屋島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2014年6月、2023年12月、2024年5月訪問 2024/7更新
撮影年月日1947/10/08(昭22)(USA R517-4 42)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
香川県高松市にあった陸軍の「屋島飛行場」。
本土決戦に備え、観光道路を拡張した陸軍の秘匿飛行場でした。
当飛行場につきましては、2014年以来長い間、滑走路が途中から折れ曲がっていると書いていたのですが、
2023年10月に屋島調査中さんから「香川県立図書館に米軍が空襲前に撮影した写真がある」と教えて頂き、
2023年12月にその航空写真を見てきたのでした。
閲覧させて頂いた航空写真には、観光道路の屈曲している部分の主に東側に、
確かに滑走路状のものが白く写ってました!!
これまで拙ブログに「ここが滑走路」として載せていたのより、約400m東側にズレてました。
これまで長い間不正確な情報を載せてしまい、大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
また、屋島調査中さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
写真はコピー可とのことだったのですが、その写真があまりに大き過ぎて図書館のコピー機だと、
コピーしたい滑走路部分が収まらない(コピー機の蓋が外せない)ため複写できません。
スマホで撮っても良いとのことで、滑走路部分を撮影させて頂き、
自宅に戻ってから作図したのが、先頭のグーグルマップの黄色シェイプです。
長さ850m、幅約45mで、秘匿飛行場としてよくあるサイズでした。
で、上に貼った1947/10/08の航空写真で滑走路部分を確認すると、如何にもな痕跡が残ってました(赤矢印部分)。
幾つかの資料で「観光道路を拡幅して滑走路にした」とあるのですが、
県立図書館で閲覧した航空写真等見ると、観光道路の特に南側を拡幅したように見えます。
青マーカー地点(以下3枚とも)。
新川橋から続く県道155号線(途中から33号になってる)。
ここから画面奥に向かって約300m進んだ右側一帯にタダノがあります。
前述の通り、当飛行場の位置については様々なサイト様に情報があるのですが、
しばしば「タダノのとこから屋島神社参道のところまで」と説明されています。
林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が付近の住民と共に作業に従事し、
滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られたのだそうです。
工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と並行して深い溝を掘り、
その土を道路との間に盛り上げ、同じ高さにして固めました。
基礎には牟礼や庵治から大きな砕石を運んできて敷石しました。
拡張した部分は芝で覆い、周囲の田畑と見分けがつかないようにしました。
滑走路に沿って北側には水路があり、南側(上の画面で道路に沿って右側)にはヨシズがあり、
飛行機を駐機させていたのだそうです。
屋島神社参道(黄マーカー)も整地拡張され、ヨシズの広がる陸軍機の秘匿場所となったのだそうです。
新川橋から見た新川。
ここの河原から砂利を採り、トロッコで運んでいたのだそうです。
レファレンス協同データベースに屋島飛行場についての調査結果が2つあります■■
この中で、「牟礼町史」(牟礼町史編集委員会/編 牟礼町 1993年発行)として、
太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行場の滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた
とあります。
「切り取られた橋の欄干」については、これまでずっと新川橋のことだと考えていたのですが、
新川橋は滑走路から離れており、直接の関係がありません。
屋島調査中さんからもご指摘頂いていたのですが、滑走路の中ほどに口銭場川が流れていて、
橋がかかっています(灰マーカー)。
恐らくこの橋の欄干が切り取られたのではないかと。
この飛行場は結局使用されなかったのですが、
米軍の高松爆撃計画では、指定番号2602(Kirai Airfield)として登録されていました。
はーめるさん、通りすがりさんから情報頂いたのですが、当地周辺には「東帰来」、「南帰来」等、
帰来という地名があります。
変更されて消えてしまった「〇帰来」もありますので詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。
はーめるさん、通りすがりさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m
7月4日の高松空襲の際、当飛行場を狙ったと思われる空襲があり、屋島山上の獅子霊巌部分が被爆したのだそうです。
赤マーカー地点。
滑走路方向
香川県・屋島飛行場跡地
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:香川県高松市新田町甲
座 標:34°20'14.1"N 134°06'20.8"E
標 高:3m
滑走路:850mx45m
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年 春建設開始
07月 4日高松空襲
この記事の資料:
「高松空襲戦災誌」
なぜ曲がってるんでしょう?上空から見て、「ここは、飛行場じゃないよ(^O^)・・・」ってカモフラージュなのかぁ(゜д゜)
by 鹿児島のこういち (2014-08-27 09:09)
折れ曲がった滑走路ですか・・・
着陸がとても難しそうです。^^
by ジョルノ飛曹長 (2014-08-27 12:55)
那須与一くらいしか思い浮かばない地名ですが、
いろいろな歴史があるものですねφ(..)メモメモ
by an-kazu (2014-08-27 22:30)
皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m
■鹿児島のこういちさん
確かにこんな折れ曲がってた普通滑走路と思わないですよね~^^;
■ジョルノ飛曹長さん
確かにそうですね。
■an-kazuさん
古文の教科書に出ていたエピソードはここでのことだったのですね(滝汗)
by とり (2014-08-28 06:07)
高松町の住人ですが、JR屋島駅の東一帯に「東帰来」と「南帰来」の地名が住宅地図で確認できますよ。
by はーめる (2014-12-10 23:12)
■はーめるさん
米軍資料は非常に正確だったのですね。
貴重な情報どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-12-11 06:28)
郷土誌を作っています。帰来の地名の語源を探していて出会いました。
高松町の中心部が帰来で、東西南北の帰来と中帰来の5つの地区からなっていました。大正から昭和にかけては屋島や八栗詣での参拝客が多く、4,5軒の旅館と遊郭があったにぎやかなところだったそうです。
地図上の屋島神宮参道に接する東端は現在の西ノ丁になります。
誰が変えたか分かりませんが、中帰来と西帰来は中ノ丁と西ノ丁に変わっています。
途中から南側に斜めに走る道が志度街道で2代前の国道でした。八栗から志度に至ります。この道路沿いが当時の繁華街でした。
現在の高松町は以前の古高松村で、その中心に喜岡寺があり、元は喜岡城で高松左馬之助が城主でした。豊臣軍に攻め滅ぼされ、落城しました。
その後、城は西の現在地に移動し、生駒から松平家へと明治まで続きます。
by 通りすがり (2018-11-22 08:13)
■通りすがりさん
貴重な情報どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2018-11-23 05:13)
たった今、香川県立図書館で巨大に引き伸ばされた米軍が空襲前に撮影した高松市の航空写真を見てきたのですが、滑走路らしいものは参道の少し東側から西へと伸びており、志度街道との合流部分では道路に沿って折れ曲がらずに、道路ではない部分を直進しています。西端はタダノ前の屋島小学校や登山道へ続く三叉路の南側になります。
by 屋島調査中 (2023-10-31 15:01)
(追記)橋の欄干を壊した、というのは新川ではなく口銭場川かも知れません。
by 屋島調査中 (2023-10-31 15:06)
■ 屋島調査中さん
来年四国にお邪魔する予定なので、その航空写真オイラも見てきます。
情報ありがとうございました。
by とり (2023-11-01 04:58)