岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2023年5月訪問
岩手県盛岡市を走る国道四号線に終戦直後、米軍の「見前滑走路」が建設されました。
この情報は、盛岡でステイホーム中さんから頂きました。
盛岡でステイホーム中さん情報ありがとうございましたm(_ _)m
教えて頂いた情報は、
「戦後、GHQが盛岡市南部の国道4号線上に「見前滑走路」を設置し、軍用セスナ機が往来していましたが、わずか400メートルほどでした。」
というもので、埼玉県民のオイラにとっては分からないことだらけだったんですが、
マップで確認すると、盛岡市内を走る国道四号線の南端部に「西見前」、「東見前」という地名があり、
その北側、住所的には「見前」でなくなるんですが、学校や公民館等の施設名に「見前」が付く地域まで含めると、
その範囲は国道四号線の沿線3km以上に及びます。
この3km以上の範囲から400mの滑走路区間を絞り込まねばならないのですが、
ググってもサッパリ情報がないため、盛岡市立図書館のレファレンスサービスを利用させて頂きました。
盛岡市立図書館様からご紹介頂いたのは、
「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」
という書籍でした。
ちょっと長いんですが、以下関係個所を抜粋して引用させて頂きます。
84p
一、進駐軍滑走路
長く虚しい戦争は終った。打ちのめされた虚脱感のみ残る村に、ぼつぼつ復員兵が戻ってきた。しかし見前村の戦争は、まだ終わっていなかった。八月十五日の終戦の日からちょうど一カ月経った九月十六日、米軍落下傘歩兵第五十二連隊二,八〇〇名が盛岡に進駐し、上田の盛岡高等工業学校(今の岩手大学工学部の前身)を接収して兵舎とした。
(中略)そして十日後には、米軍飛行機(連絡用)の離着陸滑走路を見前村に求めたのである。そこは、大寺田茶屋から和野橋間の国道(四号線)利用した応急の滑走路で、直ちに土木工事が始まった。国道の松並木は、戦争末期に松根油をとるため大半は切り倒されていたが、残された根を片づけ両側の草地を整備して、国道東側には吹流しを立てた。
まさに国道は滑走路であった。
十月なかば米軍飛行機が飛来し、初めて滑走路に降りた。青い眼のアメリカ兵など戦争中も見ることのなかった村人たちはただ恐れおののいたが、恐いもの見たさに遠巻きをして見ていた。
飛行機は一週間に一度ぐらい飛んできて、和野のムトウ酒店前で待っていたジープが、盛岡公園下のアメリカ軍政部(今の教育会館のところ)や上田の落下傘部隊に向けて、連絡に走っ
た。
滑走路を使う時は国道は縄を張って通行禁止となり、着陸した飛行機は再び離陸するまで国道の傍に置かれた。この間、MPや警察官が厳重な見張りをした。
飛去する飛行機は小型の複葉機が多かったが、どこから飛んできてどこえ飛んで行くのか誰も知らなかった。
「大方、仙台あたりだべ」「いや、東京から直接来るんだべさ」人々は勝手に想像したが、冬になると滑走路の除雪に部落一同が動員され、国道の上を飛行機が離着陸できるように鏡のように掃いた。滑走路が通行止になる間は、人々は両側の雪原を渡って歩いたが、ズボズボ踏み込んでよく転んだ。
飛行機が来る日は、子供達は学校をサボって滑走路に集まった。いま見前農協の課長クラス以上の年配は、みんなそうして大きくなったガキ大将たちだ。
86p
この年(昭和26年)秋の文化の日「カッソーロ」には名前も「平和の翼」と名づけた飛行機が飛ぶ予定で、参観者約五,〇〇〇人が集まったが(当時の見前村の人口より多い)、強風のため五日に延びた。ところが五日も風のため飛行機は再度着陸に失敗した。
それほどこの辺は広々と開けた水田地帯で、西方はるかの東北線の線路からさえぎるものはなく、いったん西風が吹くと、大火になったり飛行機が着陸不能となったりした。
87p
いまこの滑走路の両側にはびっしりと会社、工場が建ち並び東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物があるので、昔のように強風にさられれることもなくなった。
この米軍滑走路が最後に使われたのは、都南村合併の前年、二十九年の秋である。
この日米軍機四機が見前滑走路に着陸したが、そのことは事前に知らされていて、村人たちは飛行機の見納めに続々集まってきた。藤沢現組合長もその一人だったが、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」
と感慨一入のものがあったという。
今から思えば、三十数年前までこの国道に飛行機が離着陸したなんて夢のような話しである。しかし実際に「見前滑走路」は存在し、青い眼の米軍飛行兵がこの辺を闊歩していたのだ。
