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広島県・広島(吉島)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年11月訪問 2021/8更新  


無題i.png
撮影年月日1945/08/11(昭20)(USA 5M223 9293) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。原爆投下5日後の写真です。爆心地は当飛行場の北北東約3kmでした。 )

2014/8/17追記:「幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん」からコメント頂き、記事修正致しました。詳しくは下記コメント欄をご覧くださいませ。飛行場の沿革、現広島ヘリポート、現広島空港、岩国飛行場を含め、周辺地域まで包含した交通行政に関する提言という壮大な内容です。 「幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん」どうもありがとうございましたm(_ _)m

広島県‎広島市‎中区‎にあった旧陸軍の「広島(吉島)飛行場」。

前記事の海田市駐屯地の西南西約8kmにあります。

昭和18年末、陸軍航空本部が吉島埋立地を軍用飛行場にすると決定。

滑走路1,300m、格納庫2棟の計画でした。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  廣島
位 置   廣島縣廣島市
規 模   要図(南北1,300 恒風西)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 六〇〇名分
 格納施設 飛行機庫二棟
      掩体 大六ヶ所
摘 要   施設軍有

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

戦時中は陸軍飛行場だったのですが、戦後は1949年までオーストラリア空軍がレーダーサイトとして運用しました。

そして航空禁止令が一部解除された1952年、広島飛行場再開。

グライダークラブ、新聞社等の軽飛行機が使用しており、

1953年、南日本航空(東亜航空の前身)が当吉島飛行場を拠点に設立。

遊覧飛行や宣伝飛行を行いました。

日本航空協会発行航空年鑑でも、1956年版までは「吉島飛行場」の記載があります。

 

ただし、正式な飛行場にして貰おうと広島県に嘆願をしたものの、うやむやになってしまったり、

飛行場敷地内で県が土地分譲を開始したため、グライダー着陸に支障が出るなどしています。

また1955年測量の地図(下記リンク参照)等、この時期の地図で当飛行場の場所を確認してみると、

飛行場のひの字もなく、ただの更地として扱われています。

このように県としては、黙認とまでは言いませんが、吉島の飛行場を活性化するつもりは当初から無く、

すぐ西側に広島空港(現広島ヘリポート)が開港した1961年頃に消滅してしまったのは必然と言えるのかもしれません。

日本航空協会発行航空年鑑でも、1957年版以降には記載がなくなっています。

D20_0007.jpg

今はすっかり工業地帯


      広島県・広島(吉島)飛行場跡地      

・陸軍広島飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:廣島縣廣島市
座 標:34°21'55.1"N 132°26'40.6"E
標 高:4m
飛行地区:1,300m×1,000m不定形
方 位:02/20

・広島(吉島)飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:広島県‎広島市‎中区‎光南
座 標:N34°21′54″E132°26′34″
滑走路:500mx50m
(座標、滑走路長、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年 この年の末に吉島に陸軍飛行場建設決定
1944年 6月~12月 オートジャイロ機訓練
1945年 終戦
1946年 オーストラリア空軍がレーダーサイトとして運用
1949年 オーストラリア空軍撤収
1952年 航空禁止令一部解除。広島飛行場再開。グライダー、軽飛行機が使用
1953年 吉島飛行場を拠点とする南日本航空株式会社設立
1961年 飛行場閉鎖

関連サイト:
インターネット航空雑誌/広島吉島飛行場の歴史 (豊富な資料と非常に分かり易く詳しい解説。必見)   
ブログ内関連記事     

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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コメント 26

tooshiba

広島市内にも、飛行場があったのですね。

仮に、この地に民間機の離着陸できる空港が今もあったならば。
「広島市内から飛行機を利用するのは便利だったろう」とは思えます。

地元の方の感情として、「軍関係のものは潰してしまえ!」といったところだったのかもしれませんが。
by tooshiba (2013-05-03 11:49) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tooshibaさん
広島西飛行場をぶっ潰してしまう位ですからね~。
原爆の地ですから軍用飛行場なら尚更かもしれませんね。
by とり (2013-05-05 05:46) 

 マー坊

 航空史に興味のある者として、戦前の吉島飛行場は小さな陸軍の飛行場だと思っていました。  海を埋めて滑走路を延長していたとは知りませんでした。  海を埋めた飛行場は大分空港が最初だと思っていました。
 広島空港は観音町が戦後から使用されていたと、思っていました。
 また民間の飛行場は戦後、色々なところを使用していたのだと思いました。
 戦後すぐは羽田の代わりに松戸、  雁ノ巣の代わりに芦屋を使用、まもなく、民間航空は休みに入りました。
by  マー坊 (2013-12-03 14:02) 

 マー坊

 戦前の吉島飛行場は小さな陸軍の飛行場だと思っていました。
 ふとS20年8月の写真を見ると1947年4月と同じでした、それまでは北の部分が飛行場だと思っていました。  そういう図を見たことがあります。
 多分、上の部分が元の飛行場だつたのかもしれません。
 すでに戦前に埋め立てをしていました。  広島県は埋め立てが得意でした。
 もう一度、考えなをしたら、1100m×200mと書いていました。

 
by  マー坊 (2013-12-04 12:38) 

幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男

実際は、昭和36年(1961)9月14日迄は此処が広島空港として使用されて居ったのですよ。そう云う意味では、旧旧広島空港跡地と言える場所です。出生直後から亡父母と宿舎住まいでこの辺り(吉島新町)に学齢期直前まで住んで居った地元の者です。

図書館等で閲覧可能な当時の市街地図中、昭和20年(1945)版の戦前のデータに基づく米軍作成地図で、US Department of Geological Survey出典の旧広島市内地図では、新町地区は整備場地区と埋め立て未完了の水抜き用汐入り池が元安川護岸堤防の内側に広がっており、飛行場敷地全体が白地でHiroshima Airport Under Construction 広島空港(飛行場)工事中とされております。私が両親と住んでいたアパート宿舎は汐入池の在った場所の辺りでした。しかし、交戦国の飛行場の位置迄航空写真から読出し地図を作っていたとは…

昭和20年(1945)8月15日終戦で占領統治下で昭和20年(1945)11月18日航空禁止令となり、昭和21年(1946)1月から昭和24年(1949)5月迄オーストラリア空軍が進駐して来て飛行場施設を接収し駐屯した後、昭和27年(1952)4月28日航空解禁(サンフランシスコ講和条約発効)迄は、暫く施設が野原の様に成って居った時期でグライダ-滑走の練習場でした。民航解禁直後の昭和28年(1953)11月30日に戦前の航空関係者が集まって現在の広島市中区八丁堀の中心街に本社を置く「南日本航空(株)」と云う航空会社が設立されました。代表取締役には松下俊夫氏が就任しています。(資料に縁っては社史に相違が有り「西日本航空(株)」等としているものも有ります。後記参照)

後に社名変更し「東亜航空(株)(Toa Airways TAW)」として旅客定期航空路線を開き昭和31年(1956年)鹿児島空港からの種子島路線を皮切りに免許取得し、広島から鹿児島・小倉・大阪・松山を中心とする路線に就航。

