徳島県・沖洲飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問 2024/7更新
1/25000「徳島」昭和9年二修「今昔マップ on the web」から作成
撮影年月日1947/10/08(昭22)(USA R517-2 2)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
徳島県徳島市北沖洲。
徳島空港の南約7kmのこの場所に昭和12年、民間の「沖洲飛行場」が建設されました。
飛行場の正確な位置は不明です。
後述しますが、飛行場の地名が「徳島市沖須町高洲」とあること、上に貼った地図、航空写真から、
恐らく先頭のグーグルマップに囲った範囲にあったと思います。
徳島空港の南約7kmのこの場所に昭和12年、民間の「沖洲飛行場」が建設されました。
飛行場の正確な位置は不明です。
後述しますが、飛行場の地名が「徳島市沖須町高洲」とあること、上に貼った地図、航空写真から、
恐らく先頭のグーグルマップに囲った範囲にあったと思います。
『徳島市民読本』,徳島市教育会研究部,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1035109 (参照 2024-02-28)■
■徳島市民読本(昭和12年出版)↑上に貼ったもの
「最近の発展」の項目で、「近く沖洲飛行場も開設を見やうとしてゐる。」
■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」 211p
沖洲民間飛行場
(徳島飛行場・グライダー滑空場)
徳島市沖須町高洲
1937年8月28日徳島毎日新聞は「日本で初めての六角型の飛行場で…何れの風向に於ても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」と報じている。飛行場の埋め立てが完了したにかかわらず、陸上施設が竣工しなかったので、市民の期待する航空路は開設されなかった。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)760p
(三)沖洲飛行場の建設
国民の空に対する関心が深まって、全国各地で愛国飛行場の建設、防空兵器の献納が盛んに行われるようになった。徳島においても昭和九年に北佐古町湊晴喜・佐古町山本岩吉・西新町大西角平らの在郷軍人が、愛国飛行場の建設・聴音機・高射砲の防空施設の設置を計画した。また、これに同調して徳島国権宣揚会も、建設資金の募集をはじめた。このころ逓信省においては、国内に航空路を新設するため新潟・長野・富山・徳島・高知に飛行場の建設を決定、昭和十年に七四万円の予算を計上した。翌十一年には大阪・徳島・高知間の航空路を開設するため、逓信省徳島飛行場出張所を設置し、延原正義を主任として常駐させた。
徳島県は飛行場の候補地に、徳島市沖洲町高洲、徳島市津田町、名東郡加茂名町鮎喰川下流、板野郡川内村小松新田、那賀郡板野村和田島の五か所を内定した。逓信省森航空館の実地調査の結果、徳島市街に近接するうえ飛行機離着陸の障害物が少なく、比較的地価が低廉で全用地を久米寅七が所有しているため買収交渉が容易であるなどの好条件に恵まれている沖洲町高洲が指定された。
総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収が完了したので、昭和十二年八月二十八日、清水徳島県知事・後藤総務部長、藤岡徳島市長・津川助役、立木・立石・橋本各県議、関係地主ら五〇余名が出席して、徳島飛行場建設地鎮祭が現地において厳粛に執行された。
設計書が不明であるため飛行場の構造は詳かではないが、当時の徳島毎日新聞はつぎのように報じている。「日本ではじめて六角形の飛行場、敷設は六万余坪形状については理想的とする円形は経済の都合上差控え円形に次ぐ理想たる六角形状に類似したものを採用したもので此の計画は本邦嚆矢のものであり何れの風向に於いても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」しかし、実際に完成したときには三角形であったという説もある。建設工事を進めていた徳島県は、内務省神戸土木出張所のサンドポンプ船和泉丸を借用し、徳島港浚渫の土砂をもって六万二〇〇〇余坪を埋立てて、陸上施設を建築し昭和十二年度内に完成する予定であったが、工事が遅れて埋立てが完成するのは翌十三年八月ころであった。これに要した工費はおよそ一五万円であるが、地元に設置を希望した徳島市は市会の議決を経て五万七〇〇〇円を負担することにした。
