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青森県・七戸平野と小川原沼 [├場所]

   2023年6月訪問  




青森県七戸、小川原湖では大正時代、飛行演習が行われていました。

前記事でも参照させて頂いた「ミサワ航空史」にこの件が記されていました。

■「ミサワ航空史」15p

(大正13年の陸軍立川-旭川間連絡飛行についての記述に続けて)この前年2月にも、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われ、この地帯一帯は他に例が無いほど航空基地としては適地であり、価値のある地域であることが認められていた。

陸軍としても近い将来に民有地を買収して飛行場の設置を考えたいところであったが、予算上の問題から早急には実現できない状態であった。海軍にあっても、同様であって、淋代平や小川原沼という一帯は、飛行場ばかりでなく爆撃機の練習地としても最適な場所であると見込んでいたのである。将来、航空隊の増強の時代が来れば、軍事的見地からもこの地が優先される特徴を持っていると把握していたのである。

とのことで、

大正12年(1923年)2月、耐寒・氷上飛行演習のため、七戸平野から小川原沼周辺で飛行演習が行われた

のですね。


・七戸平野について

【七戸平野】でググっても、「この範囲です」とスッキリした説明はありません。

よそ者のオイラの推測になってしまうのですが、

七戸町は、西部は山地、東部が平野になっています。

それで七戸平野とは、七戸町の平野部のことだと思います。


・小川原沼について

Wiki/小川原湖によれば、

「かつては小川原沼(小河原沼、こがわらぬま)という名称だったが、1958年(昭和33年)1月1日に小川原湖に改称された」(沼→湖)

「冬季には湖面が結氷」

とあります。

七戸の平野部と小川原湖は非常に近いため、この周辺で演習が行われていたと思われます。

実は、「青森県内で耐寒・氷上飛行演習」が行われたということは知っていたのですが、

長い間具体的な場所が不明のままになっていました。

この書籍のおかげでやっとその場所が判明したのでした。

ありがたやm(_ _)m

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赤マーカー地点。

七戸平野(を撮っているつもり)

大正時代、この辺りで耐寒飛行演習をしていたはず。

「他に例が無いほど」と評されるのも納得の眺めでした。


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青マーカー地点。

小川原沼公園から。

100年前、ここで飛行演習が行われたのですね~。

…と、記事はここですんなり終わりません。(デジャヴ)


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以下、大正12年の耐寒・氷上飛行演習とは全く別の話になってしまうのですが、

同じく小川原沼公園の駐車場にこんな説明版がありました(黄マーカー地点)。

太平洋横断「報知日米号」寄港の地(全文)

世界最大の難関「北太平洋横断」に挑戦!
 昭和六年当時、世界ではリンドバーグによる大西洋横断の次は、太平洋横断との機運が高まっていた。それまで、航空機による太平洋横断を実現した者は誰もなく、世界各国が覇者になろうと競い合っていたのであった。

 この世界最大の難関といわれた「北太平洋横断」に日本で挑戦したのが、「報知日米号」である。別名、「ユンカース・ユニオールA50型水上飛行艇(八十馬力)」、その操縦士は、前年、東京とドイツのベルリン間の一万一千キロの空路を開拓し、一躍空の英雄になった吉原清治飛行士(佐賀県出身)であった。

 さて、日米親善、北太平洋横断航空路開拓を掲げたこの事業は、報知新聞社が事業主となり、国庫補助金をはじめ十六宮家や財界、そして、小学生に至るまでの多くの国民から寄付金が集められた。さらに、応援歌や行進曲、飛行小唄が作られるなど、国をあげての取組となった。

 なお、「報知日米号」は、日本からアメリカまで、二十数か所で着水しながら、太平洋新航路開拓を目指すことになった。したがって、航空路沿線の詳細な地理的、気象的な資料全てを世界航空界に提供するという重大な任務が課せられていたという点においては、その後の「無着陸の冒険飛行」とは、一線を画する事業であった。

 さらに、アジアからアメリカ大陸に向けての「最初の郵便飛行」でもあったので、吉原飛行士には、当時の「フーヴァーアメリカ大統領」あてのほか、三十通を越えるメッセージも託されることになった。

「報知日米号」が「小川原湖・浦野館村」に
 昭和六年五月四日、午前十時十分。「報知日米号」は、羽田東京飛行場に集まった三十万人の期待と夢を乗せて、最初の補給地「小川原湖・浦野館村(現在の東北町)」に向けて旅立った。

 浦野館村では、漆戸村長を中心に、和田後援会長、久保副会長、米内山理事及び会員三十名、姥名青年団長ほか、三十名の団員、阿部在郷軍人分会長をはじめ分会委員総出で「報知日米号」の到着を歓迎する体制が整えられた。また、村内の各戸では、国旗を掲揚する準備も終わり、全村をあげての歓迎準備が整えられていた。

 そして、五月四日、午後三時三十三分、「報知日米号」は、村内五つの小学校高学年全員が歌う「北太平洋横断歌」の大合唱に迎えられ、無事小川原湖に着水した。

 また、翌日の出発の時は、湖岸を埋めた一万人を超す大観衆の声援に送られて、アメリカのサンフランシスコに向
けて力強く旅立った。

 この出来事は、対岸にある淋代(三沢市)から「ミス・ビードル号」が飛び立つ五か月前のことであった。

故障続きの「報知日米号」の運命は…
 しかし、小川原湖を飛び立った「報知日米号」は、千島海域で機体に異変が起き、不時着を余儀なくされるなど、
故障が続いた。さらに、五月十四日には、新知(シンシル)湾上空で遭難し、新知島付近に着水した。そして、漂流中に吉原飛行士は九死に一生を得て救助された。
 
 その後も吉原飛行士による「第二報知日米号」での二回目の挑戦も、同年七月五日、根室湾で高波に遭い失敗に終
わった。

 さらに、霞ケ浦海軍航空隊による「第三報知日米号」での計画も、昭和七年九月二十四日、択捉(エトロフ)島南
島沖で通信が途絶え、悲劇的な結果となり、ついにこの「北太平洋横断計画」は失敗に終わったのだった。

ここに、先人たちの偉業をたたえる!
 これは、我が国の航空史に残る一大イベントの最初の中継地点として、ここ小川原湖が選ばれたこと、そして、多くの浦野館村の住民がこの場所に集い、「報知日米号」の雄姿を迎え、見送ったという歴史的事実をここに刻み、先人たちの偉業をたたえるものである。

(資料提供:東北町文化財保護審議会)平成二十三年七月一日 東北町教育委員会

DSC_0513_00001.jpgDSC_0515_00001.jpg(説明版から拡大・上2枚とも)




     青森県・七戸平野と小川原沼         
・七戸平野 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡七戸町

・小川原沼 データ
種 別:飛行演習場
所在地:青森県上北郡 小川原湖

沿革(ミサワ航空史年表から)
1922年01月 29日~2月8日 陸軍飛行学校、上北郡七戸原野にて耐寒飛行実施(本邦初)
1923年02月 3日~7日 陸軍航空第3大隊、七戸原野にて自動橇試験。小川原沼湖上の氷上滑走飛行実施
1931年05月 4日 報知日米号、北太平洋横断飛行のため小川原湖に着水。翌5日根室に向け離水
1992年04月 15日 小川原湖投棄のF-16燃料タンク、米軍捜索発見できず。シジミ漁に影響
1998年03月 小川原湖からプロペラなど引き揚げられる
     08月 15日 3月に引き揚げられたのは、昭和19年5月30日訓練中に墜落した三沢空の零戦と判明

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この記事の資料:
現地の説明板
ミサワ航空史



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