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樺太・内路飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022/1更新(未訪問)  



内路.png
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)



樺太敷香郡内路(ないろ)村にあった日本陸軍の「内路飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

の中に当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

ここも戦後ソ連により拡張工事がなされたため、

日本陸軍当時とは地割が異なる部分があります。

滑走路、誘導路、格納庫跡等、クッキリ残っている箇所もあるのですが、

全く残っていない部分も多く(特に誘導路)、付図だけを頼りに作図している部分があります。

おおよそこんな感じ。ということでご了承くださいませ。

同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

内路飛行場

施設
付属施設格納庫八棟を完成其の他の諸施設及兵舎
も完成しあり

気象
最低気温二月に於て零下三十五度(平均最低二十
度)積雪三月~四月最大にして約一米に達す
霧の発生は五月~八月にかけて最も多く特に海
霧の襲来多きを以て注意を要す

交通
内路駅より約一粁
尚内路駅より西方北方に通ずる道路は恵那取上
敷香に至り恵那取へは「バス」運航しあり

其の他
「ツンドラ」地帯(未整地)は飛行場完成後に
於ても滑走路地区以外の使用困難なり


■「アジ歴/在樺太飛行場整地工事之件」にこんな資料がありました(下記リンク参照)。

陸軍航空本部第八課
在樺太飛行場整地工事之件
昭和十三年九月十七日

一、六月十二日付陸普第三五三三号に依り在樺太所管国有財産を
樺太庁に交付せし条件として現存四飛行場を軍に於て使用し
得る事となれり

二、而れとも右飛行場は夫々離着陸地域狭小に付右の内三飛行場
(気屯、内路、白川)を軍経費を以て必要最小限度の拡張整
地を行い作戦飛行場として使用せむとす

要するに、

内路飛行場を樺太庁に交付する代わりに、軍の使用を認めること。

ついては、作戦飛行場として使用できるように、費用は軍持ちで拡張しますよ。

ということのようです。

昭和13年9月17日付ですから、これ以降実際に拡張工事があったはずです。




     樺太・内路飛行場跡地         
内路飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:樺太敷香郡内路村(現・ロシアサハリン州ガスチェッロ)
座 標:N49°06′36″E142°57′25″
標 高:15m
滑走路:950mx100m(08/26)、1,200mx70m(16/34)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年9月17日 在樺太飛行場整地工事之件

関連サイト:
アジ歴/在樺太飛行場整地工事之件 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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樺太・初問飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022/1更新(未訪問)  



3.png
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

樺太敷香郡にあった「初問(しょとい)飛行場」。


前記事の敷香飛行場の北約13kmにあります。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」

の中に当飛行場の1/5000付図があり、先頭のグーグルマップはこの作図等から付図しました。

ここも滑走路、誘導路等比較的よく残っているのですが、誘導路の一部が消えてしまっていて、

付図を参考におおよそで線を引いています。

特に南西方向の燃料庫と誘導路は、完全に目視で引いておりますので、

ご了承下さいませ。

同付図には、「初問飛行場(昭和十八、一〇、三一)」として、

当飛行場に関する情報が書き加えられていました。

以下その情報について記させて頂きます。

南北方向に1本の滑走路があるのですが、

「滑走路 舗装滑走路920x60 幅40mは舗装未実施」

とあります。

滑走路幅100mなのですが、その100mのうち、西側60mのみ舗装、東側40mは未舗装ということです。

グーグルマップで見ると、幅100m全面舗装してあるように見えるんですが、

昭和18年当時はそんな状態だったんですね。

また、「恒風 夏期南風 冬期北風」とあり、滑走路の向きは恒風に合わせて設定されています。

飛行地区中央東側に隣接する指揮所は「未完」、南西側の兵舎は、「作業中 三個中隊分」

同じく南西側の燃庫は「作業中」とあり、

滑走路東側部分については、「誘導路及飛行機掩体構築中止して草開のみを実施あり」

とありました。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

にも同じ要図と情報がありました。




     樺太・初問飛行場跡地         
初問飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:樺太敷香郡(現・サハリン州ポロナイスキー・ライオン)
座 標:N49°23′45″E142°53′07″
標 高:100m
滑走路:960mx100m(幅60mのみ舗装)
方 位:16/34
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト: 
ブログ内関連記事

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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樺太・敷香海軍飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2022/1更新(未訪問)  



1.png
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)


樺太の敷香(しすか)郡にあった、「敷香海軍飛行場」。

前記事の気屯飛行場の南52kmに位置しています。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」

の中に当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

十字滑走路とターニングパッド、格納庫基礎が一部残っています。

十字滑走路の東側に、南北に伸びる滑走路がありますが、

これは付図に描かれていなかったため、含めておりません。

同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

敷香海軍飛行場

航空支廠建設予定地(五月より工事開始予定)

