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東京都・武蔵野ふるさと歴史館 [├場所]

   2023年7月訪問  



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前記事に登場した武蔵境駅から線路沿いに800mほど下った所に、武蔵野ふるさと歴史館があります。

オイラがお邪魔した際、ちょうど

米軍宿舎返還50年 戦争と武蔵野Ⅸ ~Target から Green Parkへ~ 2023.7.29-9.28

という企画展がありました。

分かり易い展示と丁寧な説明。

分野も量もかなりのものだったのですが、オイラの興味のある一部分だけ以下ずらずらと。
 

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中島飛行機の工場拡張
第1次拡張期
昭和9年(1934) 太田工場(太田製作所)の設立
昭和12年(1937) 武蔵野製作所の新設決定
昭和13年(1938) 田無鋳鍛工場の設立(後の中島航空金属株式会社)
  武蔵野製作所の竣工
  太田、東京(荻窪)、武蔵野、田無の各製作所が陸・海軍の管理工場に指定
  資本金5,000万円に増資。小泉製作所および多摩製作所の新設決定
昭和14年(1939) 前橋工場の新設決定
昭和16年(1941) 多摩製作所開設
第2次拡張期
昭和18年(1943) 亀岡工場にて板金製部品の生産開始。大宮製作所、浜松製作所の開設
  武蔵野・多摩製作所の合併により武蔵製作所へ改称
昭和19年(1944) 半田製作所の操業開始
  宇都宮製作所の操業開始
  三鷹発動機研究工場、三島機関銃装戴工場の設立
昭和20(1945) 大宮製作所で海軍用エンジンの組み立て、浜松工場で陸軍用エンジンの組み立て開始


中島飛行機とは
中島飛行機の誕生
明治17年(1884)に群馬県に生まれた中島知久平は、海軍軍人を経て民間航空機会社を設立し、
のちに政治家へ転身したという異色の経歴の持ち主です。
知久平が創業した中島飛行機は国内有数の航空機メーカーに育ち、同社が製造した航空機はひ
ろく採用されました。

創業者・中島知久平
知久平は16歳で上京し、海軍機関学校で学びます。海外の留学を経て早くから
航空機の軍事利用に注目しており、大正2年(1913)に横須賀海軍工廠造兵部
飛行機造修工場長として海軍初の国産機を完成させるに至ります。

飛行機研究所の創業と苦悩
海軍を退職した知久平は大正6年(1917)にわずか6名の若手技術者と共に研究
所を発足させます。翌年中島飛行機製作所と改称して航空機開発に努めたもの
の、試験飛行機の大破や墜落に見舞われるなど苦労の連続でした。

中島飛行機の拡大
知久平らは大正8年(1919)に四型機の試験飛行に成功し、これを改良した五型
機は陸軍への納入に至ります。大正13年(1924)に東京工場を井荻町(現 杉並
区)に建設し東京進出を果たします。

地域を調べ、学ぶ大切さ
中島飛行機は群馬県をはじめ、東京、埼玉などで大規模な工場を次々に建設し
ました。武蔵野市のみでは、巨大な航空機メーカー中島飛行機の全体像は見え
ません。例えば、武蔵製作所はエンジンを製造する工場であり、太田製作所(現
群馬県)等へ輸送して組み立てることではじめて飛行機の形になりました。
航空機は数万点の部品を必要とすることから、中島飛行機に部品を納品したた
くさんの企業が存在しました。地域の資料を丹念に読み解くことで意外なつな
がりが分かるかもしれません。


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戦争のあしおと
武蔵野製作所・多摩製作所の開設を経て、昭和18年(1943)に両製作所が合併し武蔵製作所とな
りました。最盛期には5万人をこえる人々が働いていたと言われ、武蔵野町の人口も劇的に増加
しました。生産された航空機用エンジンは戦線に送られますが、その生産現場にいた人々もまた
戦線に送り込まれていきました。