【※コメント記入者注釈】
奇妙な事に、最初の設立部分で、「「東亜航空株式会社(Toa Airways TAW)」として最初に昭和28年(1953)11月30日付けで東京都千代田区に本社を置く会社として設立された。」として説明している沿革表記も有ります。この最初の会社が、「昭和32年(1957)2月「西日本航空(株)本社広島市」を合併して本社を広島市に移した。」とする社史を表示している出典も有りますので公平を期すため双方表示します。此れ以降、「日本国内航空(株)」との合併は双方同じ表記の通りです。当時の監督官庁で在った運輸省の、二大航空会社への集約と云う行政指導に反発した両社が、一緒になったという経緯の様です。

昭和46年(1971)5月15日に「日本国内航空(株)」と合併して「東亜国内航空(株)(Toa Domestic Airlines TDA)」となり、更に国内線・国際線路線参入自由化時期昭和63年(1988)に、対外的に親しみ易い様に社名変更して「日本エアシステム(株)(Japan Air System JAS)」となり、平成16年(2004)4月1日に現在の新生「日本航空(株)」の一部となり続いています。

この航空会社が吉島飛行場を運航拠点に昭和28年会社設立当時から、昭和36年(1961)年9月14日空港移転前日まで運航しておりました。此処が閉鎖(廃港)になり、翌日旧広島空港(西区観音町)が新規建設設置運輸大臣管理の第二種空港として開港されたため、運航拠点・路線が観音町の旧広島空港へ移り跡地が市街地宅地化されて行ったものです。

資料に拠れば敷地は現在の中区光南1丁目~6丁目と吉島新町1丁目~2丁目(新町2丁目は整備地区、1丁目は拡張埋立用水抜き汐入池)、吉島東2丁目~3丁目の一部、吉島西3丁目の一部、が空港敷地用(当初計画は工業団地用地で埋立て)新開地として戦前の埋め立て事業に拠り海面を陸地化して出来上がった場所とあります。飛行場全域面積は29万坪でおおよそ958,678㎡(=95.9ha)でした。電子地図で御覧になるとお判りになると思いますが、飛行場敷地の北端は吉島東2丁目~3丁目と吉島西3丁目の円形の弧を描いている道筋部分と其の延長線部分です。

広島市の出版物の案内等には現在の中区吉島東2丁目の広島聾学校前の道路が空港入口付近で南に下る直線道路が空港の名残であると案内しています。此処から移転して行った先で、最近閉港になった西区観音町の開港当時の旧広島空港(1200m×45m滑走路1本)より、敷地や規模は此方の方が大きかった様です。国の予算を費やして、態々ダウンサイジングな空港を新規に建設して移転して行った事になります。

滑走路施設に関する記述は戦後の日本航空協会発行の航空年鑑に短滑走路の表示(500m×50m簡易舗装)が有る為に世間一般に小さな飛行場と認識印象付けられたようです。日本の戦前戦中の軍用飛行場に在る様に、整地後おおまかに転圧して芝を張った滑走面として所在していた飛行場で在った様です。滑走路は滑走面として在り1300m×200~250mで1個飛行小隊が列線について一度にフォ-メ-ション隊形のまま離陸等も行えた様です。総敷地面積は958,678㎡(95.9ha)に及びます。

滑走路はオーバーランも含めた滑走面(戦時中の日本陸軍の飛行場要求仕様書では1300mの滑走帯を確保と在ります。)を有していたようです。戦後オーストラリア空軍が進駐して来て飛行場全体を接収して、昭和21年(1946)~昭和24年(1949)5月迄短期間進駐屯、迎撃管制用のレーダーサイトを飛行場内に建設し駐屯した時期に、本格的な豪州空軍キャンフ地を昭和22年(1947)夏頃迄に完成させ、兵舎や食堂、将校家族住宅等とそれらに電力を供給する発電設備や、熱源を供給するボイラ設備、周囲を防護する外構等一切を、ゼネコンの間組が担当して建設している記録が有ります。

この時期に短滑走路離発着可能航空機用にオーストラリア空軍が日本人作業員を使ってグラベル転圧と云う簡易舗装の滑走路面を必要な部分だけ整備して短滑走路表示となったのではないかと思われます。航空年鑑では500m×50mの短滑走路面と在ります。

東西冷戦構造の深刻化に伴う米ソの対立、其れに続くベルリン閉鎖等に因り、オーストラリア政府は自国軍の占領駐留からの撤退を決め、昭和23年8月頃から撤収準備を始め昭和24年4月には撤収を完了していた模様です。

この後、翌月5月迄の全飛行場施設接収期間が満了すると飛行場は形式的に日本側へ返還され、兵舎・食堂・将校家族住宅・エネルギ-センタ(電力・熱源)等は昭和27年(1952)に日本政府の国家公務員共済組合連合会(KKR)に払い下げられ、現在は地域の総合病院、KKR国家共済吉島病院として付近の職員宿舎住宅居住者や一般住民の健康管理センター・総合病院となっています。広島市中区吉島東3丁目2番33号が駐屯地宿営兼司令部の在った場所でそのまま現在までその位置に在ります。

飛行場施設・設備・保安運用・技術的な観点から強いて挙げれば、特定重要港湾の広島港(宇品港)に隣接しすぎて居り、船舶航路確保や入港通行船舶が航空制限表面に掛かる事が考えられます。航空制限表面に拠る制限高は、市街地中心部上空から陸側グライドコースと成り、広島市内全体の高層ビル都市化を阻害する要因とも成るため、これ等を回避する必要が有ったのかもしれません。

設備・施設運用・ロケーションの要因以外に、此処を閉港にして西区観音新町へ移転して行った理由らしきものに行き当たりました。この時期の戦前からの大規模プロジェクトで在った、「内務省(の一部が戦後 旧建設省)所管一級河川太田川放水路事業」が関係して居た様です。

これは太田川本流部の河道を付替え、放水路を開削して祇園大橋付近から直接広島湾内海面に向けて真っ直ぐ掘り進め、既存の太田川支流福島川を一部埋立て、下流域部分を合流拡幅して1つの放流面とする壮大なものでした。この為JR山陽線の京橋川橋梁から放水路橋梁迄の部分が、連続高架線(盛土)となり、横川駅は駅舎より上に高架ホームが新規に建設されました。

此れに因り、河道床となる事で立ち退きを余儀なくされた住民の人達が、現在の西区内で多数にのぼっていました。事業推進に対しての反対も根強く有った様です。此れ等の人々に、適切な代替地を与える必要が、行政上の要請として逼迫していたのです。元々「太田川放水路事業」は、広島都市圏戦前の「太田川洪水対策」の一環として、重要計画として策定されておりました。此れと並行する形で昭和14年広島工業港湾計画も策定され、第1工区宇品、第2工区吉島沖、第3工区江波沖、第4工区観音沖、第5工区草津沖、の各工区が併せて130万坪(4,297,521㎡)の壮大な海面埋立で、計画されていました。

昭和25年~昭和35年(1950年代)にかけての時点で、第2~第4工区が完成し、第3工区江波沖は三菱重工が全域入居し、第4工区観音新町は三菱重工が一部入居の状態で在りました。第2工区の吉島が、飛行場転用で陸軍が全域を使用して終戦、接収、返還、航空再開を経て、「東亜航空(株)」が航空拠点として立ち上りの黎明時期だった頃です。