飛行場用地の埋立が完了したにもかかわらず陸上施設が竣功しなかったので、市民の期待した航空路は開設されなかった。このころ航空知識の普及と飛行士への適性を向上させるため、グライダーの操縦が盛んになってきた。徳島航空学校長岩田源一は、この用地を借用して徳島グライダー研究会を設立し、滑空士の養成にあたった。研究会は、名誉会長工藤隆治徳島市長・会長岩田源一徳島航空学校長・理事長谷川寛治徳島航空学校主事・専務理事中川一等飛行士・同糸田川二等飛行士らによって構成された。また、文部省が全国の中等学校・専門学校・高等学校・青年学校・青年団などに訓練を奨励したので、徳島においても、昭和十四年に徳島師範学校、翌十五年に徳島工業学校、同十六年には寺島青年学校が訓練をはじめた。このため沖洲飛行場は、グライダー滑空場となってしまった。
逓信省主導の航空路新設構想から始まった飛行場建設だったのですね。
昭和13年頃に埋立が終わったものの、地上施設は完成せず、
大阪へ、高知へと、市民の期待した路線開設は実現しませんでした。
実現しなかった理由について、資料には特に記されていませんが、
大阪から水上機で小松島、松山、高松に路線開設していた日本航空輸送研究所が、
国策会社である大日本航空の設立により業務停止したのが昭和14年でした。
恐らくこうした徐々に強まる戦時統制の影響じゃないでしょうか。
冒頭でも触れましたが、資料にある通り、諸条件から「沖洲町高洲」が飛行場用地として選定されました。
上に貼った地図は昭和9年のものなので、「ここに造ろう!」と決まる2年前の地図。
海岸沿いに「高洲」という地名がありますからこの周辺なんだろうと分かりますが、
遊水地?の存在感が凄いです。
次の航空写真は昭和22年のものですが、ここでも遊水地?の存在感は相変わらず。
つまり、埋立工事を含む飛行場建設後も遊水地?は変わらずここにあった訳で、
とすると、円形に近い六角形の飛行場はこの遊水地?の内陸側にあったはず。
そう考えて昭和22年の航空写真を見ると、遊水地?の内陸側に三角形の地割が浮かび上がります。
ということで先頭のグーグルマップは、航空写真の三角形の範囲をレイヤにして作図したのでした。
資料では、「総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収」とあります。
二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46ha
グーグルマップの三角形≒19.6ha
かなり近い数字ですね。
作図をしていた際は、「この三角形の範囲内に六角形の飛行場があったんじゃないか」と思っていたのですが、
それだと六角形の飛行場はかなり小さくなります。
六角形の飛行場の面積が、二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46haだったとすると、
遊水地?は動かしようがないですから、
しっかりと整備されている道路、畑、集落のある側に飛行場を広げざるを得ません。
それよりは、資料内でも「実際に完成したときには三角形であったという説もある。」とある通り、
オイラとしましては、グーグルマップの三角形が飛行場の形にかなり近いのではないかと思います。
買収した飛行場敷地は三角形で、その中で特に離着陸に適した六角形の「離着陸帯」が設定されたのかも。
■徳島市史 第4巻 (教育編・文化編)452p
県立工業学校などは昭和十五年にいち早くグライダーを取り入れ、沖洲飛行場で盛んに猛訓練を繰り返した。
■帰らざるふるさと・徳島75p
(徳島市立工業学校卒業生の手記から一部抜粋) 航空機科の生徒は文部省から支給された「グライダー」の組立てをしたり、沖洲飛行場で連日滑空訓練に汗を流し大いにきたえられた。(中略)しかし昭和二十年八月十五日の終戦とともに航空機科は終わりをつげ、十一月に航空機科は正式に廃止された。
上記2つの資料では、実際に沖洲飛行場で滑空訓練が行われていたことが扱われています。
滑空訓練は終戦まで続けられていたようですね。
民間航空路開設のために建設されたものの、グライダー練習場として終戦を迎え、
その後徐々に開発が進み現在に至ります。
まさに時代に翻弄された土地ですね。
仮に飛行場施設が計画通り完成し、航空路が開設していたとしたら、
もしかして、ここが拡張を続けて徳島空港になった未来もあったのかしらん。
なんてことも考えたのですが、当飛行場がグライダー練習場と化したのが昭和14年、
7km離れた場所に海軍徳島航空基地(現・徳島空港)が発足したのが昭和17年。
海軍は当然沖洲飛行場の存在は知っていたはずですが、それでも一面の田圃に新規で飛行場を造成したのでした。
「最近の発展」の項目で、「近く沖洲飛行場も開設を見やうとしてゐる。」
■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」 211p
沖洲民間飛行場