いまでも地区の老人たちは、和野の北端と南端の間の国道四号線を「カッソーロ」と呼んでいる。
滑走路について、非常に具体的に触れられていますね。
で、この資料から滑走路についていろいろ考えますのだ。
■滑走路のあった期間
資料によりますと、昭和20年9月16日に進駐があり、進駐から10日後に滑走路建設の要請がありました。
直ちに工事が行われ、1番機の着陸が10月半ばでしたから、
進駐から約1ヵ月後にはもう滑走路として運用開始したことになります。
最後の使用が「昭和29年の秋」とありますから、国道四号線が米軍の滑走路として使用されていた期間は、
1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間、ということになります。
結構長いこと使用していたんですね。
■滑走路のあった場所
ご紹介頂いた本には、ドコが滑走路だったかについて、様々な情報が載せられています。
まず、「国道(四号線)」を利用したとあるわけですが、
滑走路としての使用が終了した1954年から、この記事をアップする時点で既に69年も経過していますし、
この書籍自体、発行から既に35年が経過しています(2023年現在)。
ということで、そもそも滑走路だった頃の国道四号線は、現在の国道四号線と同じなのかを確認しました。
この周辺の国道四号線はバイパスなどなく、当時から線形も変化なし。
ということで、現在の国道四号線上に滑走路があった。ということになります。
更に、滑走路として使用していた区間には現在、
「東側は都南病院やワマヤボール、西側は永大産業や一戸マーケットなどの大きな建物がある」
とあります。
「ワマヤボール」と「一戸マーケット」の2つはググっても見つからなかったのですが
国道四号線東側に都南病院(赤マーカー)、そして西側に永大産業(紫マーカー)がありました。
都南病院と永大産業は四号線挟んで斜め向かいという位置関係ですね。
国道四号線の少なくともこの範囲は、滑走路として使用していたということで確定です。
但し、都南病院~永大産業の範囲は、最大でも100mちょいしかなく、400mにはまだまだ足りません。
それで次に、この範囲を含めて、ドコまで滑走路として使用していたか推測します。
この部分の直線がどの程度続いているかなんですが、
都南病院前から南側は約300mの直線が続き、
一方、都南病院前から北側は、約650mの直線が続きます。
ということで、合計950mの「直線区間」の中に400mの滑走路があったはず。
上記資料では国道を滑走路とするための土木工事として、
「残された(松並木の)根を片づけ両側の草地を整備」したとあります。
1948年の航空写真で見てみると、この950mの直線区間の北側部分は、
道の両側に木や建物がズラリと迫っている箇所が多いです。
当時この区間の道路幅は約6mでした(後述)。
資料には、飛来したのは「小型の複葉機が多かった」とあります。
機種までは記されておらず、オイラも大戦当時の米陸軍が使用した複葉機は1つしか知りません。
ボーイング・ステアマン モデル75:Wikiから
10,000機以上生産された複葉練習機、ボーイング・ステアマン モデル75です。
複葉機は、必要な翼面積を2枚に分けて上下に重ねるため、同じ翼面積の単葉機と比較して、
全幅が相当短くなるはずなんですが、それでもモデル75の全幅は9.81mありました。
幅6m道路で、両脇に木や建物がズラリと迫っていては、まったく寸法が合いません。
一方、950mの直線区間の南側部分は、道路の両側が整備されてキレイに何も無い状態です。
上に貼った1948年の航空写真のそれぞれの位置に、都南病院と永大産業を書き加えましたが、
この2つの建物がある「滑走路確定」の場所は航空写真で確認すると、
「道路の両側が整備され」ているように見えます。
上述の通り、国道四号線が滑走路として使用されたのは、1945年10月半ば~1954年秋までの約9年間なのですが、
この周辺で地理院の航空写真で閲覧可能なのは、1947年、1948年、1952年で、
滑走路として運用している時期に3回撮影が実施されたことになるのですが、
いずれの年の写真でも、この区間の両側はクリーンな状態が維持されています。
また、上記資料では「大寺田茶屋から和野橋間」が滑走路とあります。
よそ者のオイラはこれだけでは一体ドコのことやらサッパリなんですが、
これも地元図書館のレファレンスサービスで教えて頂きました。
和野はかなり範囲が広く、この周辺を含んでいるのですが、
上に貼った航空写真の四号線北側部分、川を越した箇所から両側が整備された状態が始まっているように見えます。
ググっても確認できなかったのですが、この川を越す橋、これが「和野橋」なんじゃないでしょうか?