飛行場として工業用途から転用された中で、29万坪の一定の纏った広さの場所として残っていたわけです。此処に放水路河道となり立ち退く人々を、コミュニテイを保って移転させ、街づくりをしようと計画したのが発端です。第4工区の観音新町は空き地は有りましたが、工場立地で既に三菱重工が一部敷地に入居していた為、市街化宅地で第2工区吉島沖を、移転先立地として纏め、推進しようと行政側が決めたものと思われます。此れに因り、規模と敷地は此方の方が大きかった当時の広島飛行場(吉島)は、規模を縮小する形で観音新町の三菱重工業(株)観音工場隣に引越して行った訳です。

ただ、移転先も上記飛行場の物理的な制約を、根本的に解決する物では無く、地形の関係で拡張性は無く、海側滑走路延長も僅かな許容部(後にこの部分で1800m×45m迄延長 中型ジェット機導入に対応する為滑走路両端部ターニングパッドも拡大設置実現)でした。海上展開も多島海地形と港湾近接、船舶航路確保で広島湾内では立地不可能でした。

広島県内沿岸部は安芸灘(岩国沖)や、鞆の浦沖(福山)辺りに適切な場所が在る位で、安芸灘立地は殆ど既存の岩国空港其の物の沖出しと変わらない位置となり、二重投資の誹りを受けますし、福山鞆の浦沖は、岩国空港を広島が旧周防国(山口県東部)と旧安芸国地域(広島県西部)の空港として位置付けた場合のみ、旧備後国(広島県東部)と旧備中国(岡山県西部)地域の東西2拠点体制空港立地として検討の余地が在った所です。何れにしても、観音町の立地でも拡張が困難で、運航に関しても、施設設備の整備に関しても、制約の多い空港である事は、空港建設の専門家が見れば設置場所選定時点で明らかだった筈です。

ILS計器着陸誘導方式も、滑走路中心線を示すLLZ(ローカライザ)は設置され運用可能でしたが、GS(グライドスロープ)は双方向とも近接地形障害のため設備不可能でした。其れを補う設備として、通常のASR/SSRレーダー設備と連動するPAR精測進入レ-ダー設備は無く、T-DME設備設置と、Offset-LLZ中心線に対して角度を付けて波を出すオフセット式ローカライザ設置。機上電波高度計とで補っていました。あくまで次善の対処です。

第二種(A)空港の構えとしては些か見劣りする構えでしたし、陸側着陸コースは中枢都市市街地上空で第3第4旋回となる等、第二種(A)空港立地としては不適切な場所で在った事も、長年未解決の侭放置され続けました。利便性抜群の空港で在った事と、欠航率が必然として高かった事とは、表裏一体の関係だった訳です。

旧広島空港は、搭乗率は極めて高い空港でしたが、機材も日本航空機製造(株)NAMC YS-11(64人乗り)を集中投入して、多便編成で旅客を捌いていたので、実質的な輸送力は小さいものでした。ジェット化も、最後発で、羽田・千歳・那覇線等主要路線は、漸くB767(ANA・JAL)・A300(JAS)投入で輸送力は大幅に改善されました。然しながら、欠航率の高さは如何ともし難く、昭和36年に態々新規に制約多い場所に建設する理由が有ったのか、不明確です。

近辺空港立地として、優良だった当時の共用空港の岩国空港を、昭和36年頃山口県と協力して沖合展開拡張していたほうが、基地騒音にその後長年悩まされる近隣住民の負担解消効果も見込め、余程効率的な航空交通基盤整備で在ったのではないかとの感慨が、地元出身の者としての思いです。

同じ場所に在っても、千歳と新千歳の様に、軍民滑走路を分離して民航も独自に拡張も可能な開けた海面を有する立地でした。管制は同じレーダー管制システムを用いでデータを共有し、同じ画面を見ながら民航管制席と基地管制席を、近接分離する事で、管制官への負荷の分散が可能となります。昨今岩国錦帯橋空港が、付加価値の高い利便で大人気となり、脚光を浴びています。「凄く立地の良い条件の揃った空港が出来たんですね~」等と、女性アナウンサーがスタジオから声を張り上げて現場中継担当者に声掛けしているのを、ラジオやテレビで聞くにつけ、地元の人間としては「そんな事何十年も前から判っていた事じゃないか、大げさに昨日今日初めて気付いた様な事云うなよ~」と云うのが正直な印象です。

その当時は、山陽本線で空港特急等特に仕立てなくても、長距離系特急・急行が広島からバンバン走ってましたし、広島←→岩国間30分で最適乗換え路線バス10分のリーチなら、当時のアクセス利便で実現されていた時間距離です。

結果的に観音町の旧広島空港の建設を理由に、当時の民間共用空港で在った岩国空港は、路線を全休止され空港立地として、遥かに適切な位置と設備と拡張性を有していたにも関わらず、その機能発揮と発展性を断絶され、以降48年間休止のまま、紆余曲折を経て昨年平成24年(2012)12月13日民航再開に至った訳です。

広島新空港が開港以前の時点では、山口・広島・岡山の地形を見て戴くとお判りのように、広島県内で旧安芸国と旧周防国地方は旧周防国側の岩国空港の位置で、本線特急広島←→岩国空港←→柳井・光・下松←→徳山←→防府間の航空旅客を収容するのが自然な配置となっていました。広島県側は、自県内空港建設の方針を堅持したため、現在広島新空港は三原市本郷町善入寺に移転開港し、世間一般から移転の利害得失に関して色々散々ネガテイブに言われています。20年の歳月を経て、気象条件が悪条件でも欠航が極小化されるCategoryIII-b設備を導入設置出来、漸く空港施設設備としては一応の構えの空港と成りつつあります。拡張性も、忽ちの必要性が有るかどうかは別として、オープン・クローズド、両タイプの並行滑走路拡張や横風用滑走路の拡張整備も可能な立地です。

現在の広島新空港は、広島県内人口中心に近い位置で、ほぼ山陽新幹線の本線経路上に在ります。山陽新幹線の本線上から、空港専用線(線路長約5000mとなる)の双方向分岐と、空港敷地余裕部分(想定ビル用地有)に空港ターミナル駅を、県営鉄道として建設し、相互接続する事を実現できれば、福山(岡山側・笠岡市含む)・新尾道(尾道)・三原・東広島・広島(太田川放水路から東側)の県内主要都市(県内人口の8-9割をカバー)新幹線各駅間←→広島空港ターミナルビル駅間30-40分の時間距離圏を達成し、圧倒的な利便を岩国空港と供にアクセス線区を分担する事で、獲得する事の出来る公共交通基盤としての可能性(ポテンシャル)を有しています。

新幹線では広島←→新岩国←→徳山防府間は人口集積部を直線でショートカット&スル-しているため、仮に地上高架部が有ったとして、新駅が設置可能でも、航空旅客の集めようが無く、山陽本線が目と鼻の先に在る岩国空港利用が、山陽本線の空港特急運行によって最適となる区間です。

現在の広島新空港は、山陽新幹線からの最適な分岐場所に合わせて、滑走路端や空港専用道路も配置計画され出来上がっている様に、私には見えます。肝心の広島県が、線型の悪い急傾斜の山陽本線分岐に拘り続け、JR西日本側と膠着状態で、20年あまりの年月が経過して居ります。

