シノダイ岬離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年7月訪問
撮影年月日1947/05/27(昭22)(USA M342 39)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
朝鮮戦争時、北海道日高町のシノダイ岬付近に、米軍の連絡機用離着陸場がありました。
■新千歳市史通史編下巻996p
高射砲大隊は日高門別富浜のシノダイ岬に73町歩を対空射撃演習場として接収し、付近の牧場を連絡機の離着陸場とした。
この一節、時期は朝鮮戦争時、昭和26年6月前後のことで、米軍の話です。
気になる連絡機の離着陸場の場所については、「付近の牧場」としかないため、明確な位置が不明なのですが、
上に貼った航空写真、白矢印部分がなんとなく滑走路っぽいです(個人の感想です)。
少し前に特科団の記事■ をアップしましたが、その中で
■新千歳市史通史編下巻1040p
29年7月1日、保安隊を陸上自衛隊に改組し特科団は第1特科団、航空隊も第1特科団航空隊と改称された。6日にL-19A(L=liaison=連絡機/セスナ305A)初号機を受領し、観測記録班は門別シノダイ岬米軍高射砲射撃場で弾着観測の教育を実施した。
とありました。
米軍がシノダイ岬周辺を演習場、離着陸場としたのが昭和26年6月前後。
そして陸自特科団がこの演習場で連絡機による弾着観測の教育を実施したのが昭和29年7月。
米軍が「付近の牧場を連絡機の離着陸場とした」同じ場所を陸自機も使用したのかもしれません。
北海道・シノダイ岬離着陸場跡地
シノダイ岬離着陸場 データ
設置管理者:米軍
種 別:連絡用
所在地:北海道沙流郡日高町富浜
座 標:42°29'23.4"N 142°01'45.2"E?
標 高:10m?
滑走路::80m?
方 位:05/23?
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1951年06月 この頃シノダイ岬付近に米軍の連絡機用離着陸場建設
1954年07月 陸自第1特科団航空隊観測記録班、L-19Aによる弾着観測訓練実施
関連サイト:
ブログ内関連記事■■■■
この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻
北海道・4 [■旅行記]
Ⓐ道の駅みついし→Ⓑシノダイ岬離着陸場跡地→(踏切跡)→ⓒ苫小牧飛行場跡地→Ⓓ苫小牧不時着陸場跡地→Ⓔ雲雀ヶ丘飛行場跡地→Ⓕ敷生飛行場跡地→Ⓖ知利別飛行場跡地→Ⓗ室蘭飛行場跡地→Ⓘ富浦不時着陸場跡地→Ⓙ小樽港→新潟港へ(船中泊)
4日目
3:05 起床
3:40 道の駅みついし出発
日高本線、2015年の高波被害で運休→部分廃線してたんですね。
知らなかった。。。
6:30 苫小牧のセイコマでザンギ弁当購入。
駐車場で食べていたら、guchiさんからメール。
7月中、青山のホンダ本社で展示会のお知らせでした。
これはいかないと。
やっと晴れた(*´∀`*)
その後、新規を含む見学ポイントを周り終えたのが12:05。
後は乗船時間の15:30までに小樽港に行くだけ。
(あとは小樽港に行くだけ)と思った頃から、急に体が重くなる。
ペットボトルはこんなにも重かったかとビックリするほど手に力が入らない(〃´o`)=3
(アドレナリン枯渇状態)
12:30 本日の昼食〜明日の朝食分まで、セイコマにて調達。
乗船時間より2時間の余裕を見越して計画立ててたんですが、
結局50分前になっちゃった。
誘導員の指示に従って乗船の車列に車を停め、ターミナルでお客様(など)へのお土産購入。
新潟港出港直前に電話かかってきた、ご迷惑お掛けしてしまったお客様の分もここで購入。
あのチョコとかあのキャラメルとか、北海道大定番スイーツも売ってるんですが、
この時期だと温度の制限があるため、結局無難なものしか買えなかった。
これで新潟まで戻れる。
即風呂場へ。
風呂場に入ると、既に入浴が済んで戻り始めの人もいました。早!
