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軽井沢競馬場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2010年5月、2019年10月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

軽井沢にあった競馬場

戦前の一時期、長野県軽井沢町に「軽井沢競馬場」がありました。

「道路の東側には競馬場がつくられた。昭和六年八月一日に、広さ一〇万坪、一周一六〇〇メートルの軽井沢競馬場の開場式が行われた。(中略)この競馬場は戦争が激しくなると、八丈島から疎開した人々が生活する場と変わっていくこととなる。」(避暑地軽井沢110p)

同書では、この昭和6年のレースは大盛況であり、8年、9年、10年にもレースが開催されたのですが、

集客数、売り上げ的に尻すぼみになってしまい、11年には開催することができなかったとあります。

競馬場の大きさについては「一周一六〇〇メートル」とあるのですが、

他サイト、他資料では、「1周1,000m」となっているものがあり、

一体どちらが正しいのだろうか。と思っていたんですが、上の航空写真からグーグルマップに作図して、

1周の長さを計ってみたところ、ピッタリ1,600mでした。

「軽井沢は霧が深いことが有名で、当時の飛行機にとっては大きな障害となった。昭和九年五月、海軍の飛行機三機が碓氷峠を越えて南軽井沢にさしかかった。ところがそのうちの一機、舘山海軍航空隊の柴山栄作三等兵曹が操縦する「 報国実業学生号」が折からの濃霧のために進路をあやまり、軽井沢飛行場に着陸しようとして旋回したうえ、軽井沢競馬場へ不時着した。競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破したが、操縦者はさいわい無事であった。その後機体は分解して列車で送られていった。」(避暑地軽井沢109p)

「1934年5月21日  南軽井沢飛行場で館山海軍機墜落、消防団出動応援」(軽井沢百年のあゆみ)

「軽井沢飛行場」記事でも触れましたが史料にあります通り、

昭和九年に海軍機が当競馬場に不時着するという一幕がありました。

競馬場は昭和11年の開催を最後にその後閉鎖してしまったんですが、

この競馬場跡地も戦争の影響を受けることとなります。


閉鎖後の競馬場跡地

「昭和十二年には南軽井沢競馬場が教練場となったが、翌十三年四月に国家総動員法が公布されると、南軽井沢一帯は軍事教練場化していくことになった。」(避暑地軽井沢143p)

競馬場のみならず、南軽井沢一帯が軍事教練場化し、軍事色を強めていったんですね。

競馬場跡地は末期の時期、用途が目まぐるしく変わったのでした。

「太平洋戦争が激しくなり、日本本土に空襲が行われるようになると、軽井沢に別荘を持っている家では、年よりや婦人たちを安全な軽井沢へ疎開するようになった。軽井沢は本州の中で海から最も遠い地域にあるために、アメリカ軍の艦砲射撃の砲弾は届かないし、別荘は林の中に建てられていたので、日本中で最も安全な場所と考えられた。
 軽井沢へ疎開した人数がどのくらいの数であったかの記録は少ないが、いくつかの例によって当時の様子をみよう。昭和十九年三月には室井犀生が旧軽井沢の別荘に疎開したのをはじめ、八月には正宗白鳥が六本辻へ、十月には近藤文麿、宇垣一成、来栖三郎などの名前がみられるようになった。別荘は夏ばかりでなく冬にも使われるようになり、本宅を空襲で焼かれた人々にとっては本宅となった。(中略)
 これら二校の児童の家族を考えると数千人が疎開生活をしていることになる。学校の集団疎開も多く、暁星初等学校約三〇〇人がバークホテルを利用したのをはじめ、女子大付属小学校約三〇〇人が三泉寮へ、啓明学園五〇人、興亜館が別荘や寮で学業と生活を続けた。
 学童ばかりでなく、東京帝国大学の地震研究室が第一国民学校の一教室へ、理学部植物学教室は軽井沢集会堂を借りて、創立以来集めた貴重な研究資料を貨車数台で運び込んで大学の分室として研究を続けた。(中略)
 昭和二十年四月に南軽井沢の大観楼へ八丈島から約八〇〇人が集団疎開してきた。八丈島は太平洋戦争の本土を守るために、砲台や無線隊の基地が築かれることになった。八丈島では軍属として島へ残る男たちを除く老人と婦人、子どもは親戚や知人をたよって内地へ移り住んだが、身よりのない人たちは横浜と東京の寺などに疎開した。しかし空襲がはげしくなると群馬県松井田町に移動し、さらに安全な場所を求めて軽井沢へ移動してきたのであった。八丈島の人々は四月五日に南軽井沢の元競馬場あとをアパート式に改築した大観楼へ入った。」(避暑地軽井沢145~148p)

