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香川県・日本航空輸送高松基地跡 [├国内の空港、飛行場]

   2023年12月訪問  



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1/25000「高松北部」昭和3年測図「今昔マップ on the web」から作成



大正時代、香川県高松市に日本航空輸送研究所の水上機基地が設けられました。

新修高松市史Ⅱ 482p に以下記されていました 

高松空港の由来
大正十一年(1922)十一月、日本航空輸送研究所機が、高松を訪問した。ちょうど、県下で、陸軍特別大演習が、行われている時であったから、速報をたっとぶ新聞社がわから、大いに歓迎、利用された。
 大演習の記事や、写真の輸送に、とりわけ、スピード化を発揮して、喜ばれた。この時の高松-大阪間は、一時間五十分でとんだ。
 大正十二年二月一日、同所(日本航空)は、堺-高松-徳島-堺の、三角コース定期航空を、開始した。
 高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。
 当時の飛行機は、横廠式イ号甲型双浮舟複葉水上機という、いまから考えると幼稚な飛行機であった。
 大正十四年(1925)五月二十日、堺-高松-今治間の郵便飛行を開始した。昭和四年には、大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物の輸送が開始され、高松商船組(高松商運の前身)が、この航空路の代理店であった。
 高松港外(大的場)で、モーターボートによって、連絡し、旅客の送迎、郵便貨物を積み込んだ。とりわけ、悦ばれたのは、スピードを、利用する旅客はもちろん、大阪一流料亭への、鮮魚の輸送などに、おおもてだった。
 このときの使用機は、ユンカーF一三型金属製低翼単葉水上旅客機、発動機ユンカーモーターL五・三一〇馬力、速力、時速一ニ〇キロ、乗員二名、旅客四名、貨物一二〇キロであった。ほかに、ハンザー単葉水上機、六機で、貨物、郵便物も運んだ。
 そのご、昭和九年十二月三日、一四式改造旅客機五機をふやし、大阪-高松-松山-別府線に、就航させた。
 昭和十一年十一月四日から、スーパーマリン、サザンプトン双葉複葉飛行艇を使用した。この艇は、旅客十七名をのせる大型で、これを初めてみた市民は、なんと大きな、飛行艇だと、おどろいたものだ。
 いまでこそ、三十人、五十人、百人乗りの大型機が、就航している。昔のことで、十七人乗りは、大きなもの
であった。
 日本航空輸送が、どうして、この大型艇を、高松へもってきたか。これは、瀬戸内海国立公園の景観を、空からながめさせ、遊覧飛行の将来を、ねらうのが、目的であったらしい。
 だから、この機には、あらたに、エアホステスを乗せ、飛行ちゅう、機内で、空からみる島々の説明をし、飲
みもののサービスに、あたらしていた。
 ともかく、遊覧飛行のムードを、おこさせ、たのしい空の旅を、じゅうぶん、味あわせることに、つとめた。また大阪商船と、タイアップして、連絡券を発行し、飛行機と船で、高松、松山、別府への観光客を、誘致に努めたので、成績があがったといわれる。
 昭和十五年に入って、戦線はきびしく、戦時体制が強化された。こういうわけで、大阪-高松間の航空路を、そだてた日本航空輸送研究所は、大日本航空(株)会社に、統合された。
 そのご戦況おもわしくなく、ローカル・ラインは、ついに廃止された。瀬戸内海定期航空路は、戦争のため影
を消した。

「高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。」

とあります。

これは大正12年(1923年)のことで、上に貼った地図は昭和3年(1928年)のものですが、

確かにそんな感じになってますね。

先頭のグーグルマップをご覧の通りで、その後埋立が進み、

当時の海岸線も桟橋も、今はすっかり陸地になっています。

DSC_2019_00001.jpg
赤マーカー地点。

瀬戸大橋通りを跨ぐ陸橋から。

当時はこの瀬戸大橋通りの画面向って右側が陸側で、左側が海でした。

陸側から海に突き出した桟橋は、画面左端のボーリング場の辺りまで伸びてました(オイラの作図が正しければ)。

この辺りで小型水上機や連絡船の行き来があったはずです。




     香川県・日本航空輸送高松基地跡         
日本航空輸送高松基地 データ
設置管理者:井上長一
種 別:水上飛行場
所在地:香川県高松市浜ノ町9-12
座 標:34°20'57.7"N 134°02'20.1"E
標 高:2m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1922年11月 日本航空輸送研究所機飛来
1923年02月 1日 堺-高松-徳島-堺の三角コース定期運航開始
1925年05月 20日 堺-高松-今治間郵便飛行開始
1929年   大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物輸送開始
1934年12月 3日 大阪-高松-松山-別府線に一四式改造旅客機就航
1940年   日本航空輸送研究所、大日本航空(株)会社に統合

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マージイ

 水上機の格納庫は戦後も大的場の海水浴場にありました。
高松愛国飛行場は戦後、北は塩田、南は農地、東は競馬場になりました、
豹部隊の零戦が不時着した、松山から香取へ移動する途中だったのかもしれない。
戦後高松が空襲で焼けたので高松中学校が格納庫を弦打教場として使用していました。軍隊帰りの先輩が土手に集めて檄を飛ばしていた、海軍の月光が不時着したままになっていたそうです。
鬼無の道を飛行場にするので鬼無の駅に集まれと高松中学の生徒は言われていたが前日に高松が空襲で焼けたのでそのままになったそうです。


by マージイ (2024-05-11 10:47) 

とり

■マージイさん
非常に貴重な情報をありがとうございます。
「戦後も大的場の海水浴場にあった水上機の格納庫」とは、
拙記事上に貼った昭和22年撮影の写真の赤丸部分のことでしょうか?
また、道を飛行場にする計画だったのは、
鬼無駅から北北東に真っ直ぐ高松市立勝賀中学校の方向に伸びる現県道33号線
のことでしょうか?
質問ばかりで申し訳ありません。
調べてもまったく出てこなかった情報の為、ご教授頂ければ幸いです。

by とり (2024-05-11 19:41) 

マージイ

 西浜漁港は鉄道線路が明治時代に出来てふさがれて北に造られました。
大的場は東にありました。 格納庫の写真は郷土史の本に載っていましたがどの本に載っていたかが不明です。海岸のきわに建っていました。大的場の海水浴場は満潮になると海になってしまうので引揚用桟橋で何とかできたのでしよう。 古い航空写真を見てもそれらしい建物はわかりません、すでになくなっていたのかもしれません。 大正12年7月1日 日本航空輸送研究所 開航式  大的場に格納庫を建築  香川新報。 
 現県道は戦後、国道11号線として造られました、現在は南に移動。    
高松中学(高松高校)の生徒が思い出を書いている本に鬼無の駅に集まれ、愛国飛行場の格納庫で授業をしたなど。別の人は音楽の授業は弦打教場にピアノがなかったのでトーン記号ばかり書かされたと言っていました。 多分、現県道でしよう中練なら海軍も陸軍も何千機も持っていたから。






by マージイ (2024-06-06 14:04) 

とり

■マージイさん
貴重な情報感謝致します。

by とり (2024-06-07 06:53) 

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