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青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県三沢市の招和台公園内に「報知日米號搭乗員慰霊之碑」があります。


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公園の一角に

・報效義會三番艇遭難之碑
・鎮魂碑

と共に並んで設置してありました。


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碑の隣に説明版が設けてありました。

報知日米號搭乗員慰霊之碑(全文)
 昭和二年、アメリカ人リンドバーグがニューヨーク・バリ間およそ五千八百キロメートルにおよぶ大西洋無着陸横断飛行に成功したことから、冒険飛行家たちはにわかに太平洋に熱い視線を送るようになりました。そうしたおり、昭和六年に三沢村の人たちから見守られながら二人のアメリカ人が淋代海岸から飛び立ち、途中車輪を捨てて四十一時間余りも飛び続け八千キロメートルのかなたアメリカ・ワシントン州のウェナッチに胴体着陸し世界初の太平洋無着陸横断飛行を成し遂げたのです。
 一方、日本人もこうしてはおれないぞと報知新聞社が2回ほど北アメリカに向かって飛び立つ計画を試みましたが、いずれも失敗してしまいました。本間機長以下の搭乗員はその3回目の計画に挑むことになりました。そして、小比類巻要人宅に泊まって村人たちの協力を得ながら準備をととのえ、昭和七年九月二十四日未明、満を持して淋代海岸を離陸しました。しかし、数時間後に通信が途絶えてしまいました。それから約一年間北の洋上を捜索しましたが何の手掛かりも得られませんでした。離陸に先立ち井下通信士は、「技術には充分な自信あるも天祐は左右し難し」との遺書を家族にあてていました。きっと万が一のことを覚悟されていたに違いありません。

●本間 清 機長、新潟県佐渡郡河原田町(現佐和田町)出身 享年四十五歳 北洋天低暗雲迷 霧塞前程転凄惨 決然破暁就鵬程 爆々快翔横北溟
●馬場英一郎 操縦士、滋賀県坂田郡春照村(現伊吹町)出身 享年二十八歳
●井下 知義 通信士、島根県邑智郡川越村(現桜江町)出身 享年三十二歳

 この碑は昭和三十七年、本間機長と海軍兵学校が同期であった桑原虎男氏らによって資金が集められ建てられたものです。この碑の維持管理は、浜三沢町内会及び三沢市遺族会が建立者の遺志を引き継ぎ行っています。



■ミサワ航空史(2015年1月31日発行)21-26p

の中で、日本人による挑戦の詳細について、以下記されていました。

「日米報知号」の太平洋横断挑戦飛行
 リンドバークの大西洋横断飛行の壮挙に刺激され、今度の太平洋横断は、国産機を使用して日本人操縦士によって行なうべきであるという世論を具体化し、帝国飛行協会が中心となり、昭和2年8月から準備が進められた。使用機である川西K12「桜号」は、当時の技術をもって行なえる最新の設計と最も進歩した資材を使って研究・試作された結果、第一号機実験機は昭和3年6月に完成、各務ヶ原において試験飛行がおこなわれたが、その性能判断に関して、航空局側と制作者側の間に紛糾が起こり、第2号実行機は引き続いて同年8月に完成したが、これも航続力不十分として、同年9月、航空局の命により壮挙は打ち切りとなってしまったことは、航空熱が高まっていた日本としては甚だ残念なことであった。
 三沢の市街地から四川目海岸に至る道路沿いにある招和台という公園の一角に、ひっそりと石碑が建っているが、次のような碑文が刻まれている。

 機長兼航空士本間清、操縦士馬場英一郎、通信士井下知義の搭乗する第三報知日米号は、昭和7年9月24日午後5時35分淋代を出発し、勇躍太平洋横断飛行の途につきたるが、択捉島通過の報を最後として消息を絶つに至れり。かくてわが航空界空前の壮挙は挫折したりと雖も三士の烈々たる気迫は後進を奮い立たしめ著しく遅れたる斬界の発展促進に寄与するところすこぶる大なるものありたり。爾来三十星霜その忘れ去られん事を憂い茲に慰霊碑を建立するものなり。 昭和37年9月24日 発起人一同

