国分(端岡)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2014年6月訪問 2021/11更新
撮影年月日1947/10/08(昭22)(USA R517-4 59)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
香川県高松市にあった「国分(端岡)飛行場」。
既存の道路を拡張整備した陸軍の秘匿飛行場です。
現在の県道33号線がそれで、道路を滑走路として使用する事を目的に、多くの畑、民家が潰されたのですが、
終戦のため未完に終わりました。
上に貼った航空写真、オリジナルで拡大して見ると、道路の北側部分に拡張したような跡が見られます。
滑走路として設定されたのは、「国分駅~ポプラまでの1,000m」と説明されています。
(実際にこの区間をグーグルアースで測ると、1,383m)。
当記事のコメント欄に暇人マツボーさんから貴重な情報を頂きましたので、
ここにまとめさせていただきました。
終戦時に端岡国民学校高等科(今83歳)の祖父がおりますが、当時の話をよくしてくれます。
ここを建設していた部隊は北九州の陸軍兵で、国民学校に駐屯していたので兵隊と話をしたり薪取りに行ったりしてたそうです。
武家屋敷の旧家が立ち退きになったのでよく覚えてるそうです
全て手作業なので建設はあまり進んでおらずただの更地だったそうで、範囲は間違いありません。
しかし道路はそのままで時折第11師団とみられるトラックや民間車が通っていたらしいです。
建設は北九州の陸軍兵と国民学校の最上級生、あとは周辺の住民です。曾祖父が動員されたとかも言ってました
飛行場周囲の20メーターくらいは立ち退きです。天津神社の巨大な松ノ木も離着陸に危険があるため伐採されました。
「中西南里団地」の「西」のあたりに倉庫があり、そこにモッコや一輪車、シャベルなどの道具を格納してました。
ちなみに列車が端岡駅にかかると秘匿の飛行場の為北側の窓を閉めねばならなかったそう。だいたいの人は知ってたそうですが…w
暇人マツボーさん、貴重な情報をどうもありがとうございましたm(_ _)m
赤マーカー地点。
最初は滑走路端から撮ろうとしたのですが、レンズ越しに見ると意外と曲線で先を見通す事ができず、
この場所から撮りました。
香川県・国分(端岡)飛行場跡地
国分(端岡)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
空港種別:秘匿飛行場
所在地:香川県高松市国分寺町国分
座 標:N34°18′06″E133°56′58″
標 高:31m
滑走路:1,000m×50m
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年08月 終戦に寄り未完
関連サイト:
ブログ内関連記事■
国分って名前ということは、昔ここには国分寺があったのでしょうか?飛行場とは関係ないか(^O^)
by 鹿児島のこういち (2014-08-30 22:01)
■鹿児島のこういちさん
ビンゴです!
第八十番札所讃岐国分寺があります!(記事先頭の地図のA地点の右上のとこに今もあります)
by とり (2014-08-31 10:57)
今の国分寺も昔からの由緒正しき国分寺なのですか?凄いっすね\(◎o◎)/!鹿児島の国分寺は、国分市(現霧島市)も川内市も江戸時代の廃仏毀釈のため現存していませんよ。
by 鹿児島のこういち (2014-09-01 18:10)
■鹿児島のこういちさん
Wikiでは、創建年 天平勝宝8年(756年)以前
とありました。
>廃仏毀釈
そんなことがあったんですね(@Д@)
by とり (2014-09-02 06:12)
おっ!この近くに住んでおりますw
終戦時に端岡国民学校高等科(今83歳)の祖父がおりますが、当時の話をよくしてくれます。
ここを建設していた部隊は北九州の陸軍兵で、国民学校に駐屯していたので兵隊と話をしたり薪取りに行ったりしてたそうです。
武家屋敷の旧家が立ち退きになったのでよく覚えてるそうです
祖父に当時のことについて何か質問があるなら聞きますよ(・ω・)
by 暇人マツボー (2015-08-17 02:39)
■暇人マツボーさん いらっしゃいませ
貴重なお話をありがとうございます。
当飛行場は情報がほとんどないので、
実際に兵隊さんと接触のあった方から直接話が伺えるのは非常にありがたいです。
お言葉に甘えてご質問させて頂きます。
・建設途中で終戦とのことですが、建設はどの程度まで進んだのでしょうか
・滑走路の範囲は、図で示した国分駅前~端岡の交差点までで合っているでしょうか
・沿革情報(地元への通告、土地買収契約、立退き、家屋の解体、建設開始等)おおよそでもご存じでしたら教えてください
・その他建設当時の様子等
特に急ぎませんので、もし一部の点でも何か情報頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
by とり (2015-08-17 07:05)
全て手作業なので建設はあまり進んでおらずただの更地だったそうで、範囲は間違いありません。
しかし道路はそのままで時折第11師団とみられるトラックや民間車が通っていたらしいです。
建設は北九州の陸軍兵と国民学校の最上級生、あとは周辺の住民です。曾祖父が動員されたとかも言ってました
飛行場周囲の20メーターくらいは立ち退きです。天津神社の巨大な松ノ木も離着陸に危険があるため伐採されました。
「中西南里団地」の「西」のあたりに倉庫があり、そこにモッコや一輪車、シャベルなどの道具を格納してました。
ちなみに列車が端岡駅にかかると秘匿の飛行場の為北側の窓を閉めねばならなかったそう。だいたいの人は知ってたそうですが…w
いつ始まったかは覚えてないみたいです
by 暇人マツボー (2015-08-17 12:20)
■暇人マツボーさん
記事冒頭に追記入れさせて頂きました。
貴重な情報を迅速に送って下さり、感謝致します。
御祖父様にくれぐれも宜しくお伝え下さいませ。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2015-08-17 19:03)