朝鮮・平壌飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)2024/8更新
北朝鮮の首都平壌。
そのほぼど真ん中に、かつて日本陸軍の「平壌飛行場」がありました。
現在は高層の建物が並び、飛行場跡地のすぐ北側にはウオーターパークが、
跡地内の南西には党創立記念塔が目立っており、ここに飛行場があったとはとても思えません。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に1/20,000の要図がありました。
先頭のグーグルマップはこの要図から作図したのですが、
隣接する川(大同江)の流れが大きく変わり、とっかかりとなるものが乏しい為、
滑走路の位置は400m程度のズレが生じているかもしれません。
ご了承くださいませ。
舗装された滑走路は700mx100m、飛行地区は南北1,300m、南側底辺部は東西800m、
大同江に隣接していること、恒風は北風、作図に含めた格納庫の東側には、
航空支廠、戦大隊、教育隊が設けられ、ここから南に向かって引き込み線が伸びていること
等描かれていました。
滑走路の西側、飛行地区の北西側には、それぞれ付け足したような線が描かれていますが、
これについての説明は特にありませんでした。
同資料に当飛行場の情報がありました。
以下引用させていただきます。
位置 朝鮮平安南道平壌府
積量 二〇〇,〇〇〇平方米
周囲の状況 分廠の煙突教育自動車庫は飛行
場使用に障害たるも其の他周囲は開闊なり
天候気象の交感 舗装滑走路を有し夏季冬季共気
象の悪影響を蒙る事少なきも牡丹
台は注意を要す
尚舗装路外は雨期軟弱化すること多し
格納施設 五〇×五〇三、五〇×四〇三 六五×三〇一
居住施設 兵員収容力約八〇〇名
交通連絡 鉄道引込線を有す又平壌駅-飛
行場幅員一〇米の道路完整し冬夏
諸車の通行容易なり
営外者住宅 西南約四粁平壌府内に陸軍官
舎あり
其の他 記載無し
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
名古屋-大阪間 毎日三往復
大阪-福岡間 毎日二往復
福岡-大邱間 毎日一往復
大邱-京城間 毎日一往復
京城-平壌間 毎日一往復
平壌-新義州間 毎日一往復
新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月
■朝鮮交通史 1041p
日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
(1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
(2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。
平壌飛行場 1046p
従来飛行第6連隊の飛行場の一部を使用させてもらっていたが、軍用機の増加と大型化により
飛行場が狭隘となり、軍の要請もあったので平壌西南方10kmの力浦駅近くの丘陵地帯に飛行場
を建設すべく着工したが未完成に終った。
■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:平壌飛行場
昭和4年度 | 昭和5年度 | 昭和6年度 | 昭和7年度 | 昭和8年度 | ||
航空機 |
到 着
出 発
|
267
270
|
573
568
|
606
601
|
610
607
|
587
581
|
旅 客 |
到 着
通 過
出 発
|
156
213
153
|
439
620
517
|
355
822
396
|
371
1,322
362
|
319
1,632
325 |
貨 物
kg
|
到 着
通 過
出 発 |
37.00
228.70
121.31
|
64.15
551.87
36.66
|
376.49
6,786.96
549.06
|
101.73
3,133.17
57.10
|
145.97
2,977.92
93.07 |
郵便物 kg |
到 着
通 過
出 発 |
105.68
235.31
150.02
|
148.74
2,183.11
630.15
|
295.32
3,978.33
617.41
|
501.94
10,795.69
661.94
|
1,813.60
26,710.39
1,300.77
|
不定期
航空機
|
到 着
出 発 |
30
43
|
13
18
|
17
21
|
26
29
|
12
17
|
■平壌飛行場での訓練と休日外出の様子
寺嶋さんから情報頂きました。
この話の主役は、寺嶋さんのお父様です。
寺嶋さんのお父様は基本操縦課程を修了後、
昭和19年8月1日付で、朝鮮平壌府 教育第13飛行隊に配属となり、
平壌飛行場にて錬成訓練に勤しむことになりました。
以下、ご本人が残されたメモです(個人名等一部修正させて頂きました)。
西鶏林は楽楼(?)の都
流れる大同江
戦史に知るる 牡丹台
空の護りと 選ばれて
きそう五百の健男児
我等は平壌飛行隊
私は那須野教育隊の基本操縦の課程を修了した。
修了と同時に軽爆分科に決定した。
行く先は朝鮮平壌の錬成教育隊である。
軽爆分科は実際は何の機種で錬成訓練を受けるのだろうか、
双発か単発か、一抹の不安は有ったが、とに角力の限りヤルぞと、意気軒昂であった。
