台湾・新竹飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]
(未訪問)
台湾の新竹(しんちく)市にある新竹空軍基地。
かつては日本海軍の「新竹航空基地」でした。
「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、
当飛行場は連合軍によりMAD(Medium Bomber Airfield:中爆撃機飛行場)に分類されています。
また、連合軍は新竹を5本の滑走路で1位にランクされました。
そしておそらくこれが原因で、新竹は1945年以降、米軍の爆撃の最大の標的となり、
爆撃日数は台湾のすべての空港の中で第1位にランクされた。とあります。
先頭のグーグルマップは、U.S. Army Map Service,/Shinchiku から作図しました(下記リンク参照)。
マップには、いかにも海軍型の有蓋掩体壕が幾つも描かれており、作図に含めたのですが、
グーグルマップで確認すると、作図した以外にも有蓋掩体壕が幾つも現存しています。
日本海軍型ではない有蓋掩体壕も幾つもあり、
これは後の時代に駐留米軍か、台湾軍により建設されたのでものではないかと思うのですが、分かりません。
■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
に情報がありました。以下引用させて頂きます。
新竹海軍飛行場
位置(記載無し)
滑走地区(記載無し)
付属施設(記載無し)
飛行場(記載無し)
気象(記載無し)
交通通信 航法施設(記載無し)
其の他 海軍飛行場
新竹市政府サイト様に飛行場についての説明がありました(下記リンク参照)。
以下一部抜粋させて頂きます。
「新竹海軍飛行場は日本統治時代の1937(昭和12)年に建設されました。当時「新竹の穀倉」と呼ばれた吉羊崙庄、沙崙庄、崙仔庄、竹囲などの集落があった約470ヘクタールの土地が徴用されることになりました。元の住民たちは、飛行場付近に移転させられることになり、それは、今の成功路、延平路二段虎山などのエリアに当たります。(中略)台湾は、日本本土と南洋の中継点であり、新竹は中国大陸に最も近い位置にあったため、防衛上重要視され、陸、海、空の部隊が配属されることになりました。神風特攻隊(桜花特攻機部隊)の本部も新竹に置かれるようになりました。支援施設としては、南進の給油地として、第六海軍燃料廠新竹支廠、第六燃料廠化学工廠、海軍第六燃料廠油庫が新竹に設置され、その重要度は高まりました。第二次大戦中には、新竹市は連合国の空襲に遭い、投下された弾薬量は23,402トンと、台湾で最大の被害を受けた都市となりました。このように新竹の戦略的地位は高く、第二次大戦後に中華民国に接取された後も、同飛行場は、新竹空軍基地として用いられることとなりました。」
台湾・新竹飛行場跡地
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:台湾新竹市
座 標:24°49'36.4"N 120°56'22.9"E
滑走路:1,300mx80m(05/23)、1,400mx80m(05/23)、1,100mx90m(13/31)、1,000mx70m(13/31)
(座標、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
・ 新竹空軍基地(現在) データ
設置管理者:中華民国空軍
種 別:陸上飛行場
3レター:HSZ
4レター:RCPO
所在地:台湾新竹市北区
座標:24°49′25.9″ N 120°56′50.9″ E
標 高:26m
滑走路:3,644mx45m?
方 位:05/23
(中国語版、英語版Wikiから)
沿革
1936年05月 19日 日本海軍航空基地
1945年08月 終戦
1946年 中華民国空軍
1950年 米空軍(1979年まで)
1998年01月 1日 民間空港開港(旅客機事故により8ヵ月後閉鎖)
関連サイト:
新竹市政府サイト■
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ)■
U.S. Army Map Service,/Shinchiku■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
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