香川県・日本航空輸送高松基地跡 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問
1/25000「高松北部」昭和3年測図「今昔マップ on the web」から作成
新修高松市史Ⅱ 482p に以下記されていました■
高松空港の由来
大正十一年(1922)十一月、日本航空輸送研究所機が、高松を訪問した。ちょうど、県下で、陸軍特別大演習が、行われている時であったから、速報をたっとぶ新聞社がわから、大いに歓迎、利用された。
大演習の記事や、写真の輸送に、とりわけ、スピード化を発揮して、喜ばれた。この時の高松-大阪間は、一時間五十分でとんだ。
大正十二年二月一日、同所(日本航空)は、堺-高松-徳島-堺の、三角コース定期航空を、開始した。
高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。
当時の飛行機は、横廠式イ号甲型双浮舟複葉水上機という、いまから考えると幼稚な飛行機であった。
大正十四年(1925)五月二十日、堺-高松-今治間の郵便飛行を開始した。昭和四年には、大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物の輸送が開始され、高松商船組(高松商運の前身)が、この航空路の代理店であった。
高松港外(大的場)で、モーターボートによって、連絡し、旅客の送迎、郵便貨物を積み込んだ。とりわけ、悦ばれたのは、スピードを、利用する旅客はもちろん、大阪一流料亭への、鮮魚の輸送などに、おおもてだった。
このときの使用機は、ユンカーF一三型金属製低翼単葉水上旅客機、発動機ユンカーモーターL五・三一〇馬力、速力、時速一ニ〇キロ、乗員二名、旅客四名、貨物一二〇キロであった。ほかに、ハンザー単葉水上機、六機で、貨物、郵便物も運んだ。
そのご、昭和九年十二月三日、一四式改造旅客機五機をふやし、大阪-高松-松山-別府線に、就航させた。
昭和十一年十一月四日から、スーパーマリン、サザンプトン双葉複葉飛行艇を使用した。この艇は、旅客十七名をのせる大型で、これを初めてみた市民は、なんと大きな、飛行艇だと、おどろいたものだ。
いまでこそ、三十人、五十人、百人乗りの大型機が、就航している。昔のことで、十七人乗りは、大きなもの
であった。
日本航空輸送が、どうして、この大型艇を、高松へもってきたか。これは、瀬戸内海国立公園の景観を、空からながめさせ、遊覧飛行の将来を、ねらうのが、目的であったらしい。
だから、この機には、あらたに、エアホステスを乗せ、飛行ちゅう、機内で、空からみる島々の説明をし、飲
みもののサービスに、あたらしていた。
ともかく、遊覧飛行のムードを、おこさせ、たのしい空の旅を、じゅうぶん、味あわせることに、つとめた。また大阪商船と、タイアップして、連絡券を発行し、飛行機と船で、高松、松山、別府への観光客を、誘致に努めたので、成績があがったといわれる。
昭和十五年に入って、戦線はきびしく、戦時体制が強化された。こういうわけで、大阪-高松間の航空路を、そだてた日本航空輸送研究所は、大日本航空(株)会社に、統合された。
そのご戦況おもわしくなく、ローカル・ラインは、ついに廃止された。瀬戸内海定期航空路は、戦争のため影
を消した。
「高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。」
とあります。
これは大正12年(1923年)のことで、上に貼った地図は昭和3年(1928年)のものですが、
確かにそんな感じになってますね。
先頭のグーグルマップをご覧の通りで、その後埋立が進み、
当時の海岸線も桟橋も、今はすっかり陸地になっています。
赤マーカー地点。
瀬戸大橋通りを跨ぐ陸橋から。
当時はこの瀬戸大橋通りの画面向って右側が陸側で、左側が海でした。
陸側から海に突き出した桟橋は、画面左端のボーリング場の辺りまで伸びてました(オイラの作図が正しければ)。
この辺りで小型水上機や連絡船の行き来があったはずです。
香川県・日本航空輸送高松基地跡
日本航空輸送高松基地 データ
設置管理者:井上長一
種 別:水上飛行場
所在地:香川県高松市浜ノ町9-12
座 標:34°20'57.7"N 134°02'20.1"E
