宮崎空港の周辺探索 [├場所]
撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 285)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
宮崎空港は、3年前にも掩体壕を見るためにお邪魔していたのですが■
その後周辺にいろいろあることが分かったので再びお邪魔したのでした。
青マーカー地点。
津屋原沼。通称「たんぽり」。
元々は畑地だったのですが、飛行場建設の際、整地に多量の土砂が必要となり、ここの土砂が使用されました。
そのため大きなたんぽり(水たまり)になったのだそうです。
赤マーカー地点。
山内川河川緑地。
この周辺は土地が低くて排水が困難なため、たびたび山内川の水が溢れて浸水被害が出ていました。
ここは斜め滑走路の跡地なのですが、石が敷き詰められ畑地に利用されることなく荒れ地のままになっていました。
周辺よりさらに低いこの土地に目が付けられ、掘り下げを行って氾濫防止のための遊水地として1987年に完成しました。
通常はスポーツ広場として利用されています。
戦争末期の時期、ここから飛燕などが特攻機として離陸して行ったのだそうです。
1946年4月当時の写真には交差する2本の滑走路がクッキリ写っています(下記リンク参照)。
紫マーカー地点。
R/W09エンドすぐ側にあり、空港の職員専用敷地内を通らないと行けない場所です。
「関係者以外立ち入り禁止」の看板がたくさんあってビビるのですが、
一緒に「宮崎特攻基地慰霊碑」の案内看板もあります。
不審な行動をとらずにひたすら慰霊碑の場所を目指しました。
途中職員さん数人にすれ違ったのですが、特に呼び止められたりしませんでした。
碑文(全文) この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊基地」である。昭和二十年八月十五日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及ひ雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の戦史に残る偉跡の地である。私共現在平和と繁栄の生活を享受しております。然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦没戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて"祖国のために"を合い言葉に南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。赤江飛行場は昭和十八年十二月一日付で海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和十九年七月赤江基地は練習基地から第一線の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、昭和十九年十月十日である。昭和十九年十月十二日台湾沖航空戦に突入した。当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ三四四期、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数五四四機である。この作戦による戦死者数は海軍六三五名、陸軍八〇名である。戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。従死を待つより大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを託し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷲は愛機と共に敵空母に体当たり攻撃を敢行した。それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。昭和一九年十月二五日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第五十九号を始め布告第二五九号を最後に二五〇七名になる。陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は一三九二名になる。特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江基地を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え未曽有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最後の地である。昭和二十年三月十八日宮崎初空襲である。米艦載機による銃撃は午前五時四十八分夜戦一機の銃撃に始まり午前八時までグラマン戦闘機延一五〇機、午前十時まで延五四〇機、正午より午後四時四十五分まで延二〇〇機、これを反撃したのが、第七二一航空隊の戦闘三〇六、三〇七両飛行隊の「零戦」九〇機である。この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡一二三名、負傷者一七六名である。今大東亜戦において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。若桜の蕾のまま散華した献身無私の先達同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑名を「鎮魂之碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。
記
鎮魂碑合祀者名簿及び御芳名者名簿本堂に収納
一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿
一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿
一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿
一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿
一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿
一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿
以上 昭和五十八年三月吉日 宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同
ということで、宮崎空港周辺には戦時中の跡がまだまだたくさん残っていました。
明日からしばらく留守します。
今回は飛行機移動が多いので空港の写真頑張って撮ってきます。
by miffy (2013-03-12 19:06)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■miffyさん
いってらっしゃい。お気をつけて~。
写真、楽しみにしてます。
by とり (2013-03-13 06:20)
飛行場、きれいな‘バッテン,の写真ですね(^o^)
by 鹿児島のこういち (2013-03-13 06:29)
■鹿児島のこういちさん
クッキリ残ってますね~^^
by とり (2013-03-15 07:42)