あー、整う〜(o ̄∇ ̄o)
ビールを飲みつつ記録付け。
セイコマの唐揚げ、卵焼きうま〜
21:30 寝る。
(おやすみなさい)
本日の走行距離:435km
本日周った場所のうち、
シノダイ岬離着陸場跡地と苫小牧飛行場跡地は順番にアップしますが、
それ以外は既存の記事に追記してあります。
苫小牧不時着陸場跡地■
雲雀ヶ丘飛行場跡地■
敷生飛行場跡地■
知利別飛行場跡地■
室蘭飛行場跡地■
富浦不時着陸場跡地■
(続きます)
北海道・3 [■旅行記]
Ⓐ道の駅おうむ→Ⓑ流氷観測飛行記念碑→ⓒ女満別空港→Ⓓ弟子屈不時着陸場跡地→Ⓔ弟子屈飛行場跡地→Ⓕ計根別第四飛行場跡地→Ⓖ計根別第一飛行場跡地→Ⓗ中標津空港→Ⓘ旧中標津空港→Ⓐ標津第二航空基地跡地→Ⓑ中標津不時着陸場跡地→ⓒ計根別第三飛行場跡地→Ⓓ広尾飛行場跡地→Ⓔ道の駅みついし(車中泊)
3:25 起床。
相変わらず小雨が降ってます。
4:10 道の駅おうむ発
昨日の日中は30℃までいったのに、今朝は17℃。
今まで意識しなかったけど、道東エリアは道内の他地域と比べて10℃位気温低かったです。
ところでオイラには一つ懸念事項が。
自宅で給油して、ここまで来たのですが、
いよいよガスが減ってきて、あと200km位しか走れません。
普段なら、あと200km分残ってれば、仕事の日でも1.5日は余裕ですが、
ここではあと3時間ちょいしか走れません。
しかもコッチはスタンドの営業時間も関東に比べてビックリするほど短いです。
そのことは昨日も頭にはあったんですが、
とにかく「明るいうちに浅茅野を撮らねば」が最優先で、
なんとかなるさと思ってたんですが、
無事浅茅野を撮り終ったら、走れど走れどスタンドは全然なくて、そのまま今朝に至るのでした。
なんともならなかった…(;´Д⊂)
取り敢えず次の見学ポイントまで、走れるうちは移動を続けますが、
小さな町には、スタンドが1軒もないのも珍しくありません。
もしかしてオイラ、スタンドが開く8時とか9時まで足止めになっちゃうかも。
道の駅を1時間ほど走って、5時頃紋別空港が近づいてきたのですが、
空港が開くのは9時なので、ここで4時間待つより先に進むことに。
ガソリンはますます減るけど。
ということで、次の女満別空港到着。
碑を取ったり、朝食を調達したりして後、無事ここの町内で給油できました。
本日の朝食も安定のセイコマのお握りでした(すごい気に入った)。
結局あと51km走れたので、まだ少し余裕ありました。
埼玉から新潟まで走って、小樽から稚内を周ってここまで、1,113kmでした。
続けて弟子屈、計根別エリアの見学ポイントを周り終えたところで、
根室、釧路にも行きたかったけど、もう時間がない。
ここから小樽港までは600km、10時間以上かかる(600kmを10時間で走れるとは言ってない)上に、
途中に新規で絶対に行きたいポイントが4ヵ所ある。
なので今日中にある程度小樽方向に進んでおかないと、
明日の朝からひたすら港に向かって走っても、15:30の乗船時間に間に合わない
という事態だってあり得るのだ。
全く余裕のないスケジュールだと、何かトラブルが発生したらアウトだし。
ということで、帯広エリアもスルーして、200km先の広尾に向かうことに。
時間的にも本日明るいうちに撮れるのは広尾が精一杯。
…と思ったけど、これが大失敗でした。
釧路の辺りから雨が降り出し、しかも果てしなく濃霧が続く。
広尾に着いたら雨は多少マシになってたけど、霧が酷い。
結局、真っ白な写真しか撮れませんでした。
もっと条件の良い手前の見学ポイントを撮っとけば良かったと後悔しても、後の祭りです。とほほ。
すっかり薄暗くなり、雨と霧で怖い思いをしながら夕食をとろうとナビ画面をスクロールして
コンビニを探すのですが、全くなし。
結局セイコマで夕食の豚丼(ハーフ)にありつけたのは、20:10でした。
20:45 道の駅みついし着。
21:05 寝る。
(おやすみなさい)
本日の走行距離:695km
本日お邪魔した場所は全て既存の記事に追記してあります。
流氷観測飛行記念碑■
女満別空港■
弟子屈不時着陸場跡地■
弟子屈飛行場跡地■
計根別第四飛行場跡地■
計根別第一飛行場跡地■
中標津空港■
旧中標津空港■
標津第二航空基地跡地■
中標津不時着陸場跡地■
計根別第三飛行場跡地■
広尾飛行場跡地■
(続きます)
道央・札幌駐屯地 [├場所]
2023年6月訪問
1/25000「札幌」昭和50年三改「今昔マップ on the web」から作成
札幌市中央区にある「札幌駐屯地」。
昭和29年、ここに北部方面航空隊が発足しました。
■新千歳市史通史編下巻
1040p
特化団航空隊の創隊 昭和29(1954)年1月10日、保安隊訓令第46号による北方般命第7号に基づき札幌駐屯地に敵情偵察と弾着観測のため北部方面特科団航空隊が新設された。隊員は保安隊航空学校航空機操縦および整備課程修了者を主体としたが、定数54人に対し充足は32人だった。
29年7月1日、保安隊を陸上自衛隊に改組し特科団は第1特科団、航空隊も第1特科団航空隊と改称された。6日にL-19A(L=liaison=連絡機/セスナ305A)初号機を受領し、観測記録班は門別シノダイ岬米軍高射砲射撃場で弾着観測の教育を実施した。9月10には航空隊の編成改正が完結した。