宇飛校からの同期は、45、6名だったと思う。
襲撃練成教育時代の思い出は、今振り返って見れば、
本当に人生の中で一番充実した躍動の時代だったと思う。
若さと意気溌剌たる花の19年(19歳)であり、
毎日毎日明けても暮れても飛行訓練ばかり。
私達の乗る愛機はキ51、950HP(馬力)襲撃機、
低空性能抜群、超低空は実戦訓練の正課である。
私達が訓練する平壌飛行場は平壌の市街の北西に位置していて、
飛行場の南、および北は大同江であり、南洲の南は戦史に名高い牡丹(ぼたん)台であり、
北の大同江の中州になっている処が爆撃訓練場であり、
中央に10米の円形にコンクリートで堅められて中心点に旗サオが立っている。
此の旗サオを同期の誰かが急降下爆撃訓練にて(50kg演習弾)倒した猛者が居たとの事だが、
誰だったろうか。後の話によれば、案外訓練でヘマをする者が、射撃爆撃は上手らしい。
飛行場の滑走路は北西に幅50m 長さ1,000mのコンクリートが一本で、
その滑走路を利用して私達は飛行訓練を行っていたので、
時折、満航、中華航の旅客機が離着陸してた。
特に、ATダグラス等で、また戦隊、重爆、双軽、司偵、双襲、隼、等
その頃稼働している飛行機の総ての機は着陸していた。
それ故、我々が訓練の間の楽しみの一つであった。
飛行場の南は日清戦争の戦史で有名な牡丹台である。
北は航空灯台のあるガミ山で、北に離陸する場合は良い目標であった。(羅針方位N10度)
超低空訓練は襲撃隊の戦闘規範にも有り、戦闘規範そのものが襲撃隊の訓練の基本を教示してある教範である。
中隊教練(通常12機)、小隊教練(4機または3機)、分隊教練(3機または2機)等の訓練を行った。
くる日もくる日も訓練である。特に分隊訓練に妙味がある。
平壌付近は山が少ない。見わたす限り広漠たる平野だ。
その中央を大同江が帯のように湾曲して西の方に流れている。
超低空訓練をするのに最適の場所である。
注意するのは僚機と小高い台地と高圧線のみ。
この高圧線が殆どない、
また大同江は又とない最適な訓練場である。
その大同江を三機又は二機で超低空飛行をする。
その編隊が、飛行場のピスト(天幕を張った操縦者の控所)から見えかくれする。
飛行機が落ちたかとヒヤッとする。
しばしば、飛行機の編隊飛行の基本隊形は一機長一機巾である。
超低空は、戦闘隊形乃ち応用隊形である程度隊長と機巾を間隔を伸ばす。
この編隊飛行及び編隊戦闘訓練は各パイロットが呼吸を合わなければ駄目であり、
長機の意図の儘に動かなければならない。
この訓練が実戦につながる。
例えば敵陣を攻撃する場合は、異方向超低空接敵、急上昇、緩降下銃撃
及び 爆撃、超低空離脱という方法がある。
此の方法の応用動作を毎日毎日繰り返し繰り返し大分やった。
今考えれば、やり甲斐のある訓練であった。
また今思い出せば楽しい訓練であった。
同期の誰かが云っていた。
超低空がおそろしいと云う奴は襲撃隊に有らずと、又、誰云うとなく先ず敵に勝たんと欲すれば、
先ず腕を磨け 生と死、二つに一つ、運を天にまかす
日曜日外出 十月中旬と記憶する。
非常に澄み切った秋空の日曜、私(を含め)、四名だったと思う。
服装は徒手(?)帯剣巻脚絆。
食堂より貰ったネジリパン二個をハンカチに包んで意気揚々
行き先は牡丹台、ついでにキーさん学校見学もしようかと友と話し乍(なが)ら、師範校前より電車に乗る。
電車は旧式、少々ニンニクくさい。
此の電車は平城駅前より、(?)三十ヵ・前交差点より
勝古(?)方面の秋吉台と云う処迄行っていたものと記憶する。
牡丹台方面は三中井前で乗り換えである。
平壌神宮前にて下車、さっそくダラダラ下(くだり)坂を下って、キーサン学校の方に向かう。
然し乍ら誰云うとなく学校前にて見学中止となる。
それ故、今来た坂道をフーフー登って平壌神社に向かう。
参拝客とて誰もいない。とに角、新しいお宮である。いつ頃建てられたのだろうか。
大津の近江神宮に似ているなと話し乍ら参拝を済ませて、拝殿の片隅にてパンをかじる。
小休憩の後、牡丹台の展望台に行こうと歩き始める。
まだ元気がある。誰歌うとなく、平壌飛行隊の歌が出る。
私は山中の小枝を打ち振り歩き乍ら歌う。
小一・(?)も山中の小径を歩いたろうか。日中にて日照が暑い。
又、又、誰云うとなく止めようかと云って、引きかえす事となった。
我々は毎日毎日飛行機に乗っていて、歩くのが不得意なのだ。
その日は、市内の中心部に帰って来て、市内をぶらぶらして、隊に帰った。
唯(ただ)隊の外に来ただけだ。
これで、浩然の気を養ったといって、明日からの訓練にいそしんだ。
メモの中で滑走路についての記述があります。
「滑走路は北西に幅50m 長さ1,000mのコンクリートが一本」
前述の通り、先頭のグーグルマップは、
「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
1/20,000要図から作図しました。
要図は、真上が北であることを示した上で、
滑走路は南北方向であり、「舗装路」、「700mx100m」と明記してあります。
「滑走路は北西に幅50m 長さ1,000mのコンクリートが一本」
とは、向きも長さも大きく異なっています。
先頭のグーグルマップの作図では、ご覧の通りで「舗装路」の西側に斜めの地割があります。
恐らくこの北西方向の地割が、メモにある北西方向の滑走路なのではないかと思いました。
それでは、どちらの滑走路が元祖なのでしょう?
