはず。

画面向って右側に入口があります。

写真からでは伝わりませんが、土地の高低差を巧みに利用しています。


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黄色マーカー地点。

補助滑走路北方向。


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同じく黄色マーカー地点。

補助滑走路南方向。


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青マーカー地点。

誘導路跡。西方向。


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同じく青マーカー地点。

誘導路跡。東方向。



     鹿児島県・浅間飛行場(徳之島北飛行場)跡地         
浅間飛行場(徳之島北飛行場) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県大島郡天城町浅間
座 標:27°49'59.2"N 128°53'18.7"E
標 高:16m
面 積:99.2ha
主滑走路:1,500mx62m
着陸帯:1,525mx275m
方 位:18/36
補助滑走路:850mx25m
方 位:01/19
(座標、標高、方位はグーグルアースから。面積は運輸省大臣官房文書課 編『運輸』から)

沿革
1943年10月 8日 航空本部熊本支所長一行12人来島。翌日、天城村長ら幹部を帯同し浅間部落一帯を視察
        12日 浅間部落一帯の測量開始。その後土地買収
    11月 25日 陸軍、亀徳港に数十屯に及ぶ糧秣を荷揚。翌日平土野港に数十石の材木荷揚。建設開始
        28日 陸軍、徳之島四ヶ町村長と青年学校長を亀津に招集。計2,280名の人夫招集命令
1944年01月 沖永良部、与論両島から300余名の労務者が応援に来る
     03月 10日 大体の荒工事終了。起工式
     05月 飛行場ほぼ完成。無蓋掩体壕20数基建設
     06月 第六師団経理部長一行による巡視。飛行場完成により試験飛行
1945年08月 15日 終戦。米軍による占領統治
     09月 18日 米軍による視察中、爆撃を受ける
       その後、飛行場は米国民政府の財産管理官の管理下に置かれ、農耕地として貸し付けられる
1953年12月 24日 奄美群島返還
1975年08月 15日 特攻平和慰霊碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文、説明板
徳之島町誌(1970)
伊仙町誌(1978)


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