9月30日、北千歳飛行場(場外離着陸場)が完成、11月26日には航空隊を札幌駐屯地から北千歳(団本部東千歳/S37北千歳移駐)に移したが、基地飛行場は南恵庭駐屯地にあった転圧300㍍級を主用していた。
特科団航空隊が新設され、シノダイ岬の米軍演習場にてL-19Aで弾着観測の教育を実施したのですね。
基地飛行場は南恵庭駐屯地にあった転圧300㍍級を主用していたともあります。
tuka@北海道さんに教えて頂いたサイト様にも、
北部方面特科団航空隊について、「飛行機は恵庭訓練場を使用」とありました。
実はオイラ、上述の新千歳市史から、当札幌駐屯地で飛行機の運用もしていたと思っていたのですが、
「南恵庭駐屯地の飛行場を主用」
「飛行機は恵庭訓練場を使用」
とあり、札幌駐屯地で飛行していたことを明言するものは見当たりませんでした。
当初は札幌駐屯地に滑走路があったかのように当記事に書いていたのですが、
これは取り消させて頂きます。
大変申し訳ありませんでした。
修正のヒントを頂いたtuka@北海道さんに感謝致しますm(_ _)m
赤マーカー地点。
道央・札幌駐屯地
札幌駐屯地 データ
設置管理者:保安庁→防衛庁(当時)
所在地:北海道札幌市中央区南27条西9丁目1
座 標:43°01'23.7"N 141°20'55.1"E
(座標はグーグルアースから)
沿革
1954年01月 10日 北部方面特科団航空隊新設
07月 1日 保安隊を陸上自衛隊に改組。特科団を第1特科団、航空隊を第1特科団航空隊と改称
6日 L-19A初号機受領
09月 10 航空隊の編成改正完結
11月 26日 航空隊、北千歳に移動
関連サイト:
ブログ内関連記事■■■■
この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻
北海道・アート・スミス飛行会場跡 [├場所]
2023年6月訪問
1/25000「茨戸」大正5年測図「今昔マップ on the web」から作成
■新千歳市史通史編上巻729p
大正五年と六年には世界的な名声を博していた鳥人アート・スミスが来日した。スミスは日本各地でカーチス推進式機による宙返り・横転の連続、空中飛行の妙技を披露、絶賛を博していたが、来日のたびに来道し札幌で飛ショーを行った。場所は現在の北区北二十条西十丁目付近であった。六年に来道した時は、小樽、帯広、旭川、釧路等でも展示飛行を行っている。当時の飛行機の移動には、もっぱら鉄道が用いられ、飛行機の離着陸場としては耕地や練兵場、グラウンドが用いられた。
「場所は現在の北区北二十条西十丁目付近」とのことで、
上に当時の地図を貼りました。
大正5年測図ですから、ちょうど第一回目のショーが行われた年の地図です。
現在の十丁目付近、当時は飛行会場におあつらえ向きの場所だったのが地図からも分かりますね。
赤マーカー地点。
大正時代、この周辺は広々とした場所で、飛行会場になったのですね~。
北海道・アート・スミス飛行会場跡
アート・スミス飛行会場跡 データ
所在地:北海道札幌市北区北二十条西十丁目付近
座 標:43°05'02.2"N 141°20'08.9"E
標 高:11m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1916年 アート・スミスによる飛行ショー実施(翌年も)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
北海道・2 [■旅行記]
Ⓐ小樽港→Ⓑアート・スミス飛行会場跡→ⓒ札幌飛行場跡→Ⓓ京都合資会社跡地→Ⓔ札幌興農園飛行場跡地→Ⓕ札幌駐屯地特化団航空隊跡→Ⓖ丘珠空港→Ⓗ王子江別飛行場跡地→Ⓘ旭川空港→Ⓐ天北線資料室→Ⓑ稚内不時着陸場跡地→ⓒ稚内水上機基地跡地→Ⓓ稚内空港→Ⓔ浅茅野第二飛行場無蓋掩体壕跡→Ⓕ浅茅野第一飛行場跡地→Ⓖ道の駅おうむ(車中泊)
3:00 起床
今回の北海道では、新たに発見した飛行場跡地が8箇所ある他、前回お邪魔した時は情報が不十分だったりで、
改めて行きたい場所が結構あって、合わせると、全部で45箇所あります。
札幌、稚内から根室、函館まで、全道にまんべんなく見学ポイントがあるのですが、
北海道に滞在できるのは三日間のみ。
しかも三日目は、15:30までに港に着く必要があります。
どう考えても全部は周れないのですが、少しでも時間を有効に使うために、
下船までに身支度はすべて済ませておくことに。
バックで接岸の途中なんですが、ここでドライバーは車輛甲板に移動するようアナウンス。
(ココで昨日走行距離記録してないのを思い出せれば良かったけど、ワクワクし過ぎてムリだった)
4:30 定刻通り下船
早速札幌に向かったのですが、周りの車は札幌ナンバーばかりで新鮮です。
あー、北海道に来たんだなぁ(*´∀`*) と実感したのですが、
(そういえば北海道ってこうだった)と強制的に思い出すことに。
信号が青になってゼロ発進時の加速度が、関東と比較して数段早いです。
具体的な数字は諸事情があってちょっと割愛しますけど、
道内って、関東と比べて平均車速が段違いに速いですよね。
で、その高速域まで一気にガーッと加速するのです。
普段埼玉(の田舎)でのほほんと運転してるオイラは、
たちまち加速でもたついてしまい、おいてかれてしまいます。
追突が怖いので、道内ドライバーにおいてかれないようにオイラも頑張って加速しないと(`・ω・´)
