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朝鮮・蔚山飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問・2024/8更新)  




韓国南東部の蔚山(ウルサン)市。

かつてここに日本陸軍の「蔚山飛行場」がありました(「蔚山空港」は北北東約5.5kmにあります)。


■朝鮮交通史 1041p


 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

蔚山飛行場(1043p)
 第1期工事は昭和3年約6万坪を買収、昭和10年約4万坪拡張した。
 水田地帯に造られていたので降雨期の浸水を防止するため高い堤防を築いた。600mの滑走路
では就航機の離着陸が非常に困難であったので第2期工事で拡張したのであるが、昭和12年に
は就航機がさらに大型化し、定期航空機の使用ができなくなったので定期航空の寄港地を大邱に
変更し、本飛行場は陸軍の野外飛行場として使用された。


先頭のグーグルマップは、同書1041p「蔚山飛行場概略図」から作図したものです。


また、「昭和14年現在の飛行場」として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 600  600
備考 陸軍用用地を含む



 


■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図したのですが、

飛行場跡地周辺はすっかり都市開発が進み、飛行場の地割が欠片も残っていません。

また、当地は太和江の河口付近に位置しているのですが、港や湾の形も大きく変わっています。

結局基準点は、約10km離れた海岸線をとっかかりにしたため、位置の精度がかなり低いと思います。

最大500m程度のズレがあるかも。

おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。

同資料にあった情報を以下引用させて頂きます。

判決
不時着陸に使用するを可とす
東西方向 750mx200m
南北方向 800mx200m

位置 朝鮮蔚山郡蔚山邑三山里
積量 一一二,二七六平方米
地表の状況 
 地盤南北方面は堅硬なるも東西方面は
 時季に依り軟弱なることあり
 南方半分目下工事中
周囲の状況
 北側一五〇.〇米-二〇〇.〇米離れ大和江の高さ
 四.〇米の堤防あり
 南西側に一〇〇.〇米-一五〇.〇米に高さ八米の電
 燈及電話線あり
 標高五一.〇米の鶴成山あり
天候気象 交感
 雨期に於て浸水することあり
施設 
 記載無し
交通連絡
 記載無し
其の他
 記載無し 


■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:蔚山飛行場


    昭和4年度 昭和5年度 昭和6年度 昭和7年度 昭和8年度
航空機
到 着
出 発
174
201
435
445
608
610
619
623
601
608
旅 客
到 着
通 過
出 発
78
43
101
176
673
219
238
1,017
254
216
1,425
207
231
1,438
259
貨 物
  kg
到 着
通 過
出 発
13.10
86.55
9.00
243.49
1,536.81
23.00
731.75
8,287.00
102.42
519.55
10,458.45
236.56
1,382.88
13,584.23
3,422.10
郵便物
  kg
到 着
通 過
出 発
870.59
170.46
800.31
359.77
3,411.53
292.64
851.70
7,413.39
438.75
1,171.93
17,193.72
593.77
2,441.64
44,622.37
735.96
不定期
航空機
到 着
出 発
35
27
26
18
83
78
119
90
123
124

 


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  蔚山飛行場
経営者  國
所在地  朝鮮慶尚南道蔚山郡蔚山邑三山里
水陸の別 陸
滑走区域 東西六〇〇米 南北六〇〇米
備 考  (記載無し)


■終戦間近の蔚山飛行場のこと

寺嶋さんから情報頂きました。

このお話の主役はNさんです。

Nさんは第9練習飛行隊・陸軍少年飛行兵16期甲を出ておられ、

終戦時、この蔚山飛行場におられた方で、

現在は寺島さんのご近所にお住まいで、

近所だったらクルマの運転されるほどお元気とのことです。


これは昭和20年2月以降のお話です。

終戦の年なので、もう戦争の敗色が濃く、物資も少なくなっていた頃です。

(1)
うるさんは、もう本当に村だった。
さびしい村。
商店があって買い物は出来たけど、寂しいところ。

(2)
川沿いに飛行場があった。
粗末な飛行場。
陸軍の飛行場は舗装がされていない。
軽い練習機が飛ぶだけの飛行場。
本州から退避してきた飛行機は、地面が良くなかったので
着陸に失敗して頭からつっこんでいる飛行機が、滑走路のはじに何機もあった。

(3)
加藤清正(熊本城を築城した人物として有名)が
朝鮮出兵の時に城を造ったという城跡にも行ったことがあるが、
何もなかった。(小高い丘)
水場の跡のようなところがあった。

(4)
練習機は、赤とんぼではなくて、黒トンボだった。
(迷彩色の深緑に塗装されていた)

(5)
飛行訓練は、燃料不足で、ほとんど行われなかった。
飛び終わった後の練習機を、リンゴ畑の中に隠すのに、押してばかりだった。
押して隠した後は、夜通しの番兵。大変だった。