標 高:2m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1922年11月 日本航空輸送研究所機飛来
1923年02月 1日 堺-高松-徳島-堺の三角コース定期運航開始
1925年05月 20日 堺-高松-今治間郵便飛行開始
1929年 大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物輸送開始
1934年12月 3日 大阪-高松-松山-別府線に一四式改造旅客機就航
1940年 日本航空輸送研究所、大日本航空(株)会社に統合
関連サイト:
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香川県・善通寺練兵場着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問
撮影年月日1947/09/08(USA M450 40)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
香川県善通寺市、善通寺駐屯地の北約1kmにあった「善通寺練兵場」。
現在は研究所、医療センター等になっていますが、当時この練兵場内に着陸場が設定されていました。
■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」の中に当着陸場の地図があり、
先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
精度は低いんですが、おおよそこんな感じと思います。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
善通寺練兵場(昭和10年6月調)
香川県仲多度郡善通寺町
着陸場の状況
高さ 平均水面上約25米。
広さ及形状 本練兵場は東西最大約1粁、南北最大約550米の東西に長き
地域なり・着陸地域は其の東半部図示の長さ東西約550米、幅南北約100米の
東西に細長き長方形地区なり(付図参照)。
地表の土質 沙を混ずる粘土。
地面の状況 地表概ね平坦且堅硬なり・場の西半部には殆ど芝を生ずるも
東半部の着陸地域内及其の付近一帯は禿地にして沙地の地肌を露出す・場の北
西隅付近芝を生ずる地域一帯は起伏なきも若干の凸凹あり地表比較的軟弱なり
・着陸地域内及其の付近一帯は禿地なるを以て夏季炎天続き強風の際は沙塵を
飛揚することあり・降雨の際は地表概して平坦なる為諸処に水溜を生ずるも沙
を混ずるを以て排水概ね良好なり、又霜解け時には地表土質粘土なるを以て局
処的に稍泥濘と為る処あり。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・場の北側略中央部に付近に(原文ママ)軍用建築
物ある森林地帯あり・場の南側東部に高さ約5米の独立樹(松の記念樹)あり。
適当なる着陸方向及着陸上注意すべき点 西南西・前記の際は場の北東外
側に沿う道路の東方に在る高さ約15米の赤煉瓦煙突を右下に認めつつ西南西
方に降下着陸するを適当とす・場の東側南部に在る高さ約7米の並木に注意を
要す。
其の他
本練兵場は航空各部隊の飛行基地として屡使用す。
着陸場方向。
香川県・善通寺練兵場着陸場跡地
善通寺練兵場着陸場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:着陸場
所在地:香川県仲多度郡善通寺町(現・善通寺市仙遊町)
座 標:N34°13′47″E133°46′25″
標 高:25m
着陸場:550mx100m
方 位:07/25
(座標、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
中国四国・4 [■旅行記]
Ⓐ道の駅 やす→Ⓑ高知空港→ⓒ観音寺飛行場→Ⓓ善通寺練兵場跡地→Ⓔ高松空港→Ⓕ香川県立図書館→Ⓖ屋島飛行場跡地→Ⓗ高松愛国飛行場跡地→Ⓘ高松市の水上機基地跡→Ⓐ沖洲民間飛行場跡地→Ⓑ徳島空港→ⓒ宝塚北SA→Ⓓ湾岸長島PA→Ⓔ岡崎SA(車中泊)
4:40 起床
6:00 道の駅やす出発
15:30 四国での見学全て終了。
即鳴門大橋を渡って埼玉に戻ることに。
自宅まで660km。
航続可能距離:840kmなので、180km余裕ある。
でもここから高速走行で燃費落ちるから注意しないと。