札幌市内には見学ポイントが6箇所あります。
通勤時間になり、街が動き出せば、渋滞して身動きが取れなくなるのは必至。
1分でも早く見学を済ませ、札幌から離脱しなければ(゚Д゚;≡;゚Д゚)
従来は、自宅での事前準備の際、見学ポイントの住所だけ調べておき、
当日カーナビに住所を打ち込んで、その場所に行ってました。
この方法だと、カーナビの示す場所まで行き、ナビ画面とプリントアウトしてきた地図を見比べながら、
「ここから、こっちの方向に滑走路が伸びてたんだな」と確認して、写真を撮ってました。
のんびりした田舎なら、停めたい場所に車を停めてそんな悠長なことができるのですが、
都市部だとそうもいきません。
前後を車ではさまれ、走りながら、「あ〜 ここだ〜」などと思いながらその場で停まることもできずに流され、
Uターンしてまずは車をドコに停めようかと探し回り、
安全な場所に車を停めてから改めて、現在地と滑走路の場所と向きを確認することに。
これは非常に煩雑で、重々注意しているつもりでも、
ちょいちょいミスをして、明後日方向を撮る原因になってました。
今の車になってから、マップコードを使って、ピンポイントで場所が容易に出せるようになったのと、
事前準備の際、ストリートビューで駐車できそうな場所、それから撮る方向もあらかじめ調べるようにしました。
(セイコマを背に立ち、茶色のビルを撮る。とか)
今回札幌市内を周ってその効果を実感しました。
自宅で見ていた通りの風景が目の前にあり、「わかる!! 分かるぞ!!(ム〇カ風)」という感じで非常に順調です。
車を降りての移動は自然と駆け足になってたのですが、全然疲れません。
こうしてサクサクと撮影を進めることができたのでした。
実はこの時、数年来行きたくて仕方なかった場所にやっと来れたという興奮でテンション上がってしまい、
アドレナリン大放出状態だったのでしたヽ( ゚∀゚)ノウヒョヒョー!!
こうして無事に札幌ゾーンを抜けたところで、セイコマでおにぎり購入。
あー、ウマい。
なんかヤバいクスリでも入ってんじやないかと思うほどウマい(個人の感想です)。
たまに埼玉のセイコマでもおにぎり買うけど、コッチのが3倍はウマい(個人の以下略)。
135km先の旭川空港を見学し、次は140km北上して、音威子府駅へ。
お昼になったので、運転しながら朝買ったおにぎりで昼食。
あー冷めてもウマい。ウマくて死ぬ(´Д`)
車を走らせていると、それまでどんより鉛色だった空からついに小雨が。
下調べをしていてたまたま知ったのですが、
宗谷本線音威子府駅には資料室が併設されていて、
天北線(1989年廃止)の歴史的な資料がたくさん展示されています。
(※以下オイラの思い込みによる勘違い話です※)
その展示品の一つに、廃止になってしまった「ひこうじょうまえ」の標識があるのです(←ないです)。
以前浅茅野飛行場跡地に行った際、「飛行場前駅」跡も見たのですが、
ホームは残っているものの、駅名標は取り外されており、
てっきり、もうとっくに処分されてしまったと思っていたのに、それが残っていたのです。
これは是非見に行かねばと寄ることにしたのでした。
駅前に車を停め、駅舎に入ろうとすると、ベンチにおじいさんが1人座っていました。
軽く挨拶を交わしていざ入館。
もう1人の大きなリュックで登山と思しき男性と居合わせたのですが、
カメラ持って目当てのものを探してウロウロするオイラは、多分テツだと思われてるんだろうな〜
若い駅員さんに尋ねてみたのですが、「…ないですね」と取り付く島もなし。
展示品が多いので処分されちゃったのかしらん。
諦めて車に戻ろうとすると、先程のベンチに座っていたおじいさんが待ってましたとばかり話しかけてきました。
長野県から数ヶ月前に道内に越してこられたのだそうで、道内あちこち出掛けているのだそうです。
交通機関を利用しての移動なのですが、電車もバスも本当に本数が少なくて、
昨日も地元の方と相談して行き先を変更したり、予定外に足止めになって宿泊することになったり。
今日も今日とて午前中この駅についたものの、ずーっとバスを待ってる(現在13:30)。
ちょっと先に売店があってパンと牛乳売ってるから、それで凌げてるけど、あと1時間待たないといけない。
そんなことを楽しそうに話していました。
時間に余裕があれば同乗を申し出るところなんですが…
車に戻り、次の目的地(稚内)をセットして車を走らせると、ベンチからおじいさんが手を振ってくれました。
埼玉に戻ってから改めて調べたら、天北線の駅跡には資料展示してあるバターンが結構あるらしい。
ここ音威子府駅は宗谷本線の駅だけど、廃止となった天北線の起点駅でもあった。
そのため立派な「資料室」に様々な展示物があるのでした。
ドコでどう間違えたのか、オイラは、
「こんな立派な施設はここが唯一である」→「ココに『ひこうじょうまえ』の標識がある」
と思い込んでいたのでした。
ググったら、お目当てのものは鬼志別バスターミナル1F資料室(旧鬼志別駅)に展示していると判明。
あー、見たかった。。。(;´Д⊂)
次北海道に行くのは3年後かな。
どうかどうか、それまで残っててくださいm(_ _)m
稚内には見学ポイントが3箇所あります。
雨脚はますます強くなり、傘をささないと、すぐびしょ濡れに。
とにもかくにもカメラ様を濡らさないように、