(徳島飛行場・グライダー滑空場)
徳島市沖須町高洲
1937年8月28日徳島毎日新聞は「日本で初めての六角型の飛行場で…何れの風向に於ても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」と報じている。飛行場の埋め立てが完了したにかかわらず、陸上施設が竣工しなかったので、市民の期待する航空路は開設されなかった。
■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)760p
(三)沖洲飛行場の建設
国民の空に対する関心が深まって、全国各地で愛国飛行場の建設、防空兵器の献納が盛んに行われるようになった。徳島においても昭和九年に北佐古町湊晴喜・佐古町山本岩吉・西新町大西角平らの在郷軍人が、愛国飛行場の建設・聴音機・高射砲の防空施設の設置を計画した。また、これに同調して徳島国権宣揚会も、建設資金の募集をはじめた。このころ逓信省においては、国内に航空路を新設するため新潟・長野・富山・徳島・高知に飛行場の建設を決定、昭和十年に七四万円の予算を計上した。翌十一年には大阪・徳島・高知間の航空路を開設するため、逓信省徳島飛行場出張所を設置し、延原正義を主任として常駐させた。
徳島県は飛行場の候補地に、徳島市沖洲町高洲、徳島市津田町、名東郡加茂名町鮎喰川下流、板野郡川内村小松新田、那賀郡板野村和田島の五か所を内定した。逓信省森航空館の実地調査の結果、徳島市街に近接するうえ飛行機離着陸の障害物が少なく、比較的地価が低廉で全用地を久米寅七が所有しているため買収交渉が容易であるなどの好条件に恵まれている沖洲町高洲が指定された。
総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収が完了したので、昭和十二年八月二十八日、清水徳島県知事・後藤総務部長、藤岡徳島市長・津川助役、立木・立石・橋本各県議、関係地主ら五〇余名が出席して、徳島飛行場建設地鎮祭が現地において厳粛に執行された。
設計書が不明であるため飛行場の構造は詳かではないが、当時の徳島毎日新聞はつぎのように報じている。「日本ではじめて六角形の飛行場、敷設は六万余坪形状については理想的とする円形は経済の都合上差控え円形に次ぐ理想たる六角形状に類似したものを採用したもので此の計画は本邦嚆矢のものであり何れの風向に於いても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」しかし、実際に完成したときには三角形であったという説もある。建設工事を進めていた徳島県は、内務省神戸土木出張所のサンドポンプ船和泉丸を借用し、徳島港浚渫の土砂をもって六万二〇〇〇余坪を埋立てて、陸上施設を建築し昭和十二年度内に完成する予定であったが、工事が遅れて埋立てが完成するのは翌十三年八月ころであった。これに要した工費はおよそ一五万円であるが、地元に設置を希望した徳島市は市会の議決を経て五万七〇〇〇円を負担することにした。
飛行場用地の埋立が完了したにもかかわらず陸上施設が竣功しなかったので、市民の期待した航空路は開設されなかった。このころ航空知識の普及と飛行士への適性を向上させるため、グライダーの操縦が盛んになってきた。徳島航空学校長岩田源一は、この用地を借用して徳島グライダー研究会を設立し、滑空士の養成にあたった。研究会は、名誉会長工藤隆治徳島市長・会長岩田源一徳島航空学校長・理事長谷川寛治徳島航空学校主事・専務理事中川一等飛行士・同糸田川二等飛行士らによって構成された。また、文部省が全国の中等学校・専門学校・高等学校・青年学校・青年団などに訓練を奨励したので、徳島においても、昭和十四年に徳島師範学校、翌十五年に徳島工業学校、同十六年には寺島青年学校が訓練をはじめた。このため沖洲飛行場は、グライダー滑空場となってしまった。
逓信省主導の航空路新設構想から始まった飛行場建設だったのですね。
昭和13年頃に埋立が終わったものの、地上施設は完成せず、
大阪へ、高知へと、市民の期待した路線開設は実現しませんでした。
実現しなかった理由について、資料には特に記されていませんが、
大阪から水上機で小松島、松山、高松に路線開設していた日本航空輸送研究所が、
国策会社である大日本航空の設立により業務停止したのが昭和14年でした。
恐らくこうした徐々に強まる戦時統制の影響じゃないでしょうか。
冒頭でも触れましたが、資料にある通り、諸条件から「沖洲町高洲」が飛行場用地として選定されました。
上に貼った地図は昭和9年のものなので、「ここに造ろう!」と決まる2年前の地図。
海岸沿いに「高洲」という地名がありますからこの周辺なんだろうと分かりますが、
遊水地?の存在感が凄いです。
次の航空写真は昭和22年のものですが、ここでも遊水地?の存在感は相変わらず。