然しながら、上記が実現すれば第二種(A)拠点空港としては、非常に良い立地となる可能性が十分に有ります。JR山陽本線広島駅から、東側方面の広島県内山陽線は、急傾斜区間やカーフ区間゙が連続する線区が、広島・西条・三原間に有り、線型が悪く、高速化に不向きなため、時間距離の克服には繋がりません。

岩国空港の場合、JR山陽本線広島駅から西側の岩国駅間は、沿岸部の平坦地をほぼ湾型に沿って走っている為、高速運転が可能で、特急電車が有れば現在でも岩国へ30分前後で十分運行到達可能です。最適乗継ぎバス便10分で、45分弱です。また、岩国駅と南岩国駅間の川下信号場付近で双方向分岐し、空港専用線を900m前後の線路長で、電化単線の山口県営鉄道地下線としてシールド掘削し、ターミナルビルと駐車場地下に空港駅を新設出来れば、正味で30分前後で広島駅以西の県境迄の西区・佐伯区・西区と中区の相生通り以南・廿日市市・大竹市、各域内住民が到達可能となり、此れは旧広島空港の市内路線バスアクセス時間とほぼ同じとなります。

現地写真では、中区光南の本川沿いの護岸堤防沿い付近の案内が有りましたが、今度立ち寄られる事が有れば、豪州空軍進駐駐屯時期の宿営跡にも立ち寄って御覧になれば構内の雰囲気に其の当時の建物や遺構が残っているかもしれませんし。

占領時の進駐軍駐屯宿営・指揮所跡が、KKR国家公務員共済直営病院と云うのも意外でしょうし…。実は生まれた当時の私の父の宿舎が、近くの公務員宿舎アパート官舎でした。母親も別の職場の政府職員でしたので、幼児期何回か受診した事が有ります。別に訪ね難くは無いですから、事務広報職員の方に聞かれて見ればより詳しい歴史なども聞けるかも知れません。

父親は旧地名で広島の旧佐西郡地域で旧佐東郡地域や旧安芸郡地域迄分家を成して続いて来た本家の嫡出系第二男子として大正時代に生まれ、戦前の東京府内の旧制大学に在学、文科系経済学科学生時期に召集学徒となりました。

太平洋戦争後半の昭和18年(1943)9月から昭和20年(1945)8月終戦まで、出身県広島で宇品港(広島港)に在った、陸軍運輸部船舶司令部所属の部隊配置に就いた見習士官で、終戦迄兵員の補給兵站物資輸送計画や、船舶輸送に従事して過ごして居ったと云う事です。

原爆時は、船舶輸送に関連する実働訓練任務で、四国方面に運航中で、不在であった為難を避けられたそうです。偶然にも、船舶司令部は、輸送船の他に、対潜水艦護衛の対潜哨戒機を艦載機とした小型特殊空母あきつ丸(安芸津丸と表記と思います。9,000tonクラス 元々は上陸用舟艇を多数同時発進させる強襲揚陸艦)を保有運用していたそうです。

訓練時等にも船団に随伴していたそうで、飛行甲板が130m位だったそうです。陸軍所属の潜水艦等も仮想敵として演習に参加し、実戦で輸送船舶を護衛するために、上空から潜水艦を見つけて搭載の爆雷を投下して駆逐する訓練もしていたそうです。この小型対潜哨戒機が宇品入港前に母艦を飛び立って着陸陸上整備を行っていた場所が吉島飛行場で在ったと云うことです。

この他、師団司令部の幹部や参謀が、東京に会議等で連絡往来する時や、政府要人が訪問する時に運航する旅客機クラスの双発エンジンの輸送機、乗員訓練用の高等練習機と、輸送機運航時随伴する少数の護衛戦闘機等々が配備されていたそうです。亡父の話から推測すると、最大の機体は双発輸送機で旅客機型としては、DeHavilland社製DH104Dove、Douglas社製DC-3、戦後生まれの機材としては、DC-3後継機、Convair CV-110,-240 (General Dynamics)クラスの機材を使用していた模様です。(何れも離発着可能)

迎撃用局地防空戦闘機は配備無しだった様です。「広島市上空の空襲に対する迎撃防空戦闘機能の備えはこの陸軍飛行場には、配備が十分では無かった。護衛随伴の多目的支援戦闘機のような機材の少数配備は有ったが…大戦末迄本格的空襲も無かったので、其の侭迎撃用局地防空戦闘機の実機未配備だったのだろう。」と父親は言っていました。

実際陸軍には、海軍の「紫電改(川西航空機(株))」の様な、大都市防空用に最適化された実戦配備の迎撃用局地防空戦闘機の、重戦闘機に該当する機材は機種は少なく、「キ-44 二式単座戦闘機(鍾馗)」、「中島飛行機(株)製造」が多数機発注量産機で、該当するものです。陸軍は総数1225機も保有して居た様ですから、1個中隊12機位は配備できた筈です。試作機は他にも幾つか在りますが生産数が極小です。

当時の広島市が都市防空面で手薄だったのは確かでしょう。都市上空防衛としては、対空高射砲陣地(Anti-Aircraft Artillery 以下AAAと略記)が配置されているだけでした。、米軍機は此れを見越して、広島市上空手前側で爆撃針路に入り、高度を急速に上げAAAをアウトレンジして上空進入し、投下されてしまった様です。

原爆当日朝、投下数十分前に、米軍気象観測機が飛来しています。広島市上空進入し、一航過して、離脱、防空管制指揮所は空襲警報を発令しています。急速上昇可能な重戦闘機「二式単座戦闘機(鍾馗)」の実機の十分な配備が有ったなら、其の時発進して充分な高度と間合いで、B29爆撃機の到来を待ち構える事が出来た筈です。

爆撃針路に入ってくる手前の高度で捕捉し駆逐すれば災難は避けられた筈です。相手側もむやみに辺り構わず投弾する様な弾でもなかったでしょうから。結局B29爆撃機の上空進入を阻止出来ず、原爆被災に至り飛行場要員の人達は実機の配備が無かったので、どうする事も出来ず無念だったろうと思います。

亡父は戦後、東京府区内の旧制大学に復学し経済学科に再度在籍、戦後の混乱時期の食糧難・住宅難等の苦労を経て卒業、国家職員に事務官(経済学専攻卒業区分)として奉職し、出身地広島に人事発令され戻って来てました。

最初は旧佐西郡地域の本家親元住宅から広島市内庁舎に山陽線で通勤して居った模様です。其の当時、出身地管区勤務となる事は、昨今の公務人事では考え難い事ですが、東京での戦後住宅事情や食糧事情の劣悪な状況等を鑑みた為と思われます。その後、母親との結婚となり、夫婦生活世帯用の宿舎として日本側返還後建設された、新町の公務員官舎アパートに入居したものと思われます。

昭和24年5月豪州空軍撤退後日本政府に飛行場が返還された時点では日本は未だ占領統治下の航空禁止状態に有り飛行場として使用が制限された状況下に在りました。駐屯宿営地・指揮所も含め、政府所有の国有地として管理されていた筈です。