でもファインダーに傘がかからないようにしながら、パシャパシャ(←足音と掛けてる)。
稚内の3か所の撮影を終え、次の見学ポイントである浅茅野に移動。
浅茅野第二と第一の見学もなんとか明るいうちに済ませることができました。
予定では、今日中に稚内に到着して、明日明るくなったら稚内、浅茅野を見学しようと思ってました。
ただし、稚内の見学ポイントの1つに稚内空港があって、空港ターミナルが開くのは9時なので、
「日の出時刻の4時とともに撮影開始」というわけにはいかず、空港が開くまでは足止めです。
2日目の朝9時まで待って稚内空港の撮影をして、それから浅茅野までは1時間かかるので、
初日に浅茅野まで済ませることができたのは大きいです。
次の見学ポイントに向かいつつ、セイコマで夕食の調達。
結局、北海道滞在中の3日間、オイラの食べ物は全てセイコマで買ったのでした。
道中、そこここで「シカ飛び出し注意」の標識を見かけたのですが、
浅茅野から走っている途中で飛び出し&飛び出さないに出くわしました。
多分50m位前方だったので危険を感じることもなかったんですが、
一か八かの勢いで(そんな感じに見えた)前方に現れ、
そのままの勢いであっという間に反対側の林の中に消えていきました。
そんなに大鹿ではなかったけど、ちょっとタイミングズレてたら、シカも車もただでは済まないはず。
「飛び出さない」方、シカがくるっと方向転換して茂みに戻っちゃったので、
減速を途中で止めてそのまま通過したんですが、
対向車が変な所で停車している違和感にオイラがもっと早く気が付いて、もう二呼吸位減速開始が早ければ、
完全に停車して、シカさんが横断してたはず。
もっと対向車みたいにシカセンサーを磨かないと。ごめんよ。
僅か2分間に立て続けに起こったシカとの遭遇。
(次、シカが渡ろうとしていたら、止まってやる!!)
なんて考えてたんですが、その後オイラがシカを目撃することはありませんでした。
イチかバチかに賭けるシカがいるかと思えば、手前で待つシカもいたり、
個体差があるのはネコと一緒なんですね。
道警がエゾシカの関係する事故のデータを出していて、それによれば、
令和4年中は4,480件も起きてました。
平均すると毎日10件以上なんですね(@Д@)
6年連続で最多記録を更新し、調査を開始した平成16年の3.8倍なのだそうです。
19:30 道の駅おうむ着。
本当はもう少し先に進みたかったのですが、雨だしキリが所々怖いくらい濃かったので、
危ないのでここで車中泊することに。
20:25 寝る。
(おやすみなさい)
本日の走行距離:645km
(続きます)
北海道・1 [■旅行記]
Ⓐ自宅→Ⓑたわら屋→ⓒフェリーターミナル→小樽へ(船中泊)
6月下旬、まとまった休みのとれる週にフェリーで北海道に行ったのでした。
肝心のお天気ですが、長期予報によればオイラが道内に滞在する3日間を中心に、曇時々雨ベース。
「北海道に梅雨はない」はずなのにつД`)・゚・。・゚゚・*:.。
予報が好転するのを期待しつつ、毎日のように道内の長期予報をチェックしていたのですが、
一時は本気でフェリーの予約をキャンセルしようか。
と思うほど全域雨の予報に(前々日までの取り消しなら、10%のキャンセル料で済む)。
その後やや持ち直し、出発前日の予報では結局、全道的に「曇時々雨」まで戻ったため、
予定通り行くことにしたのでした。
3:10 自宅出発。
こんなに早い時間に出発しても、新潟まで下道では乗船時間の11時に間に合わないので、
湯沢ICまで関越道利用。
そこから先は下道で新潟港へ。
新潟空港の近くに「たわら屋」というお弁当屋さんがあって、ずっとひいきにしていたのですが、
今年の4月、数年ぶりに新潟空港に行った時に寄ろうとしたら、店がなくなっていたのでした(;´Д⊂)
ググったら、コロナ禍で閉店したものの、店舗数を絞って営業再開したらしいです。
ということで、港に最も近いたわら屋さんに寄ることに。
8:40 たわら屋到着。
本日の朝食から明朝の軽食まで、全てここで購入。
9:00 新潟港着。
出港は12時で、11時までに港に着かないといけなかったのですが、
2時間も待ち時間ができてしまいました。
取り敢えず車はどこかに置いといて、ブラブラしようかと思ったけど、
港敷地内に入った途端、誘導員のおじさんに手招きされ、流れるように乗船の車列へ送られてしまいました。
乗船待ちの車はまだ1列目だけど、もう10台位並んでる。
髭を剃ったり朝食を取ったり、うろついたり仮眠を取ったりして乗船待ち。
船首がこうなってるのは、大昔の軍艦だけかと思ってました。
オイラの勝手なイメージですけど。
乗船時のドラレコ映像(音が出ます)
11:00 誘導に従い、乗船が始まりました。
車列に並んだ時は、「11:15頃乗船開始ですから〜」と言ってたけど、本当に油断ならない。
2016年に利用して以来、7年振りの新日本海フェリーだけど、
2017年に小樽~新潟間のフェリーが新造船に入れ替わってました。
新型になって航海速力が上がり、小樽港到着時刻は4:30で変わらないけど、
出港時刻が10:30から12:00になりました。
それから客室も大きく変化しました。
しかも支払いが完了して乗船券をプリントアウトすると、
そこには既にベッドNo,も記されてました。
これでもうどの部屋に混ぜてもらうかで神経をすり減らす心配がなくなりました。
(旅行者同士のふれ合いもなくなっちゃったけど)