(6)
給与(食事)はとても悪く、いつも腹を空かせていた。

(7)
港から物資を運ぶトラック(日産、当時の正式な呼び方はダットサンか?)
が故障してばかりで、港から米を運ぶ作業があった。つらくて大変だった。


総じて、蔚山の思い出は良くない思い出、つらい思い出ばかりで、
忘れてしまったということです。
(不思議なものですね。人間って。東航の少年飛行兵学校のことは、本当に良く
覚えているのですが、宇都宮と蔚山のことは、つらい思い出ばかりで、
忘れちゃうんですね)とのことでした。

ちなみに、この時代の写真は当時は持っておられたそうですが、
朝鮮から復員する時にすべて燃やしたそうです。
「航空隊、しかも空中勤務者だということが分かったら、どんな事があるか分か
らない」ということで、皆さん、写真は残っていません。
(それ以前に「内地」の実家とかに送った写真は、残されているようです)

寺嶋さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m




     朝鮮・蔚山飛行場跡地         
蔚山飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:朝鮮蔚山郡蔚山邑三山里(現・蔚山広域市南区三山洞)
座 標:35°32'39.6"N 129°20'03.2"E
標 高:8m
滑走路:750mx200m(09/27)、800mx200m(18/36)
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1928年    土地買収
     12月 2日、開港式。滑走路南北600m。後に東西方向600m
1929年04月 1日、日本航空輸送、運航開始
1930年07月 航空無線局設置
1937年   (大邱飛行場開設)
1938年   不時着場となる。その後日本陸軍が買収

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(10) 
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コメント 10

nsq

ウィキペディア韓国語版に投稿されているこの飛行場に関する記事は、私が日本語版に「蔚山飛行場 (初代)」の名前で投稿した記事を単に韓国語に翻訳しただけの記事です。ですから韓国語版を機械翻訳にかけなくても、日本語版で普通に日本語で読めます。この記事は『朝鮮交通史』と当時の新聞検索で書きましたから、元の資料は日本で見ることができます。
by nsq (2022-04-30 13:01) 

とり

■nsqさん
おお、作者様降臨とは光栄です!!

日本語版と韓国語版を比較してみたのですが、
日本語版にある一文が韓国語版には無かったり、
逆もまた然り。という事例が数ヵ所あるようなのですが…

例えば、
「1938年(昭和13年)9月30日を以て定期便の寄港が中止」
の下りが韓国語版では削除されており、これに伴い脚注[5]も削除されています。
また、運航路線の項目は韓国語版にしかありません。
自動翻訳レベルを越えているとしか説明のつかないように思える差異も散見され、
記事全体で見れば内容はおおよそ同じなんですが、
細かなところまで含めると、双方から得られる情報は異なる点が幾つもある。
というのが実情のように思います。
ですので、韓国語版を翻訳したものを載せる意味はあると思うのですが、いかがでしょうか。

「単に韓国語に翻訳しただけ」なのだとすると、nsqさんが記事作成された後、
別の方が編集されたのでしょうか?
(韓国語版の最終更新はつい最近のもので、日本語版とは1年以上開きがあります)
by とり (2022-05-01 08:11) 

nsq

別になぜ日本語版を使わないんだ、とクレームをつけたいわけではありません。お好きな方を、お好きな方法で使えばよいと思います。もともとそのつもりでなければ、ウィキペディアになんて投稿したりしません。ただ「日本の航空輸送が」と書いてあるところは日本航空輸送という会社の名前ですし、「歯ライ」と書いてあるところは大刀洗のことです。元が日本語だったものをわざわざわかりにくくしなくとも、と思ったので投稿しました。日本語版と韓国語版に差異があるのは、向こうの人がこちらの記事を翻訳した後に書き足したからです。

この飛行場は「韓国最初の国際空港」と持ち上げられることもありますが、「満州侵略を企図した日帝は、侵略に有利な位置にある蔚山で農地を強奪し、ソウルより先に飛行場を開いた。開港後も日帝は穴蔵で強制労働を課した」というのが韓国側の史実であり、蔚山の博物館にはどんなひどいところで働かされたかを再現した模型まであるそうです。ウィキペディアは自由に使っていい、といって公開するものですから、韓国の人が翻訳しようが何を書き足そうがかまわないのですが、本来韓国側には日帝の蛮行を書いた文献がいくらでもあるだろうに、安直に日本語版を翻訳して、苦労した先祖に申し訳ないとは思わないのかな、というのが正直なところです。

10年以上前にこの記事を書いたころ、跡地を見に行きました。たしか百貨店を目標に行ったはずなので、跡地の位置はだいたい合っています。今は市が「このあたりにあった」という看板を立てたはずなので、もっと正確にわかるはずです。海外に観光にいってもよい雰囲気になったら、跡地とか、博物館とかを見に行ってみるとよいと思います。

by nsq (2022-05-18 20:29) 