汐入池の在った辺りは飛行場施設として未使用の場所であったため、公務員宿舎アパートが建設されたり、市営住宅アパートが建設されたりしたものと思われます。父親夫婦はこの後初めて新町官舎に入居したものです。

航空年鑑で設置管理者が「JNR日本国有鉄道」と在るのは完全な間違いで、全くの事実無根です。亡父母も私も国鉄やその後のJRとは全く無関係です。書くとしたら、「敷地管理者:大蔵省理財局」 辺りと思います。

昭和24年(1949)5月以降、日本政府に返還されましたが、皮肉な事に、依然占領統治下時期の事、航空禁止時期で飛行場として使用不可能な状態で返還されて、設置管理者等決まる訳が無く、国有管理地となりました。

実際返還後、場外飛行場とされてしまった為、常設の飛行場や空港として認識されず、忘れ去られたような存在となり、設置管理者と云い難くなったようです。オーストラリア空軍がサンフランシスコ講和条約発効時期以降に撤退となっていたら、その間に空港種別指定等の機会も在ったかもしれません。

当時の広島飛行場(吉島)の規模に関しては様々な見方が有るようですが、滑走面の場所は「とりさん」の示された滑走面跡表示で長手方向は概ね正しいと思います。現在、広島市の「吉島清掃工場」が有る「南吉島」街区は、最近になって海面埋立が行われた所で、当時の滑走路端は其の手前側に護岸の痕跡が有る筈です。

横方向も妥当な表示と思われますが、吉島通りが現在の場所で同様に飛行場内を埋立地南端迄直線的に伸びて護岸に突き当たって居た様です。この路面の東側に格納庫や掩体壕等が整備配置されていたそうですから、実質的な滑走面の横方向は空港内南北道路(吉島通り)路面迄は実際有り横幅+50m位は有ったのかな?と思います。


by 幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-08 19:27) 

とり

■幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男さん いらっしゃいませ
吉島の飛行場は終戦と共に消えた数多の軍用飛行場の1つだと思っていたのですが、
周辺の事情、開発とも深く絡む数奇な運命を辿った特記すべき飛行場だったのですね。

旧広島西飛行場に関しても、「観音新町に広島空港開港→岩国の利用客が流れ、岩国廃港」
という、一般的な説明をそのまま受け入れ、更に深く思い致すことがこれまでありませんでした。
なんとなく、「岩国は米軍が使っているから、半世紀の空白期間は仕方ない面もあるのかなぁ。」
などと思っていたのですが、仰る通りここで最初から沖合展開して分離運用ができていたら、
周辺にどれ程の恩恵があったことか、現在の活況を見れば明らかですね。
コメントを拝見し、「随分無駄な遠回りをしてしまったのだな」という思いを強く持ちました。
以前錦帯橋空港にお邪魔した際、空港職員の方が、
「ここは気象の影響が少ない空港適地です。当時の軍は本当にいい場所を選んだのです」
と仰っていたのを思い出しました。

現在の広島空港に関しても、利便性抜群の場所から山奥に引っ越しちゃって勿体ないなあ。
程度の認識でした。お恥ずかしい限りです。

頂いたコメントは、空港の歴史に留まらず、この周辺全体の交通体系についての鋭い提言です。
拙ブログだけではとても勿体ない内容です。大変勉強になりました。
また、根拠資料を明示し、不明確な点については断定を避けて下さっているのも大変助かります。

飛行場敷地の正確な位置についての情報もありがとうございました。
またいつかお邪魔して、教えて頂いた場所を回って見たいと思います。
後日当記事を全面改訂させて頂きます。

最後になりますが、2点お聞きしたいことがあります。
1つは、当吉島を昭和36年まで民間飛行場として使用していた際の飛行場の正式名称です。
2つ目は、終戦の年、既に観音新町の飛行場部分が「空港建設地」と地図に記入されていたとのことですが、
こんな早い時期の空港建設計画の例は他に聞いたことがありません。
当地に軍用飛行場建設計画があったものを、後に民用に転換したのでしょうか?
それてもこれは、「太田川放水路事業」や、昭和14年広島工業港湾計画と連動していて、
最初からここに民間空港を建設する計画だったのでしょうか?
ご教授頂ければ幸いです。
by とり (2013-12-09 07:03) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

ご質問、拝見しました。

① 昭和27年(1952)4月28日~昭和36年9月14日迄の当所名称
違っているかも知れませんが、昭和24年(1949)5月に飛行場全域が日本政府に返還された時点で「場外飛行場」とされていましたので、「空港」とは称していないと思います。一方「東亜航空(株)」の前身の航空会社が昭和28年11月30日設立以降昭和31年(1956)年から定期航空路線を大阪以西で構築し始めていた該当期間では場所を示す為民航再開時期以は「広島飛行場」と称していたのではないかと思われます。

② 戦前の地図に有る時期の空港計画地表示について
此れは他国が作成した地図表示なので真意を測りかねます。
吉島飛行場の位置にHiroshimaAirport 表示が有りUnder Constructionとあるのは古い情報に基づいていたためではないでしょうか。実際飛行場は一応の規模で使用状態でした。拡張整備中だった場内の汐入池は、吉島新町1丁目辺りに在った表示の方です。観音新町の位置にも汐入池が描かれて居ますが、私が幼少時宿舎位置辺りとして申し上げたのは現在の吉島新町1丁目辺りの方です。

観音新町は戦前の時点では全域工業団地で一貫していたと思います。その時期に飛行場計画は無いと思います。元々工業港湾計画地第1工区~タ第5工区迄全部工業敷地ですから。其処に陸軍が割って入って吉島全域を自軍の飛行場用地として所望した事がそもそもの用途変更の発端です。

「太田川放水路事業」の起点は昭和2年と古く、「広島工業港湾計画」とは連繋していたと思います。後発の工業港湾計画が先行し、戦争中戦況悪化で昭和19年(1944)から放水路事業の工事は全て中断しています。放水路事業は戦前は進捗が遅れていました。戦後昭和30年代に入ってから工事が本格的に進み、其の時期に、放水路河道となり、立ち退く住民の方々の移転用代替地を確保する為、吉島の飛行場敷地全域を空ける事となったと思います。

米国軍作成の旧広島市街地地図の中で観音新町の旧広島空港位置に予定地表示は無いと思います。ただ、Boeing Reclaimed(ボーイングが干拓した土地)等と云う記述が在りますが此れは全く根拠の無い表示です。

by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-11 01:06) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
ご回答ありがとうございました。
的外れな質問をしてしまって申し訳ありませんでした。
by とり (2013-12-11 05:17) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

正式名称参考としては、両方とも旧軍陸軍の飛行場として有りましたので、調布名称が参考になるかと思います。
             旧軍正式名称        民航使用名称
◎調布飛行場  → 東京調布飛行場  →  東京(調布)飛行場
◎吉島飛行場  → 広島吉島飛行場  →  広島(吉島)飛行場 