雑魚寝の時は、床はカーペット敷きになってて、ブルジョアなオイラにとっては背中が痛くて辛くて、
周辺の毛布を集めて敷布団代わりにしたりしてました。
今回もベッドが硬いかもと考えて冬用シュラフを持ち込んだのですが、
ベッドは適度に柔らかさがあり、不要でした。
船内に持ち込んだ大き目のスポーツバッグは、シュラフと本日の夕食、明朝の軽食、
それに飲み物まで詰め込んだため、それはそれはパンパンでした(XДX)
繁忙期前だからなのか、お向いのベッドだけでなく、周囲一帯が無人で貸切状態でした。
出港間際となり、甲板でぼーっと海を眺めていると、会社からメールが。
オイラのポカミスで顧客から連絡があった。
という内容でしたΣ(゚Д゚;)
…最悪だ。
即お客様にお詫びの連絡して、埼玉に戻った翌月曜日の対応で了承を得る。
やっちまった…_| ̄|○ il||li
お詫びに何かお土産持ってかないと。
12:00 定刻の出港でした。
出港後は、今回の見学のために準備した資料の確認などして過ごす。
このところ睡眠不足が続いていたため、眠くてたまらん。
ということで、
19:40 寝る
(おやすみなさい)
本日の走行距離:多分300km(距離の確認忘れてた)
東北・3 [■旅行記]
Ⓐ道の駅やまだ→Ⓑ山田水上機基地跡地→ⓒ南三陸病院→Ⓓ仙台空港→Ⓔ福島空港→Ⓕ自宅
1時間寝坊した。
今日はお天気が下り坂なので、ホントは雨の降らない時間帯を有効活用したかった(;´Д⊂)
4:45 出発
5:00 山田水上機基地跡地到着。
東日本大震災以後、跡地は工事中で立入禁止がずっと続いていて、三度目の正直でやっと来れました。
その後、最寄りのセブンで朝食。
ここのセブンは被災当時はローソンで、店舗が流されてしまったためプレハブで営業していて、
作業前に慌ただしく立ち寄ったと思しき作業服姿の漢たちで早朝から溢れ返り、騒然とした雰囲気でした。
根元からボッキリ折れてしまったポール看板も今は跡形もない。
壁の向こう側はすぐ海。
見にくくて申し訳ないのですが、画面右側奥から走って来る黒い軽自動車と比較すると、
津波を防ぐ壁の高さが分かりますね。
水上機基地跡地はこの壁のすぐ向こう側にあります。
こんな壁を作っていたから何年も立入できなかったんですね。
この頃からポツポツ降ってきました。
台湾からの支援によって建てられた病院です。
ヒコーキとはまったく関係ないんですが、是非見ておきたい場所でした。
その後、徐々に雨脚が強まる中、仙台空港、福島空港を見学し、自宅に戻ることに。
本当は茨城にも見学ポイントが幾つかあったのですが、
それはそれはもう凄い雨降りのため、途中の道の駅でお土産を買い込んで家に向ったのでした。
実は初日の高速移動で、車のフロントを中心に黒ゴマでも振ったかってくらいに虫が貼り付いてて、
自宅に戻ったら骨が折れるな~と思っていたのですが、この雨できれいさっぱり完璧に落ちたのでした。
海沿いを随分走ったけど、下回りの洗浄もしなくていいや。
19:30 給油、買い物をして、
20:00 帰宅。
これにて東北旅行の話はおしまいです。
お付き合いありがとうございました。
(もう続かない)
本日の走行距離:634km
総走行距離:1,899km
総燃費:28.43km/L
本日の見学地は既存の記事に追記してありますので、興味のある方はご覧下さいませ~
山田水上機基地跡地■
仙台空港■
福島空港■
青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年6月訪問
地図:A『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■
地図:B 測量年1944(昭19)(50000 55-9-5 八戸)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
青森県内に「木下」なる飛行場があるということは、15年近く前から知っていたのですが、
どうしても場所を特定できず、「ミサワ航空史」のおかげでやっと位置、詳細情報が知れましたm(_ _)m
■「ミサワ航空史」26pの中で、
「木ノ下飛行場のあった木ノ下平付近の地図」として、現在の木ノ下の地図に円が描かれていました。
先頭のグーグルマップは、この円と当時の地割を加えたものです。
木ノ下飛行場は昭和13年に完成し、昭和15年と16年の2年間定期航路が開設されていました。
地図:Aは大正2年測図。
地図:Bは昭和19年測図ですから、定期航路廃止から3年後のものです。
地図:Aと地図:Bの赤丸周辺の地割を比較すると、特に目立った変化がありません。
つまり、大正2年~昭和19年までの31年間、この周辺の地割はほとんど変化していないということで、
定期航路が開設していた昭和15年~16年当時も、こんな地割だったはずです。
「ミサワ航空史」に飛行場の面積が出ており、30万坪(≒99.17ha)とあります。
上の円の範囲でピッタリの広さの地割を探したのですが、
どうしてもしっくりくる地割を見つけることができませんでした。
実は同書の年表には、「昭和13年12月23日 木ノ下飛行場が竣工 140町歩」とあります。
140町歩≒138.8haなので、「30万坪」より更に大きくなります。
赤マーカーから東北東方向に広々と目立つ細長い地割がありますね。