 これは「日米報知号」本間清中佐以下3名の搭乗員の慰霊碑であるが、その遭難時から30年後に建立されたものである。
 昭和5年、日本中で航空熱が高まる中で、報知新聞社の後援で吉原清治操縦士が単独操縦で8月20~30日、ベルリン~東京立川間11,404kmを翔破、実飛行時間79時間58分の軽飛行機による驚異的母国訪問長距離飛行に成功していた。翌年の昭和6年同型の水上機「報知日米号」による太平洋飛び石伝い横断飛行計画を発表、社内に横断飛行実行委員会を設け、副社長寺田四郎を委員長として、その成功の万全を期したのである。此の具体的な計画作成に当たっては、吉原清治飛行士が中心となり、帝国飛行協会の安達賢造中佐らの応援を得て計画を練ったが、計画の概要は、ユンカースA-50水上機を使用して、島伝えに北太平洋を飛行しようというものであった。

 昭和6年5月4日、同機は羽田飛行場近くの河口から離水して、本県沼崎(現在の上北町)の小川原湖に着水し、その後北海道根室を通過して、5月9日、千島列島エトロフ島内保湾に事故のため不時着水し故障修理後、沙那に到着。ここで気化器の分解修理をおこなってから、さらに新知島上空に達した時、気化器が凍結して再び不時着となり、「報知日米号」の太平洋横断計画は中途で挫折となってしまった。
 同年、報知新聞社は直ちに「第二報知日米号」を準備して再挑戦となったが、7月5日、根室で訓練中に大波で機体が大破してしまい、この計画も出発前にして失敗に終わることになった。
 報知新聞は、昭和7年度の計画として、「3大横断飛行」を計画していた。第一は飛行艇での逆横断飛行、第二は一気にアラスカまでの飛行、第三はシアトル・東京間無着陸飛行という内容であった。
 昭和6年11月14日、横浜出帆の「エムプレス・オブ・ジャパン」号で、予備陸軍航空兵大尉名越愛徳・同特務曹長浅井兼吉の二人が渡米、ニューキャッスル市のべランカ航空機制作会社製作機に荒木貞夫陸軍大将が「報知日の丸号」と命名し、昭和7年3月29日、フロイド・ベネット飛行場で試験飛行中に墜落大破、名越大尉は機体と共に殉職し、遂にこの逆横断飛行も失敗に終わったのである。
 一方、吉原飛行士も英国サザンプトンで水陸両用飛行艇「サロー・カティサーク」号を完成させ、3月末にサンフランシスコへ送り、5月2日にオークランド飛行場に到着。昭和7年5月16日(日本時間17日)オークランド飛行場で試験飛行中に機関士大石竜弥が同乗し、港の一角であるオークランド水道から離水したが、250ftの高度に達した時に突然エンジンが停止し、急いで着水降下ようとしたが(ママ)、水面に届かぬ前に河岸に降りて転覆し、吉原・大石共に重傷を負い、機体は大破して、再使用は不可能の状態となった。またもや失敗となり、逆横断飛行も出発を見ないままに終わってしまった。
 報知新聞社長であった野間清治は、報知新聞社の面子にかけても必ず北太平洋横断飛行を成功させることを願い、当時海軍航空隊出身の名パイロット本間清中佐、馬場英一郎飛行士、井下知義通信士の3人を同乗させ、ユンカースW-33型による「報知日米3号」に期待をかけることになった。