走り出して少ししたら雨が降り始めました。
ホントにいろいろとギリギリだった(XДX)
2日目の広島県内の高速走行時もそうだったんですが、日が落ちて暗くなって雨脚の強い中での高速走行でした。
高速走行時は運転支援システムを積極的に使うのですが、
特に車線維持が秀逸で、夜の雨という悪条件でも精度は昼とまったく変わりません(個人の感想です)。
車速、前車追随機能も正確で信頼感が高く、目の悪いオイラにとっては頼もしい限り。
19:30 湾岸長島PAにてお土産購入
20:25 岡崎SA着
20:55 寝る
おやすみなさい。
(続きます)
本日の走行距離:1,081km
再訪の場所は既存の記事に追記してあります。
高知空港■
観音寺飛行場■
高松空港■
屋島飛行場跡地■
高松愛国飛行場跡地■
徳島空港■
愛媛県・伽藍山防空監視哨聴音壕跡 [├場所]
2023年12月訪問
愛媛県西宇和郡伊 佐田岬半島の先にある伽藍山。
この伽藍山の頂上に「伽藍山防空監視哨聴音壕跡」があります。
■出雲市教育委員会「出雲市文化財調査報告書 北浜防空監視哨跡 高島城跡」■
の中で、出雲市の北浜防空監視哨聴音壕も二重になっており、
「二重に積み上げ、その間を空洞にして、飛行機の爆音を反響しやすくした構造になっている可能性が高い」
とありました。
奥にちょっと霞んでるのが大分県。
目と耳でカバーできる範囲が凄い(@Д@)
これだけ九州側が目視できる位置に監視哨が設けてある意味は大きかったんでしょうね。
愛媛県・伽藍山防空監視哨聴音壕跡
伽藍山防空監視哨聴音壕 データ
所在地:愛媛県西宇和郡伊方町三崎
座 標:33°24'06.3"N 132°07'04.0"E
標 高:414m
(座標はグーグルアースから。標高は説明板から)
関連サイト:
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この記事の資料:
現地説明板
愛媛県・八幡浜湾 [├場所]
2023年12月訪問
愛媛県西部、佐田岬半島の付け根にある八幡浜湾。
大正時代、ここに水上機が飛来しました。
また、3年後には遊覧飛行もありました。
■八幡浜市誌 :合併10周年記念版.第1巻 (歴史編)150p
四 八幡浜と飛行機
大正一三(一九二四)年七月二五日に、朝日新聞社の水上飛行機「千鳥号」が新聞の宣伝のためにやって来て、八幡浜湾に着水した。この飛行機を一目見たさに、大勢の市民が築港一帯に殺到し、栗野浦や向灘から小舟をこぎ出した人々も多かった。三年後には、大分県別府市で遊覧飛行に使われていた「春風号」をチャーターしたセレモニーがあり、希望者を乗せて八幡浜湾上空を旋回した。
「八幡浜湾」としか分からないため、湾内が見晴らせる場所から。
100年前、ここで水上機が飛んでいたことがあったのですね~。
愛媛県・八幡浜湾
八幡浜湾 データ
所在地:愛媛県八幡浜市
沿革
1924年07月 25日 朝日新聞社の水上機「千鳥号」が八幡浜湾に着水
1927年 希望者を乗せて八幡浜湾上空を飛行
関連サイト:
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この記事の資料:
八幡浜市誌:合併10周年記念版.第1巻(歴史編)
愛媛県・栗野浦の仮設飛行場跡地 [├場所]
2023年12月訪問
撮影年月日1947/10/07(昭22)(USA R516-2 1)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛媛県八幡浜市栗野浦。
大正末期の時期、栗野浦の埋立地に仮設飛行場が設けられました。
■八幡浜市誌(昭和六二年三月三十一日)1284pの中に、
大正十五年一〇月、民間飛行機、初めて栗野浦埋立地に着陸
とありました。
■八幡浜市誌:合併10周年記念版.第1巻 (歴史編)150p に以下記されていました。
四 八幡浜と飛行機
前年秋に大洲肱川河原を離陸した陸軍の陸上機が、栗野浦の埋立地の仮設飛行場に着陸を試み、新川岸に車輪を引っかけて失敗した。新川が干潮時で、陸地に見えた操縦士のミスであった。
仮設飛行場の設けられた時期について、「前年秋に」とあります。
これは前文から恐らく大正15年(1926年)と思われます。
仮設飛行場の位置については、「栗野浦の埋立地」「新川」とあります。