順序としては
①「国主管 太田川放水路開削事業」、発足推進、
②「広島県主管 広島工場港湾計画」、発足推進
③「太田川放水路開削事業遅延」、
④「河口部浚渫開削残土埋立工区へ使用、
⑤「広島工業港湾計画第2工区吉島沖~第4工区観音沖先行完成
⑥「原爆被災・終戦」
⑦「占領接収第2工区広島吉島飛行場前面接収」
⑧「広島吉島飛行場返還国有地管理」(場外飛行場扱いとされる)
⑨「サンフランシスコ講和条約発効航空再開」
⑩「東亜航空(株)前身会社設立飛行場使用」
⑪「太田川放水路開削事業再開準備期間」
⑫「立ち退き住民用代替地立地、吉島飛行場内地決定
⑬「飛行場移転先決定。民航専用空港新規建設地観音新町に決定」
⑭「広島飛行場(吉島)国設置管理の広島空港として観音新町に移転開港」
⑮「太田川放水路開削事業による立ち退き住民移転先を第2工区吉島沖決定」
⑯「太田川放水路開削事業工事再開本格化」
⑰「太田川放水路開削事業竣工」

と云う順序段階で決まって行ったものと思われます。これが、たまたまなのか、予定されていた事なのか、はたまた歴史の必然なのかは、見る人立場によって様々でしょう。
by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-11 07:01) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
詳しい情報ありがとうございました。
by とり (2013-12-12 05:25) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

第二次大戦後占領統治下で飛行場が返還された時期の飛行場設置管理者が、「旧国鉄」等とされて居た点に関しては其の意図は測りかねますが、状況的に見て、

① 広島工業港湾計画の臨港線計画を誤認
② 飛行場返還後部分的に払下げられたKKR国家公務員共済組合連合会をJNR(国鉄)と誤認してしまった

の2つの可能性が考えられます。②は理由としてはかなりズッコケますが…。

工業港湾計画では工業地ですから各工区に東側の宇品線から線路の引込が計画されて居ました。5つの工区に線路が横断的に通じ草津近辺で山陽本線に双方向(上り下り)合流し各区の結節点には旅客駅と貨物ターミナルが計画されていた模様です。

新開地入口との境目吉島東2丁目の敷地入口付近に旅客駅と貨物ターミナルが計画されていた模様です。此れと同様に第三工区江波沖入口、第4工区観音沖(新町)入口、第5工区草津沖入口、各々貨物ヤードと旅客駅が計画されて居り、此れ等の用地収容計画を管理者所在と誤認した可能性が在ります。

結局計画だけで実現はせず、宇品線も撤去され軌道跡は道路になってしまいましたが、完成していれば、臨港線部分と本線部分を通して運行する広島環状線(電化)等、東京や大阪等の様に広島旧市内の周辺でも省線電車が走って居たかもしれません。




by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-12 08:36) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

[閑話休題! 参考迄]

実際の計画位置や、旅客扱いの予定の有り無し等、今となっては不明確な部分も多いので「実現しなかった構想」御話として御参考までに、


臨港線が宇品線丹那駅から分岐し埋立新開地各工区入口を横断して山陽本線に合流し、製品・原材料等貨物や通勤旅客の便とする計画が工業港湾計画に在った事は先に申し上げました通りです。

位置的に当てはまる具体的な駅名を此方で挙げてみました。

広島駅(ひろしま 此処で宇品線が、山陽線上・下双方向分岐)←→大須口(おおすぐち)←→南段原駅(みなみだんばら)←→上大河駅(かみおおこう)←→下大河駅(しもおおこう)←→丹那駅(たんな 此処から臨港線分岐、宇品線は宇品駅へ)←→吉島新駅(よしじま)←→江波新駅(えば 此処から江波沖三菱新駅へ)←→観音新町新駅(かんのんしんまち)←→草津沖新駅(くさつおき)←→草津新駅(くさつ 此処で山陽本線と上・下双方向分岐と合流)←→己斐駅(こい 現西広島駅)←→横川駅(よこがわ)←→広島駅(ひろしま) へ戻って来る。

以上で一周する広島環状線(国電)ルートです。戦前の東京(山の手線)や大阪環状線の如くに、戦前の広島旧市内三角州外縁部に、省線電車が環状線として運行されていたかも知れません。

また、この場合計画図に拠れば、旧広島吉島飛行場正門前にも吉島旅客駅が、旧広島空港(戦後)正門前にも観音新町旅客駅が、各々計画されていた模様ですから、究極の空港旅客鉄道アクセスと成って居たかも知れません。

飛行場の立地は双方難は有るものの、それ以外は、戦前の公共事業計画は戦後と違い整然と見事に計画されて居るように見えるのは歴史の皮肉でしょうか?「とりさん」はどう思われますか?
by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-12 17:26) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
歴史的な考察のお話、興味深く拝見させて頂きました。
飛行場を結ぶ環状線、凄いですね。
実現していたら、今とは少し違った展開になったのかもしれないですね。
by とり (2013-12-13 04:28) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

[コメントの補遺 閉鎖方針の確定時期に関して]
此方の認識は上記で相違無かったのですが、飛行場敷地に関して昭和24年(1949)5月日本政府に返還されて以降の状況に差異が有る面も判明しました。

①昭和24年5月~昭和27年4月 航空禁止時期迄は返還時の状態で経過
②昭和27年5月~宿営地指揮所跡KKR国家共済へ払下げ、吉島新町1丁目辺り順次、公務員アパート住宅、市営アパート住宅整備建設。

迄は本文コメント通りと思います。

この時期の航空所管省庁は「電気通信省航空庁」で、昭和27年7月16日から「運輸省航空局」と改編されます。

上記直後、敷地管理者が国から広島県(元々の埋立事業主管者)へ移行し、県が直後に飛行場閉鎖方針を決めたとする見方です。このため、航空再開後も広島(吉島)飛行場の施設整備を全く行わなかったのだ云う訳です。昭和30年頃、再開された「太田川放水路開削事業」用地買収が進捗し、放水路敷地からの移転住民や事業所の入居が進んで行った時期と附合しています。

当時の行政資料が手元に無いので不明ですが、昭和30年以前は吉島新町街区の公務員宿舎住宅と市営アパート住宅が完成している位だったです。其の他の飛行場敷地内はそのままでした。施設設備の整備も全く無しで経過しています。

昭和30年以降、飛行場滑走路離発着機能とは無関係な部分に順次入居が始まり、バラック住宅や移転事業所等が建ち並び始めている様子が亡父母の日常写真から見られます。「東亜国内航空」となる前身会社の運航の必要上、最小限の航空機機材の発着機能は温存されていた模様です。

昭和32年2月の中国新聞に、この会社が運航する航空機機材を追加配備した記事が在ります。尚中国新聞社は取材運航をこの航空会社と契約していました。昭和32年8月8日に海上保安庁 第六管区海上保安本部 広島航空基地が、観音新町の開港前であった広島空港敷地内に開設され、開庁式が挙行されています。http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/hiroshima_air_station/airstation/airstation.html

航空年鑑にも、昭和31年(1956)版迄は広島(吉島)飛行場の表示が有りますが、昭和32年(1957)版から表示が消えています。昭和34年(1959)版で広島空港(観音新町)が工事中として新たに表示されています。

私は自分の両親と住んでいた場所が国管理時期の敷地だったので、住民移転立地も建設省(国)事業の括りで決まり、国管理空港の建設立地は地元県との折衝で別に決まって行ったとの見方で記述しておりました。

