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環七滑走路跡 [├国内の空港、飛行場]

   2023年7月訪問  



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航空写真:A
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航空写真:B
撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)

東京都道318号環状七号線、通称「環七」。

大戦末期、この環七の一部が滑走路として整備されたとする資料があります。

正式名称不明のため、当記事では便宜的に「環七滑走路」として以下話を進めます。

この資料は、以前赤羽飛行場■ で大変お世話になった、

「北区の歴史を学ぶ会」の本間様からお送り頂いて初めて知りました。

本間様どうもありがとうございましたm(_ _)m

因みに現在のところ、ネット、防衛研究所収蔵資料等オイラの手持ち資料には、

ここが滑走路だったとする情報はなく、頂いた資料が唯一のものです。


航空写真:Bから明らかですが、

当時の環七は、国道17号より西側と、国道122号より東側がブツ切れ状態です。

国道122号の東側には隅田川が横たわっていますが、未だ橋脚工事の雰囲気もありません。

実は隅田川を越しても、すぐ先には荒川がラスボス的存在で待ち構えています。

昭和2年の建設計画に盛り込まれた環七は、都心部を環状に大きく囲む形の道路なのですが、

頂いた資料によりますと、国道17号と国道122号の連絡のため、

上に貼った航空写真の部分がいち早く着工したのだそうです。

「国道17号と国道122号の連絡」という意図を知れば、

こんな短い部分だけ先行工事をする意味は十分納得ですね。

余談ですけど、都心部に向かう放射状の道路は充実している一方、

環状道路の整備は令和の現代に至るまで続いており、

埼玉在住のオイラからすると、横方向の道路は近年ようやくが整ってきた。という感覚です。


話を戻します。

先行して着工した環七の「国道17号~国道122号」区間だったのですが、

頂いた資料によりますと、

その後陸軍により用地収容と整備が積極的に進められ、大戦末期の時期には本土決戦に備え、

道路幅を50mに再拡張し、飛行機の離着陸が計画され、建物の強制撤去が行われました。

軍隊がやって来て、柱を鋸で切り綱をつけて引っ張り次々と家が取り壊されていきました。

そこまでして拡幅を進めたのですが、結局一機も飛ぶことなく終戦を迎えました。

そして戦後の昭和25年、ホンダは北区上十条5丁目26番地に東京工場を設置(紫マーカー)。

この拡幅部分をオートバイの試走路として使用しました。

資料には、滑走路にされかけた直線道路を目当てにこの地を工場用地として選んだのではないか。とありました。

ということで、現地にお邪魔してきました。


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赤マーカー地点。

姥ヶ橋交差点には現在陸橋が設けられています。

ここから西に向かって拡幅されました。


DSC_1184_00001.jpg
赤マーカー地点。

陸橋下。

外回り側から滑走路方向。


DSC_1185_00001.jpg
赤マーカー地点。

陸橋下。

内回り側から滑走路方向。


DSC_1196_00001.jpg
青マーカー地点。

姥ヶ橋方向。

姥ヶ橋交差点からここまで650mは直線なんですよね。

もしかしたら滑走路はここまでだったかも。


DSC_1189_00001.jpgDSC_1190_00001.jpg
黒マーカー地点。

地上では環七と中山道が平面交差。

すぐ上には中山道陸橋があり、更にその上には首都高5号線。

おまけにこの真下は板橋本町駅。

東京スゲェ(☆Д☆)


DSC_1188_00001.jpg
こちらも黒マーカー付近。

姥ヶ橋交差点方向。

なんか陸橋ばっかしで見通し悪いですね。

途中にある歩道橋から撮ればヨカッタ。



(追記)

ここを滑走路と見なす妥当性について思いつくところを書いてみます。


1944.png
①撮影年月日1944/11/03(昭19)(8922 C1 29) 
1946.png
②撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)


①1944/11/03撮影
②1946/02/13撮影

何れも地理院で閲覧可能な終戦直前/直後のものです。

①では環七の両側に建物がギッシリと並んでいますが、②では左右共にほぼ更地になっています。

これは、「末期に建物の強制撤去」とする資料と合致します。

次に当時の環七の幅を出してみます。


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②1946/02/13撮影の写真 中仙道陸橋付近でレイヤを作って、


02.png
グーグルマップにレイヤ重ねて(拡大/縮小すると角度がズレるので、とにかく道路幅優先)、


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17mと出ました。

これは現在の車道幅と同じです。

環七は当時からこの幅で建設してたんですね。

ここが滑走路だとすると、屈曲部を含めて最大でも740mしかなく、

長さ的にここは戦闘機等小型機用ということになります。

ここから西南西約2.5kmに成増飛行場の秘匿飛行場がありましたが、ここも道路転用型で、

道路幅は12m程度しかないのですが、左右をクリーンな状態にして対応していたようです。

当時の陸軍戦闘機は全幅10~12m、トレッド幅は3m程度なので、左右に障害物がなければ、なんとかなったはず。

因みに、道路拡張型で幅の狭い滑走路はオイラの知る限り以下5例あります。

京都府・舞鶴非常用滑走路跡地(滑走路幅:15m)
大阪府・藤井寺北滑走路(滑走路幅:11m)
同南滑走路(滑走路幅:11m)
岡山県・京橋不時着場(滑走路幅:13m)
岩手県・見前滑走路(滑走路幅:6m)←これは戦後米軍連絡機用

こうした例からすると、環七の舗装幅17m、しかも左右が更地で、50m幅というのは、かなり広々ですね。

ということで、オイラとしましては、ここでの離着陸は十分可能と思うのですが、

前述の通り、現在のところネットや防衛研究所の資料等からここに滑走路があったとする裏付けが

できておりません。

また、環七の左右が更地になっている幅は、50mどころか実際にはもっと広く、

長さも「ここが滑走路」とする範囲よりずっと東西に長いです。

ともかく、滑走路として運用するため更地にしたにしては、強い違和感を感じます。

空襲の影響なのでしょうか。

情報お待ちしておりますm(_ _)m




     東京都・環七滑走路跡         
環七滑走路 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:本土決戦用滑走路
所在地:東京都北区上十条、板橋区清水町
座 標:35°45'45.0"N 139°42'36.0"E
標 高:28m
滑走路:740mx50m?
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
終戦末期、拡幅工事実施

関連サイト:
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コメント(2) 
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コメント 2

an-kazu

東京陸軍兵器補給廠の跡地がニッポン代表アスリートたちを
鍛える場所になっているというのがなるほどな気がします。

by an-kazu (2023-11-10 22:29) 

とり

道理で突然歩道でムーンサルトしたり、ガードレールで鞍馬やる人が居た訳だ!!
d( ̄∇ ̄*)☆\(--
by とり (2023-11-11 06:39) 

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