2つの資料に栗野浦埋立地への飛来について記しているのですが、
「大正十五年一〇月、民間飛行機、初めて」
「前年(恐らく大正15年)秋に 陸軍の陸上機」
とあり、同時期の話であり、同一の出来事かもしれないのですが、
片や民間飛行機、片や陸軍の陸上機とあり、異なっています。
当時は軍用機を民間に払い下げるケースが非常に多かったため、これだけだとなんともいえません。
また、場所については、
一方が「栗野浦埋立地」としているのに対し、
もう一つは「栗野浦の埋立地」だけでなく、「新川岸」とも記しています。
栗野浦の埋立地は複数あるため、この2つは全く別の場所という可能性もあります。
まあヒコーキが非常に珍しい当時のことですから、同じである可能性が高いのではないかと思いますが、
これだけだと明確に判断つきません。
マップだと「千丈川」という表記の方が圧倒的に多いんですが、千丈川=新川で、
新川の河口付近一帯の左岸側が「栗野浦」という地名です。
あいにく地理院の地図だと縮尺の関係で、大正時代の「栗野浦」の埋め立て具合がよく確認できないのですが、
■愛知県生涯学習センター/データベース『えひめの記憶』■
にこんな説明がありました。
八幡浜市は、宇和島市に比べてはるかに平地に乏しく、流域のせまい新川の片口に立地している。このため市街地は明治以後三五回におよぶ海岸の埋め立てによって広がってきたといってよい(図3―17・表3―41参照)。
前のページ■ には(図3-17)があり、
「八幡浜の埋立事業」として、時代ごとにどのように埋立られていったかが図示されています。
特に栗之浦の埋立については、新川の河口部分(造船所の辺り)と、新川左岸が細く長く埋め立てられた様子が
示されており、埋立はどちらも「大正・昭和時代(1913-83)」とあります。
これは実際に図を見た頂かないと分からないと思うのですが、
まず造船所一帯が埋立られ、次いで新川左岸が細く長く埋め立てられたという順番のはず。
ということで栗之浦の埋立地は、
現在の造船所一帯と、新川左岸沿いの細長い部分に大別できます。
で、このどちらかが仮設飛行場になったはずなのですが、
新川左岸沿いの埋立部分は余りに細過ぎて、オイラ個人としては、仮設飛行場とされたのは、
現在の造船所一帯ではなかったかと思います。
当時のヒコーキは、滑走路の長さよりも、常に風上に向って離着陸できる幅の広さの方が重要なので。
(図3-17)によれば、埋立が実施された期間は、大正・昭和時代(1913-83)なので、
70年の間にこうなった訳ですが、
上に貼った1947年の航空写真と比較すると、1947年以降も埋立が続いたのが分かります。
ということで、(図3-17)と1947年の航空写真から、仮設飛行場当時の埋立はこんなだったのではないか。
と作図したのが先頭のグーグルマップの黄色のシェイプです。
最大でも200m程度の直線しかとれないのですが、大正期のヒコーキならなんとかなるはず(弱)
赤マーカー(沖の橋)。
造船所。
愛媛県・栗野浦の仮設飛行場跡地
栗野浦の仮設飛行場 データ
所在地:愛媛県八幡浜市栗野浦
座 標:33°27'22.0"N 132°25'07.3"E
飛行地区:130mx130m(不定形)
(座標、飛行地区長さはグーグルアースから)
沿革
1926年秋 仮設飛行場が設けられる
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
八幡浜市誌:合併10周年記念版.第1巻 (歴史編)
愛媛県・愛媛義勇飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問
■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
の中に当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
上に貼った1932年測量の地図は、水路部資料と年代が非常に近く、
飛行場の設けられていた地割(赤矢印部分)が全く同一でした。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
愛媛義勇飛行場(昭和10年6月調)
愛媛県温泉郡浮穴村大字井門地先重信河原(松山市南方約5粁)
着陸場の状況
高さ 平均水面上約25米。
