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樺太の飛行場、不時着場跡地 [├資料]



2019年末、防衛研究所にて入手した資料の中に、

「陸空-本土周辺-11 飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」

というものがあり、最初に「樺太飛行場不時着場 一覧図」というページがありました。

南樺太の地図に、「飛行場」、「着手中」、「不時着場」の記号があり、

この一覧図から作ったのが先頭のグーグルマップです。

図がかなり大まかなもののため、実際の位置とかなりのズレが生じていると思います。

おおよそこの辺り。ということでご了承くださいませ。


ポーツマス条約により、第二次大戦まで樺太の北緯50度以南を日本が領有していた訳ですが、

この一覧図には、飛行場:4、着手中:2、不時着場:11 が描かれています。

また、一覧図にはなぜか出ていないんですが、同資料にはこれ以外に、

初問飛行場、塔路飛行場、小能登呂飛行場の3つの飛行場についての資料が含まれており、

この3つを合せると、日本が領有していた南北約460kmの範囲に、

飛行場:7、着手中:2、不時着場:11、合計20の飛行場、不時着場があったことになります。

着手中のうち、内路飛行場は資料内では諸施設付きの立派な飛行場として扱われており、

もう一つの名寄飛行場については、資料内には特に情報がありません。

国立国会図書館デジタルコレクションの中に「久春内飛行場」という飛行場があり、

この飛行場は、一覧表には出てこないのですが、

この飛行場の位置情報が名寄飛行場の位置と非常に近いため、

もしかしたら、久春内飛行場と名寄飛行場は同一なのかもしれません。


同資料内では、上記7飛行場と、着手中の内路飛行場について、付図と簡単な情報があり、

例によって資料を元に作図、記事化しました。

実はオイラ、恥ずかしながら樺太についての知識が皆無で、

記事化作業は、当時の樺太について知る機会となりました。


別サイト様なんですが、「南方を志願し北方の飛行場大隊勤務」という記事の中で、

当時飛行場大隊に所属しておられた方が戦中の南樺太の様子について扱われていました。

以下引用させて頂きます。

 南樺太に住む日本人の心境たるや、北緯五十度を境界にソ連と接するため、
恐々としてその日を過ごしていた様子は、到底内地に住む者には想像もつかない様子で、
休日になると兵舎の門前に子供達が来て外出する兵隊をわが家に迎えに来ます。
その当時、最早配給制で不自由な生活をしているのに、
菓子や手拭等を差し出して慰労に努めてくれるような状態でした。
 この状況を見て我々は「身をていしても国やこの人たちを守らねば」と痛感した次第ですが、
樺太は当時大事な石油資源を持ち、平坦な土地の大木からはパルプがとれ、
またオホーツク海は世界屈指(三大漁場の一つ)の漁獲量を誇るという日本の大きな支えでした。

来週から、資料にある7つの飛行場と1つの着手中の飛行場の記事を順にアップさせて頂きます。

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