武蔵野町への進出
日中戦争の開戦以後、国内の軍需産業は拡大していきます。中島飛行機は昭和
13年(1938)に武蔵野製作所を、昭和16年(1941)に多摩製作所を開設します。
両製作所は昭和18年(1943)に合併し武蔵製作所となりました。
市域の外に目を向けると、先に述べた東京工場は荻窪製作所へ改称され、昭和
16年には三鷹研究所(現 三鷹市)が完成しています。

拡張工事と用地の買収
中島飛行機は製作所周辺の土地を新たに購入することになりますが、武蔵野町
時代の文書からは延命寺(現 武蔵野市八幡町)の土地が1歩(=1坪。3,3㎡)
11円で売却されたと記されています。

武蔵製作所から戦場へ
平成30年(2018)に遺族から寄贈された「寄せ書き入りの日章旗」、令和4年(2022)
に映像制作会社から寄贈された「近藤さんの寄せ書き」は、武蔵製作所で働い
ていた方が戦場へ持参したものです。武蔵製作所で製作されたエンジンが戦場
で使われることは広く知られていても、生産現場の人々もまた戦場へ駆り出さ
れていたことは意外にも知られてません。


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戦争と武蔵野
製作所内から見た戦争
最盛期5万人もの人々が働いたとされる武蔵製作所ですが、同時代に作成された記録は驚くほど
わずかしか残されていません。当時の情報統制のあり様を鑑みると、写真や文書が極めて残りに
くい状態であったことは想像に難くありません。そのような中でもわずかに当時の製作所内の様
子を垣間見る資料が残されています。

長澤副長の手帳
当時武蔵製作所の副長(副工場長)を務めていた長澤雄次氏の遺族から平成30
年(2018)に寄贈されたものです。長澤氏は明治31年(1898)生、東北帝国大
学(現 東北大学)で機械工学を修め、東京製作所副所長、中島飛行機取締役、
大宮製作所(現 埼玉県)所長を経て武蔵製作所の副長を務めました。経営の
中核にいた幹部の同時代の記録はほとんど残されておらず、極めて貴重な資料
です。

付属病院の記録・記憶
中島飛行機は付属の病院を各地に設置しており、そこで勤務する看護婦(看護
師)を自前で養成していました。昭和3年(1928)産まれの上野氏は、自らの卒
業証書を手にしながら当時の様子を語ってくれました。
また、附属病院の日誌には長澤副長の記録と同日の記録が残されており、「数
十名ノ患者ヲ収容」した旨記されています。

市民の証言
昭和12年(1937)生の小峰光弘氏は、実の姉が武蔵製作所に勤務していました。
初空襲(昭和19年(1944)11月24日)の際に姉の帰宅が遅く、夜中に血と埃だ
らけで呆然として帰宅していたこと、その後空襲警報の度に姉が布団にくる
まっておびえていたことを覚えており、凄惨な現場の記憶を間接的に継承して
います。


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歴史公文書から見た戦争
戦争が本格化し、様々な形で戦争が市民の身近に近づいてきます。例えば資源の回収の場合、当
初は金属製品のうち不用品の回収として行われますが、回収対象となるものは増え続けます。周囲
から徴兵・応召により戦地に人が送られ、武蔵製作所を皮切りに米軍の空襲を受け、「戦火」が
市民に迫ります。

金属や資源の回収
不用品から門扉や鉄柵、寺院の梵鐘などにも対象が広がり、武蔵野町では昭和
19年(1944)4月27日に消防団警鐘台(火の見やぐらのこと)まで回収された
という記録が残されています。

移転への補助
武蔵野町では強制的な疎開はありませんでしたが、親類等を頼って自主的に避
難する縁故疎開などの様々な移転の動きがあり、町も財政的な支援を行いまし
た。「移転奨励金交付規定」を制定し、地方への転出者に対し1,330世帯分40万
円の追加予算を町会(町議会)が可決します。当時の武蔵野町は1万1,261世帯
ですから、1割強の世帯への交付を想定していたようです。