以上です。ブログを改定される時参考にされるとの事なので、追加すべき見方と時系列的な事象をお伝えしておきます。
by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-19 16:50) 

匿名読者A

航空史跡として飛行場内高射機銃陣地資料・県内防空監視哨等を防空施設全般としてwebに纏めている人が居ます。広島の人かもしれません。
扉頁:http://www7.big.or.jp/~father/aab/aab.html
http://www7.big.or.jp/~father/aab/hiroshima/hiroshima_AA.html また、頁下の戻るクリックで上位メニューヘ。長崎の経験事例もweb有りました。http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120809/1344467904


by 匿名読者A (2013-12-29 22:33) 

幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男

wikipediaや幾多のwebで、原爆被災時の関連記述が有りました。1機だけ日本側戦闘機が四国上空辺りで接敵し2航過の間、B29爆弾搭載機を駆逐或いは撃墜すべく迎撃した模様です。所属が手元で判る資料に行き当たらず、07:09JST~07:31JST空襲警報発令時の気象観測用B29 StraightFlashの飛来航過時に、少数機配備の広島吉島飛行場護衛戦闘機(三式戦闘機(飛燕)を使用していたようです。)が、吉島から前方へ向けて哨戒発進していたのか、松山航空基地配備の迎撃戦闘機紫電改だったのか、岩国航空基地の練習隊機材だったのか、それとも近くを移動中で遭遇した他機なのか不明です。(秘匿飛行場から発進も考えられるため所属不明なのかも知れません。)

Wikipedia他ではB29 Enola Gay爆撃機自体は応戦せず、急速上昇で高度を上げ振り切ってしまったと米軍側は言って居るようですが、これに該当する日本側接敵戦闘機の記録と乗員の特定・証言が、wiki等には裏付けとして記述が無いです。B29は上昇能力と高高度巡航性能が日本側戦闘機材より上回っていた事は確かな模様です。低高度でレーダー照射を避け、飛行してきた場面で、此方側味方の戦闘機が捕捉はしたようです。単機だったため、取逃がした様に説明されていますが検証が必要な部分と思います。

危機的な状況を駆逐・阻止出来ず、最初に県東部の「松永(現福山市内)防空監視哨」が本隊の通過を確認通報後、順次経路上の監視哨で追認しています。此れに拠り、呉軍港周辺海軍の「防空広角砲台」も、経路上の全ての砲の射程範囲内に順番に追跡しながら順次照準し信管調定完了待機で、射撃命令を待ちながら追尾続行するも、射撃命令下りず経過し、標的機航過。中黒瀬か西条付近(現東広島市)の防空監視哨も通過を軍管区へ通報。此れに拠り、広島市内と周辺部の「対空高射砲陣地」も高度方角等のデータを予め得た状態で照準待機可能で在った 筈でした。

配備の砲の仕様公称値では、呉・広島の対空砲台は機材の差異こそ有れ、直接射程圏内で射撃可能な設備で在った模様です。先の長文のコメント説明で申し上げた様な対空射撃をアウトレンジされて、上空進入されたのでは無く、呉・広島とも全く砲門を開かず、射撃を下命して居らないようです。1発も砲撃せず上空に進入され爆弾を投下されて居ます。非常に不可解です。

この他下記に示すブログ主の書かれている内容は子供の頃から地元の者として聞かされた事柄で、

① 米軍に依る対日本宣伝ビラの上空航空からの大量散布1円札図柄裏面に日本語で爆弾投下日明示予告し降伏と退避を勧告文面
② グアム等からの対日本日本語ラジオ放送や同じくVOA英語放送に依る爆弾投下日の予告と退避勧告・降伏勧告

①は親族関係者が当時、通勤時等市内で大量に上空から降って来ている処を見ています。事実と思われます。町内会や軍人巡視で拾って読むと咎められるので、集めて軍が回収していたそうです。「敵の謀略であり根も葉もない脅しである。」と説明されていたそうです。

上記コメントのリンク著者と同じブログ主の人と思われるブログに広島と長崎の詳しい其の日の状況が参考文献と供に検証的・批評的に記述されています。
http://ameblo.jp/jjtaro/theme1-10027872202.html#main
http://ameblo.jp/jjtaro/theme2-10027872202.html#main
http://ameblo.jp/jjtaro/theme3-10027872202.html#main
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120809/1344467904上記コメントで参照し逆引きで上3つのwebに行き当たり。

惨禍を直接生き残られた埼玉圏内在住被爆者団体の年配者の方の証言内容には多少実際と相違、「比治山を標高400~500m」(実際は約70m)と入力ミスが有ったり、爆弾投下説明が急降下爆撃になっていたりしますが、広島吉島飛行場建設に学徒動員で従事され、滑走路は芝生を張って建設した御経験など、御自身の体験は事実相違無いと思われます。
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/51HY.html
by 幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男 (2013-12-30 07:07) 

NO NAME

アメリカ軍航空機からの広島市内上空における宣伝ビラの大量散布の具体的証言頁「予告ビラ」の内容事例証言:http://blogs.yahoo.co.jp/aioibashide/folder/529285.html

広島に元々根拠地師団として所在していた、第五師団(広島城内 西練兵場北側本丸御殿跡)司令部を指揮統括する上級司令部の第二総軍司令部が、新設されました。「屋上屋を架す。」が如く大戦後半、本土決戦という絵に描いた餅の様な構想の下に、東練兵場(広島駅北側の饒津(にぎつ)通りから山側~二葉山緑地までの全域に所在した軍管理区域、現在の東区広島駅北側に在った)内に所在した経緯や、原爆投下前の軍人の様子や軍政を纏めたサイトの様です。

第二総軍研究所:http://blogs.yahoo.co.jp/aioibashide

歩いても20分位で往き来可能な距離に在った、広島城内(現在の相生通り電車道から北側。福屋百貨店前から現在の検察庁庁舎脇を通り白島に至る通りの西側。全域が城内)の実働根拠地部隊第五師団(中国軍管区)司令部への指揮命令系統が全く機能して居らず、き下師団へ原爆搭載機の飛行接近情報がリアルタイムで全く伝えられて居らない様子が看てとれます。

地元の人間としては唖然とするしかありません。自国軍の上級司令部が地元管区の根拠地司令部に危機情報を全く伝えず、結果的に一般市民・住民を護るどころか、巻き添えにして「見殺し」にした事になります。人身御供となった市民(例としては、亡母の男親は勤務先逓信省広島逓信局庁舎で推定爆死。至近弾の為遺体遺骨無)は浮かばれないでしょう。
by NO NAME (2014-02-16 10:40) 

中区居住者

飛行場管理者として、戦前の陸軍が使用していた名称は、先に投稿された方が記されているとおりと思います。

奇妙な事に、地元行政の代表である広島県は、公式の戦災誌等では軍の飛行場名称を使わず、単に「吉島飛行場」と終始一貫して呼称しています。戦時下半ば義務的に29万坪の敷地を割いて協力したのに、広島の都市防空の任にあたる為の用途ではなく、二・三の例外(対潜哨戒用三式指揮連絡機陸上基地 独立飛行第一中隊1-st Fcs)、第二総軍の司令部幹部の往来の便に使用されていただけだった経緯等が明らかだった為、史実に残したくない小さな所在として扱われたのではないかと思われます。