 「第三報知日米号」が、淋代飛行場に到着したのは、昭和7年9月10日午後3時36分であった。羽田飛行場を出発した「第三報知日米号」は、燃料補給のためもあって淋代に到着したのである。そして、中旬の天候の状況を見てから、アラスカ、ノームを指して北太平洋を一気に横断の壮途に上ることになった。「第三報知日米号」は、「第一報知日米号」「第二報知日米号」のように、僅か80馬力の軽飛行機ではなく310馬力の長距離機であった。 機長の本間清中佐は、佐渡河川原田の生まれ、元霞ケ浦海軍航空隊教官当年43歳の男盛り、沈着にして大胆、我が国空中航法の権威者であり、馬場英一郎一等飛行操縦士は、滋賀県坂田郡春照村の生まれ、第3回逓信省海軍委託生出身、堺・松山間の定期航空に従事し、ユンカース大型機の操縦にかけては我が国きってのナンバー・ワンであって、豪胆にして細心、当年28歳の青年飛行家であったし、井下通信士も無線通信のベテランということで、全国民は「今度こそは成功間違いなし」と感じていた。
 昭和7年9月24日、「第三報知日米号」は、国民に期待を担い(ママ)、勇躍淋代海岸を離陸して千島半島沿いにノームへ向って北上中、色丹島付近上空で消息を絶ってしまったのである。
 当時の「東奥日報」(昭和年9月25日発刊)(ママ)は、「第三報知日米号」の淋代離陸を次のように報道している。「日本航空界の権威本間清中佐を機長として邦人最初の歴史的壮挙たる太平洋無着陸横断を決行する24日の朝は来た。この日午前2時起床した本間中佐、馬場、井下三勇士は揃いの赤革の服に同じ色の靴に身を固め、山田航空官と共に自動車で星瞬く夜道を駆り、3時半淋代飛行場に到着。井上(ママ)通信士は食料品及び身の回りのものを積み込み、馬場操縦士は神田技師と共に午前4時から約10分間に亘ってエンジンの試験をなし、凄惨なる青色の焔をエキゾーストパイプより吐き物凄い光景を呈した。其の結果は1,380回転を算へ好調子を示した。比頃東風やや強かったが本間機長は決然として飛行決行を声明し、4時20分宿舎より準備してきた弁当で朝食を済まし、それより太田常利少佐と共に自動車で滑走コースを点検して後、予て賀陽宮殿下より賜った日章旗を機上に立て朝風になびかせながら記念写真をなし、愈々今日決行することになった。見送りにため(ママ)来場した山田航空官、北山保安課長、福士三本木警察署長、林三沢村長、小比類巻同前村長、報知新聞関係者、山田本社社長と共に天幕内でビールを乾杯する予定であったが、風の都合でこれを中止し、多数に見守られながら、午前5時20分滑走を開始した、2度滑走を失敗し、3度目に約800m滑走後、午前5時35分見事に離陸し、銀翼燦然として大鵬の如くはるかな東方雲間に機影を没しアラスカのノームに向けて大壮途に上った」
 完全に天候回復した9月24日午前5時37分、「第三報知日米号」は、800m足らずの滑走で離陸し、太平洋横断の絶好のスタートを切ったのである。「午前9時50分、色丹島を通過、高度1,000、天候良好にして一同元気、異常なし」「午前10時16分、択捉島南々東20mil(マイル)地点を通過」との好調な無電連絡があったが、午前11時頃から交信感度が落ち、落石あたりから「感度が鈍くて受信不可能なり、11時30分より交信すべし」との問いに「OK」という返信があったのを最後に、ブッツリと連絡が絶えてしまったのである。翌25日午後3時、ノーム到着の予定時間を過ぎても「第三報知日米号」は姿を現さず、遂に正式の捜索依頼がアメリカ、ソ連、カナダの各国に発せられることになった。
 いろいろと報知号と思しき無電を傍受したという誤報が舞い込むばかりであったが、ただ「第三報知日米号」の最後の目撃者がいたのである。択捉島の茂世路鉱山で働いていた鉱夫達で、その1人、三浦鉱夫の話を掲げれば「9月24日の午後11時半頃、別に報知新聞社の飛行機が飛ぶということも知らずに、私ら十数名の者は、この択捉島の北の端にある硫黄嶽に登って、丁度昼食をしていたとき、異様な爆音を聞いたので振り仰いで見たら、銀色の美しい飛行機が南の方から現れ、南東の洋上を得撫島の方向を指して、悠々と飛んでゆくのを見届けた。どこの飛行機が知らないが、この辺では全く珍しいことであるから、思わず万歳を叫んだのですが、間もなく茂世路嶽の陰に隠れてしまい、私たちは作業の時間も来たので、そのままにして再び仕事に取り掛かりました。あれが報知新聞社の太平洋横断飛行機だったのですか。それなら声を限りに声援するところでしたのに・・。とにかく銀色の美しい飛行機でした」と。
 択捉島の東をよぎったのであれば、海峡を隔てた隣の島である得撫島をかすめて行く筈なのに、この島の居住者である農林省養狐場監視人は、当日は快晴で昼頃は戸外にいたと証言しているのに、爆音も機影も全く気がつかなかったというのである。その後の捜査でも、同島上には遭難機体は発見されていないのである。ということは、千島特有の悪気流にもまれたか、機体或いは発動機に突発的な故障か異常が発生したのか、潮流の早い両島の間に墜落し、満タンで重い機体が一瞬のうちに海中に没し去ったのか、と想像するしかない。送信後消息を絶ったのであれば、いわゆるスキップ・ディスタンス(無電の電波の減滅地域)現象で、SOSを発しても応答がないまま、無念の涙をのんだのであろうか。こう結論つけられるに及んで、1年間にわたる捜査結果をまとめ、報知新聞社もこの計画を断念せざるを得なくなったのである。
 こうして、報知新聞社による太平洋横断飛行計画は悲惨な結果に終わることになってしまった。4名死亡、2名重傷という大きな犠牲を払って、合計5回にわたる壮挙は全て失敗という無残な結果に終わった。この時代に、世界の航空界が挙って注目した太平洋横断飛行計画の中で、これまで世界の航空界で後進国とされていた日本人による数少ない横断飛行への挑戦の記録として注目されることで意義があったと考えられる。
 報知新聞社は、昭和10年12月、「満天下ご同情の各位に謝す」と社告を掲載し、「謹みて太平洋横断飛行の経過を報告す」という冊子を出版し、その経過を詳細に発表し、此計画の幕を閉じることになったのである。
 日本人による太平洋横断飛行の悲願が達成したのは、それから7年経過した昭和14年8月の毎日新聞社の世界一周機「ニッポン」号であった。この年、三沢は日本海軍の航空基地として第一歩を進めていたのである。