位置 
樺太敷香郡上敷香

気象
積雪平均一米内外にして解雪は概ね五
月中旬なり霧の発生は七八月頃比較的多し

滑走地区
舗装完成しありて各機種の使用に適す

交通 通信 航空施設
上敷香駅より約四粁にして自動車の通行
容易なり付近陸軍部隊と連絡用電話あり

付属設備
格納庫一二棟(一棟に中攻三機格納)を有し
兵舎人員収容能力一〇〇〇名其の他工事用
假建物に約五〇〇名収容し得

資材集積 其の他
航空燃料集積されあり
除雪車 六
始動車なし
防空機関
聴音機二
給油機六
高角砲二門
照空燈二

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

にも同じ要図と情報がありました。 




     樺太・敷香海軍飛行場跡地         
敷香海軍飛行場 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:樺太敷香郡上敷香(現・サハリン州レオニドヴォ)
座 標:N49°16′44″E142°55′14″
標 高:32m
滑走路:1,230mx80m(08/26)、1,200mx80m(17/35) (作図から計測)
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト: 
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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樺太・陸軍気屯飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

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1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)


樺太の気屯(けとん)にあった「気屯飛行場」。

ポーツマス条約により樺太を北緯50°で南北に分け、

1905年~1945年まで、その南側を日本が統治していた訳ですが、

その50°線「国境の碑」の南、僅か29kmに位置しています。

ここがソ連と対峙する国境最前線の飛行場でした。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

に当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

また同資料内に当飛行場に関する情報がありました。

以下引用させて頂きます。

位置 
樺太敷香郡敷香町気屯

滑走地区
滑走路完成せるを以て各機種の離着陸に支障なし
滑走路以外は解霜の為目下不可能なり

飛行場
四周は落葉樹なり滑走路東側付近は整地のため除去せる樹
根堆積しあり又滑走路の四周は開渠を通しめあるを以て注
意を要す

気象
最低気温一月に於て零下二六度三(平均)に達す、冬期間は天
候概して良好なるも夏季悪し降雪最大六十糎前後なり
晴天日 五四.二 曇天日 一四九.三 降水日 一四九.五
霧日 三八.六 降雪日 九二.四

交通 通信 航空施設
気屯部落より約二百米にして進入路概ね良好なり
気屯部落には電信電話の設備あるも遠隔の地には速達せず
航法施設なし

其の他
地方の状況
敷香町 敷香警察署南方に憲兵分隊あり

 
舗装滑走路跡はかなりハッキリと残っているのですが、それを取り囲む地割が残っていないため、

図から目測で作図しました。

また誘導路についてですが、滑走路東側はかなりハッキリと誘導路跡が残っています。

但し、一部図と大きく食い違っている部分があり、そこはグーグルマップを優先しました。

滑走路西側の誘導路、誘導路先の諸施設については、グーグルマップに跡を見つけることができず、

こちらも目測で作図しました。

大きく違っているかもしれませんが、ご了承くださいませ。

グーグルマップで見ると、気屯飛行場滑走路跡を貫く南北方向の細長い線が目立っています。

これは東西冷戦期にソ連が建設した「スミルニフ空軍基地」で、既に閉鎖されているのだそうです。


それからアジ歴/在樺太飛行場整地工事之件にこんな資料がありました(下記リンク参照)。

陸軍航空本部第八課
在樺太飛行場整地工事之件
昭和十三年九月十七日

一、六月十二日付陸普第三五三三号に依り在樺太所管国有財産を
樺太庁に交付せし条件として現存四飛行場を軍に於て使用し
得る事となれり

二、而れとも右飛行場は夫々離着陸地域狭小に付右の内三飛行場
(気屯、内路、白川)を軍経費を以て必要最小限度の拡張整
地を行い作戦飛行場として使用せむとす

要するに、

気屯飛行場を樺太庁に交付する代わりに、軍の使用を認めること。

ついては、作戦飛行場として使用できるように、費用は軍持ちで拡張しますよ。

ということのようです。

昭和13年9月17日付ですから、これ以降実際に拡張工事があったはずです。




     樺太・陸軍気屯飛行場跡地         
陸軍気屯飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:樺太敷香郡敷香町気屯(現・サハリン州スミルニホフスキー・ライオン)
座 標:N49°44′31″E142°51′26″
標 高:70m
滑走路:1,200mx100m
滑走地区:1,500m
方 位:15/33
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1905年 南樺太日本が領有
1938年 9月17日付「在樺太飛行場整地工事之件」
1945年 8月終戦

関連サイト:
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アジ歴/在樺太飛行場整地工事之件 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録(樺太の部) 大東亜戦争第1復員局」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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