第二総軍の指揮統制が、大惨事を防止する事無く、むしろアメリカ側の思惑通りに実行させてしまった意図として、随所に感じられる事等が理由と思われます。県庁では、当時の県知事(内務官僚-警察Group出身)、県警察幹部以外、生残った県庁一般職員は極めて少数でした。
by 中区居住者 (2014-05-20 02:57) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
■匿名読者Aさん
■NO NAMEさん
■中区居住者さん
コメントありがとうございました。
by とり (2014-05-20 06:26) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
昨年末から情報頂いていたにも関わらず、ずっと放置したままで大変申し訳ありませんでした。
年末からしばらく公私共に忙しく、他の方から他記事に頂いたコメントもなかなか手を付けることが出来ず、
順番に処理する都合上、今頃になってしまい、非常に心苦しく思っております。
改めてじっくり拝見させて頂きましたが、このブログには勿体ない壮大な内容であると
改めて感じました。
大変貴重な情報を頂きましたこと、改めて感謝申し上げます。

以下、頂いたコメントから確認させて頂きたい事が3点程あります。
・記事内の飛行場の作図について
「現在、広島市の「吉島清掃工場」が有る「南吉島」街区は、最近になって海面埋立が行われた所で、
当時の滑走路端は其の手前側に護岸の痕跡が有る筈です。」
とご指摘頂きましたが、1947年の航空写真
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1174310&isDetail=true
(URL→「同意する」→戻る→再度URL) 
で確認すると、吉島南端、滑走路のあった西側部分は埋め立てられずに当時のままのように見えますので、
滑走路の長さはこれで良いのではないかと思うのですが如何でしょうか?
また、実質的な滑走面の横方向は、吉島通りの西側部分とのご指摘ですが、
上記の写真で確認する限り、当時は未だ吉島通りがなく、吉島通りより少し西側に吉島を南北に貫く道路があり、
この道路を横方向の根拠として作図致しているつもりなのですが、この点は如何でしょうか?

・陸軍飛行場時の名称について
陸軍作成の一次資料である「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧
の中で、中国軍管区の中に「広島飛行場」が出てくるのですが、「吉島飛行場」、「広島吉島飛行場」は出てきません。
軍の正式名称:「広島飛行場」、地元の通名:「吉島飛行場」と思うのですが、如何でしょうか
上記の点、御手すきの時にでもご確認頂ければ幸いです。
by とり (2014-08-17 15:47) 

NO NAME

加筆版拝見しました。市内の住居周りの通信設備が非常に不審な収容状態となっており、NTT設備終端から別に張り出した社内施設網か、自衛の中継網にインターワーク接続されて悪用されている様ですので、中心部のビル端末サービスから失礼します。

(1)記事内の飛行場の作図について
「現在、広島市の「吉島清掃工場」が有る「南吉島」街区は、最近になって~」
は、仰るとおり、「私達親子3人が宿舎アパートで生活時点では「地先」で海だった所です。」と云う文面だけで充分で、それ以外は冗長な文面でした。
 
また、「実質的な滑走面の横方向は、吉島通りの西側部分~」については、広島市中区役所作成の区内案内パンフレットの文面を参考にしたため、現在の「吉島通り」=「空港内南北道路位置」と考えてコメントしたものです。「とり」さんが、当時の国土航空写真データベースから読み出されて作図されて検証されて居るとの事ですので、其方の方が正確ではないかと思います

飛行場内95.9haのうち最初に民間人(civilian公務員住宅含む)が住み始めたのが「吉島新町1丁目街区」で次いで「吉島新町2丁目街区」に木造低層住宅、生活利便商店街等商業施設が入居し町並みが形成されて居ました。

(2)陸軍飛行場時の名称について
「陸軍作成の一次資料である「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧~」に関しては、地元の慣習を元に戦前名称を「広島吉島飛行場」と申し上げ、旧陸軍の「東京調布飛行場」等とも照らして違和感無かった為然様に申しておりました。

当事広島には、ご承知の通り「広島大竹飛行場」も在りましたので、双方の区別を明確化する為の習慣だったのかもしれません。大竹には其の当事「旧海軍」の志願兵を含む「新兵教育機関」の「大竹海兵団」等も在りましたので、「初練」段階の航空兵基礎も、軽飛行機の速成で行っていたのかも知れません。作家「城山三郎」さんは此の海兵団で初任教育を受けたと記述して居られました。

旧陸軍部内書類に其の様に明記されて居るのであれば其の通り、「軍の正式名称:「広島飛行場」、地元の通名:「吉島飛行場」の認識で正しいと思います。ただどちらも「正式名称」として通り良く長年並立して呼称されて来た事は確かです。物理的には「同じ場所、同じ飛行場」なんで、ややこしいんですけどね。

以上です。

【追伸】飛行場運用が「船舶飛行第二中隊 カ号オートジャイロ機訓練」と「第二総軍幹部往来輸送機用途・護衛戦闘機」だけではあまりに情けないので、差し支えなければ、「独立飛行第一中隊 キ76三式指揮連絡機(国際 STOL機)陸上基地」(あきつ丸艦載)も入れて置いてあげて下さい。同艦に乗っての活躍期間は短く最後は「対馬海峡哨戒」へ移駐した様ですが~。「あきつ丸」は母艦の対潜航空兵装を宇品で降ろして、兵員輸送船として「対潜丸腰」でフィリピン海域へ武器兵員輸送任務に就いた途端、潜水艦雷撃で爆沈です。

by NO NAME (2014-09-17 04:17) 

幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男

↑失礼、上記のコメントにhandle name「幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男」入れ忘れてました。
by 幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男 (2014-09-17 04:34) 

とり

■幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男さん
編集が遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。
お返事ありがとうございました。
by とり (2014-09-18 06:21) 

幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男

広島飛行場(大竹)に関しては、「とりさん」現地踏査の「三井化学株式会社岩国大竹工場」敷地内、逓信省所管設置の飛行場跡と、隣接する「三井Du-Pontポリケミカル株式会社大竹工場」敷地内に所在して、旧日本海軍大竹海兵団に所在したと云われる飛行場の場所の2箇所が地元では示されています。海兵団の記念碑や遺構等は全て「三井Du-Pontポリケミカル(株)大竹工場敷地」内に在ります。どちらも「大竹市東栄2丁目」でややこしいのですが、「三井Du-Pontポリケミカル(株)大竹工場正門は、「A地点」の画角左手側道なりに北西の方角に上って行った場所「東栄2丁目2番の交通信号を右折し更に道なりに右曲がりの道を進むと左手側に在ったと思います。

其処から海側へ真直ぐ下る工場敷地内道路が滑走路の一部と社内で言われており、軸線脇に零戦の格納庫建物や整備場建物、教育機関としての校舎跡等が現存すると現職社員の人が案内されています。
by 幼少時父母と近辺に住み、10代後半から学・職・県外経て親世話で県内戻りの男 (2014-09-22 01:50) 

とり

■幼少時近辺に住み、10代後半から学・職・県外を経て親世話で県内戻りの男さん
貴重なお話をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-09-24 05:38) 

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