都城北(志和池)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2012年11月訪問 2021/8更新
撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 271)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
宮崎県都城市、宮崎自動車道の西側、県道420号線の南北に広がっていた「都城北(志和池)飛行場」。
「都城東飛行場」の北西約4.8kmにありました。
2本の滑走路が交差していますが、ほぼ東西方向のものがサブ、斜めの方がメインです。
■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
の中で、当飛行場について扱われていました。
上のグーグルマップは、同資料の「要図」と1946年の航空写真を参考に作図しました。
航空写真の方は、一見斜めのメイン滑走路しか映っていないのですが、
同資料によれば、サブの方は未完成だそうです。
それでも「要図」を参考にして、「ここら辺にあるはず」と念じながら航空写真をよーく見ると、
うっっすらとサブの滑走路っぽいものが見えてきます(そんな気がする)。
また、メインの方はよーく見ると、なんかうすい縁どりがあるように見えます。
同資料によりますと、メインの長さは 1,500mx100m なのですが、
そのうち舗装されているのが 1,200mx50m とのことで、そう知れば納得です。
航空写真に地割が残っている部分は、「要図」よりも航空写真の方を優先し、
航空写真に地割がまったく確認できない部分は「要図」を参考にしつつ脳内補正で継ぎ足している箇所もあります。
そのため、特に滑走路端、誘導路の形が「要図」とは異なっています。
一例として、東西方向の滑走路(サブ)の北西側に、誘導路がゆるーくM字型に蛇行していて、
途中で途切れてしまっていますが、実はこれ、「要図」では滑走路交差部にくっついています。
「要図」のこの部分は航空写真と比較するとかなりムリがあり、
航空写真では、オイラにはどうしても交差部にくっついているように見えず、なんか消えてしまっているため、
ここはその通りに作図しました。
同資料内の「都城北飛行場記録」を以下引用させて頂きます。
判決 自重五屯以下の飛行機の使用に堪う
飛行地区
滑走地区 主 一五〇〇x一〇〇
副 一七〇〇x一〇〇(未完成)
舗装路 主滑走路 一二〇〇x五〇 マカダム(不十分)
副 〃 転圧しあらず 糾草
土質 黒土
地表面状況 マカダム舗装は凸凹あり
糾草(副滑走路)は着陸し得さる程凸凹あり
周辺障碍物有無 付近の森林に注意を要す
付属設備
誘導路 二〇〇〇x五〇
宿営 三角兵舎一五(四〇〇名収容)
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 兵舎にあり
給水 水道なし 井戸あるも水量乏し
其他
風向 北東 時に南西
実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、
両者には細かな差異があります。
以下異なっている箇所を列挙します。
・判決:「自重五屯以下の飛行機の使用に堪う」→「練習機の使用可能」
・舗装路:「副 〃 転圧しあらず 糾草」→「副滑走路 張芝 転圧しあらず
・地表面状況:「糾草(副滑走路)は着陸し得さる程凸凹あり」→「張芝は着陸し得ざる程凸凹あり」
すぐ南側に大淀川が流れており、そこから何十台も馬車を使って砂利を取り、
石を敷き詰めて滑走路を固めたのだそうです。
現在この周辺は一面畑作地帯で、「森田原」と呼ばれているのだそうですが、
滑走路だった場所は大量の砂利が敷き詰められているため、天地返しをしてもゴボウなどは作れないのだそうです。
お隣にある碑。
現地にお邪魔するまで、当時の航空写真等を参考に滑走路の位置と、
「おおよそこの辺りに碑がある」ということしか分かりませんでした。
実際に現地にお邪魔して碑を探したのですが、碑の位置を地図に落してみて初めて、
2本の滑走路の交差部に近く、メインの滑走路のど真ん中に碑が建てられたのだと分かり、
「よくぞこの場所に」と感動したのでした。
碑は県道から50mほど中に入った所にあり、駐車し易い場所です。
きっと当時を良く知る方々によって、特にこの場所が選ばれたんでしょうね~。
碑文。
風化が進み、判読できない部分も多いのですが、
戦後大変な苦労をして飛行場だった場所を畑に戻したと刻まれています。
碑の所から見たメインの滑走路方向。
西側。
同じく滑走路方向東側。
宮崎県・都城北(志和池)飛行場跡地
都城北(志和池)飛行場 データ設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県都城市野々美谷町
座 標:N31°47′49″E131°04′22″
標 高:159m
滑走路:主滑走路:1,500m×100m(04/22) 副滑走路:1,700m×100m(09/27)
(メインは1,600mx160mという資料あり)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年 陸軍省、民有地を借受
1944年 飛行場着工。詳細は不明だが夏には工事が行われていた
1945年 完成。7月下旬特攻機配備されるが出撃することなく終戦
関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
宮崎ブランドの茶葉?は認識がなかったのですが、県全体では全国第4位の生産量を誇る茶どころとのことでした。
(ちなみに、埼玉県は全国第11位。小学校?の社会科の教科書中のグラフでは静岡・京都・福岡・鹿児島等は独立して描かれていたが、埼玉は描かれていなかった=その他扱いでした。幼心に「何でやねん#」って思いました。狭山茶しか知らなかった若気の至りっちゅーやつですわ。)
現在は三重や愛知、奈良の生産量も多いそうですが、30年近くも経てば順位の変動があっても不思議ではありませんね。(^_^;;
以上ウィキペディアより→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%8C%B6
by tooshiba (2013-03-09 12:01)
南の地でも霜対策があるのですね・・・
by an-kazu (2013-03-09 21:07)
なんだか地元で良く目にするような茶畑が。。。
どこの飛行場もそうですが、畑に戻すのに大変な苦労をされているんですね。
by Takashi (2013-03-09 22:19)
終戦間近の時期に、手のかかる工事を行っていたのですね。しっかりした物を造らねばという事だったのでしょうね。
by 鹿児島のこういち (2013-03-10 07:07)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■tooshibaさん
じゅ、十一位…だ…と……(@Д@)ゴクリ…
オイラ狭山茶の生産量って全国で3位か4位だと思ってました。
具体的な資料をありがとうございました。
■an-kazuさん
本当だ!
今気が付きましたΣ(゚Д゚;)
■Takashiさん
なんだか親近感湧く光景ですよね~^^
当時の方のご苦労を思うと本当に頭が下がりますね。
■鹿児島のこういちさん
そうですね~。
本土決戦を含め、やはり準備は先ず九州から。ということでしょうか。
by とり (2013-03-10 19:19)
特幹の甘木生徒隊を卒業して都城教育隊に行ったと書いていたので、大刀洗飛行学校を見ていたら、都城陸軍飛行場(宮崎県都城市大字横市)とありました。
なお、都城教育隊に行った人が、それまでは海軍の飛練が使用していたらしい?と書いていました。
ひょつとすると都城市大字横市にも、飛行場があったのかも知れません。
by マー坊 (2013-12-13 10:52)
都城市大字横市と、書いた後で地図を見ていたら都城西は、昔からの飛行場だから四角だと思っていましたが、東の方に広げていたようです。そこの地名が南横市となっていました。
by マー坊 (2013-12-13 11:57)
第316設営隊、昭和19年8月15日、都城となっています。
by お名前(必須) (2020-09-20 14:07)
■ お名前(必須)さん
コメントありがとうございました。
by とり (2020-09-22 05:26)
47戦隊が昭和20年4月 都城西飛行場へ移動 都城北飛行場から特攻機が発進。
by マー坊 (2024-06-05 12:56)
■マー坊さん
コメントありがとうございました。
by とり (2024-06-06 05:27)