とり

■nsqさん
『朝鮮交通史』、地元の図書館にもあるので、
調べてみようと思います。
どうもありがとうございました。
by とり (2022-05-19 05:33) 

寺嶋誠也

コメント失礼いたします。
近所に、戦前に蔚山飛行場(第9練習飛行隊・陸軍少年飛行兵16期)におられた方がいらっしゃるので、この記事をご紹介したいと思います。96歳ですがお元気です(近所だったらクルマの運転されています)
話は変わりますが、亡き父が終戦時におりました、潭陽(たんよう)飛行場の場所を探しています。南鮮地区、光州から5~6kmの場所と父のメモにありました。
何か手掛かりがあればご教示ください。
by 寺嶋誠也 (2023-11-26 14:45) 

とり

■寺嶋誠也さん
いらっしゃいませ。
そんな方がいらっしゃるのですか!
もしよろしければ、当時の飛行場での様子について、
是非拙ブログに記録させて頂きたいです。
どんな情報でも、ご教授いただければ幸いです。

お父様のおられた潭陽飛行場についてですが、手持ち資料になく、存在すら存じ上げませんでした。
お役に立てず申し訳ありません。
アジ歴、国立公文書館で検索しても引っかからなかったですが、
サイト:韓国・朝鮮の飛行場 http://www.warbirds.jp/airport/korea/index.html
が唯一引っかかりました(詳しい情報は無し)。

「光州から5~6kmの場所」とのことですが、現在、潭陽と光州の中心部は約20kmあるため、
潭陽の中でもかなり光州寄りに位置していたのでしょうね。
現在の潭陽は、平地はほぼ、美しく整備された圃場が広がっています。
現役の飛行場、滑走路の跡等、特に見当たらないため、
当時の飛行場は畑地化した可能性が高いのではないかと思います。
今後何か情報が見つかれば良いのですが。。。
by とり (2023-11-26 18:35) 

寺嶋誠也

とり様
お返事、どうもありがとうございました。
直接、メールを差し上げたかったのですが、方法がわからずここに書き込んでしまいました。
ここに私のメールアドレスを書き込んだ方がいいのでしょうか?
今現在、交流させていただいているのはご近所のNさん(少飛16期甲)とちょっと離れていますがUさん(少飛15期乙)です。他にお話を聞く事が出来る方もいらっしゃいます。
Nさんは終戦時は蔚山、Uさんは父と同じ平壌で訓練を受けてそのあと万世(鹿児島県)、太刀洗の北飛行場で終戦です。
Uさんは、戦後太刀洗の北飛行場跡をたずね、
農家のおかみさん「ここは昔滑走路と聞いとるけど、本当に飛行機飛んじょったのかのう」
Uさん「私、飛びよった…」
その時は第66戦隊第3中隊、隼のⅢ型だったそうです。



by 寺嶋誠也 (2023-11-26 21:26) 

寺嶋誠也

続けて書き込みですいません。
父は少年飛行兵・甲種15期、第13教育飛行隊(後に名称変更で第23錬成飛行隊・平壌)から7月末に潭陽(たんよう)飛行場に進出、と号(特攻)振武第247隊、当時は父たち6機のみに配置だったそうです。牧場を転圧したような簡易的な滑走路とのこと。戦後戦友の方から聞いた話では、広島県から大正末期か昭和初期に入植した集落が果樹園を切り開いてあった場所とのことでした。
今週Nさんにお会いするので、蔚山飛行場の事を聞いてみます。
今後ともよろしくお願いいたします。
by 寺嶋誠也 (2023-11-26 21:36) 

とり

■寺嶋誠也様
早速ありがとうございます。
戦時中の飛行場については、なんとか名称は分かっても、
当時の実際の様子は国内の飛行場でも小さい所はほとんど分かりません。
ましてや外地は尚更で、先人の様子を少しでも記録に残せればと願っております。
当コメント欄はそのためですので、どんなことでもご教授いただければ幸いです。

メール送信の機能はつけておりません。
申し訳ございません。
もしこちらにメールアドレス書いて頂けるようでしたら、
個人情報の心配があるため、確認後すぐにコメント削除しますので、
どうぞよろしくお願い致します。

貴重なお話をありがとうございます。
私も飛行場跡地にお邪魔して、地元の方に飛行場についてお尋ねすることがあるのですが、
「ここに飛行場などない」と断言されてしまうこともあります。
実際にここから飛んだご本人と対面されるとは、おかみさん驚かれたでしょうね。

潭陽飛行場の情報もありがとうございます。
私のように縁もゆかりもない者がネットで調べても、
入植当時からの様子を知れる機会はめったにないです。
非常に貴重な情報をありがとうございます。
こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いします。
by とり (2023-11-27 05:16) 

とり

■寺嶋誠也様
早速メールアドレス教えて頂き、ありがとうございました。
コメントは削除させて頂きました。
by とり (2023-11-27 19:35) 

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