被害の記録
武蔵製作所に隣接する源正寺(現 武蔵野市緑町)が受けた被害について、武
蔵野町役場に届けられた文書が残されています。度重なる空襲の被害により甚
大な被害を受けた本堂の再建を断念し、取り壊すことを届け出たものです。

戦時下の公文書
一般に、終戦時に多くの公文書が焼却等の処分を行われたとされています。武蔵野町
役場における処分命令の収受等については詳らかではありませんが、少なくとも軍事、
特に徴兵に関する文書は全くと言っていいほど残されておらず、歴史公文書として移
管されたものもありません。断言はできませんが、処分の実施が強く推測されます。


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日本の新聞から見た戦争

情報統制が厳しい当時の日本において、国民が得られる貴重な情報源の一つが新聞でした。当
時の国民はどのような情報を得て日々の判断の材料としていたのでしょうか。

情報源としての検討
当時の新聞は政府の統制下にあり、事前に検閲を受けなければなりませんでし
た。「新聞に掲載されたから事実である」とするのは早計です。十分に内容を検
討し、クロスチェックする必要があります。

同時代の人の考えに寄り添うには
未来に生きる私たちは、過去に起きた事象の「結果」を知っています。一方、
当時の人々は未来を完全に知ることはできません。実は「当時の国民がどのよ
うな情報をもとに判断を強いられていたのか」ということを知ることは研究に
おいてとても大切なことです。
資料は使い方をしっかり考え、適切に使いこなすことがとても大切です。

資料の保存
当時の新聞は一般的にそれほど上質の紙を用いていません。新聞は高速で大量
の印刷を行うため輪転機という機械を使います。また、インクのにじみ止めが
紙の両面を対象に施されています。一般にインクのにじみ止めに使われる薬品
は酸性であることが多く、これが紙本体を浸食してしまい時間の経過とともに
ボロボロになりやすいのです。

資料の修復・デジタル化
現物の資料を取り扱うには慎重な作業を要します。しかし、劣化が著しい資料
は必要最低限の修復を施し、利用の頻度を極力減らすため撮影等のデジタル化
が有効です。


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米軍から見た空襲

武蔵野ふるさと歴史館は米国国立公文書からからの資料収集を継続して実施しています。米軍は、
武蔵製作所を攻撃するにあたり偵察飛行の実施をはじめとした詳細な情報収集を行いましたが、
実は事前分析・作戦の実施・結果の検証がセットになっており、膨大な資料を蓄積していました。
これを連邦政府の公文書館であるNational Archivesで所蔵し、現在世界中の人々に無料で
公開しています。

事前の偵察
戦略爆撃機B29には様々なバリエーションの機体が存在しており、その中の一
つであるF13は写真偵察機として本土空襲実施にあたり情報収集を行いまし
た。武蔵製作所上空には何度も飛来し、大量の写真を提供し続けました。

作戦の記録
作成を左右する情報はあらゆるものと言って良いほど残されています。当日の
天候、飛行時の状況、離陸の失敗・目標未到達・未帰還それぞれの航空機番号
とその理由…といった具合です。

戦後の情報収集
戦時中、米軍は生産施設の破壊のための成果を正確に把握するよう努めますが、
「製作所の中」に関する情報収集の手段がありませんでした。しかし、戦後米軍
は陸海軍の合同機関「戦略爆撃調査団」を組織し、日本側へ資料提出を求め、
必要であれば関係者への尋問等を行って膨大な資料・情報を収集して報告書を
作成しました。この「最終報告書」が現在私たちが当時を研究するための最も
基本的な資料になっています。


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     東京都・武蔵野ふるさと歴史館         
武蔵野ふるさと歴史館 データ(2023/11現在)
所在地:東京都武蔵野市境5丁目15-5
開館時間:午前9時30分~午後5時
休館日:金曜日、祝日、年末年始、特別整理日
入館料:無料

関連サイト:
武蔵野市/武蔵野ふるさと歴史館 
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