先頭のグーグルマップ作図に使用した資料の表紙には、
「昭和十九年四月二十日調製 第一航空軍司令部」
と記されています。
この資料は、内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む)「付図百九十五枚」
という広範かつ膨大なものです。
「昭和十九年四月二十日調製」ということは、少なくともそれ以前の平壌飛行場の要図ということです。
一方、寺嶋さんのお父様が平壌飛行場に配属となったのは、
昭和19年8月1日でした。
ということで、元々南北方向のの滑走路だったものが廃止となり、
北西方向の滑走路が新設された。
と思われます。
ということで、1,000mx50mの滑走路(赤色)を加えてみました。
元々の敷地内に収めようとすると、恐らくこんな配置だったのではないかと。
恒風は北風ですし、滑走路北端が川により近くなるため、南側からの離着陸で何かトラブルがあると苦しいです。
理想としては、やはり元々の南北方向の滑走路を延長した方が良いと思えるのですが、
それでも敢えて新設する何か尤もな理由があったのでしょうね。
元々の滑走路の南端部分、斜めの切欠きの存在がずっと気になっていたのですが、
これは新滑走路と何か関係があるかもしれません。
■99式襲撃機での訓練
続けて寺嶋さんから頂いた情報です。
こちらのお話の主役はUさん。
京城教育隊(時期的に京城第1飛行場と思われる)にて基本操縦全課程を修了したUさん。
寺嶋さんのお父様と同時期に平壌の第13教育飛行隊に配属となり、
99式襲撃機での訓練を積むことになるのでした。
それまでの練習機150馬力エンジンから950馬力になりスピードが全く違った。
自動車教習所の練習車からいきなりフェラーリに乗ったようなものだ。
それでも2、3日の同乗飛行で単独の離着陸になった。
6か月の過程を4か月に短縮された科目が多かった。
宙返り等の特殊飛行、軽爆科本命の降下角60度の急降下、超低空飛行などを訓練した。
以下、平壌での訓練の様子について、寺島さんがUさんから聞き取りをされた内容です。
大同橋の橋くぐり
朝鮮101部隊・第13教育飛行隊での訓練の様子を聞いた時。
99襲撃機の、低空での操縦性の良さを語るお話である。
九九襲の特性を生かし爆音を遮蔽して接敵するため、
初めの1か月位は超低空水平飛行ばかり練習しました。
高度計は利きませんので目測と体感で覚えるしかありません。
高度30mから徐々に下げて10m以下でも自由に飛べるようにし、
必要なら高度2~3mで川の中へ入って飛ぶ訓練もしました。
(陸軍少飛平和祈念の会 編集「元少年飛行兵 ビデオ証言 第二集」より)
平壌(へいじょう)の大同江には、大同橋という大きな橋が架かっていた。
腕だめしであろうか、その橋の下をくぐった話をお聞きした。
「手信号で(編隊から)単縦列になるよう、指示が出る」
「助教(じょきょう=実際の訓練の指導役は教官の下の「助教」と呼ばれる先輩であった)
が引っぱっていく」
水面すれすれの飛行。
そうやって橋の下をくぐっていく。
私は、何という胸躍るお話…と感じた。
厳しい命がけの訓練の中にも、冒険があったのだ。
意気盛んな少年達と助教達の、アクロバット飛行。
99襲撃機はそれができる唯一の飛行機だった。
平壌時代の船団護衛
海に出ると、船が潜水艦を警戒しながら、陸沿いに航行している。
「悪いことを(悪知恵?)を教えてもらった」とUさんは言う。
低空飛行、船すれすれの飛行の口実を教えてもらったのだろう。
船の前路の哨戒をして船団すれすれに飛行する。
船に乗っている人たちが皆、手を振る。
船は敵の潜水艦を警戒しながら進む。しかし、飛行機の護衛があれば安心だ。
船の人からすれば、どんなに心強かっただろうか。
軽快に飛ぶ日本の飛行機。どんな思いで見上げていたのか。
どんな気持ちで、手を振っていたのか。
そして、操縦者は、どれほど誇らしい気持ちだったのか。