「都南病院」と「永大産業」を含む、間違いなく滑走路跡として特定できる部分を含め、
・直線であること
・道路の左右がきちんと整備されていること
・橋から始まること
これらの条件を満たす区間の長さを測ってみると、418mでした。
これは盛岡でステイホーム中さんから頂いた「わずか400メートルほど」という情報とも合致します。
最後に滑走路として使用していた当時の道路幅なんですが、
上に貼った1948年の航空写真を引き伸ばしてレイヤを作って確認したところ、
白く写っている道路の幅は6m、左右の整備されている部分まで含めると、17mでした。
先頭のグーグルマップはこれを反映して作図しています。
資料にも「この辺は広々と開けた水田地帯で」とある通り、この400m区間に限っては、
国道の東西どちら側も水田地帯が広がっており、本当に広々しています。
この区間なら、全幅10mを超える機体でも、充分運用可能だったのではないかと。
ということで、滑走路は多分ここだったのではないかと思います。
ところで、これだけの広々とした幅があれば充分運用可能。と書いておいてアレなんですが、
「運用可能」というのは飽くまで小型機に限っての話であり、
長さ400m、幅6m("着陸帯"含め17m)というのは、一般的な滑走路としては相当短く、狭いです。
滑走路の長さがたった400m程度でしたから、離着陸速度が遅く、翼面荷重の低い(重量の割に主翼が大きい)
機体でないとここの滑走路は使えません。
「小型の複葉機が多かった」とあるのも道理です。
但し、着陸速度が遅く、重量の割に主翼が大きい機体ということは、
それだけ風に煽られ易く、横風に弱いということです。
盛岡でステイホーム中さんからも、「西風が強い」というご当地事情を教えて頂いていたんですが、
上述の資料の中では、「強風のせいで5日に延期」とか、「着陸失敗」といった表現が見られます。
着陸できるのか、無事着陸できたとして、今度は離陸できるのか、
天気図と睨めっこしながら関係者は相当気をもんだでしょうし、パイロットは神経をすり減らしたはずです。
話は変わりますが、同資料には、駐機中のヒコーキの大きな写真が掲載されています。
支柱付き高翼単葉(主翼下面に大きく"US ARMY")、単発固定ピッチのプロペラ、固定脚尾輪式の機体で、
多分セスナL-19と思います。
セスナL-19 By U.S. Army - U.S. Army photo from the official U.S. Department of the Army publication Vietnam Studies - Airmobility 1961-1971. Washington D.C. 1989 [1] photo [2], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9545770
「滑走路(昭和20年代)」とキャプションがついており、
恐らく国道四号線脇の草地に駐機している場面ではないかと。
機 種 | 全幅(m) | 自重(kg) | 翼面積(㎡) | 翼面荷重(kg/㎡) | 出力(hp) | 最大速度(km/h) |
モデル75 | 9.80 | 876 | 27.7 | 48 | 220 | 200 |
セスナL-19 | 10.97 | 732 | 16.2 | 68 | 213 | 185 |
一式「隼」 | 10.837 | 1,975 | 22 | 117.7 | 1,150 | 548 |
二式「鍾馗」 | 9.45 | 2,106 | 15 | 184.67 | 1,450 | 615 |
三式「飛燕」 | 12.00 | 2,630 | 20 | 173.5 | 1,175 | 560 |
四式「疾風」 | 11.24 | 2,698 | 21 | 185.24 | 2,000 | 650 |
上記2機種と日本陸軍戦闘機の比較。
(型式により数字が大きく異なる場合がありますので、「おおよその目安」ということでご了承ください)
全幅は似たり寄ったりですが、それ以外の数字が全然違いますね。