三沢に飛来した航空機たち 2p
 日本はこれらアメリカ人による4度の挑戦を指をくわえて見ていたわけではありませんでした。報知新聞社は北太平洋を飛び石伝いに横断する事を企画し、ドイツ製のユンカースA-50ユニオール機にフロートを装着し"報知日米号"と命名し挑戦しました。パイロットは有名な吉原清治に頼み、羽田飛行場の海老取川を昭和6年(1931年)5月4日に出発し小川原湖の沼崎(上北町)に着水、燃料補給後根室まで飛行しましたが、天候が悪く以後の飛行を断念しました。(吉原清治は同機で前年の8月20日~30日の10日間でベルリン~東京間114,041kmを実飛行時間79時間58分で飛行した時の人でした。)

 50日後吉原清治は再度同じ機体("第二報知日米号")で挑戦しましたが、気象条件が悪く、またしても失敗、「損傷した機体にとりすがって吉原は男泣きした」と記録にあります。
 報知新聞社が天下に発表した太平洋横断計画は、報知新聞社はもとより日本航空界の名誉にかけても完遂せねばならなかった意地があったようです。

 同昭和6年(1931年)9月24日午前5時37分、淋代海岸を多数の村民が見守る中出発したのが"第三報知日米号"(ドイツ製ユンカースW33L型)で、本間中佐、馬場飛行士、井上通信士の三名が乗り込み勇躍出発しましたが、エトロフ島を過ぎた午前11時03分の交信を最後に消息を絶ち、行方不明となりました。(この3名の不幸な偉業は村民の心に強く残り、昭和37年、市内岡三沢の平和台に三有士の慰霊碑が建立されました。)
 *この機体ユンカースW33L型は、1928年(昭和3年)、65時間25分の無給油滞空世界記録を樹立したり大西洋逆横断飛行に最初に成功する等、数多くの記録を残している当時では名機と謳われた機体でした。
 このように昭和5年からのわずか一年の間に次々と試みられた太平洋横断飛行への挑戦は、北太平洋の厳しい自然に阻まれことごとく失敗しました。





     青森県・報知日米號搭乗員慰霊之碑         
報知日米號搭乗員慰霊之碑 データ
維持管理:浜三沢町内会及び三沢市遺族会
所在地:青森県三沢市三沢山ノ神招和台公園内
座 標:40°41'32.5"N 141°24'02.8"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1927年05月 リンドバーク、大西洋単独無着陸横断飛行に成功
     08月 帝国飛行協会が中心となり、国産機を使用しての太平洋横断飛行準備
1928年06月 第一号機実験機完成。各務ヶ原にて試験飛行
     08月 第2号実行機完成
     09月 航続力不十分として航空局の命により壮挙打切り
1931年05月 4日 報知日米号、小川原湖に着水。翌日米国に向け離水するも、故障が続き断念
     07月 5日 第二報知日米号、根室で訓練中に大波で大破
     10月 ミス・ビードル号 淋代海岸から太平洋無着陸横断飛行に成功
1932年03月 29日 報知日の丸号、試験飛行中に墜落
     05月 16日 「サロー・カティサーク」号、使用不能の大破
     09月 24日 第三報知日米号淋代を離陸。択捉島通過の報を最後に消息を絶つ
1962年    碑建立

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現地の碑文、説明板



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