つまり、埋立工事を含む飛行場建設後も遊水地?は変わらずここにあった訳で、
とすると、円形に近い六角形の飛行場はこの遊水地?の内陸側にあったはず。
そう考えて昭和22年の航空写真を見ると、遊水地?の内陸側に三角形の地割が浮かび上がります。
ということで先頭のグーグルマップは、航空写真の三角形の範囲をレイヤにして作図したのでした。
資料では、「総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収」とあります。
二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46ha
グーグルマップの三角形≒19.6ha
かなり近い数字ですね。
作図をしていた際は、「この三角形の範囲内に六角形の飛行場があったんじゃないか」と思っていたのですが、
それだと六角形の飛行場はかなり小さくなります。
六角形の飛行場の面積が、二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46haだったとすると、
遊水地?は動かしようがないですから、
しっかりと整備されている道路、畑、集落のある側に飛行場を広げざるを得ません。
それよりは、資料内でも「実際に完成したときには三角形であったという説もある。」とある通り、
オイラとしましては、グーグルマップの三角形が飛行場の形にかなり近いのではないかと思います。
買収した飛行場敷地は三角形で、その中で特に離着陸に適した六角形の「離着陸帯」が設定されたのかも。
■徳島市史 第4巻 (教育編・文化編)452p
県立工業学校などは昭和十五年にいち早くグライダーを取り入れ、沖洲飛行場で盛んに猛訓練を繰り返した。
■帰らざるふるさと・徳島75p
(徳島市立工業学校卒業生の手記から一部抜粋) 航空機科の生徒は文部省から支給された「グライダー」の組立てをしたり、沖洲飛行場で連日滑空訓練に汗を流し大いにきたえられた。(中略)しかし昭和二十年八月十五日の終戦とともに航空機科は終わりをつげ、十一月に航空機科は正式に廃止された。
上記2つの資料では、実際に沖洲飛行場で滑空訓練が行われていたことが扱われています。
滑空訓練は終戦まで続けられていたようですね。
民間航空路開設のために建設されたものの、グライダー練習場として終戦を迎え、
その後徐々に開発が進み現在に至ります。
まさに時代に翻弄された土地ですね。
仮に飛行場施設が計画通り完成し、航空路が開設していたとしたら、
もしかして、ここが拡張を続けて徳島空港になった未来もあったのかしらん。
なんてことも考えたのですが、当飛行場がグライダー練習場と化したのが昭和14年、
7km離れた場所に海軍徳島航空基地(現・徳島空港)が発足したのが昭和17年。
海軍は当然沖洲飛行場の存在は知っていたはずですが、それでも一面の田圃に新規で飛行場を造成したのでした。
徳島市史編さん室 編『徳島市史』第3巻 (産業経済編・交通通信編),徳島市教育委員会,1983.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575283 (参照 2024-07-13)(395コマ)
赤マーカー地点。
この先に飛行場が広がっていたのではないかと。
徳島県・沖洲飛行場跡地
沖洲飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県徳島市沖須町高洲(現・徳島市北沖洲)
座 標:34°04'14.5"N 134°35'21.7"E
標 高:2m
面 積:20.5ha
(座標、標高はグーグルアースから。面積は徳島市史から)
沿革
1934年 逓信省、この頃航空路新設のため新潟・長野・富山・徳島・高知県内に飛行場建設を決定
1935年 逓信省、74万円の予算計上
1936年 逓信省徳島飛行場出張所設置。その後、候補地の中から高洲に決定。土地買収へ
1937年 8月28日 地鎮祭
1938年 8月 この頃埋立て完成するも地上施設は完成せず
1939年 徳島師範学校が滑空訓練開始
1940年 徳島工業学校が滑空訓練開始
1941年 寺島青年学校が滑空訓練開始
1945年 終戦
関連サイト:
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この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
「徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)」
「徳島市史 第4巻 (教育編・文化編)」
「帰らざるふるさと・徳島」
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