そんな事に、思いを馳せるお話だった。
超低空での試験飛行
各務ヶ原飛行場で、99襲撃機を受領した時のお話。
その時期になると、新品ではなくて、補修して飛べるようになった機体だったようだ。
Uさんは、試験飛行に飛び立つ。
木曽川の堤防に沿って、河原を超低空で飛ぶ。川を下っていく。
平壌の大同江(だいどうこう)の訓練と同じ要領である。
堤防の内側を敵に知られぬように進撃する。神出鬼没の奇襲である。
見ていた隊員からは「時おり、堤防の低い所で、尾翼が『チョン、チョン』と見えるだけ。そんな超低空を飛ぶ訓練を重ねた」(Yさん談)
「川を下ると犬山橋(?)がある。そこにさしかかると、ぐーっと高度を上げた」
「犬山城がある。犬山城の天守閣に翼を付けて(翼端を付けるようにして)旋回をする」
「天守閣にいる人が、手を振っている」
お話を聞いていて、急旋回が目に浮かぶ。天守閣を中心に超低空での飛行。
99襲撃機しかできない芸当である。
皆から見られているのは、承知の上である。
帰ってきたら、隊長から
「おい、試験飛行だぞ」と雷が落ちた。
「そんな(無茶を許す)雰囲気はありましたね」とUさんは笑った。
飛ぶのが命がけだった時代
その後、Uさんたちは、受領した99襲撃機を平壌まで空輸する。
鈴鹿山脈にさしかかる。鈴鹿山脈は、難所だった。
その日、天候が悪く気流が安定しない中での飛行となった。
Uさんは隊長に続く3番機。隊長の右後ろに続く編隊の位置にあった。
ようやく帰隊する日が来ました。3個編隊を組んで鈴鹿峠を越す頃でした。
隊長機と私の3番機が下降気流に入り、
そのままエンジンをふかしても機体を水平に維持するのが精一杯で
山の斜面をで--と下ってるんです。
隊長機はそのうち上昇気流に乗ってフワーと上がっていきました。
機体が下降気流からどうしても外れない。
ダメだと思ってあきらめ半分でした。
操縦桿をちょっとでも倒したり飛行機の向きを変えると失速して墜ちる
と分かっていたので、レバーをふかし気味にして
降下するままの状態を維持して墜ちて行ったのです。
あと100m足らずで激突だなと思いました。
その時本当に初めてですよ、母と姉の顔が走馬灯のように頭をグルグル 回ったんです。
それが消えた途端に、機体がフワッと浮いたんです。
谷底の上昇気流に乗ったんでしょうね。
これでおしまいかなと思いながら、 死ぬってこういうことかと。
あの時死の覚悟ができました。コンマ何秒がとても長く感じました。
(「元少年飛行兵 ビデオ証言 第二集」より)
着陸したら、隊長から、「よかったなあ。」と言われた。
走馬燈のように母と姉の面影が出てきたことを話すと、
「父親が出てこなくて、良かったなあ…」(命懸けの飛行の中にもユーモア)
※Uさんのお父様はその時すでに故人(昭和14年没)であった。
寺嶋さん、貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
朝鮮・平壌飛行場跡地
平壌飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮平安南道平壌府(現・北朝鮮平壌大同江左岸)
座 標:N39°01′52″E125°46′51″
標 高:15m
飛行地区;1,300m
滑走路:700mx100m(舗装)
方 位:01/19
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
とりさんは朝鮮行きましたか???
こりゃあ凄いな...
ちなみに朝鮮航空はまだIL-18使いそうですけど…とりさんが行く時はどの機種搭乗をするのですか?
by Ju87R (2020-12-03 08:34)
■Ju87Rさん
オイラは資料から作図をしているだけで、
朝鮮には行ったことないです。
ご期待に沿えずすみませんm(_ _)m
行くとしたら…自前の羽でパタパタ飛んでいくと思います。
by とり (2020-12-04 18:13)