二式「鍾馗」は「1,500m滑走路でも止まりきれずに衝突」なんて記録が残る一方、
L-19なんて、離着陸滑走距離170m~180mですからね。
L-19は自重僅か732kgで、これは軽自動車で現在主流のトールワゴンが1,000kg前後であるのと
比較すると、如何に軽いか分かります(最軽量車種はダイハツのミライース:650kg)。
滑走路の長さがたったの400mですからこういう機体でないと離着陸できず、
この飛行場にこの機体は、必然の組み合わせということですね。
資料とさせて頂いた書籍には、機体の近くに軍服に身を固めた3人の米兵が写っているのですが、
アメリカンソルジャー達よりもずっと機体に近い所にお母さんや子供達はじめ大勢群がっており、
柵もロープもなく、機内を覗き込んでいる元祖ヒコーキマ〇ア様らしき姿もあります。
現代の航空祭等では、自衛隊機でさえロープを張って同じ日本人を必要以上に近寄らせない。
という措置が取られることもあることからすると、余りの無警戒振りが不思議な感じなんですが、
分別をよく弁えた当時の方々だからこそ、この無警戒振りが成立するのでしょうか。
資料には、「駐機中の機体は厳重に警備された」とあるんですが……(o ̄∇ ̄o)
(画角の外ではMPや警察が目を光らせていたりして)
資料には、
終戦直後の進駐と滑走路の存在により、「見前村の戦争は、まだ終わっていなかった」とあり、
滑走路の閉鎖を受け、「これで滑走路の使命も終った。思えば長い戦争だった」
という一節があります。
進駐は様々な形で地元の方々に暗い影を落としたのでしょうが、
それでも写真に写る機体の前の草地に腰を下ろして遊んでいる母子の姿には、ちょっと救われる思いです。
レファレンスサービスで貴重な資料と情報を頂きました盛岡市立図書館兵庫様、どうもありがとうございました。
赤マーカー地点。
黒マーカー地点。
岩手県・見前滑走路(進駐軍滑走路)跡地
見前滑走路(進駐軍滑走路) データ
設置管理者:米軍
種 別:連絡用飛行場
所在地:岩手県盛岡市西見前、東見前
座 標:N39°38′27″E141°10′7″
標 高:110m
滑走路:418mx6m?
方 位:16/34
(座標、標高、方位は地理院から、滑走路長はグーグルアースから)
沿革
1945年09月 16日 米軍落下傘歩兵第五十二連隊2,800名盛岡に進駐
26日 米軍、見前村に連絡用滑走路要求。直ちに工事開始
10月 中旬、初飛来
1951年11月 3日 「平和の翼」機、強風のため飛行5日に延期。参観者5,000名。5日も強風のため着陸失敗
1954年 秋、最終飛行。滑走路閉鎖
関連サイト:
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この記事の資料:
「都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年」
興味深い調査と考察です!
根気がありますね(^^)v
by an-kazu (2023-09-11 17:10)
資料ってのは大事ですね、過去の記憶を残してくれてますから。
都市化と農協・見前の長い道―見前農協創立40周年記念― 見前農業協同組合発行 1988年
このような本は、実際そこで見て、体験した人たちの記録ですから
とても役にたちますね。
桜島の大正大爆発の記録書も、県立図書館の閉鎖書庫にありますが
当時の爆発前から、爆発中、避難、爆発後詳しく書いてあります。
当時の人達が、この爆発で気象台や役場の人間をどれだけ信じられなくなったか、恨み節も書かれてます。
でも、刻刻とした記録が現在の桜島の観測や、避難準備に役立つのですから、先人様様です。
by 鹿児島のこういち (2023-09-11 17:44)
■an-kazuさん
資料がないと何もできないです。
情報に感謝感謝です。
by とり (2023-09-12 19:00)
■鹿児島のこういちさん
桜島に関してそんなことがあったのですか。
確かに記録として残っているのは大きなことですね。
by とり (2023-09-12 19:02)