広さ及形状 飛行機格納庫南方の重信川流域河原一帯を愛媛義勇飛行会県
当局より飛行場として使用方許可され使用中のものなり・着陸地域は飛行場内
図示の長さ北西-南東約500米、幅北東-南西約80米の細長き地区なり(付
図参照)。
地表の土質 礫石を混ずる沙。
地面の状況 本場付近重信川河幅は400米内外なるも常時河水の流るる本
流の幅は狭小にして此の流域には概して河原多し夏期出水時には相当に増水す
と雖も氾濫して着陸地域一帯に浸水するは5箇年間に1回程度なりと言う・着
陸地域付近一帯は南東方に緩傾斜し且同方向に緩除なる起伏あり・着陸地域内
地表は概して平坦なるも徑約10糎内外の稍大なる石を混ずる沙地にして車輪
没入の処なき概ね堅硬地なり・地表発生物なき沙地なるを以て排水良好なり・
着陸地域の北東及南西至近図示の両処に陥凹地あり(付図参照)。
場内の障碍物 着陸地域の両外側に在る陥凹地。
適当なる着陸方向 北西。
着陸上注意すべき点 着陸面に稍大なる石を混ずるを以て注意を要す・目
下本場使用中の「サルムソン」機の車輪には着陸接地滑走の際大なる影響なし
と言う。
施設 格納庫1(高さ約7米、間口奥行各約18.2米)此の屋根両外面にエ
ヒメと黒色にて記名標示す・吹流 格納庫北東側の高さ約30米の松樹頂に長
さ約4.5米の吹流を常時掲揚す。
其の他
本飛行場経営者は愛媛義勇飛行会なり・本場は目下「サルムソン」機を使用中
なり・重信川流域河原一帯に着陸可能の箇所多しと言う。
■愛媛飛行場について
愛媛県のサイト:データベース『えひめの記憶』の中で、
大正時代にあった「愛媛飛行場」が登場します■
同サイト内の紹介によりますと、この飛行場は、「愛媛義勇飛行場」と同じく重信川河川敷にあり、
位置については「伊予郡松前町徳丸」とあり、オイラが(多分ココ)と考える場所は、
「愛媛義勇飛行場」の下流側なんですが、敷地がちょっと重なっています。
飛行場の名称も「義勇」がつくかどうかの違いだけで、(もしかして同一?)とも思ったのですが、
「同一ではない」という理由を以下列挙します。
1.時代が違う
「愛媛飛行場」は大正14年1月開場、1年5ヵ月で閉鎖
「義勇飛行場」は昭和10年11月の資料に運用中のものとして登場します。
2.大きさが違う
「愛媛飛行場」は1,000mx60m
「義勇飛行場」は500mx80m
3.地名が違う
「愛媛飛行場」は「伊予郡松前町徳丸の重信川河川敷」とあるのですが、
「徳丸」は明治期に「徳丸村」として存在しており、現在は重信川左岸側に大字として残っています。
「義勇飛行場」は昭和10年の資料で「温泉郡浮穴村大字井門地先重信河原」とあります。
「伊予郡」に対して「温泉群」と、郡名からして違うのですが、井門町は重信川右岸側にあります。
また、「愛媛飛行場」は民間の飛行学校と説明されているのに対し、
「義勇飛行場」の方はその使用目的についての説明が見当たらないんですが、
その名称、運用している時代からして、国防を意識した意味合いが強いように思います。
ということで、資料の其の他の項目にも「重信川流域河原一帯に着陸可能の箇所多しと言う」とあり、
両者は別々の飛行場と思います。
青マーカー地点。
資料によれば、この辺りに格納庫、吹流しがありました。
赤マーカー地点。
飛行地区方向
愛媛県・愛媛義勇飛行場跡地
愛媛義勇飛行場 データ
設置管理者:愛媛義勇飛行会
種 別:飛行場
所在地:愛媛県温泉郡浮穴村大字井門地先重信河原(現・愛媛県松山市井門町/愛媛県伊予郡砥部町)
座 標:N33°47′36″E132°46′37″
標 高:25m
着陸場:500mx80m
方 位:14/32
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1935年 この頃運用中
関連サイト:
ブログ内関連記事(愛媛飛行場跡地)■■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
中国四国・3 [■旅行記]
Ⓐ来島海峡SA→Ⓑ竹ノ下飛行場跡地→ⓒ愛媛義勇飛行場跡地→Ⓓ有形文化財指定掩体壕→Ⓔ松山空港→Ⓕ上村島飛行場跡地→Ⓖ栗野浦仮設飛行場跡地→Ⓗ八幡浜湾→Ⓘ伽藍山防空監視哨聴音壕跡→Ⓐ高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場跡地→Ⓑ道の駅 やす(車中泊)