仮にこの地割の中に滑走路を設けたら。ということで作図したのが黄色のシェイプです。
因みにこのシェイプの面積は64.3haなので、同資料に出てくる数字からすると、
実際にはこれの1.5~2倍強の面積だったことになります。
仮にこんな形だったとすると、滑走路の長さは1,350mx420~590m。
札幌の飛行場は当時800m足らずと思われ、仙台は終戦時に1,210mでしたから、
1,350mというのは、長さとしては十分と思います(雪のことは知らないけど)。
以下、「ミサワ航空史」に記されている木ノ下飛行場についての記述を引用させて頂きます。
木ノ下平臨時飛行場の竣工
昭和5年9月24日、立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たって、再び大正13年夏のときと同様に、木ノ下地区を臨時飛行場として使用した。その後、同年10月9日にも飛来している。これは北海道への往復の中継地として使用されたのである。
翌6年6月20日には、地元紙・東奥日報が弘前8師団の航空隊が設置される計画があることを報じている。「8師団航空隊は木ノ下平に設置か 陸軍機5機飛来して実地調査」という見出しで、次のような報道を掲載している。
「軍制改革に伴う8師団航空隊設置に関し、先に上北郡下田村古間木付近がその場所として有望視されているとの事に最近八戸に於ても同市付近の蒼前平付近を候補地として運動を開始したと伝えられているが、来る20・21日の両日に亘り、航空本部より陸軍機5機が古間木付近の木ノ下平に飛来することになったが、航空隊設置の前提としての実地調査とみられ・・・木ノ下平は従来陸軍機の着陸地として陸軍当局に重視され、且つ古間木駅にも近く・・」
しかし、この計画は実現しなかった。日本陸軍としては、この地の牧野を借用することになったが、その将来性を認識しながらも、予算がつかず遂に買収を行うことはなかった。
陸軍としては、昭和11,12年と例年のように、耐寒飛行テストのため、七戸平野方面での雪上飛行テストを行い、小川原沼付近は飛行場として注目されていた。そして、この場所が、昭和13年7月に、所沢-立川航空隊間の本州・北海道連絡飛行の臨時着陸飛行場として、木ノ下平が注目されることになったのである。事前調査が、この年夏にあって、この年に北海道での陸軍演習があったとき、臨時飛行場として使用されることになった。使用機は、陸軍が長年使用しているフランス製サルムソン2A2複葉機(陸軍名・乙式一型偵察機)に雪橇を装着した冬季装備した陸軍機であった。この耐寒飛行テストには、当時陸軍航空大尉であったあの「航研機」(昭和13年・世界周回航続飛行記録樹立機)の主操縦士・藤田雄蔵の姿もあった。積雪時以前に現地の事前調査にも訪れていた。
昭和13年12月15日、木ノ下飛行場が完成した。民間航空の東京-札幌間空路の冬期間向け飛行場で、夏期間は青森油川飛行場を使用するというものであった。東京・仙台・札幌間の空路を結ぶ民間定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた。それは、12月22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。当日の模様を地元紙・東奥日報は次のように伝えている。
「冬の東北・北海道定期航空路開拓の使命を帯びて開設された新しい空の港、上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された。
主なる来賓は左の通り
県知事代理大橋県道路主事、航空局岩崎青森飛行場長・太田航空会社青森出張所主任・猪狩青森測候所長・中田秀雄気象台盛岡支所長、田畑県土木技師、長尾三本木警察署長、岩橋三本木土木出張所長、柏崎下田村助役、杉山六戸村助役、佐藤古間木駅長・苫米地古間木郵便局長、菅木ノ下小学校長、付近消防組幹部、牧野組合員、渡辺無線技手外駐在員や地元関係者らが出席した。開式陳告後、皇居遥拝、国歌斉唱、田中木ノ下気比神社神職の修跋式外行事(ママ)があり太田、岩崎、知事代理などの玉ぐし奉奠あって式を終え祝宴に移った 岩崎場長の挨拶があり盛宴であった」
とある。
見渡す限りの平坦な草原地帯であった飛行場用地30万坪は牧野組合から借用し、格納庫(132坪)と事務所・住宅(43坪)があって、古間木局33番の電話、無線施設も備え付けられていた。
地元紙・東奥日報は、翌14年1月17日に行われた試験飛行を次のように伝えている。
「札幌-木ノ下平間定期旅客機の試験飛行は、17日空の難所津軽海峡を一気に飛び越え見事成功した 旅客機は6人りユニバーサル・スーパーAB00機で、操縦は空のエキスパート亀居飛行士 河内技師 宮本無線技師の外に航空会社の下山国内課長が搭乗員激励のため同乗 この日午前10時15分おりからの快晴を利して札幌飛行場を離陸したが、風やや強く風速10mの空を快翔 苫小牧通過南方目指して津軽海峡を一気に突破 太平洋無着陸横断飛行で名高い青森県三沢村淋代海岸伝えに木ノ下飛行場へ飛び午前11時28分見事なる操縦で無事着陸したもので 同機は雪上飛行に備えて橇を据付けてある」
同機は、午後1時半に離陸して札幌に向った。風速17mの逆風だったため2時間25分もかかって札幌に着き、帰路は1時間12分であった(ママ)。こうして試験飛行は成功した。