八丈島の島民の方々の疎開先になったんですね。

時間が前後してしまうんですが、疎開地となる直前にはこんな用途にも使用されていました。

「八丈島から、老人・女・子供ばかりで数百人(くわしい人数は、防諜の理由で公表されなかった)の人たちが強制集団疎開で南軽井沢の、もと特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろのことであった。軽井沢の南にある地蔵ヶ原は、わたしが東京から疎開してきていた追分から、徒歩で一時間ぐらいの距離にあった。新聞には、『南軽井沢競馬場あと』としてあり、『つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった』ことは、これも防諜上、匂わしてもいなかったが、地蔵ヶ原の競馬場が、戦争になってから、特攻隊の訓練場に転用されていたことは、隊員の下着の洗濯の奉仕に、大日本国防婦人会の末端組織である追分班の婦人たちも当番で動員され、わたしの妻もいくたびか出かけていって知っていた。」(風間道太郎 暗い夜の記念)と回想されている。特攻隊は大観楼、押立ホテルを宿舎としていたのである。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

競馬場跡が特攻隊の飛行訓練場になっていたのですね。

競馬場跡地が特攻隊の飛行訓練場として使用された時期についてですが、

八丈島からの疎開で元特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、「敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろ」

ですから、1944年12月~1945年1月頃。

更に「つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった」とありますから、

1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場だった。ということになると思います。


競馬場跡地は飛行場として使用されたのか

おおよそその頃まで特攻隊の飛行訓練場だったとして、当ブログ的に気になるのは、

特攻隊の飛行訓練場だった期間、ここが飛行場になったか、そうではなかったのか。

という点です。

前述の通り、昭和9年に当競馬場に不時着した海軍機は、

「競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破」しちゃいましたが、

競馬場はトラック内等基本的に平坦地が多いはずで、

滑走に適した場所と方向さえ間違わなければ、離着陸は十分できたのではないかと。

現在の旅客機はまるで鏡面のように整備された真っ直ぐな滑走路を使用しますが、

当時の軍用機、それも小型機は、それと比べるとビックリする程凸凹な草原でも普通に離着陸していました。


但し、「競馬場は離着陸可能のはずだから、離着陸してたはずである」というのは、

これは飽くまでオイラの仮説でしかなく、

実際に競馬場跡地を飛行場として離着陸があったのかどうなのかについては、今のところ資料が見当たりません。

軽井沢の特攻隊員たちがどんな訓練を行っていたのか、史料は見当たらないんですが、

別の飛行場でどんな特攻訓練を行っていたかの例はあります。

軽井沢の飛行場は、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使用されたんですが、

埼玉県の桶川飛行場も同じく熊谷飛行学校の分教場で、1944年末から特攻隊の訓練が開始されました。

桶川で実施された訓練の内容は、

滑走路近くにある吹流しを目標に、エンジン全開、35度の急角度で降下するというものです。

軽井沢で実施された特攻隊の飛行訓練がこれと同じものをひたすら繰り返すのだとしたら、

二十間道路を挟んで2km程の所に軽井沢飛行場がありましたから、

軽井沢飛行場を離陸→競馬場跡地上空で急降下訓練→軽井沢飛行場に着陸

とすれば、必ずしも競馬場跡地に離着陸する必要はないことになります。

それでも、南軽井沢一帯が軍事教練場と化した中で、特に競馬場跡地を指して「特攻隊の飛行訓練場とした」

と記され、しかも競馬場跡地には特攻隊員の宿舎が設けられていたことからすると、

オイラ個人は、ここを飛行場として訓練を行っていた可能性が高いのではないかと思います。

いずれにせよ競馬場に離着陸したのか、しなかったのか、明示する史料が見当たらないため、

現段階では判断のしようがありません。

今の時点での結論としましては、

競馬場に離着陸しようと思えば出来たが、離着陸しなくてもそれほど支障はなかった。

というところではないかと。

現在競馬場跡地は軽井沢72ゴルフ東コースになっています。

DSC_0148.jpg




     長野県・軽井沢競馬場跡地         


軽井沢競馬場 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町発地
座 標:N36°18′24″E138°38′11″
標 高:940m
トラック:1周1,600m
(座標、標高、トラック長さはグーグルアースから)

沿革
1931年08月 1日、開場式。レース開催
1933年07月 28日から4日間レース開催
1934年   春、秋の2回レース開催
    05月 21日、館山海軍航空隊「報国実業学生号」、当競馬場に不時着
1935年   レース開催
1936年   この年のレースを最後に閉鎖
1937年   教練場となる
1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場
1944年12月~1945年1月頃、八丈島からの疎開者が元特攻隊訓練場の宿舎に入居
1945年04月 5日、八丈島からの疎開者、競馬場跡をアパート式に改築した大観楼に入る

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
避暑地軽井沢
軽井沢町誌
軽井沢百年のあゆみ

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