3:20 起床
4:20 来島海峡SA出発 気温12℃
朝の松山市内めっちゃ混んでる!!(XДX)
本日もひたすら移動と撮影を続けたのでした。
13:30 佐多岬の伽藍山展望台到着。
ここに防空監視哨聴音壕跡があります。
伽藍山展望台から。
説明板によれば、奥に霞んで見えるのは大分県だそうです。
写真だと伝わらないですけど、途中から悪路も走ってはるばるやって来た甲斐のある景色でした。
ということで、ここでの撮影が終わったのが13:55。
次の目的地は、高知第三飛行場跡地。
カーナビにセットすると、距離:153kmと出ました。
撮影可能な明るさを考えると、できれば16:30までに済ませたいけど、遅くともせいぜい17:00まで。
これから3時間、平均速度50km/hを維持できるのかしらん。
カーナビは予想到着時刻17:00。間に合うよ!! と表示してます
(休憩時間が計算に入ってない。この人ロボットだから(;-ω-))。
実は日曜日の午後から仕事が入ってしまったのでした。
そのため、どうしても日曜日の午前中には自宅に戻らねばなりません。
見学を途中で切り上げてしまえば良い話なんですが、四国は出入りに時間とお金がかかるため、
できれば四国内の見学ポイントは今回で全部周りたい。
ということで、間に合うかどうか分かりませんが、ともかく向かうことにして走り出したのでした。
決してブッ飛ばすことなく、前を走る車がいれば大人しく付き従い、ひたすら走り続けました。
ナビの予想到着時刻は17:00を過ぎたり戻ったり。
所々でザーッと降られる区間があって、雨雲に覆われるともう本当に薄暗い。
仮に17時前に到着できても、現地がこんな空模様だとアウトです。
もう急ぐのはやめて、途中の温泉にでも入っちゃおうか。
なんてことも考えたりしたのですが、仮に今日間に合わなかったら、明日の朝7時まで足止めです。
そうなると、今回四国全部周るのは絶望的。
コロナのせいもあって、もうずっと行きたくて行きたくて、
今回を本当に心待ちにしていたポイントが四国には沢山あるのです。
できれば今回で全部見たいから頑張ろう(`・ω・´)
…あ、また到着時刻が延びてるよ。やっぱムリかも(´・ω・`)
そんな葛藤を繰り返しながら走り続けたのですが、現地に到着したのは17:00ほぼジャスト。
そして雲はあるのですが、空には明るさが残ってました。
無事高知第三飛行場跡地を撮り終え、これにて本日の撮影終了。
これで勝てる。
次の見学ポイントは、85km先の高知空港。
今日中に高知空港近くまで行けるのはデカいです。
間に合って良かった~(;´Д⊂)
18:50 給油。
19:50 高知空港近くの道の駅やす到着。
もうホントに夜須駅併設の駐車場が道の駅という位、駅前が道の駅になってました。
高架をディーゼル音を響かせる車両がすごい新鮮。
20:45 寝る
おやすみなさい。
本日の走行距離:472km
今回周った見学ポイントのうち、再訪の場所は既存の記事に追記してあります。
竹ノ下飛行場跡地■
有形文化財指定掩体壕■
松山空港■
上村島飛行場跡地■
高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場跡地■
下ヶ原航空基地(六二二基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
に以下記されていました。
(NIDS 戦史資料・戦史叢書検索にて閲覧可になりました■ 18~21コマ)
下ヶ原航空基地施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 広島県佐伯郡栗谷村
最寄駅 東海道線玖波駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 練習機
主要任務 発進用
■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」209p にも以下記されていました。
下ヶ原海軍飛行場
佐伯郡栗谷村下ヶ原
大竹市栗谷町下ヶ原
発進
600x30砂利敷
1945年7月
国道186号。山陽本線玖波駅西北8km
「飛行場は完成しましたが、
実際に滑走路は利用されることなく終戦をむかえ、
軍施設ということで地主に戻ることなく、ニュージ
ーランド軍が約一年ぐらい駐留したとのことです」。