本格的定期航路は、昭和15年6月15日から開始されたが、戦時体制強化の時代に入り、この民間定期空路は、同16年10日(ママ)をもって航路廃止となった。
これは同書14,15pにあるくだりなんですが、
三沢では大正時代から耐寒、雪上飛行テストが続けられていたんですが、
単に「耐寒、雪上飛行テストに向いている」というだけでなく、
非常に古くから飛行場として「他の例が無いほど適地」と評されており、
これが今回の飛行場建設へと繋がりました。
ということで、木ノ下飛行場は昭和13年12月に完成し、昭和15年6月から本格的に開始となったのですが、
札幌-東京間の定期航空路は、昭和12年4月から始まっており、
札幌は現在門柱だけが残っている札幌第一飛行場、青森は油川飛行場、
そして仙台は現在の霞目飛行場が使用されていました。
青森については、油川飛行場で定期便が始まったのに、後になってわざわざ「冬期用の飛行場」を造ったのですね。
油川と木ノ下は直線距離で65kmも離れています。
油川は青森市中心部に隣接しており、利便性は高かったはず。
木ノ下の本格的な使用は昭和15年からですが、その前年の昭和14年9月には、
油川に着陸できなかった旅客機が木ノ下飛行場に着陸するという一幕もありました。
本格的な使用が昭和15年6月からで、翌年路線廃止ということは、
木ノ下飛行場が「冬期用の飛行場」本来の目的で使用されたのは、昭和15年の一冬限りだったんでしょうか。
ところで気になる点なんですが、
記述の中で、木ノ下飛行場の位置について、
「新しい空港が、上北郡木ノ下平(古間木駅東方約1里付近、向山駅東側近く)で竣工式が行われた」
「上北郡木ノ下平臨時飛行場(古間木駅東方約1里)竣工式は22日午後0時から新築の格納庫内で挙行された」
とあります。
地図:C『三沢』五万分一地形圖【測量時期】 大正3年測図/『八戸』五万分一地形圖 Image from the Map Collections courtesy Stanford University Libraries, licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial 3.0 Unported License. Stanford University. 【図幅名】 八戸 【測量時期】 大正2年測図■
古間木駅は、1961年に三沢駅に改称して現在に至ります。
で、「古間木駅東方約1里(≒3.92km)」付近とある訳ですが(紫マーカー地点)、
これは「向山駅東側近く」とは明らかに違う場所です。
「向山駅東側近く」は、飛行場のあった場所で納得なんですが、
「古間木駅東方約1里」というのは、ちょっとどうなんでしょうか。
「古間木駅南東方約1里」なら、赤丸にかなり近い位置まで届くんですが。。。
せっかくお歴々が参集して開港を祝った木ノ下飛行場でしたが、1年ほどで路線は廃止となってしまいました。
その後、飛行場がどうなったかについて、同書には出ておらず、ネットで検索しても分からずじまいです。
実は木ノ下飛行場が竣工した昭和13年、村有地を海軍飛行場(後の三沢基地)用地として売却することが議決されており、
三沢の飛行場についての話は、一気にこの海軍航空基地にもっていかれてしまいます。
戦時下の影響が日増しに強まっており、航路再開など当面見込めないでしょうし、
木ノ下飛行場の用地は元々牧野組合からの借用でしたから、早々に解約してしまい、
本来の用途に戻ったのでしょうか。
当時ここから北海道へ、東京へと旅客機が飛んでいたと思うのですが…。
青森県・木ノ下飛行場(木ノ下平臨時飛行場)跡地
木ノ下飛行場 データ
管理者:航空局?
種 別:民間飛行場?
所在地:青森県上北郡おいらせ町向山東
座 標:40°38'10.8"N 141°23'39.9"E?
標 高:39m?
面 積:99.17ha(138.8haともあり)
滑走路:1,350mx310m?
(座標、標高、滑走路長さはグーグルアースから)
沿革
1924年 夏 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
1928年07月 16日 立川陸軍飛行隊の4機が三本木木ノ下平に着陸。翌日旭川へ出発
25日 旭川から復路の1機が三本木町沖山原野に不時着、飛行不能となる
1930年09月 24日 立川陸軍飛行隊が北海道の陸軍演習参加に当たり木ノ下地区を臨時飛行場として使用
10月 9日 立川陸軍飛行隊、北海道への往復の中継地として使用
1931年06月 20日 東奥日報、弘前8師団の航空隊設置計画を報ずる
1937年04月 1日 日本航空輸送、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-東京間の定期航路開始
1938年01月 17日 木ノ下・札幌間試験飛行実施
12月 15日 木ノ下飛行場完成。22日竣工式
1939年01月 17日 試験飛行実施
09月 15日 東京・札幌間定期航空旅客機 青森に着陸出来ず木ノ下飛行場に着陸。乗客3名
1940年06月 15日 本格的定期航路開始
1941年 航路廃止
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この記事の資料:
ミサワ航空史(2015年1月31日発行)