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました。
PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 呉
牧場 下ヶ原
滑走路 三〇×六〇〇NNE
縣郡村 広島、佐伯 □□村
記事 八月末既成
滑走路方向
滑走路方向
広島県・下ヶ原航空基地(六二二基地)跡地
下ヶ原航空基地(六二二基地) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:広島県大竹市栗谷町大栗林
座 標:34°16'40.5"N 132°08'13.5"E
標 高:147m
滑走路:600mx30m
方 位:03/21
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは資料から)
沿革
1945年08月末 既成
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
高津町付近着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年12月訪問
前記事に登場した同じく島根県の「都野津町付近不時着陸場」の南西約46kmに位置しています。
■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」に当着陸場の地図があり、
先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
山陰本線と、国道191号線の南側に沿うように走る道路(旧国道?)の形が当時と現在で変わっておらず、
この2つを基準に位置決めしました。
海岸線のの形が随分変わってしまっていますが、上に貼った航空写真の赤矢印の辺りに着陸場がありました。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
高津町付近(昭和10年2月調)
島根県美濃郡高津町北西方約2粁高津浜海岸
着陸場の状況
高さ 平均水面上約3米。
広さ及形状 着陸地域は高津川河口西方約400米の箇所より西方に亙る海
岸波打際に沿う図示の長さ東西約600米、幅南北約50米の東西に細長き地区
なり(付図参照)。
地表の土質 礫を混ずる沙。
地面の状況 着陸地域は海岸波打際に沿い緩除なる波状の起伏あるも概し
て凸凹なき平坦地なり・地表は礫を混ずる硬き沙浜にして普通の徒歩にて足を
沙中に没入すること殆どなし・発生物なく排水は良好なり・潮差は平均約0.6
米にして大なる影響なきも高潮時波浪高きときは使用し得ず。
場内の障碍物 波打際付近に陸揚げしある漁船等あることあり。
適当なる着陸方向 海岸線に並行方向。
其の他
昭和9年8月本着陸地域付近に於て民間飛行家の興行飛行行われたりと言う。
前記事の「都野津町付近不時着陸場」も同じく波打際にあり、歩くと靴が3cm沈む程フカフカでしたが、
こちらは殆んど沈まないとのことですので、この付近で不時着する事態になったとしたら、
極力こっちに降りたいです(それ以前に操縦できないけど)。
いつからいつまで着陸場だったのか、管理者等、不明なんですが、
こちらも陸揚げした漁船があることがあるとのことで、ゆるゆるな感じですね。
それから気になるのが、其の他の記述で、
「昭和9年8月本着陸地域付近に於て民間飛行家の興行飛行行われたりと言う。」
というものです。
この資料は昭和10年2月のものなので、「ちょっと前にこんなことがあった」という感覚だったんでしょうね。
赤マーカー地点付近(2枚とも)。
西南西方向
東北東方向
島根県・高津町付近着陸場跡地
高津町付近着陸場 データ
種 別:着陸場
所在地:島根県美濃郡高津町北西方約2粁高津浜海岸(現・益田市高津)
座 標:N34°41′37″E131°48′54″
標 高:3m
着陸場:600MX50M
方 位:06/24
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1934年08月 付近で民間飛行家の興行飛行実施
1935年02月 この頃着陸場があった
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」